学位論文要旨



No 116606
著者(漢字) パンガン,ルーデス
著者(英字) PANGAN,LOURDESN
著者(カナ) パンガン,ルーデス
標題(和) ジルテナボラン錯体とリンを含む化合物の反応 : 合成とキャラクタリゼーション
標題(洋) Reactions of Diruthena borane Complexes with Phosphorus-containing Compounds : Syntheses and Characterization
報告番号 116606
報告番号 甲16606
学位授与日 2001.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第331号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 要旨を表示する

 ホウ素やその水素化物であるボラン類の研究は主としてcontracted topologyによってキャラクタライズされる,幾何的な側面によるところが大きい.それは,ホウ素がその電子不足性の結果,カゴ状に集まり,架橋水素や様々な原子が形成した三角形によって構成されるクラスター化合物を形成する性質があるためである.ボランクラスターにおいては,電子が局在化した通常の結合やその共鳴した形に加えて,三中心二電子結合もまた存在する.

 ボランの化学を研究する上で,最も重要な要素は多面体骨格電子対理論(Polyhedral Skeletal Electron Pair Theory, PSEPT)とWade則である.これらはクラスター化合物の構造を予見したり,あるいは反対に観測の結果得られた構造を説明するための経験的な格好の手段となる.これらの規則によれば,ホウ素水素化物やその誘導体のヘテロボラン化合物において,その骨格原子は完全に,あるいはそれに近い形で三角多面体を構成するような配置をとる.このことから,n個の頂点を持つ閉じた多面体構造のクラスターは,その結合性分子軌道全てを占有するためには(n+1)個の電子対を必要とすることが導かれる.またそれらの多面体において,各頂点は一つの末端水素原子を有したホウ素フラグメントBHによって占められている.

 メタラボランは,金属(典型元素,遷移元素,ランタノイドおよびアクチノイド問わず)を含むフラグメントにボランフラグメントが結合しているホウ素水素化物の誘導体である.メタラボランの形成において,金属フラグメントはそのアイソローバルな関係にあるBH部位と置き換わることが可能である.このメタラボランの化学は金属クラスターおよびボランクラスターの化学の両方に密接な関係がある.さらに加えて,ジメタラボランクラスターについては,特に金属−金属結合の存在がこのクラスターに大変興味深い多様性を与える.金属間の結合は柔軟な遷移金属の結合の特性を持つだけでなく,"共働的な反応性"によってボラン部位の反応性にも大きな変化を与える.本研究では,ジメタラボランクラスターの分解反応や,リンを含む配位子を用いてメタラボランクラスターからボランフラグメントを取り除いていくことによって,金属−ホウ素間の相互作用の多様性に関して非常に意義深い知見を得ることが出来た.

 ジルテナボランクラスターnido-[(Cp*Ru)2(μ-H)(B3H7)](1)は7個の骨格電子対を有し,ピラミッド型のペンタボラン(9),B5H9と同様な構造をしている.1において,B5H9の底面にあるうちの一つおよび頂点のBH部位は,それぞれアイソローバルなCp*RuHフラグメントによって置き換わっている.Cp*RuHはBHフラグメントと同じ形の3つの軌道と2つの電子を有するフラグメントである.

 室温において,クラスター1はPHPh2やP(OPh)3のような塩基のルテニウムへの配位によって,そのピラミッド型構造が開く反応を起こした(Scheme 1).これらの反応によって骨格電子対が8つのarachno-[(Cp*Ru)2(μ-H)(B3H8)(PR3)](PR3=PHPh2,P(OPh)3)(2)が得られた.室温ではクラスター1と2の間に動的平衡が存在する.11B NMRにより,1のリン化合物による2への変換は約90%の収率で進行することがわかる.しかしながら化合物2は不安定であり,窒素雰囲気下においても単離することはできなかった.分光学的データは,錯体2が化合物1のホスフィンおよびホスファイトによる骨格分解反応(後述)において,中間体として含まれていることを示している.

 また,リン化合物として三級ホスフィン,PMe2Ph,PPh3を用いた場合,穏やかな反応条件でクラスター1の骨格構造の解裂が進行する(Scheme 2).すなわち,1と2等量のPR3との反応によって,6つの骨格電子対を有する化合物[(Cp*Ru)2(μ-H)(〓-μ-η4-B2H5)(PR3)](PR3=PMe2Ph,PPh3)(3)が中程度の収率で得られる.この反応は1からモノボランBH3のフラグメントが引き抜かれ,ホスフィンと配位化合物BH3-PR3を形成することによって開始される.錯体3は,6つの骨格電子対(sep)を持つ,電子不足な化学種である.この電子数からは3に対して四面体型の構造が期待されるが,以前合成されたPMe3配位子を含む誘導体3cのX線構造解析により,より開いた構造を持つことが確認されている(Figure 1).3における配位子B2H5はユニークなparallel型のη4-配位様式をとっている.この配位様式は,1つの閉じたBBRu三中心二電子結合と,2つのBHRu結合によって特徴付けられる.

 錯体3の60℃,トルエン中での熱分解反応は骨格電子対6のホスフィド架橋錯体nido-[(Cp*Ru)2(μ-PR2)(⊥-μ-η4-B2H5)](R=Me,Ph)(4)を与える(Scheme 3).本反応はPMe2PhやPPh3配位子から一つのフェニル基がベンゼン分子として脱離する過程を伴う.この珍しい反応は,フェニル基が存在することに加えて,二つのルテニウム中心による"共働的な反応性"にも起因すると考えられる.X線結晶構造解析を用いた研究によって,クラスター4は四面体型のメタラボラン骨格を有していることが明らかになった(Figure 2).錯体4は化合物3と同様に,6sepを有している.しかし3とは異なり,この化合物はその電子数から期待されるnido型(四面体型)構造をとっている.注目すべきことに,錯体4の生成に際して,B2H5配位子はRu-Ru結合に対して平行型のμ-η4-配位から新規な直交型μ-η4-配位へと変化している.この変化はヒドリド配位子の脱離と架橋ホスフィド配位子の形成の結果,Ru-Ru結合が短縮したことによると考えられる.ホスフィド配位子はルテニウム原子に強く配位し,2つの金属中心を効果的に架橋する.さらにまた,化合物4は溶液中ではユニークな動的挙動を示す.このダイナミックな挙動には,BH4フラグメント中の三つのプロトンが低温でもスクランブリングを行っている過程が含まれている.この過程により,BH4フラグメントのうち,B-H-B架橋水素を除くすべてのプロトンが,化学的に等価になる.そして,高温では二つのB-H-Ru架橋のプロトンがB-B-Ru面を経由して転位する.この動きは,Ru-Ru-P三員環に対するCp*配位子のflip-flopを伴っている.またこれは,ホスフィド配位子のswingingをも引き起こしており,これによりホスフィド上のメチル基はNMRタイムスケール上で化学的に等価となる.

 他方で,フェニル基を持たない[(Cp*Ru)2(μ-H)(〓-μ-η4-B2H5)(PMe3)](3c)の熱分解反応では,全く異なった化学が観測される.この反応では,nido-[(Cp*Ru)2(μ-PMe2)(⊥-μ-η4-B2H5)](5)が得られることが分かった(Scheme 4).これにより,本反応ではP-C(sp3)結合が活性化され,メチル基がリンからホウ素への転位を起こしていることが明らかになった.

 P(OMe)3やP(OPh)3といった亜リン酸エステルの存在下でクラスター1の熱分解を行ったところ,nido-[1-OR-2,3-(Cp*Ru)2{μ-P(OR)2}(B3H5)](6)が得られた(Scheme 5).クラスター6は,形式的にペンタボラン(9)のB2H3部分を,アイソローバルな[(Cp*Ru)2{μ-P(OR)2}]フラグメントで置換した形の化合物である.また,6の生成は,アルコキシル基のリンからホウ素への転位を伴う,ルイス塩基によって触媒されたメタラボランクラスターの再配列反応の初めての例である.一般に,ボランケージが軟らかい酸であるのに対し,アルコキシル基は硬い塩基であると考えられる.この点で本反応は,通常とは非常に異なる反応系を与えている.6a(R=Me)の分子構造をFigure 3に示す.クラスター6aは歪んだ四角錐構造をとっている.ルテニウム中心は2および3の位置を占めており,ジメチルホスフィド配位子によって架橋されている.ホウ素は四角錐底面の残った2つの頂点に位置しており,アルコキシ基の転位によって生じたB(OR)グループはアピカル位を占めている.

 本研究における一連の反応の化学に関して,リン配位子の塩基性や求核性が反応経路の決定に大きな役割を演じていると考えられる.更にまた,(Cp*Ru)2フラグメントも同様にメタラボランの骨格変化において重要な位置を占めている.つまり,(Cp*Ru)2部位はクラスターの拡張,解裂あるいは再配列反応のような,ボランの変形反応が起きる,分子の配位表面のような役割を果たしうる.言い換えれば金属−金属結合は分子構造の変化に対して結合性を変化させることで敏感に応答する能力があり,これはすなわちボラン部位の電子的要請に反応することで遷移金属の結合の柔軟性を明確に示しているのであるとも言える.このことはおそらく,本研究で得たジルテナボラン錯体におけるさまざまなRu-Ru結合距離によって最もよく示される:2.812(2)A(1);3.008(1)A(3c);2.802(1)A(4a);2.893(1)A(6a).他方,B2H5フラグメントも同様にその電子不足性の議論において,結合能の多様性を示している.そして,本研究において平行型および直交型という,二つのユニークなB2H5フラグメントの配位様式が示された.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなる.第1章は序論であり,本論文のボラン化学における位置づけが示されている.第2章はジルテナペンタボランクラスターnido-[(Cp*Ru)2(μ-H)(B3-H7)](1)とPR3(PR3=PMe2Ph,PPh3)との反応で[(Cp*Ru)2(μ-H)-(〓-μ-η4-B2H5)(PR3)](3)が生成することが述べられ,その構造が明らかにされている.また,1とPR3(PR3=PHPh2,P(OPh)3)との反応ではarachno-[(Cp*Ru)2(μ-H)(B3H8)(PR3)](2)の生成が確認された.第3章では熱による3の異性化反応と生成物4の構造および分子の動的挙動が議論されている.第4章では1とP(OR)3との反応による新たなホスフィド架橋ジルテナペンタボラン(6)の生成が報告されている.第5章では本研究で得られた成果をまとめ,1とホスフィン類との反応がホスフィンの塩基性の強さ,置換基の種類に依存することが整理されている.

 ボラン(ホウ素水素化物)は一般にクラスター化合物と呼ばれる篭状の構造をもつ.この構造はホウ素の利用できる価電子の数が利用できる電子軌道の数より少ないために,その電子不足性を解消するための方法になっている.また電子計数法と呼ばれる,Wade則により,構造と骨格電子数の関係が明らかにされている.ボランクラスターの骨格の一部が金属で置換されたメタラボランについても,その構造予測にWade則の適用が可能であることが多くの系で示されているが,反応性についてまで予測できるものではない.

 メタラボランの反応性については散発的な研究がなされているだけで,系統的な研究はなされていない.特に論文提出者が行った二つの金属を含むジメタラボランの反応性についてはほとんど研究がなされておらず,ホスフィンの種類を変えた系統的な研究であることは注目される.

 論文提出者が出発物質として研究に用いたジルテナペンタボランは最近合成されたものであり,nidoクラスのペンタボラン(9)と同一のピラミッド構造をしている.ペンタボラン(9)はトリメチルホスフィンとの反応でホスフィン付加物を経由してジボラン誘導体とトリボラン誘導体に解裂する.それに対してジルテナペンタボランと過剰量のトリメチルホスフィンとの反応では金属とホウ素がバラバラになり,それぞれのホスフィン付加物を生成することが分かっている,論文提出者はこのホスフィンの量を制限することにより,部分的に解裂したジメタラテトラボランを生成すること,またホスフィンの種類を変えることにより,付加物の生成が見られたり,解裂の仕方が異なることを明らかにした.

 まず,ジルテナペンタボランと2当量のトリメチルホスフィンとの反応ではホウ素一つがトリメチルホスフィンボランとしてはずれ,もう一つのホスフィンがクラスターに付加した化合物(3)が生成した.この反応形式はnidoクラスのボランでは観測されておらず,むしろnidoより電子の多いarachnoクラス特有の反応であり,ボラン骨格に金属部位が入ることにより,ボランの反応性が以下に変化するかを明確に示した結果である.またここで生成したジメタラテトラボランはRu-RuとB-Bに平行になった構造をしており,これまでに報告例がなく,B2H5部位の配位形式としては新しい,ユニークなものである.

 さらにホスフィンにフェニル基が含まれる場合には加熱によりベンゼンが遊離してホスフィンが架橋ホスフィドとなったジルテナテトラボラン誘導体(4)が生成することを見出した.このボランクラスターは骨格が正四面体でルテニウムルテニウムとホウ素ホウ素が直角になっており,3とは大きく構造が異る.骨格電子数はnidoクラスであることを示すが,正四面体骨格はそれにかなうものである.この化合物は室温以上でホスフィド部分とB2H5部位が同一のプロセスで動的な挙動をすることが温度可変NMRで示された.

 塩基性の弱いホスフィンであるジフェニルホスフィンや亜リン酸トリフェニルとジルテナペンタボランとの反応ではトリメチルホスフィンなどとは異なり,クラスターの解裂は起こらず,ホスフィン付加物(2)が生成し,特にP(OR)3の場合はOR基がリンからホウ素上に転位し,ホスフィド架橋したnidoクラスのジルテナペンタボラン誘導体(6)が生成した.ボランのホウ素が酸素原子と直接結合することはほとんど知られておらず,極めて珍しい結合様式をもった化合物であり,これも金属がボランに含まれた結果といえるものであろう.

 このように本論文はメタラボランの反応性,特にホスフィンに対する反応性を研究して,多くの新規化合物を合成すると同時に,NMRや結晶解析によりその構造,動的挙動を明らかにしたもので,その知見はこれまでにない貴重なものである.

 特に,ジメタラボランの金属部位の存在により,親ボランとは異なる反応様式が示すことが明らかにされ,さらにホスフィンの塩基性,置換基の種類により,異なる反応様式を示すことを明らかにするなどの新しい知見を得た本研究は,メタラボランに限らず,ボラン化学の発展に大きく寄与する研究であると評価される.

 なお,本論文中の第2章の一部,第3章の一部および第4章は河野泰朗氏,下井守氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって合成,解析を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 よって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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