学位論文要旨



No 116607
著者(漢字) 清水,克俊
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,カツトシ
標題(和) 銀行の健全経営と金融規制
標題(洋)
報告番号 116607
報告番号 甲16607
学位授与日 2001.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第147号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堀内,昭義
 東京大学 教授 大瀧,雅之
 東京大学 助教授 福田,慎一
 東京大学 助教授 松井,彰彦
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨を表示する

 1990年代は,不良債権処理,金融不安,銀行の再編など,概して日本の金融システムが不安定な時期であり,銀行の健全経営と金融規制が多くの人々の関心を引き寄せた時代であったといえる.しかしながら,一般にはもとより,学界においてさえ銀行の健全経営と金融規制に関するexplicitかつ包括的な羅針盤は存在していないのが現状であると言わざるをえない.問題を複雑にしているのは銀行産業にspecificな預金保険の存在とそれに伴う数々の規制である.それらを前提として,銀行の健全経営・金融システムの安定性を実現する方策を準備する必要がある.本論文では,効率的かつ安定的な金融システムの構築という観点から,銀行の健全経営と金融規制をテーマに幾つかの分析を試みる.

 まず,第1章「要求払い預金の最適性」では,不完備契約の観点から,銀行の特殊性の原点ともいえる預金の要求払い性の存在意義を理論的に考察する.Diamond and Dybvigは預金者に流動性需要がある場合に,要求払い預金が流動性保険として最適なリスク・シェアリングをもたらすことを議論している.それに対し,本章では,預金者に流動性需要がない場合においてもなお,預金契約の要求払い性が必要不可欠であり,最適となることを論じる.具体的には,標準債務契約(standard debt contract)では,銀行がデフォルトした場合にのみ,投資家(この場合預金者)が清算権を行使する権利を有するが,要求払い預金契約では銀行のデフォルト如何に関らず,預金者は引出権・清算権を有する.前者では,銀行は自らが利益となる場合にのみデフォルトを行うが,後者では預金者が自らの利益となる場合にのみ引出権を行使する.銀行にとって自らが利益となる状態(state)は預金者にとっては損となる状態であり,逆に預金者にとって利益となる状態は銀行にとっては不利な状態である.その意味で,再交渉が生じる状態は両契約では逆になる.したがって,破綻時の預金者の交渉コストが十分大きく,その結果,銀行資産をキャプチュアする能力が低い場合には,銀行にデフォルトの意思決定権を与える標準債務契約では預金者に十分なペイオフを保証することができないのである.それに対して,要求払い預金契約では,銀行がデフォルトの意思決定権を持たず,預金者によって清算・引出の意思決定が行われるため預金者の資産を確保する能力が低くとも十分なペイオフを保証することができるのである.すなわち,コーポレートガバナンスの見地から,預金者が微小であり,かつ,銀行株主のstakeが小さい場合には,要求払い性をもつ金融契約が最適であることを主張している.したがって,インプリケーションとして,流動性の提供という必然性が存在しなくても,要求払い性は効率的な金融メカニズムとして必要不可欠であり,したがって,銀行の経営の健全性にとっても重要であるといえる.なお,本章は,「要求払い預金の最適性」(東京大学社会科学研究所『社会科学研究』第50巻第2号(1999年2月))に加筆修正を加えたものである.

 第2章「増資とモラルハザード」では,1990年代初期まで大蔵省によって行われてきた銀行救済を理論的に分析する.政府による破綻処理への介入は銀行経営の健全性・金融システムの安定性に大きな影響を与える.ここでは銀行が破綻しそうになったときに,増資をすることによって第二期の投資プロジェクトを行うという状況を考える.そこで問題となるのは,増資においては非対称情報に基づくエージェンシーコスト,すなわちMyersの問題が発生するということである.規制当局による破綻銀行の救済相手を見つけるという仲介行為や預金保険機構による贈与等は,このエージェンシーコストの削減に寄与すると考えられる.その意味で,エージェンシーコストの削減という形での政府の救済がどの程度寛容であるかは,均衡における銀行の健全性に影響を与えうる.エージェンシーコストが高すぎる場合には,銀行は第二期の投資プロジェクトをあきらめ,銀行産業から退出してしまうかもしれない.一方,第1期の銀行のモニタリングが高いほど,資金調達コストは低下し,失敗した銀行の増資インセンティブは高まる.さらに,政府が寛容な救済をするほど,エージェンシーコストが低くなり,銀行はモニタリング努力を怠るというモラルハザードを引き起こす.ただし,このモラルハザードは将来の増資が予想される銀行にのみ発生する.均衡は,こうした政府の救済(エージェンシーコスト緩和)の程度,銀行の増資・退出の意思決定,銀行のモニタリング水準の組み合わせで決定される.結論としては,事前に救済の程度(資本注入額)を予め中程度に設定することができ,かつ,銀行が評判を気にするならば,最適な増資スキームが存在し,高いモニタリングを行った銀行のみが救済されるような場合があることを得ている.しかしながら,そうでない場合には,第1期にモラルハザードを起こした銀行が救済されてしまうことになる.すなわち,銀行経営の健全性を維持するためには予め中程度の救済を行うことに政府がコミットしておく必要がある.本章は,「増資とモラルハザード−銀行救済へのコミットメント−」(東京大学社会科学研究所『社会科学研究』第49巻第3号(1998年1月))に加筆修正を加えたものである.

 第3章「日本における銀行のバランスシートの劣化:リスクテイキングと増資」では,1990年代前半における日本の銀行のバランスシート悪化の原因を探り,また,銀行がどのように対処してきたかを分析する.本章の分析は,自己資本比率規制の影響・株主のリスクテイキング行動に関する日本の実証分析である.パネルデータ分析により,キャピタルクランチ仮説を棄却する結果をえ,むしろ資本の増大による株主ステイク(stake)の増大が保守的な行動としてのリスク削減・貸出低下をもたらしてきたことを示す.また,そうした資本の増大は,最も主要な健全経営規制であるBIS自己資本比率規制に適合するために,日本の銀行が劣後債等を発行することにより行われてきたことを示している.本章は,堀内昭義教授との共著論文"The deterioration of bank balance sheets in Japan:Risk-taking and recapitalization"(Pacific-Basin Finance Journal 6(1998))をもとに,再構成した上で,加筆修正したものである.

 第4章「金融当局のモニタリングの有効性と天下り」では,大蔵省から地方銀行への天下りと健全経営規制との関係を探り,自己資本比率の低い銀行ほど天下りを受入れ,また,天下りを受け入れた銀行の自己資本比率は有意に低くなっているという実証結果をえた.本章の分析は,健全経営を実現するための金融規制の文献において軽視されてきた,行政のインセンティブの問題を扱っている.すなわち,多くの議論は,規制当局は少なくとも国民と同一の目的関数をもち,その目的関数が最大化されるような行動をとることを前提として議論されている.しかしながら,一般には国民の目的関数と規制当局者の目的関数の間には乖離が生じうると考えられる.したがって,そうした規制当局者による規制は歪みを伴った結果をもたらしうる.特に,規制当局,預金者(ないし納税者),銀行の間には情報の非対称性があり,したがって,ある経済主体を犠牲とした他の2者の結託が生じうるのである.本章では,規制当局から銀行への天下りを結託の手段であるとみなし,その結果,預金者・納税者の利益が犠牲となったことを議論する.具体的には,プロビット推定により天下りの受入関数を推定し,その一方で,天下りによる自己資本比率・不良債権比率への影響を推定している.その結果,天下りの受入には固定性があること,また,天下りの受入により健全性が低下(自己資本比率が低下・不良債権比率が上昇)するという結果をえた.なお,本章は堀内昭義教授との共著論文,"Did Amakudari Undermine the Effectiveness of Regulator Monitoring in Japan"(Journal of Banking and Finance,近刊)を再構成の上,加筆修正したものである.

 第5章「日本の銀行におけるコーポレート・コントロール:天下りの決定要因」では,前章の議論を拡張し,天下り受入要因をさらに分析する.前章の議論では,天下りの受入れには固定性が見られることを重要なエビデンスとして議論したが,本章では,さらに銀行の大株主の所有構造,特に,大蔵省と関連が強い大手の金融機関の持株が高いほど,天下りの受入が高くなることを示す.日本における銀行の経営者は破綻時の株主による介入を恐れ,円滑な救済が行われるようにするために,予め天下りを受入れるメカニズムを議論する.逆に言えば,天下りシステムの存在が株主による介入という脅威を失わせ,日本の銀行の健全性を毀損してきたのである.なお,本章は論文"Financial Regulation and Corporate Governance of the Japanese Banks"(1999, mimeo)を改訂したものである.

審査要旨 要旨を表示する

 清水克俊氏から提出された学位申請論文は、全体としては、銀行業と規制のあり方に関する理論的、実証的研究を目的としており、次の5つの章から構成されている。

 第1章:負債契約と清算権

 第2章:破綻銀行の増資コストとモラルハザード

 第3章:日本における銀行のバランスシートの劣化:リスクテイキングと増資

 第4章:金融当局のモニタリングの有効性と天下り

 第5章:日本の銀行におけるコーポレート・コントロール:天下りの決定要因

 このうち、第3章と第4章は海外のレフェリー付きのジャーナルに採択済みであり、第1章、第2章も大学の紀要に発表された論文を元にしている。したがって、この申請論文は、清水氏の独立した研究者としての一定水準以上の力量を、少なくとも外形的には示していると判断できるであろう。まず、各章の内容を若干の批評もまじえながら解題し、その後に全体としての評価を述べることにする。

 第1章「負債契約と清算権」は、金融メカニズムにおける負債契約(有限責任原則を伴う契約)の合理性とそれを支える条件を説明する諸研究の展望に当てられている。負債契約の機能に関する既存の研究は、「立証可能性(verifiability)」の限界に焦点をあてるTownsend-Diamondタイプの分析と、不完備契約の側面に力点を置くHart-Mooreタイプの分析に大別される。前者の分析では、モニタリングによってコストをかけることによって、立証可能性か回復するという想定されている。一方、後者の分析では、そのような意味でのモニタリングは存在しないという仮定から出発する。そのために、負債契約の合理性は、資金調達者の行動を、立証可能な条件(資産状態など)だけに立脚した不完備契約(incomplete contract)によって有効にコントロールできるか否かが本質的に重要な問題となる。その際、債務契約がデフォルトした場合に投資家が企業を清算する権利を有することが重要な役割を演じる。この章の展望が導き出している結論の一つは、「清算権とモニタリングは代替的な手段として」負債契約の有効性を支えるというものであろう。

 次に、この章は債務契約の期限と中途清算権の役割に関する理論的分析の展望に移っている。これは債務者の質の違いが、債務契約の期限の選択にどのような影響を及ぼすかを論じるものである。また現実に広く観察される「期限の利益の喪失」条項が、長期負債契約の効率性を高めることを明らかにしている。

 展望に際して、契約理論の分析枠組みが適切に使われており、清水氏がこの分野の理論をきちんと理解していることは示されている。しかし展望論文として、読者にこの領域の分析の意義を鳥瞰させるものとしては、説明が不必要に複雑である点が気になる。本来はより簡潔な説明が望ましいところである。また、この展望論文が学位申請論文全体の序章として持つ意味が曖昧である。たしかに第2章以下で考察の対称となる銀行という金融機関の資金調達方法は主に、負債形態である。また銀行が直面している危機も、貸付という負債契約にかかわっていることは明らかである。しかし、第2章以降の理論的、実証的分析と、この序章の展望との関連性はそれほど綿密ではないという印象を与える。

 第2章「増資とモラルハザード:銀行救済へのコミットメント」は、日本を含む多くの国々において実際に取られている銀行救済政策の一つの側面を理論的に分析している。銀行が経営危機に陥ったとき、政府が救済の手を差し伸べて、その銀行が消滅するのを妨げるのはきわめて一般的な政策であり、日本に固有の事柄ではない。こうした救済政策に合理性があるとすれば、それはどのような場合か、というのがここで扱われる問題である。

 ここで仮定されている銀行には良い銀行と悪い銀行がある。悪い銀行は、貸出に伴うモニタリングに逓増的費用を要するために、モニタリングを怠るインセンティブを持っている。しかしモニタリングを怠れば貸出が不良化して、銀行が経営危機に陥る確率が高まる。経営危機に陥った銀行は、資本を増強して経営を継続できる。しかし経営危機に陥ったことによって、資本増強のコストが上昇する。著者の理論的貢献は、経営危機に落ちる銀行の資本コストが上昇する過程を、「評判」という概念で明示的に考慮している点である。一方、政府は破綻の危機に瀕した銀行に対して救済の手を差し伸べることができる。この救済は、銀行が資本増強する場合に直面する資本コストを引き下げる形を取るものと想定されている。

 仮定によって、良い銀行も経営破綻に直面する可能性があり、政府は良い銀行と悪い銀行を識別できない。従って、危機に陥った銀行のうち、良い銀行だけを選別して救済することはできない。仮に政府が温情主義的な救済を実施すると期待されると、悪い銀行はモニタリングを怠るというモラルハザード行為を選ぶであろう。一方、厳しい救済条件を設定すると、一部の銀行は、救済を拒否して清算の道を選択してしまうので、社会的には望ましくない銀行倒産までも惹起してしまう可能性がある。このように議論を進めれば、社会的に最適な救済策は、過度に温情的でもなく、また過度に厳しくもない救済策に政府がコミットすることである。

 以上のような結論を、直感的に理解することはさほど困難ではない。理論モデルの展開に大過は無いと見うけられる。(やや説明が舌足らずという印象を与える箇所も散見するが。)しかし、この種の問題に関しては、様々な(相互に矛盾するような)結論を演繹するモデルを構築することができると考えられる。著者が選択した理論モデルが、現実と十分に対応する、重要な価値を有することを、示す努力が必要である。また、政府が中庸を得た銀行救済政策にコミットすべしという規範的な結論は、どのようにすればそのようなコミットメントが政府にとって可能であるかを示さない限り、あまり実用的でないといわざるを得ないであろう。

 第3章「日本における銀行のバランスシートの劣化:リスクテイキングと増資」は日本の銀行部門の不良債権問題を実証的に分析している。不良債権の発生は、会計的にも、あるいは実質的にも、銀行の自己資本の減耗を意味する。この自己資本減耗は、銀行の貸出供給を消極化させ、自己資本の復旧に努めさせる可能性がある。その場合のは、不良債権の増大が銀行の貸出供給を減少させ、いわゆる「貸し渋り」現象につながる。しかし他方では、銀行の自己資本の減少は、むしろ急速な利益回復を目指す積極的(あるいは無謀)な貸出増加をもたらすかもしれない。銀行の自己資本に一定の下限を設ける規制は、自己資本の低下が銀行を一層無謀・大胆な貸出に走らせるという「モラルハザード」を抑止するねらいがあることは一般に知られている。現実に、日本の銀行の不良債権問題は、貸し渋り、モラルハザードのいずれにつながったのか。この章の実証分析の主なねらいはこの点を明らかにすることである。

 まず1990年代前半の日本の銀行が不良債権の増加によって、どのように自己資本を減少させ、どのようにそれを修復しようとしたかが説明されている。とくに90年代初頭に、有力銀行が、劣後債(劣後ローンを含む)を活発に発行することによって、BISルールで求められた自己資本の増強と、不要債権への対処が図られた点が注目に値する。それらの資本項目の増強が、銀行と緊密な関係にある生命保険会社などによって消化されたのである。

 次に単純なバランス・シートモデルに基づいて、銀行の貸出供給と自己資本の関係を分析する。とくに自己資本の変化と貸出供給行動の変化については、棄却可能な命題を演繹して、実証的分析の出発点としている。実証分析は90年代前半に存在していた21の主要な銀行(都市銀行、長期信用銀行、信託銀行)のサンプルで、計測方法はパネル分析である。この分析によると、(1)90年代前半、日本の銀行は劣後債の活発な発行で自己資本の減耗をカバーしたため、自己資本の減少による貸出供給の縮小という現象(キャピタル・クランチは生じなかった;(2)しかし、自己資本の増強は、銀行をむしろ慎重な融資に転じさせた、これはモラルハザード仮説が当てはまることを示唆している。

 この章の分析は、主として銀行データによる叙述的分析であり、日本の銀行危機の比較的初期段階を、いくつかの角度から捉えることに成功している。一方、銀行の自己資本とリスク選択の理論分析は、非常に単純なモデルで行われており、そこに何らかの新しい視点を見出すことはできない。また銀行の貸出供給行動の分析についても、なぜ多数のサンプルが存在する地方銀行など、小規模銀行を分析対象としなかったのか等の点で、疑問も残されている。

 第4章と第5章は、いわゆる「天下り」現象を経済分析の俎上に乗せた興味深い分析である。銀行業は一種の規制産業として、政府の様々な規制を受けてきた。それらの規制の主な目的は、包括的なセーフティネットの下で、銀行経営が杜撰なリスク選択に走ることがないように、健全な経営を求めることにある。実際、日本の銀行業においては、(少なくとも表面的には)厳しい銀行監督、自己資本比率規制に代表される健全経営規制と手厚いセーフティネットが共存してきた。しかし監督や規制の存在は、必ずしも、それらが実効的に実施されることを保証するものではない。規制当局は、建前では、法的に明示されている公共的目的の実現を目的としているが、官僚機構はそれと独立な別の目的を持っており、規制行動が公共目的から逸脱する潜在的な可能性がある。とくに規制当局の行動やその成果に関する情報が不完全である場合、こうした逸脱行為は現実のものとなり勝ちである。これは、幅広く観察されるエージェンシー問題の一例である。

 第4章では、規制当局としての大蔵省、日本銀行と、規制を受ける側の銀行(地方銀行)が、天下りという日本社会に流布している慣行を通じて一種の結託を図り、結果として、銀行に対する規制当局の監視行動を弱め、銀行部門の脆弱性を高めたという仮説が、理論的、実証的に考察されている。この章の天下りメカニズムに関する理論的説明は、次のようになっている。規制当局は天下りを通じて、監督対象の銀行にOBの就職先を確保し続けることが非常に重要であると考えている。規制対象の銀行は、甘い監督をうけて積極的なリスク選択(相対的に低い自己資本比率)を実行することに関心がある。銀行監督が繰り返し実行される場合には、銀行が、天下り役人を受け入れる一方、規制当局が銀行の拡張主義を許容するという暗黙的な結託が成立するというのである。この理論的仮説は、一部の専門家が主張する「天下りの合理性」と真っ向から対立する議論である。天下りの合理性を唱える人々は、規制当局と被規制企業との人的つながりが、規制当局の監視機能を高め、規制の社会的目的の実現(この論文の文脈で言えば、銀行経営の健全性の向上)に寄与すると述べているからである(たとえばAoki(1994)を参照)。

 実証的分析は、120以上の地方銀行を標本として、お蔵省、および日本銀行からの天下り役員の受け入れの有無が、銀行の健全性(自己資本比率で定義される)の推移にどのような影響を及ぼすか、さらには銀行のパフォーマンスの変化が天下り役員の受け入れに影響を及ぼすか否かを調べることである。統計的手法は、Dynamic Panel Data Modelとlimited dependent variable法である。計測結果によれば、天下り役員の受け入れが受け入れ銀行の自己資本比率を引き下げると仮説を棄却できない。また「自己資本比率で評価されるパフォーマンスが劣化した銀行に対し、大蔵省が監督を強化するために役員を送り込む」と一部の論者が主張しているにもかかわらず、自己資本比率の低下が有意に天下り役員の受け入れを高めるかどうか明瞭な結果は得られていない。著者は、以上の結果から、天下りが、監督当局と監督される銀行との結託であり、それが銀行経営の健全性を低下させたという仮説が支持されていると結論する。

 この第4章で扱われている天下り問題は、公共経済学の観点から見てきわめて重要である。銀行業に限らず、多くの産業は、市場の失敗を根拠に様々な政府の介入と規制を受けている。そのような規制は、政府が合理的に、規制目的を追求することを暗黙のうちに前提しているが、実際には、この前提が成立している保証はない。著者はこの点をエックスプリシットに取り出して、大蔵省の銀行監督行政が、天下り慣行を通じて、銀行健全性を損なっていることを指摘している。銀行のパフォーマンスの評価として、単純な自己資本比率で良いか、また銀行の人的関係には、大蔵省など規制当局からの天下りばかりではなく、有力な都市銀行、長期信用銀行などからの天下りもあるから、それらの要因を無視して良いか、など実証分析上の問題点が残されている。これらの問題にも取り組んで、より幅広い視野でこの問題の考察を深めるべきであろう。

 第5章は、第4章の分析と言わば対になる研究であり、銀行が天下り官僚を受け入れるメカニズムを、より詳しく考察することを目的としている。分析は標準的な企業経営統治モデルから出発し、企業経営者と株主(とくに大口株主)との利害対立が問題とされる。ただし著者の前提では、経営者は資本市場からentrenchされており、レバレッジの水準や規制当局からの天下り役員の受け入れなどの意思決定は、全て経営者によって決定される。Entrenchされている経営者は、他の条件が一定であれば、できるだけレバレッジを上げ(自己資本比率を引き下げる)ことに独自の効用を見出すものと仮定されている。ただしレバレッジの引き上げは、経営破綻の確率を高めるというデフォルト・コストを伴う。経営に失敗して経営破綻に陥った場合、経営者は特に大口株主から厳しく責任を問われると考えられている。つまり大口株主の存在は、銀行経営者にとってデフォルト・コストを高くする要因である。さらに著者は、天下り役員の受け入れは、経営破綻に陥った銀行の救済に要する費用を軽減する効果を伴っていると仮定する。天下り役員が関係者間の交渉を円滑に進めることができるというのが、この仮定の理由づけである。

 以上の仮定から、大口株主の存在が重要な(つまり株主集中度の高い)銀行は、天下り役員を受け入れる傾向が高いという結果が得られるのはほぼ自明である。この理論的な結果は、地方銀行を標本とする統計から得られる現象(つまり、天下り役員を受け入れている銀行の株主集中度は、天下りを受け入れていない銀行に比較して有意に高いという現象)と整合的である。

 この章の分析は、天下り現象を、標準的な企業経営統治理論の文脈に中で考察しようとする試みであり、試み自体は十分に意義のある研究である。少なくとも理論的な議論の運びに難点は無い。しかし、上の直感的な説明からうかがえるように、モデルの理論構造はトリビアルであり、結論は少々見え透いている感がする。またこの章の分析の焦点は、結局のところ、銀行の天下り役員は、経営の破綻した銀行を救済する場合に、必要な交渉を円滑化し、経営者にとってのデフォルト・コストを引き下げることに貢献するという仮説である。この仮説は現実に妥当するであろうか。この仮説を直接に単純な統計手法で検証するのは容易でないかもしれない。しかし、1990年代についてみれば、銀行の経営破綻の事例には事欠かないわけであり、そのいくつかの事例を丁寧に分析し、天下り役人が演じている役割の有無、その社会的意義を浮き彫りすることもできるはずである。この章の主題は、著者が展開しているような(少々トリビアルな)理論モデルを操作することよりも、いくつかの資料を渉猟して、ことがらの本質に迫ると言う接近方法が効果を発揮するように思われる。

 全体評価

 近年、金融制度に関する理論的分析は、情報理論やエージェンシー理論、さらにはゲーム理論の応用分野の一つとして急速な発展を見せており、その理論的発展を受けて、実証研究も数多くの注目に値する成果を挙げている。清水氏の学位申請論文も、そのような発展を踏まえて進められた研究成果として、一定の評価を与えることができる。清水氏は分析に用いられている理論的道具建てを的確に理解しており、少なくとも、理論的展開に破綻を来すことなく議論を進めている。また理論モデルから演繹される結論を、比較的高度な統計的手法に依拠しつつ実証分析を行っていることも、研究のスタイルとして好ましいバランスを得ていると評価できる。そのような評価を踏まえると、この学位申請論文は、ひととおり自立した研究者の研究成果と十分にみなすことができる。

 ただし学位論文を完璧と評価することはできない。とくに理論モデルを用いて金融制度のあり方を説明しようとする第1章と、第2章の試みは、先行研究に新しい要素を付け加えようとする努力を認めることはできるものの、理論的考察としては深みに欠けている。また、読者の理解を助けるような叙述を駆使する努力にかけている面があり、必ずしも読みやすい論考になっていない箇所が少なからず存在する。さらに、理論分析の対象が負債契約、および政府の銀行救済政策と銀行の資本増強の関係という、きわめて現実的なものであるからには、単に抽象的なモデル分析に終始するのではなく、様々な統計、資料を駆使して、分析に幅を持たせる工夫・努力が望まれるところである。その点では、清水氏が独立した研究者として更に追求すべき課題は少なくない。清水氏の一層の研鑚を期待したい。以上により、審査委員会は、清水克俊氏から提出された論文が博士(経済学)の学位を授与するにふさわしいものであると結論する。

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