学位論文要旨



No 116619
著者(漢字) 高,綱煕
著者(英字) Kho,KangHee
著者(カナ) コウ,カンヒー
標題(和) サケ科魚類精子運動開始における細胞膜での情報伝達機構の研究
標題(洋) Studies on the Transmembrane Cell Signaling for the Initiation of Sperm Motility in Salmonid Fishes
報告番号 116619
報告番号 甲16619
学位授与日 2001.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4069号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森沢,正昭
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 廣野,雅文
 東京大学 助教授 岡,良隆
内容要旨 要旨を表示する

 精子は生理機能として運動するために特殊化した単純な細胞であり、精子運動の細胞内情報伝達機構を解明する上で最適な研究材料である。その中で、硬骨魚類の精子はK+イオンや2次メッセンジャーであるCa2+やcyclic AMPが関与する精子先体反応を持たない特徴から、精子鞭毛運動機構に関する情報伝達機構を解明するのに最適な材料である。特に、ニジマス等サケ科魚類では、精子は雄性生殖器の中では精漿に含まれる高濃度のK+によって運動を抑制されており、K+の少ない淡水中に放精されると周囲のK+濃度の減少を関知して運動を開始することが知られている(Morisawa and Suzuki, 1980)。従ってサケ科魚類精子では実験的にはそれを懸濁する溶液のK+の有無で運動性をコントロールできるという利点を持つ。、この利点を用いてこれまでニジマスでは精子の周囲のK+の減少が細胞膜での電位変化やcyclic AMPの合成を引き起こし(Morisawa and Okuno, 1982)、特定の蛋白質がリン酸化され、精子が運動を開始することが私たちの研究室での研究で明らかにされている。しかし、精子の細胞膜での運動開始調節機構、すなわち、運動開始調節に関与するion channelの種類に関してはほとんど分かっておらず、また細胞膜での情報伝達の経路におけるK+channel,Ca2+ channel,膜電位、cyclic AMPの位置関係は未だ不明である。本博士論文の第1部ではvoltage-dependent K+ channelの阻害試薬に感受性を持つK+ Channelにおいて、それを通る外向きのK+の流れに起因する精子膜の過分極がcyclic AMPを合成を引き起こし、それがこれまで明らかにされているcyclic AMP依存性のタンパク質の燐酸化を引き起こし、サケ科魚類の精子の運動を開始させる事を明らかにした。第2部ではdihydropyridineに感受性を持つCa2+ channelにおいて,それを通じ流入したCa2+が精子細胞膜の過分極とcyclic AMPを合成に関与することを明らかにした。また、精子運動開始におけるcalmodulinの関与についてもしらべた。

第1部 K+ channel、細胞膜電位変化及びcyclic AMP合成が関与するの精子運動開始機構

 ニジマス及びサクラマス精子の運動はアルカリ金属に属するRb+,K+,Cs+のそれぞれ5mM,10mM,20mM以上の濃度で完全に抑制された。しかし、Li+,Na+は0mMから40mMの濃度範囲で精子運動を阻害しなかった。また、これらのイオンの阻害の強さはRb+〉K+〉Cs+》Li+〉Na+であること、サケ科魚類の精子の運動性調節にK+ channelが関与している事を示している。そこで、ニジマスの精子の運動に関与するK+ channelの特定を試みた。広範なK+ channelの阻害剤であるBaCl2は2.5mMで精子運動を阻害し、voltage-dependent K+ channelの阻害試薬として知られているtetraethylammonium(TEA)25mM、また、神経細胞でvoltage-dependent K+ channel阻害試薬としてよく使われているα-dendrotoxin β-dendrotoxin,γ-dendrotoxin,σ-dendrotoxin,dendrotoxin-I,MCD-peptideは1-5μMで顕著に精子運動を阻害した。さらに、25mM以上の濃度のTEAで運動を顕著に阻害された精子は、K+に特異的なionophoreである0.1μM valinomycinで運動を回復した。以上の結果はvltage-dependent K+ channel阻害試薬に感受性を持つK+ channelにおけるK+の流出が精子運動開始を引き起こしていることを示している。

 一方、蛍光指示薬DisC3(5)を用いて精子細胞膜電位を測定したところ、ニジマス精漿と同濃度の40mM KClを含む溶液では細胞膜電位が一定の値をとり、細胞外部液のK+濃度を40mM〜0mMの範囲で段階的に減らすと、膜電位は外部K+濃度の減少に伴い段階的に過分極する事が明らかになった。また、外部K+濃度の減少による精子膜の過分極はTEAによって濃度依存的に抑制された。さらに、精子運動開始に伴うcyclic AMP合成は、同様にTEAによって抑制された。これらの精子膜過分極の抑制と、精子細胞内のcAMP合成の抑制はvalinomycinの添加によって回復した。以上の結果から、サケ科魚類精子では特定のK+ channelにおけるK+イオンの流出による細胞膜の過分極がcyclic AMPの合成を引き起こし、精子運動を引き起こす事が明らかになった。

第2部 精子運動開始におけるるCa2+及びcalmodulinの役割

 それぞれ10mM,5mM,20mM濃度の、K+,Rb+,Cs+によって運動が阻害された精子にCa2+を加えることで、精子は運動を開始した。このことは、精子の外側にあるCa2+が精子運動開始に重要な役割を担っていることを示している。一方、L-type Ca2+ channelを阻害すると言われているnimodipine,taicatoxin、FS-2、また、精子ではT-type Ca2+ channelを阻害すると言われているnifedipineはそれぞれ5-100μMの範囲で精子運動を顕著に阻害した。さらに,nifedipineは精子運動性ばかりでなく精子細胞膜の過分極を顕著に抑制した。また、精子ではcalmodulinばかりでなくCa2+ channelの阻害試薬であると言われているtrifluoroperazineは、精子運動開始に伴う膜の過分極ばかりでなくcyclic AMP合成も阻害することが明らかとなった。以上の結果はnifedipine,mimodipineなどのdihydropyridineに感受性を持つL-またはT-type Ca2+ channelを通じて流入したCa2+が,精子運動開始の細胞膜での情報伝達において,精子膜の過分極及びcyclic AMP合成に関与していることを示している。

 一方、calmodulin阻害剤であるW-7は12.5μM〜400μMの濃度範囲で、trifluoroperazineとcalmidazolはそれぞれ200μMと25μMの濃度で精子運動を顕著に阻害した。W-7のinactive analogueであるW-5は精子運動を阻害しなかった。さらに,これらのcalmodulin阻害試薬は精子膜の過分極を抑制し,cyclic AMP合成を阻害した。これらの結果からcalmodulinは精子の過分極とそれに続くcAMP合成に関与していると思われる。しかし、calmodulin阻害試薬による膜の過分極の抑制はvalinomycinよって回復が顕著ではなかった。したがって、精子の運動性と精子膜の過分極に対するcalmodulin阻害試薬の効果は、calmodulin以外のところに効く可能性を示しており、さらなる検討が必要であると考えられる。

考察

 第1部及び第2部で得られた結果から、サケ科魚類では以下のような細胞内情報伝達機構の元で精子が運動を開始すると考えられる。精子は雄性生殖器の輸精管内では、精漿に含まれる高濃度のKイオンによって運動を抑制されている。この精子は放精の際、周囲のK+濃度の減少に会い、精子細胞膜ではvoltage-dependent K+ channel阻害試薬に感受性を持つ特定のイオンチャネルにおけるK+の流出が起こる。このK+の流出が精子細胞膜における膜電位変化、過分極を引き起こす。同時にL/T-type Ca2+ channelにおけるCa2+の流入が精子膜の過分極に関与する。この膜の過分極はホヤ精子やParameciumで知られているようにcyclic AMP合成酵素であるadenylyl cyclaseを活性化し、細胞内のcyclic AMPの増加が起こると考えられる。このcyclic AMPはこれまで明らかとなっているcyclic AMP依存性の一連のタンパク質のリン酸化を通して、サケ科魚類の精子の運動を開始させると考えられる。

 今後、さらに精子細胞膜における精子運動開始の情報伝達機構の詳細を解明するためには、遺伝子クローニング法や人工膜に取り込んだ細胞膜標品でのパッチクランプ法などの電気生理学的手法を用いた精子運動を調節するイオンチャネルの同定が必要である。また、calmodulin及びそれと結合するCa2+の作用機序に関する詳細な生化学的研究も必要であると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は2章からなり、第1章は、サケ科魚類精子運動調節におけるK+チャネル、細胞膜電位変化,cyclic AMP・Ca2+などの2次メッセンジャーの役割について、第2章は、Ca2+チャネル及びcalmodulinの役割について述べられている。

 サケ科魚類の精子は実験的にはそれを懸濁する溶液のK+の有無で運動性をコントロールできる最大の利点を持つため、細胞運動の細胞内情報伝達機構を解明する上で最適な研究材料である。本博士論文の第1章では、サケ科魚類精子運動はRb+,K+,Cs+によって抑制されるが、Li+,Na+では阻害されず、阻害の強さはRb+〉K+〉Cs+》Li+〉Na+であることから、精子運動性調節にK+ channelが関与することが考えられた。更に、電位依存性K+ channelの阻害試薬であるTEA、Dendrotoxin, MCD-Peptideが顕著に精子運動を阻害し、TEAで運動を阻害された精子はK+イオノフォア、valinomycinで運動を回復した。一方、精子細胞膜電位は外部K+濃度の減少に伴い段階的過分極し、この過分極はTEAによって濃度依存的に抑制された。さらに、精子運動開始に伴うcyclic AMP合成は、同様にTEAによって抑制された。これらの精子膜過分極、精子細胞内のcAMP合成の抑制はvalinomycinの添加によって回復した。以上の結果から、サケ科魚類精子では、特定のK+ channelにおけるK+イオンの流出による細胞膜の過分極がcyclic AMPの合成を引き起こし運動開始を引き起こす事が明らかとなった。

 第2部ではK+などによって運動が阻害された精子にCa2+を加えると精子が運動を開始しする事から、精子外のCa2+が精子運動開始に重要であることが示された。一方、精子のL-及びT-type Ca2+ channelを阻害するnimodipine, taicatoxin、nifedipineなどが精子運動を顕著に阻害した。さらにnifedipineは精子運動性ばかりでなく精子細胞膜の過分極を顕著に抑制した。また、精子ではCa2+ channelの阻害試薬といわれているtrifluoroperazineは精子運動開始に伴う膜の膜の過分極ばかりでなくcyclic AMP合成も阻害することが明らかとなった。以上の結果は、nifedipine, mimodipinなどのdihydropyridineに感受性を持つL-またはT-type Ca2+ channelを通して流入したCa2+が、精子運動開始の細胞膜での情報伝達において、精子膜の過分極及びcyclic AMP合成に関与していることを示している。一方、calmodulin阻害剤であるW-7、calmidazolはかなりの高濃度で精子運動、膜の過分極、cyclic AMP合成を阻害した。これらの結果はcalmodulinが精子膜の過分極とそれに続くcAMP合成に関与しているように思われる。しかし、calmodulin阻害試薬による膜の過分極の抑制はvalinomycinよって回復が顕著ではなかった。したがって、精子の運動性と精子膜の過分極に対するcalmodulin阻害試薬の効果については、さらなる検討が必要であると考えられる。

 第1部及び第2部で得られた結果及びこれまでに行われた研究から、サケ科魚類精子は以下のような細胞内情報伝達機構の元で運動を開始すると考えられる。精子は雄生生殖器の輸精管内では精漿に含まれる高濃度のK+によって運動を停止している。この精子は放精の際、周囲のK+濃度の減少に会い、精子細胞膜では電位依存性K+ channel阻害試薬に感受性を持つ特定のイオンチャネルにおけるK+の流出が起こる。このK+の流出が精子細胞膜の過分極を引き起こす。同時に、L-/T-type Ca2+ channelにおけるCa2+の流入が精子膜の過分極に関与する。この膜電位変化はおそらくcyclic AMP合成酵素、adenylyl cyclaseを活性化し、細胞内のcyclic AMPの増加を起こし、cyclic AMP依存性の一連のタンパク質のリン酸化を通してサケ科魚類の精子の運動を開始させると考えられる。

 なお、本論文第1章は稲葉一男、谷本さとみ、森澤正昭、第2章は岡良隆、森澤正昭との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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