学位論文要旨



No 116634
著者(漢字) 孟,歌辛
著者(英字)
著者(カナ) モウ,カシン
標題(和) 吸放湿性建築材料の水分拡散係数に関する動的同定手法の研究
標題(洋)
報告番号 116634
報告番号 甲16634
学位授与日 2001.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5046号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 坂本,雄三
 東京大学 教授 鎌田,元康
 東京大学 教授 加藤,信介
 東京大学 助教授 平手,小太郎
 東京大学 助教授 佐久間,哲哉
内容要旨 要旨を表示する

【背景・目的】

 建築材料内部の熱・水分の性状を解析する場合、シミュレーションの予測結果が実測結果と大きくかけ離れることがしばしばある。特に、吸放湿性のある建築材料ALCにはこのような乖離が起きしやすい。その主な原因はシミュレーションに用いた水分拡散係数の値が不適切であると推定されている。

 建築材料の水分物性値は、材料製法の少しの違いや劣化の程度などによってかなり異なるので、シミュレーションに用いた物性値は、実際に使用されている材料のサンプルを用い、実験室で測定するべきである。しかし、これまでの水分拡散係数の測定は定常状態で行うものであった。そのため、実験装置が複雑になるとか、定常状態に達するまでに長期間を要するなどの欠点があった。多くのシミュレーション事例は、材料物性については、使用材料そのものの数値を実測するのではなく、同種の材料の既存測定値を引用することが多い。ゆえに、物性値が不適切な場合もあり、含水率などのシミュレーション結果と実測値に大きな乖離を生じていたものと思われる。そのため、非定常状態においても材料の水分拡散係数を簡単かつ速やかに測定する手法が期待されている。

 近年、IT時代の到来に伴い、建物に関する種々の情報の要請がますます高まっている。建築物の劣化程度、結露状況や熱負荷などに関する情報を推定するために、実際の建築物の実測データからその建築物に使用されている外壁材料の水分拡散係数を推定することは、その要請に応えるための第一歩と思われる。

 そこで、本研究では、建築材料の水分拡散係数を水分移動の非定常状態において求めるために、制御分野のシステム同定理論を導入し、水分拡散係数を同定するアルゴリズムを構築した。そして、実験によって得られたデータに基づき、吸湿過程および放湿過程において含水率勾配に対する水分拡散係数と温度勾配に対する水分拡散係数を同定した。また、外壁における水分拡散係数の同定手法の簡易化も検討した。

【同定のアルゴリズムの構築】

 建築材料内部における水分移動の非定常過程は、定常状態と比べ、いろいろな不安定要素の影響が存在し、物理モデルも複雑になるため、すべての要素及び要素相互の影響は明らかでなく、水分拡散係数を順問題として解析的に求めることは不可能に近い。それゆえ、水分拡散係数が含まれる拡散方程式に基づく水分移動モデルを利用して、逆問題として測定データに基づき水分拡散係数を求めることが、非定常過程における唯一の手法となる。すなわち、本研究で構築した方法とは、モデルに曖昧さと不適切さが存在することを許容しながら、水分拡散係数を求める同定手法である。

 同定方法や同定結果の適切性検証という問題に対しは、制御分野のシステム同定理論を導入すれば、それらのアルゴリズムはかなり理解しやすくなる。本研究では、建築材料をシステムに、水分拡散係数をシステムパラメータに見立て、同定のアルゴリズムを考えた。

 システムと周囲環境の関係は、システムとそれによる因果関係と見なすことができる。そうすれば、システムに対する入力と出力の関係は、図1のブロック線図で示される。システムにおける様々な同定問題は最終的にこのような原因・結果とそれらの関係を解明することに帰着できる。本研究の水分拡散係数における同定という問題は、「出力」に基づくシステムパラメータの同定問題、すなわち図1に示すシステムモデルの構造を解明する問題とみなせる。材料の表面含水率を「入力」、内部の含水率分布を「出力」、水分拡散係数を含む水分収支の微分方程式をシステムモデルとすれば、システム(材料)における入力と出力の因果関係は数学モデルで表示できる。システム(材料)の入力データ、出力データを表す簡略図を図2に示す。

 さらに時間とともに変動する水分拡散係数を含水率のスプライン関数で近似すれば、本研究はスプライン関数の係数に関するシステムパラメータの同定問題になる。本研究ではパラメータの同定には、最小2乗法を用いた。実測した含水率とシステムモデルによって推定した含水率との差の2乗の和を、パラメータを同定するための評価関数として定義し、それを最小にするようにパラメータを求めた。また、測定に大きな誤差があった場合や異常値が発生した場合は、ロバスト同定手法を用いた。また、得られた同定結果の適切性はAIC情報、パラメータを求める線形方程式のヤコビアンの条件数、及び、同定された水分拡散係数を用いたシミュレーションによって検証した。

【実験室での水分拡散係数の同定】

 上に提案した非定常状態のデータを用いた水分拡散係数の同定手法を確かめるために、まず、実験室で与えることができる境界条件の下で実験を行い、その測定データを用いて同定を行った。実験は、【1】放湿過程におけるDФ(含水率勾配に対する水分拡散係数)を同定するための実験、【2】吸湿過程におけるDФを同定するための実験、及び、【3】Dγ(温度勾配に対する水分拡散係数)を同定するための実験、に分けて行われた。

●実験【1】:放湿過程におけるDФの同定

 広い含水率範囲において、含水率分布の均一なデータが得られた。それをもとにして、水分拡散係数の同定に対し以下の検討を行った。水分拡散係数の同定結果はスプライン関数の節点の数・位置、測定データの数、及びシステムモデルを離散させる時の時間間隔・空間間隔の設定によって左右される。それゆえ、これらの設定条件を変更させ、AIC情報によって放湿過程におけるDФの最適モデルを選択した。また、条件数によって同定手法の適切性を評価し、シミュレーションによって結果の適用性を検証した。

 以上の検討によって、本研究で提案した同定手法の設定条件に関して、いくつかの知見が得られた。1)含水率の広い範囲における水分拡散係数に対しては、スプライン関数の節点の数は二つか三つを選択すれば適切である。それより少なくすると、水分拡散係数の変化の特徴が十分に表現できない。また、節点の数が多くすると、スプライン関数の滑らさが失われてしまい、残差が増大し、AICの値も大きくなるため、同定結果の精度が高くなる一方、計算量が増大するので注意する必要がある。4)実測含水率の情報が不十分の場合に、その範囲における同定結果の精度が落ちることがある。

●実験【2】:吸湿過程におけるDФの同定

 吸水実験において得られた材料の含水率分布データは異常値があるので、最小2乗法に有効重みを導入したロバスト同定手法を適用して同定した。また、実測データが少なく、AIC情報は適用しないため、同定における設定条件は実験【1】を参照することにした。その結果、放湿過程のDФより大きな水分拡散係数が得られた。

●実験【3】:温度勾配に対するDγの同定

 放湿過程で得られたDФの同定結果(実験【1】)を既知条件として用いて、Dγの同定を行った。その結果、既存の測定データと同程度の妥当な結果が得られた。

【簡易同定手法の提案】

 以上の同定では、実験室で得られたデータを用い、提案した同定手法に基づいて水分拡散係数DФ、Dγを同定した。この同定法は、従来型の水分拡散係数の定常測定手法と比べると、測定には特別な実験装置は必要でなく、結果は速やかに得られる。しかし、DФとDγの二つの水分拡散係数があるために、二つの独立した実験を行わなければならない。そこで、本研究では、さらに独立な実験を行わずに、DФとDγを同時に同定する簡易手法を検討した。

 提案した簡易手法は材料内部の水分移動のさまざまな状況に適用できるために、本研究では材料の境界における温度と湿度はステップ励振、矩形波励振、及び外界気象の励振である三つのケースを対象とした。主に温度を無視してDФの同定、とDФ、Dγの同時同定に関して検討を行った。

【まとめと今後の課題】

 本研究では、水分移動の非定常な状態において建築材料の水分拡散係数を同定する手法を提案した。そして、その手法を実験データに適用し、含水率のスプライン関数として水分拡散係数を同定することに成功した。

 しかし、この同定では材料内部の含水率分布を出力と想定したため、それを測定しなければならず、測定方法も複雑で、雑音も混入されやすいものとなった。今後は、ガンマ線を利用した含水率分布測定機などを利用し、測定をより簡易するなどの改良が必要であろう。

図1 ブロック線図

図2 材料システムの入力・出力データ

審査要旨 要旨を表示する

 「吸放湿性建築材料の水分拡散係数に関する動的同定手法の研究」と題する本論文は、建築材料の水分拡散係数を水分移動の非定常状態において求めるための同定手法について、記したものである。

 建築材料の熱水分物性値の一つである水分拡散係数は、建築物における結露や潜熱負荷、材料の劣化などを予測する上で、欠くことのできない基本的な物性値とされている。しかしながら、測定された水分拡散係数を用いた熱水分シミュレーションにおいては、含水率などの計算結果が実測結果と大きくかけ離れることがしばしば起きる。特に、吸放湿性材料であるALCにおいてはこのような乖離が起きしやすいと、されている。この乖離の原因としては、シミュレーションに用いる水分拡散係数の値が不適切であるという説が有力である。つまり、水分拡散係数の中には履歴現象を持つものがあるが、その履歴の影響が水分拡散係数に十分に反映されていない、あるいは、同種の材料であっても、組成や製法が異なれば拡散係数の値がかなり異なることがその原因として推測されている。

 水分拡散係数における履歴現象のメカニズムは複雑な現象なので、それを解明することはそう簡単なことではない。一方、結露や劣化のシミュレーションを行い実用に役立てるという立場からは、履歴現象などのメカニズムを知るよりも、とにかく水分拡散係数に関するデータを大量に集めるべきだという意見もある。とくに、近年は、システム制御の分野においてシステム同定に関する理論が大いに発展したので、それを利用すれば、材料の物性値のようなシステム特性値は比較的容易に求めることができるようになった。

 そこで、本研究では、このようなシステム同定理論を建築材料の水分拡散係数の同定に活用することを試みた。水分拡散係数の測定は、従来は定常法によって測定していたために、非常に長期間を要する測定になっていたが、システム同定の理論を導入することによって、非定常状態における同定が可能となり、時間がかなり短縮されるようになった。また、同定結果の信頼性も評価できるようになった。本研究は、従来の測定方法の欠点を改良するために新たな測定方法の提案を行うものである。論文は、六つの章で構成されており、以下、各章ごとに要約を示す。

 第1章は、序章であり、水分拡散係数の定義や意味、測定方法などについて示し、既存手法の問題点と本研究の位置づけを整理したものである。第2章は、本研究において最大の眼目となるシステム同定理論について解説し、それを水分拡散係数の同定に利用する場合の方法と構築したアルゴリズムについて述べたものである。この同定アルゴリズムにおいては、差分化された熱水分同時移動方程式を「システムモデル」に、水分拡散係数を「システムパラメーター」に見立て、同定を行う。材料の表面含水率が「入力」、内部の含水率分布が「出力」となるので、両方が実測できれば、水分拡散係数が同定できることになる。なお、水分拡散係数は強い含水率依存性があるが、これについてはスプライン関数で近似し、スプライン関数の係数を同定する。パラメーター同定のための計算手法としては、最小2乗法を用いている。

 第3章は、上記の同定手法を用いて、含水率勾配に対する水分拡散係数を同定した結果について示したものである。このために実験室において行った実験と、放湿過程と吸湿過程の結果について説明している。同定の際の誤差評価も行っている。同定結果は、放湿過程と吸湿過程においてかなり差があり、履歴性の存在が示された。また、既存の測定値とも比較され、考察が行われている。第4章は、温度勾配に対する水分拡散係数を同定するための実験と結果について示したものである。この拡散係数についても、第2章に示した同定理論の適用と然るべき実験によって同定ができることが示されている。第5章は、本手法の応用について示したものである。温湿度が変化する実測現場のデータについても、本手法によって含水率勾配に対する水分拡散係数を同定できることを示している。第6章は、本研究を総括し、今後の課題を述べたものである。

 以上、要するに、本研究は、吸放湿性に富む建築材料の水分拡散係数について、動的な(非定常の)同定手法という革新的な測定手法の提案を行い、実際にかなりの信頼性で同定できることを示した。このような手法が確立されれば、今まで長期間を要するが故に敬遠されていた水分拡散係数の測定が比較的短期間で行えるようになるので、一般にも広く使用されるものと考えられる。それによって、今まで測定数が少なく、信頼性にやや欠けていた水分拡散係数の測定データも増大することが見込まれ、拡散係数に対する信頼度やバラツキの範囲も明らかになるものと考えられる。このように、本論文は、建築環境工学の発展に大いに寄与するものと考えられる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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