学位論文要旨



No 116669
著者(漢字) 柳井,毅
著者(英字)
著者(カナ) ヤナイ,タケシ
標題(和) 相対論的効果を含む分子理論とそのソフトウエアの開発
標題(洋) Development of Relativistic Molecular Theory and the Corresponding Software
報告番号 116669
報告番号 甲16669
学位授与日 2001.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5081号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 安井,至
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 花栗,哲郎
 東京大学 助教授 瀬川,浩司
内容要旨 要旨を表示する

 ab initio分子軌道法は,計算機の飛躍的な発達と計算手法の進歩を背景に,比較的小さな原子番号の元素から構成される分子系の電子状態の記述に関して成功を収めてきた.近年,金属内包フラーレンやアクチノイド系化合物などの計算例が挙げられるように,重原子を含む分子系をより正確に取り扱うための理論開発が盛んに行われている.重原子分子系を扱う理論的手法では,重原子の原子核付近で高速に運動する電子に現れる相対論的効果が考慮されなければならない.これまで,原子・分子の化学的性質は価電子によって決まり、相対論的効果が重要になる内核電子は化学的性質に影響を与えないと信じられてきたが,近年の研究において相対論的効果が重原子分子系の化学的性質を説明する上で欠かすことのできない効果であることがわかってきた.

 本論文では,相対論的効果を含む分子理論を組み立てることを主な目的として,以下のような理論開発と,実際の分子系に適用するためのソフトウエアの開発について述べる.

 (I) 二電子反発積分の高速計算法の理論開発とソフトウエア開発.

 (II) 相対論的分子軌道計算法の理論開発とソフトウエア開発.

 (III) 分岐反応経路に関する理論的研究.

 (IV) 分子軌道計算プログラムパッケージの開発.

(I)二電子反発積分の高速計算法の理論開発とソフトウエア開発.

 分子軌道計算法は,計算機の飛躍的な発達と計算手法の進歩を背景に,数十原子分子系の電子状態や化学反応過程等を定量的に取り扱うことが可能になった.しかしながら,化学的に興味が持たれる分子系には,数百,数千原子からなる分子系が多く,これらの分子系を扱うことは,現時点での計算技術では難しい.また,重原子分子系を扱う場合,複雑化した電子状態を精密に表すために多数の基底関数が必要であり,そのため重原子を多数含むような系の計算には多大な労力を要する.大規模な分子軌道計算を不可能にしている要因の一つとして,軌道計算の中枢をなす膨大な数の「積分計算」が挙げられる.中でも,電子間のクーロン反発から起因する二電子反発積分は,四中心積分の形をとっているため,積分の総数は簡単に見積もって,取り扱う基底関数の数の4乗のオーダーで増大する.さらに二電子反発積分の解析的表式は次式のように複雑であるため,4乗のオーダーに掛かるプレファクターは大きく,一個の積分の計算を高速化することは重要になってくる.

ただし,φ(r)は基底関数である.

 本研究では,二電子反発積分の高速計算を行うために,石田によって導かれた積分公式に基づいて,一般短縮Gauss型基底関数による積分を高速に計算できる新しいアケゴリズムとプログラムパッケージSphericaを開発した.一般短縮Gauss型基底関数は,電子相関の取り扱いが考慮された最新の高精度な基底関数の形であり,この基底関数による高速積分法は望まれていた.一般短縮Gauss型基底関数は,共通のprimitive関数による線形結合で表され,下式のようなM×Kの短縮係数の行列を用いて表すことができる.

ただし,Mは基底関数の数,Kは短縮長,あるいはprimitive基底の数である.したがって,一般短縮Gauss型基底関数による二電子反発積分の公式は,(2)式を(1)式に代入して得られる.

従来の積分手法を用いた場合,一般短縮Gauss型基底関数を用いた積分計算に要する計算量のオーダーは以下の表式で見積もられる.

M4(xK4+yK2+z).

本研究で新しく開発されたアルゴリズムの計算量は,

x(MK4+M2K3)+y(M3K2+M4K)+zM4, (5)

で見積もられ,式(1)の最大次数が8次であるのに対し,式(2)では5次へと大幅に軽減された.本研究では,新しいアルゴリズムに基づきプログラム開発を行い,世界で頻用される分子軌道計算パッケージGaussianおよびHONDOに含まれる積分ルーチンと性能の比較をした.一般短縮Gauss型基底関数によるbenzene分子のベンチマーク計算を行い,計算に要したCPU時間を比較した結果,本研究で開発された積分ルーチンは最も高速であった.一般的に積分ルーチンは,分子軌道計算パッケージの心臓部であり,本研究での開発の成果は,大規模分子系や重原子分子系を効率のよく計算するため重要な一歩であるといえる.

(II)相対論的分子軌道計算法の理論開発とソフトウエア開発K.

 従来まで用いられてきたシュレディンガー方程式は,軽い原子からなる系では有効に働くが,重い原子を含む系では破綻する.重原子の原子核付近で高速に運動する電子に対して相対論的効果が現れ,その効果が重原子分子系の化学的性質に大きく影響している.ディラック方程式は相対論的効果を考慮できる量子力学の方程式であり,重原子を含む周期表の全元素を厳密に取り扱うことができる.相対論的分子軌道法はこのディラック方程式から出発する理論であり,そのため分子軌道は,従来のスカラーの波動関数から,4成分スピノールの波動関数にとって代わる.

 ディラック方程式を現実的な分子系に適用したこれまでの分子軌道法の多くは,シュレディンガー方程式に対して相対論的効果を補正項として取り入れる近似法であった.これらの近似法は,計算効率の面では効果的であるが,ディラック方程式に表れる4成分の波動関数を厳密に取り扱わず,幾つかの相対論的項を無視しているため相対論的効果の扱いが不十分である.特にスピン軌道相互作用の効果は,重原子分子系で顕著に表れ,また電子状態にとって重要な相対論的効果であるが,従来の近似法では摂動的に扱われ,取り込みが不十分である.

 本研究では,4成分のスピノールをあらわに扱い,分子系の電子状態に関するディラック方程式を直接的に解くための新しい理論的手法(4成分法)とそのソフトウエアを開発した.多電子系を扱うためのディラック−クーロン方程式は以下のように与えられる.

ただし,HDCはディラック−クーロンハミルトニアンであり,次式で与えられる.

ここで,hD(i)は,次式のような一電子ディラックハミルトニアン

であり,以下の行列が定義される.ただし,cは光速であり,Zは核電荷である.

4成分法は重原子分子系に現れる相対論的効果を,補正項を用いることなく直接的に扱う手法であり,またスピン軌道相互作用を厳密にまた変分的に取り込むことができる.しかしながら,これまで4成分法を現実の分子系に適用することは困難であった.それは1つに一電子分子スピノールを表現するための基底スピノールに関して効率の良いスキームが存在しないという問題,もう1つに,それらの基底スピノールによる二電子反発積分の計算負荷による問題である.本研究では,以上の問題を克服するために,軌道計算で扱いやすい基底スピノールとして原子モデルに基づく新しい一般短縮kinetically balanced Gauss型スピノールを提案し,そしてその二電子反発積分の高速計算アルゴリズムとプログラムを開発した.本研究で開発した一般短縮kinetically balanced Gauss型スピノールの特徴は,まず基底展開に関して次式で与えられように,

4成分の分子スピノールの展開に用いられている大成分と小成分の展開係数CLμi,CSμiが同数で済んでおり,またスピン軌道分裂も別々に扱っているので,短縮係数を原子の計算から直接的にまた容易に決定できることにある.一般短縮kinetically balanced Gauss型スピノールのprimitive基底の形は,大成分φ2Lに関しては,下式のような水素様原子の相対論的解析解を用い,

ただし,CはClebsch-Gordan係数,Yは球面調和関数である.小成分φ2Sに関しては,変分崩壊をさけるために,大成分のprimitive基底φ2Lに対してkinetic balanceを満たすように決める.

これは,光速cが無限大の時,非相対論と同等になるという保証に基づいている.以上のように定められた基底スピノールは,扱う基底スピノールの次元を大幅に小さくすることに効果的である.また,研究(I)で開発してきた二電子反発積分の超高速計算法に基づいて,4成分法の新しい積分計算法を開発した.

 本研究では,以上の理論的なアプローチに基づき,平均場近似によるDirac-Hartree-Fock法,および電子密度から電子相関を精度よくそして効果的に見積もることができる密度汎関数法に基づいたDirac-Kohn-Sham法の計算法とそのソフトウエアを開発した.Dirac-Kohn-Sham法は,相対論的効果を厳密に取り扱えると同時に,多電子問題としての信頼性も高い.4成分の波動関数を用いた多原子分子系のためのDirac-Kohn-Sham法の開発は,理論化学の分野では新しい試みである.本研究では,Dirac-Hartree-Fock法,Dirac-Kohn-Sham法を重原子を含む分子MH,M2(M=Cu,Ag,Au)に適用し,実験値との比較において高い精度で分子の電子状態を求めることができた.計算機効率の面においても,既存の4成分プログラムMOLFDIRの積分ルーチンと比較して数十倍高速であった.スピン軌道相互作用の計算まで考慮すると,4成分法はシンプルであり,厳密でまた効率的な手段である.

(III)分岐反応経路に関する理論的研究.

 化学反応に対する動力学計算では,反応系の原子座標に対するポテンシャルエネルギー曲面を得る必要がある.しかし系が大きくなると,系の全自由に対する広範囲のポテンシャル曲面を非経験的分子軌道計算で決めることは困難になり,反応に重要な領域を重点的に取り出すことになる.そのための出発点として,通常1次元の固有反応経路IRPが利用される.固有反応経路IRPとは,遷移状態からポテンシャルエネルギー曲面の谷底を最急降下で沿い極小点(反応物、生成物)までを結ぶ仮想的な1次元の経路のことである.しかし,固有反応経路がダイナミックスの参照経路として適当でない系が存在する.その一つが,固有反応経路上でポテンシャルの谷が2つに分岐する場合である.分岐地点を谷−尾根変更(VRI)点という.固有反応経路自体はポテンシャル曲面を最急降下方向に沿って下ることにより求められるので,この場合VRI点以降尾根の上を沿う経路となる.化学的直観では反応経路として分岐した谷を考慮すべきであるが、分岐を考慮した反応経路の概念は存在していない.本研究はこの問題を明らかにするために新しい手法を提案した.

(IV)分子軌道計算プログラムパッケージの開発.

Gaussian社の商業的成功に見られるように,分子軌道計算プログラムの開発には工学的有用性が見いだされている.欧米では,多数の分子軌道計算パッケージが,商業レベルあるいは大学の研究室レベルで,まとまった形でマネージメントされ,内には世界中の多数のユーザーによって利用されるパッケージも存在する.日本には,以上のような世界規模で使用されるプログラムパッケージはこれまで存在しない.前節(I)(II)で開発を行ってきた,非相対論的あるいは相対論的分子軌道法における二電子積分ルーチンは,分子軌道計算プログラムの心臓部になる.本研究では,積分ルーチンを機軸にHartree-Fock法,および密度汎関数法のプログラムルーチンを開発し,プログラム全体を制御しやすいようにパッケージ化した.このパッケージは,将来的にさらに高精度な分子軌道法を取り入れるポテンシャルを有している.

1) T. Yanai, T. Taketsugu, and K. Hirao, J. Chem. Phys., 107, 1137-1146(1997), Theoretical study of bifurcating reaction path.

2) T. Taketsugu, T. Yanai, K. Hirao, and M. S. Gordon, J. Mol. Struct. (Theochem), 451 (Huzinaga Special Issue), 163-177 (1998), Dynamic reaction path study of SiH4+F->SiH4F and the Berry pseudorotation with valley-ridge inflection.

3) T. Yanai, K. Ishida, H. Nakano, and K. Hirao, Int. J. Quantum Chem., 76(Ruedenberg Special Issue), 396-406 (2000), New Algorithm for Electron Repulsion Integrals Oriented to the General Contraction Scheme.

4) H. Sekino, T. Yanai, and K. Hirao, Nonlinear Optics, 26, 25-32 (2000), An Implementation of the Direct Random Phase Approximation Using an Efficient Integral Package.

5) T. Yanai, T. Nakajima, Y. Ishikawa, and K. Hirao, J. Chem. Phys., 114, 6526-6538 (2001), A new computational scheme for the Dirac-Hartree-Fock method employing an efficient integral algorithm.

6) H. Iikura, T. Tsuneda, T. Yanai, and K. Hirao, J. Chem. Phys., in press, A long-range correction scheme for generalized-gradient-approximation exchange functionals.

7) T. Yanai, H. Iikura, T. Nakajima, Y. Ishikawa, and K. Hirao, J. Chem. Phys., submitted.

3) cyclopropylidene→allene

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、原子・分子に対する相対論効果を含む分子理論とそのソフトウエアの開発を行ったものである。理論化学、計算化学はいま大きく変わりつつある。分子理論と計算方法の目ざましい発展とコンピュータの進歩により、10年前とは比較にならないほど複雑な系の性質を高い信頼度で予測することができるようになってきた。研究対象にできる現象や系は大きく拡がり、新たな可能性がひらかれつつある。他方、重い原子を含む系のさまざまな化学的現象に相対論効果が重要な働きをしていることがわかったのは比較的最近のことである。原子・分子の化学的性質は最外殻の価電子によって決まり、相対論的効果が重要になる内核電子は分子の化学的性質に影響を与えないと永い間、信じられてきたためである。相対論効果を扱うにはSchrodingerの波動方程式ではなく、Dirac方程式を解かねばならない。Dirac方程式はLorentz変換に不変という条件を満足するように導出された波動方程式であり、4次元行列で表現され、その解である波動関数Ψは4成分を持っている。数学的にもきわめて複雑な方程式である。そのためこれまではDirac方程式を厳密に解くことはせずに、近似的方法が採用されてきた。柳井氏は直接Dirac方程式を解く新しい理論を開発し、これに基づく高速のプログラムを開発した。

 本論文は全5章から構成されており、第1章の序論に続く、第2章では分子の理論計算の基本となる分子積分の高速アルゴリズムの開発に関する研究が述べられている。新しいアルゴリズムを開発し、その分子積分プログラム(SPHERICA)を完成させている。SPHERICAは現在、世界中でもっともよく利用されているソフトウエアGaussianのPrismよりも数十倍も高速であることを数値計算から実証している。実用的にもきわめて有用である。この積分プログラムをもとにさまざまな分子軌道法、密度汎関数法のプログラムも作成している。

 第3章は相対論効果を含むDirac-Hartree-Fock法の新しいアルゴリズム、ソフトウエア開発に関する研究である。4成分の分子軌道(分子スピノール)法を導入し、重原子を含む分子系の電子状態に関してDirac方程式を直接的に解くための理論的手法を開発している。同時に現実の分子に対して適用可能なソフトウエアを開発している。これまでの非相対論的分子軌道法では,電子の軌道という概念が取り入れられ成功を収めてきた。4成分分子スピノール法はスピン軌道相互作用まで取り入れた分子スピノールという概念である。さらに変分崩壊(Variational collapse)はkinetic balanceを満たす基底スピノールを用いることで回避できることも示している。Dirac-Hartree-Fock計算においては計算の大部分は二電子反発積分の算出に費やされるが、上記SPHERICAを基にさまざまな工夫を凝らして二電子反発積分の効率化を図っている。この新しいアルゴリズムにより、4成分のDirac-Hartree-Fock法が非相対論近似であるHartree-Fock法と同じように解くことができるようになったといってよい。

 第4章はDirac方程式と密度汎関数を組み合わせたDirac-Kohn-Sham方程式の解法に関する研究が述べられている。密度汎関数法は電子密度から電子相関を精度よくそして効率的に見積もることができる。Dirac-Kohn-Sham法は相対論的効果を厳密に取り扱えると同時に軌道計算としての信頼性も高い。4成分の波動関数を用いた多原子分子系のための相対論的密度汎関数法の開発は、理論化学の分野では新しい試みである。

 第5章は化学反応の分岐に関する理論研究であり、第6章には結論が述べられている。

 以上にように、柳井氏が開発した相対性分子理論とそのソフトウエアは重い原子を含む分子系の電子状態を解明するために有用であり、その波及効果はきわめて大きなものがある。本研究によって全ての原子(Z=1〜137)を対象とした実用的な理論計算が可能になったといっても過言ではない。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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