学位論文要旨



No 116695
著者(漢字) ジェレヴィーニ・アレッサンドロ・ジョヴァンニ
著者(英字) Gerevini,Alessandro,Giovanni
著者(カナ) ジェレヴィーニ・アレッサンドロ・ジョヴァンニ
標題(和) 80年代女性作家における身体の諸問題 : 吉本ばなな・松浦理英子・小川洋子の小説をめぐって
標題(洋)
報告番号 116695
報告番号 甲16695
学位授与日 2001.10.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第332号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 高田,康成
 東京大学 助教授 エリス,俊子
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 石光,泰夫
内容要旨 要旨を表示する

 1980年代において、日本の出版界に数多くの若い世代の女性が登場し、大きな人気を得た。数年間で姿を消すことなく、そういった20代の女性作家たちが着実に執筆し続けながら、海外でも訳され、場合によっては、日本文学を代表するまでとなった。

 吉本ばなな、松浦理英子、小川洋子を始めとする作家たちが、世界に通用するような普遍性を通して多くの読者に自分たちの声を届けるようになり、日本の若い世代の感覚を語ってきた。

 彼女たちの作品には、いわゆるサブカルチャーが生み出した登場人物を通して筋が織り込まれている。主人公たちが主に若い少女であり、「言葉」より「身体」で外界とコミュニケーションを取ろうとしているところが多くみられる。

 小説という伝統的な体裁を借りて、それまで文学と関係のなかった、「少女的な」文化人類学資料や言葉が取り入れられている彼女たちの作品は、結果として画期的、しかも独創的なものになっているが、作者たちが目指していたのは必ずしもオリジナリティーではなく、自分たちが知らず知らずのうちに身につけていた文化へのシミュラクルだったと思われる。

 物語の筋が織り込まれていくに連れて、登場人物の出来事は勿論だが、一つの興味深い身体像も描かれてくる。

 時代と合致するその新しい身体像には社会の体制が反映しており、その「病理」までが剔抉されている。

 そして、そのような病理から自身を守るために、若い女性作家たちは辛い現実から逃避することを試みる。但し、昭和30年生まれの世代から、イデオロギー無用気候が広がっていたため、自分たちの、社会に対する不信を怒りや闘争心を通して表現することができなかった。

 それでも、社会と戦いたければ、その前提となっている基礎を一つ一つ破壊するより他ならなかった。結婚も出産もせずに、つまり「家族」を築かないことで、明るく戦うしかなかった。これは、80年代に数多く登場した女性作家たち独特の、社会に対する「肯定的な批評」であった。

 そこで、批評の武器として用いられたのは「身体」であった。それは、次々と様々な隠喩を生み出してくる、表象としての身体だった。

 この論文の中で、吉本ばなな著『キッチン』、松浦理英子著『ナチュラル・ウーマン』、そして小川洋子著『シュガータイム』を初めて横に並べることが試みられた。これらの3作は、作風が必ずしも類似しているとは限らないが、時代背景が共通していることは明らかである。

 そこで、同じ基盤の上に立っているこれらの3作の中で、身体の可能性、あるいは不能にまつわる表現の選択は著者によってどのように果たされたかを、この論文に亙って探ってみた。

 第一章では、吉本ばななが描く少女の「台所的」な空間について述べた。『キッチン』の社会体制に対する「肯定的な批評」は、まず「死」をもって、家族という制度を消すところから始まる。そして血縁ではなく、食の共有を通して幻の家庭が創り直されている。吉本が提案する家族像の中で孤児の少女たちは、食する身体に導かれながら、近親同士の絆を築こうとするのである。

 第二章では松浦理英子の大胆な挑戦を分析してみた。家族を黙殺し、自らのフィクションからその姿を抹消した後、少女たちしかいない空間を創り出すのである。松浦の小説に登場する〈ナチュラル・ウーマン〉たちは多様性に満ちた性をもって恋愛関係を結ぼうとする。但し、より自然に振舞うため、異性、つまり男性を物語から完全に排除している。松浦の「戦い」は社会の一つの基本だと見なされている、生殖を前提とする異性愛の概念を破ることである。そこで、同性愛を選んだ少女たちは自らの性的身体に従いながら、他者との接触に挑んでいる。

 第三章では、小川洋子著『シュガータイム』の一つの「読み」を提案してみた。小川の「肯定的な批評」は、家族という制度の中に身を置きながらも、その内側からそれを壊そうとすることだ。彼女の使う武器とは、異常性として現われてくる複数の「病」である。しかし、小川の描く病は身体を脅かすが、「死」に至らないで次第に身体を消滅させてしまうものだ。そして最終的に身体と共になくなるのは、言葉である。因って、人物たちに残されるのは沈黙に陥った精神だけである。小川の小説においては一貫して、人間のコミュニケーションの欲望が無言という否定を通して表現されているのである。

 現実社会と分離するために、吉本、松浦、小川は共通して、自由に生きることが許されていた「甘い世界」に遡ることを試みた。これは青春期、つまり少女であった時期へ回帰する過程の始まりである。

 しかし、皮肉なことに、彼女たちの挑戦を通じて得られる快楽は、一時的なものに過ぎないことが次第に発覚してくる。

 なぜならば、「甘い世界」の中に長くいればいるほど、様々な「不能」が現われてくるからである。最初は全身で愉しんでいた性も食も、快楽どころか、苦痛の原因になり、やがて身体のすべての機能に悪影響を与えてしまう。その結果、身体は自閉し、コミュニケーション全体の不能に陥り、又しても孤児となった少女たちは孤独感を覚える結果となる。

 吉本、松浦、そして小川が提案したのは、一つのパラドックスである。現実を逃避するために作り始めた幻想的な次元は、実は社会が理想としていた世界でしかなかった。従って、袋小路に行き詰まった彼女たちに残された唯一の可能性は、現実に戻ってから身体と共に精神も「大人」として成長させるか、永遠に不能を抱えながらも「少女」として存在し続けるか、のどちらかである。

 最後に、作品を「読む」以外の、この論文のもう一つの目標として、多数にある異質の評論や記事を整理することにした。従って、「書誌」には、著者別の詳細な著作リスト、そして3人に関連する参考文献を、それぞれが属する分類に分けながら、載せておいた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、1980年代に日本の文学史の舞台に登場した3人の新人女性作家の作品群を、「身体」という一貫した視点から分析することを通じて、この時代に日本の社会が蒙った大きな変化とその文学的な表現との関連を明らかにすると同時に、作品の中に「書かれた身体」とそれを「書く身体」との関係を踏査することによって、言わば「少女的エクリチュール」とでも呼び得るような、おそらくは世界的にも新しいエクリチュールの可能性とその限界を見極める作業を行ったものである。

 対象となった作家は、年齢も生育環境も作家としてのデビュー時期もほぼ似通っている三人の作家、吉本ばなな、松浦理英子、小川洋子である。80年代の日本社会の変容をメルクマールとなるいくつかの事件を取り込みつつ記述した第1章に続く各章では、それぞれの作家の作品において、「身体」という場とその表現をめぐって、人間関係の崩壊とその再生の希望がどのように書き出されているかが、細かなテクスト読解を通して分析されている。すなわち、吉本ばななの『キッチン』においては、「食」という人間の本源的な生命活動から出発して「家族」概念のシミュラクル的再生が賭けられており、また松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』では、「自然の」身体をも「性的なオブジェ」と化す倒錯的な関係を通じて自我の解消が、そして小川洋子の『シュガータイム』では、食欲異常の主人公を通じて、死あるいは聖なるものという「身体の彼方」が夢みられていることが論述されている。すなわち、これら三作家の作品群を貫くのは、「食」、「性」、「死(沈黙)」とそれぞれ問題となる身体の位相は異なっているものの、崩壊した人間関係を、異常や倒錯として現れる「身体」の擬制=犠牲的な表現を通して再生しようとする「書く身体」の激しい欲望である。しかし、「書かれた身体」と「書く身体」との関係をこのように剔抉しつつ、論文提出者は、同時に、それが限りなく少女のままでとどまろうとする一種のナルシシズム的な欲望のループに陥らざるをえないという限界の指摘に到達する。その限りでは、この論文は、対象とした作家に対して、言葉の正当的な意味で「批評」的な作業ともなりえている。

 このように、本論文は、時間的な距離が比較的に近い対象を取り扱っており、審査会でもまずその点が問題となった。一方では、他に先駆けて80年代の新しい文学潮流の歴史的な意味を、「身体」という独自のプロブレマティックにおいて統一的な視点から研究したことを高く評価する意見もあり、また他方では、文学史的な評価がまだ確定していない、現在進行形の対象を扱うことへの危惧を表明する意見もあった。しかし審査会全体としては、外国から来た研究者が、同時代の日本の文学を、論文に併せて提出された参考資料(吉本ばなな『白河夜船』、『ハチ公の最後の恋人』、『TSUGUMI』、『Sly』、松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』のイタリア語訳)が示すように、実際に外国語に翻訳しながら研究したことの意義は大きく、博士論文のひとつのありうべき形態として認められると判断がなされた。

 また、「身体」をめぐるプロブレマティックを扱う理論的枠組みが、ウンベルト・ガリンベルティやロラン・バルト、また各種精神分析理論など多種にわたっており、そこに方法論的な一貫性が不在であるとの意見も提出された。しかしまた、本論文の重点は理論的な整備であるよりは、翻訳の「現場」から出発して、新しい文学現象を解読することにあり、むしろ巻末の詳細な書誌が示すように、各作品の初出時の書評や、提出者自身によるものも含む、作家のインタヴューなどきわめて細かな資料を含んだコーパスを通しての総合的な理解の作業こそが評価されなければならないとする意見も出された。

 また、すべての審査委員が、本論文の日本語の柔軟さと滑らかさに讃辞を寄せたことは付け加えておかなければならない。

 このようにいくつかの問題を内包する論文ではあるが、審査委員会は、論文提出者に対して、今後、1)これら女性作家の仕事を、世界の文学のなかに位置づける論文、2)また、翻訳を通して現れてくるそれぞれのテクストの言語態についてさらに具体的に掘り下げた小論文、を書くことが望ましいという特別の要望を付加しつつ、総合的に判断して、本論文が日本の現代文学の研究に新しい展望と新しい視点を加えた功績を評価すると結論した。

 以上の審査により、本審査委員会は、ジェレヴィーニ・アレッサンドロ・ジョヴァンニ氏が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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