学位論文要旨



No 116698
著者(漢字) 仙石,愼太郎
著者(英字)
著者(カナ) センゴク,シンタロウ
標題(和) 嗅覚受容体の匂い分子受容能および軸索投射の規定能に関する研究
標題(洋)
報告番号 116698
報告番号 甲16698
学位授与日 2001.10.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4071号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 教授 中村,義一
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 助教授 榎森,康文
 東京大学 助教授 飯野,雄一
内容要旨 要旨を表示する

1.背景

 嗅覚受容体多重遺伝子群は当初げっ歯類において発見され、およそ一千種類の嗅覚受容体遺伝子から成る多重遺伝子群を形成している。そしてこれらの遺伝子は多くの異なる染色体上の複数の遺伝子座に、クラスターと呼ばれる遺伝子塊を形成していることが見出された。In situハイブリダイゼーションによる発現解析の結果、個々の嗅覚受容体遺伝子種は、嗅上皮上の4つの発現ゾーンのうち1つのみで発現されることが示された。更に、個々の嗅細胞(嗅覚神経細胞とも云う)は一千種類の嗅覚受容体遺伝子のうちただ1種類のみを一方の対立遺伝子座から選択的に発現し、個々の嗅細胞はその軸索を嗅球上の左右2〜4対の糸球−外側に1〜2対、かつ腹側に1〜2対−に、部位特異的に投射することも確認された。すなわち、同種の嗅覚受容体遺伝子を発現している嗅細胞群は、その軸索を左右2〜4対の糸球に収束することが実験的に示された。このような嗅覚受容体遺伝子の発現様式と嗅細胞の投射様式の関係付けにより、特定の匂い分子によってどの嗅細胞がどの程度活性化されたかという嗅上皮内の情報は、その匂い分子によってどの糸球がどの程度活性化されたかという嗅球上の2次元情報に変換され得ることが示唆された。

 1996年以降、マウスにおける遺伝子組換え技術を活用し、特定の嗅覚受容体遺伝子内に欠失や変異を挿入することにより、その嗅覚受容体遺伝子を発現する嗅細胞の投射パターンが著しく乱れることが観察された。また、ある嗅覚受容体遺伝子の翻訳領域を別の嗅覚受容体のそれと置換すると、それらを発現する嗅細胞は本来の投射位置とは異なる第3の糸球を形成することが判明した。この一連の結果は、嗅覚受容体タンパクの軸索投射に対する役割、即ち嗅覚受容体タンパクは個々の嗅細胞において軸索の投射位置を決定する因子の1つであることを示唆している。我々の研究グループにおいてもIRESおよびtau-lacZ遺伝子で修飾されたマウス嗅覚受容体遺伝子MOR28を有するトランスジェニックマウス、およびIRESおよびgap-GFP遺伝子で修飾された内在性MOR28を有するノックインマウスが芹沢および石井らにより作製されている。これらを掛け合わせて得たマウスでは、外来性MOR28と内在性MOR28は同じ発現ゾーンで発現されているもののそれぞれ別個の嗅細胞で相互排他的に発現される。また外来性MOR28を発現する嗅細胞(すなわちβ-gal陽性細胞)は、その軸索を内在性MOR28発現細胞(即ちGFP陽性細胞)とは隣接するが別個の糸球に投射する。このような遺伝学的手法は嗅覚系の研究、殊に嗅覚受容体遺伝子の発現調節機構や嗅細胞の軸索投射機構の解明に対して、極めて有用な実験手法である。

 哺乳類はどのようにして高々一千種の嗅覚受容体によってそれより遥かに多様な匂い物質を分別することが可能となるのか。一次嗅覚系における匂い分子の情報伝達過程および分別法は、本研究を開始した当時(1996年)では、以下の3つの相で議論されていた。即ち、(1)嗅細胞における嗅覚受容体の発現様式、(2)嗅覚受容体の匂い分子受容能、および(3)嗅細胞の嗅球への軸索投射の様式である。このうち(1)およ(3)の相ついては、1991年にBuckとAxelにより哺乳類の嗅覚受容体遺伝子が同定されて以来、分子生物学的手法を駆使した精力的な研究により、個々の嗅細胞は1種類のみの嗅覚受容体遺伝子を選択および発現し、また嗅細胞の嗅球への軸索投射部位は発現する嗅細胞の種類により規定されることが広く認められていた。しかしながら(2)の相については当時、他の相に比べて生化学的理解が遅れていた。極論すれば、いわゆる「嗅覚受容体」遺伝子はその多様性、発現パターンなどから匂い分子に対する受容体であると広く認められてはいたものの、そのin vivoにおける生化学的特性、すなわち匂い分子の受容能についてはいかなる実験的事実も得られていなかったのである。結果として、嗅上皮から嗅球に至る神経回路網の物理的構築様式については急速に理解が深まったものの、この回路網を具体的な匂い情報の伝達様式まで還元して理解できないという、非常に不均衡な状態で本分野の研究が推移していた。この問題が、本分野に対して多くの研究者の耳目を集め、我々に受容体−リガンド相互作用を生化学的に精査することの重要性を再認識させ、哺乳類由来の嗅覚受容体のリガンド特異性を、in vivoか或いはそれに極めて近い環境で同定し精査することを試みる契機となった。

2.哺乳類における嗅覚受容体の匂い分子受容能−嗅覚受容体MOR23の機能的同定および再構成に関する研究

 嗅覚受容体のリガンド同定を企図するにあたって、上3つの難題、すなわち嗅覚受容体の分散的な発現様式、構成系確立における困難、および多様な候補リガンド、を克服するための戦略は以下のとおりである。第一に、一般の培養細胞系ではなく嗅細胞それ自体を宿主細胞として活用するいわゆる'semi-in vivo'系の構築を企図し、嗅細胞に外来遺伝子を導入する手段として組換えアデノウィルスを用いた遺伝子導入法を適用した。戦略の第二は、候補リガンドの種数を事前に絞り込むため、すでに標的リガンドとの関係が別法により示唆されている嗅覚受容体MOR23を用いたことである。MOR23は当初我々の研究室で同定され、その後他のグループにより匂い分子リラール(lyral)との相互作用がin vivoの解析結果より示唆されていた。

 そこで我々はこのMOR23を組換えアデノウィルスを用いた発現系で嗅細胞に導入し発現させ、リラールに対する応答性を再構成することをまず試みた。まず各種標識遺伝子を搭載した組換えアデノウィルスベクター作製、ウィルスを嗅上皮に感染させる手法を確立し、その有用性を確認した。次いで上述の戦略に従いMOR23に対する生化学的解析を試みた結果、我々はMOR23のリラールに対する応答性を嗅細胞−アデノウィルスベクターの系で再構成することに成功した。そしてこの応答性を精査するために引き続き一連の実験を行ない、この応答性がリガンド特異的であること等を証明した。この一連の研究は嗅覚受容体−匂い分子相互作用の再構成に成功した初の例である。加えて、特定の嗅覚受容体に対する匂い特性を探索するという従来法に対し、特定の匂い物質に応答しうる嗅覚受容体を網羅的に探索できるという点、および再構成という手法の本質からin vivoにおける受容体−リガンド特異性を本系において再検証し精査できる点、において優れており、嗅覚受容体群の匂い特性の解析や嗅覚系の匂い地図作製に貢献しうるのみならず、他のorphan受容体のリガンドやアンタゴニスト同定に対しても極めて有効な方法論であると考えられる。

3.初期発生および同調的再生過程における、嗅細胞の軸索投射に関する研究

 本研究の目的は、隣接するが異なる糸球の形成過程の観察を通じ、嗅覚受容体による軸索投射の規定能を検定し、また別個の糸球形成を誘導する要因を探索することにある。まず我々は内在性MOR28-IRES-gap-GFPおよび外来性MOR28-IRES-tau-lacZを発現するトランスジェニックマウスについて、軸索投射のどの過程で異種軸索が分離し同種が会合するのかを、嗅上皮、篩板および糸球近傍において観察することにより解析した。その結果、両種軸索は嗅上皮、篩板を経て嗅球に進入するまで混交しており、軸索種の分離は糸球のごく近傍において行なわれることを見出した。そこで我々はとくに糸球およびその近傍における両種軸索の動態を、嗅細胞の2つの発生過程−すなわち初期発生、および嗅上皮の化学的処理により誘起される同調的再生−において経時的に観察することを試みた。というのは、成体マウスにおいては個々の糸球は確立されているものの、発生のごく初期においては糸球の分離が明瞭でないことが実験的に確認されており、糸球の形成過程を詳細に観察することにより本問題の手掛かりを得られると考えたからである。一連の実験の結果、新生および同調的再生過程いずれの場合においても、初期には両MOR28発現細胞の投射は互いに混交しており、発生が進むに従って分離する様子が観察され、この過程が投射する嗅細胞の数にも部分的に依存することが示された。加えて、MOR28-IRES-tau-GFPおよびMOR28-IRES-tau-lacZを共に外来性として発現する別のトランスジェニック動物における糸球の観察結果から、標識遺伝子の種類の相違も糸球の分離に正に作用することが実験的に示された。これらの結果は嗅覚受容体による軸索投射の規定能を検証したものの、軸索収束および糸球分離の問題は嗅覚受容体の視点のみからでは十分に説明できないことを示しており、一定数以上の軸索入力の存在や細胞生理の微細な変化といった嗅覚受容体に依存しない要因も軸索収束および糸球分離に影響を与え得ることを指摘した点に意義があると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は主として2つの部分からなり、前半はアデノウイルスをベクターに用いた嗅覚受容体の機能的発現とその匂い基質の同定について論じている。後半は、嗅覚受容体遺伝子を人為的に標識したトランスジェニックマウスとノックインマウスを用いて、嗅神経細胞の嗅球への軸索投射を論じている。これらの研究により、嗅覚受容体の機能を解析する基礎的な系が確立したのみならず、嗅覚系の軸索投射や匂い情報処理のメカニズムについて、幾つかの重要な知見が得られた。本研究は独創的かつ斬新なものであり、提出者が中心となって主体的に進めたもので、研究成果に対する寄与は充分であると認められる。本論文の主要内容は、前半部分が提出者を共著者として米国の科学アカデミー会報に、後半部分が提出者を筆頭著者として英国の神経科学専門誌に発表済みである。

 以上の事柄から判断して博士(理学)の学位が授与出来ると判定した。

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