学位論文要旨



No 116706
著者(漢字) 林,良子
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,リョウコ
標題(和) 音声言語理解における日本語語彙的韻律(ピッチアクセント)の脳磁図による研究
標題(洋)
報告番号 116706
報告番号 甲16706
学位授与日 2001.11.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1865号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 教授 江藤,文夫
 東京大学 教授 大友,邦
 東京大学 助教授 青木,茂樹
 東京大学 助教授 伊良皆,啓治
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 音声言語の聴取において,韻律情報は音韻情報とは異なった処理過程が行なわれていると考えられている。韻律情報の中には,語彙の弁別に関与する語彙的韻律(Lexical prosody)が存在し,これまでにPETやfMRIを用いたタイ語,中国語の研究において,語彙的韻律(声調)の弁別は音韻情報と同様に左大脳半球優位に処理される可能性が示されてきた。本研究では,従来行動学的実験によってのみ議論されてきた日本語の語彙的韻律(ピッチアクセント)の処理過程について,脳磁図を用いて検討を行なった。

2.実験1:ピッチアクセントとイントネーションの脳内処理過程

2.1.目的

 音響的差異の検出を反映するとされているMMFを用い,従来の研究では議論されてこなかった言語音におけるピッチ変化の種類による差を検討した。ピッチアクセントにより語彙の違いが生じる場合(「飴」vs.「雨」)と,語彙の差はないが肯定・疑問とイントネーションが異なる場合(「飴」vs.「飴?」)のMMFを計測し,両者間の脳内過程の差異を検討した。

2.2.方法

 オドボール課題に準じ,「雨」,「飴」,「飴?」の3種類の分析再合成音声のうち1つを80%,後の2つをそれぞれ10%の割合でランダムに計800回1秒間に1回の速度で呈示した。10名の被験者に,注意課題1試行,無視課題3試行の合計4試行を行なってもらった。単一電流双極子モデルを使用して,左右半球に各1つずつ等価電流双極子を求めた。求められた電流双極子を、各被験者のMRI脳画像に重畳してMMF生成源を推定した。

2.3.結果・考察

 アクセント条件,イントネーション条件とも,ピッチ変化開始時から潜時約200msでMMFが観察された。等価電流双極子のピーク潜時は,アクセント条件の方がイントネーション条件よりも潜時が平均30ms短かった。アクセント条件とイントネーション条件間で,ピッチ変化幅が同じであるにも関わらず等価電流双極子潜時に差が見られたことは,語彙の差異をもたらすピッチ変化の方が,それをもたらさないものよりも素早く処理されることを示唆するものであると考えられる。

 MMF等価電流双極子のモーメントは,注意課題下で無視課題下よりも左右両半球において,有意に増大した。タイ語や中国語で報告されたように,語彙的韻律が音韻と同様の脳部位で処理されるのであれば,刺激語に注意を向けた条件下では,音韻情報と同様に左半球に有意な活動の増大が観察されると考えられる。しかし,本実験結果からは,ピッチアクセント,イントネーションのいずれのピッチ変化に対しても注意課題下で左右両半球における活動増大が観察された。この結果は,楽音のピッチ処理の右脳半球優位性や音韻情報処理の左脳半球優位性と異なるものであり,左右両半球が寄与する処理がなされていたと考えられる。

 MMFの等価電流双極子は注意・無視課題下のアクセント条件,イントネーション条件ともにブローカ野及びウエルニッケ野近傍とその対側に求められた。従来から言われているように,聴覚性MMFの電流源が,聴覚性言語野近傍にある可能性を示唆するとともに,ブローカ野の活動が影響している可能性が示された。

3 実験2:単語認知におけるピッチアクセントの役割

3.1.目的

 実験1で観察したMMFは,音響的差異を自動的に検出する過程であると考えられているため,普段我々が行なっている,単語を認知するというより高次レベルでの処理については不充分であると考えられる。このため,ピッチアクセントの音声言語理解における役割を,音韻と比較し検討するために,意味不整合性の検出に関わっていると言われるN400成分(N400m)を指標に検討した。

3.2.方法

 本実験では,先行刺激としてなぞなぞ文を用意し,そのあとになぞなぞの答えとして呈示されるターゲット単語を対象として,正誤反応時間測定(実験2−1)及び,脳磁図計測(実験2−2)を行ない,音韻とピッチアクセントの処理機構の差を検討した。ターゲット単語はいずれも2モーラ有意味語で,正答群と2つの誤答群(ピッチアクセント不適切群,音韻(第二モーラ子音)不適切群)の3群を用いた。実験には各群100文ずつ,計300のなぞなぞと答の組が用いられた。N400mを脳磁図によって観察し,その出現の潜時,振幅及び反応部位を求めた。

3.2.1.実験2−1 正誤判断時間計測方法

 脳磁図計測に先立ち,正誤判断時間の反応時間計測を行なった。上記3種類計300組の中から,各30文づつ90文を被験者ごとに無作為に抽出し,ランダムに被験者8名にヘッドホンにて両耳呈示した。なぞなぞに対し答が適切であるかをなるべく速く判断し,YES / NOボタンを押すよう被験者に指示し,答部開始からの反応時間と正答率を測定した。

3.2.2.実験2−2:脳磁図計測方法

 上記300組全てを12名の被験者にランダムに呈示し,なぞなぞの答を考えながら聴取している時の脳活動について、適切群,アクセント不適切群,音韻不適切群それぞれの加算平均波形を記録した。その後アクセント不適切群から適切群を引いた差分波形(アクセント条件),音韻不適切群より適切群を引いた差分波形(音韻条件)を求めた。単一電流双極子モデルを使用し,左右半球に各1つずつ等価電流双極子を求め,MRI画像に重畳して脳内活動部位を求めた。

3.3.結果

3.3.1.実験2−1 正誤判断実験結果

 正誤判断時間の全平均は724msで,各群の平均判断時間は,適切群にYESと答えた反応時間が最も速く(687ms),アクセント・音韻不適切群にNOと答えた反応時間(各737ms・750ms)との間に有意な差が認められた。正答率は,適切群で94.6%,アクセント不適切群で90.8%,音韻不適切群で97.5%となり,音韻不適切群とアクセント不適切群間で差があった。

3.3.2.実験2−2 脳磁図計測結果

 脳磁図波形では,潜時250〜450msでは適切群に対し,アクセント不適切群,音韻不適切群の逸脱が観察された。アクセント不適切群,音韻不適切群それぞれから,正答群の反応を差し引いた差分波形においては,潜時約310〜450msにピークを持つN400mが観察された。

 等価電流双極子の推定を行ったところ,電流源は音韻・アクセント条件とも,左右両半球シルビウス溝近傍中・後部に推定された。

 差分波形においては,等価電流双極子の推定が困難な被験者もあったため,差分波形によるN400mのピーク潜時と振幅を求めたところ,ピーク潜時は,音韻条件(403.1ms)の方がアクセント条件(434.3ms)よりも有意に短く(p<0.05),さらに右半球(437.9ms)よりも左半球(400.4ms)の方が有意に短い(p<0.05)という結果が得られた。

3.4.考察・結論

 正誤判断の反応時間は,正答群で最も短く,先行文脈によるプライミング効果によって,答部の単語に対する反応時間の促進が見られたものと解釈できる。誤答群では,両群間に反応時間の有意な差は見られなかったことは,アクセント不適切群は音韻不適切群と同様に,先行文脈によるプライミング効果を受けないことを示している。このことはピッチアクセントの異なる同音語は,英語とは異なり,心内辞書中で活性化されないことを示唆し,従来の日本語のピッチアクセントに関する行動学的実験結果を支持する結果となった。

 実験2−2,解析方法2の結果では,N400mピーク潜時に差が見られ,音韻不適切性の方がアクセント不適切性よりも約30ms速く処理されている可能性が示された。また音韻・アクセント条件ともに左半球でより迅速に処理される可能性も示された。これは,言語情報処理における左半球での優位性を示唆しているものと考えられる。

4.総合考察

 本研究では,日本語語彙的韻律について、2つの時間的に異なる処理過程に関して脳磁図を用いて検討を行なった。ミスマッチ磁界(MMF)を用いて,日本語のピッチアクセントとイントネーションの脳内処理過程を検討した結果,ピッチアクセントは語彙の違いを生じさせない韻律情報(イントネーション)に比べ,より迅速に処理される可能性が示唆された。

 等価電流双極子は,電流源が左右両半球上側頭,前頭下部に推定され,そのモーメントは左右両半球で増大を示し,左半球において優位に処理される音韻処理過程との差が示唆された。

 文の統合過程では,不適切なピッチアクセント・音韻ともN400mを誘起することが明らかになった。N400mピーク潜時は,音韻不適切群の方がアクセント不適切群よりも短く,音韻に対する処理の方が,ピッチアクセントよりも迅速である可能性が示された。また,音韻・アクセントともN400mのピーク潜時が左半球で右半球よりも短かったことから,言語処理の左半球優位性を裏付ける結果も得られた。

 等価電流双極子の電流源は,アクセント条件,音韻条件とも左右両半球シルビウス溝近傍中・後部に推定されたが,推定率が音韻不適切群の方がアクセント不適切群より高いことから,ピッチアクセントの脳内処理部位が音韻に比べ,より広い(または深い)か,個人差が大きい可能性があることも示された。

 本研究で得られた結果は,言語療法や外国語教育の現場において指摘されてきた音声言語におけるピッチアクセントの重要性を裏付け,従来の行動学的実験における反応時間計測では捉えきることができなかった韻律認知機構の一端について,脳内の時間・空間的処理過程を明らかにするものであった。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は,音声言語理解において重要な役割を果たしていると考えられる日本語の語彙的韻律(ピッチアクセント)について,脳磁図を用い,脳機能を生理学的な手段で計測することによって検討を行なったものであり,下記の結果を得ている。

1.音響的差異の検出を反映すると考えられているミスマッチ磁界(MMF)を用い,言語音におけるピッチ変化の種類による差を検討した。ピッチアクセントにより語彙の違いが生じる場合(アクセント条件:「飴」vs.「雨」)と,語彙の差はないが肯定・疑問とイントネーションが異なる場合(イントネーション条件:「飴」vs.「飴?」)のMMFを計測したところ,アクセント条件,イントネーション条件とも,ピッチ変化開始時から潜時約200msでMMFが観察された。等価電流双極子のピーク潜時は,アクセント条件の方がイントネーション条件よりも潜時が平均30ms短く,語彙の差異をもたらすピッチ変化の方が,それをもたらさないものよりも素早く処理されることを示唆するものであると考察された。

2.MMF等価電流双極子のモーメントは,注意課題下で無視課題下よりも左右両半球において有意に増大した。この結果は,楽音のピッチ処理の右脳半球優位性や音韻情報処理の左脳半球優位性と異なるものであり,左右両半球が寄与する処理がなされていたと考えられた。

3.MMFの等価電流双極子は注意・無視課題下のアクセント条件,イントネーション条件ともにブローカ野及びウエルニッケ野近傍とその対側に求められた。従来から言われているように,聴覚性MMFの電流源が,聴覚性言語野近傍にある可能性が示唆された。

4.なぞなぞ文とその後に呈示される答え(正答群・アクセント不適切群・音韻不適切群)を対象として,正誤反応時間及びN400成分(N400m)を指標に,文中の単語意味理解におけるピッチアクセントの役割を音韻の差異を検討した。正誤判断の反応時間は正答群で最も短く,誤答群(アクセント不適切群,音韻不適切群)では両群間に有意な差は見られなかった。アクセント不適切群は音韻不適切群と同様に,先行文脈によるプライミング効果を受けないことから,ピッチアクセントの異なる同音語は,英語とは異なり,心内辞書中で活性化されないことを示唆し,先行研究の行動学的研究の結果を裏付ける結果を得た。

5.なぞなぞの答えに対する脳磁図波形では,誤答群と正答群の差分波形において,左右両側頭部で潜時約310〜450msにピークを持つN400成分が観察された。N400mの電流源は,左右両半球シルビウス溝近傍中〜後部に推定され,アクセント・音韻による部位差は見られなかった。

6.差分波形によるN400成分のピーク潜時は,音韻条件の方がアクセント条件よりも有意に短く,さらに右半球よりも左半球の方が有意に短いという結果が得られた。音韻はアクセントに比べ迅速に処理され,また音韻・アクセントともに左半球でより迅速に処理される可能性が示された。このことは,言語情報処理における左半球での優位性を示唆するものと考えられた。

 以上本研究は,言語療法や外国語教育の現場において指摘されてきた音声言語におけるピッチアクセントの重要性を裏付け,従来の行動学的実験における反応時間計測では捉えきることができなかった韻律認知機構の一端について,脳内の時間・空間的処理過程を明らかにするものであり,学位授与に値するものと考えられる。

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