学位論文要旨



No 116711
著者(漢字) 星野,幸代
著者(英字)
著者(カナ) ホシノ,ユキヨ
標題(和) 徐志摩と新月社 : 近代中国の文芸的公共圏
標題(洋)
報告番号 116711
報告番号 甲16711
学位授与日 2001.12.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第342号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東京大学 教授 高橋,和久
 東京大学 助教授 吉澤,誠一郎
 東京大学 教授 尾崎,文昭
 中央大学 教授 飯塚,容
内容要旨 要旨を表示する

 本論は、1920年代に活躍した上層中産階級の知識人・徐志摩が創始した文人グループ・新月社を、J・ハーバーマスが近代初期の英仏独を対象として析出した「公共性」理論の中で論じる。すなわち教養ある知識層が文芸を論議する場:文芸的公共圏として新月社をとらえ、徐志摩サロンというその性格上主として徐志摩を軸としながら、その歴史的形成過程から施設化、機関、戦わされた議論、典型的な文学形式、その解体までを追い、新月社の存在意義を問い直そうとするものである。

 近代国家の形成期に、政府の重商主義に応じた初期資本主義の要請から情報流通の諸システムが整えられ、印刷技術も急速に進む。啓蒙書に始まりやがて商品化する出版物は、これらのシステムに載って普及する。

 清末・民初に整備された近代的教育制度は、上層中産階級のエリート化をもたらした。資産階級に生まれ、近代的教育制度を受け、私費留学した徐志摩の学歴はこの階層の典型といえよう。女子教育も整えられ女子知識人層が形成され、近代的学制による読者層は1920年代には50万人近くにのぼった。五四運動は、これらの青年知識人男女は交際のきっかけと、創作のテーマ、創作意欲を与えた。

 徐志摩は1918-22年米英に相次いで留学した。米国では女権論に初めて触れた。英国ではケンブリッジの知識人から思想的に大きな影響を受けた。H・G・ウェルズ、B・ラッセル、ブルームズベリー・グループの人々などの知識人サロンに出入りし、徐志摩は因習的な社会観念への懐疑心、議論による真実の追求を習得した。

 徐志摩は帰国後自ら知識人サロンを開く構想を固め、1924年北京に新月社を発足させる。新月社の性格はプルームズベリー・グループに共通するものが多い。メンバーは上層中流階級の出身者で大卒並みの教養を持ち、女性を主要メンバーに含む。活動は友人同士の読書会に端を発し、忌憚のない議論、演劇上演を行い、出版社を創設し主に友人達の著書を発行する。徐志摩は、20世紀英国においてボヘミアン的に文芸的公共圏の性格をとどめていたブルームズベリー・グループを意識的にまねて新月社を興したのではないかと思われる。

 新月社グループは多くの新聞雑誌に関わった。『現代評論』は北京大学教授陣による政論雑誌とみなされるが、新月社グループの初期創作が多く発表されたという意義がある。『晨報副刊・詩鐫』、『詩刊』同人は新詩の一流派をなした。『晨報副刊・劇鐫』『美展』は演劇・美術に関する啓蒙的なメディアであった。

 新月社グループが関わった最も大規模な論争は女師大事件に発する『語絲』派との論争である。その経過を追うと、各グループがメディアを通じて議論を発信し、各々を支持する公衆を形成するさまがうかがえよう。論調には論戦相手への私情が色濃く、当時の文壇の人間模様が反映されている。さらに女性が議論に深く関与していた。これらは文芸的公共圏における議論の特徴と符合する。

 新月社は自由意思による恋愛の場でもあった。メンバーは恋愛と友情が錯綜する男女交際から創作の素材と刺激を得た。新月社の男女合作の一成果にK・マンスフィールド紹介があるが、これは彼らが心理小説--文芸的公共圏にみられる典型的な形式--を愛好した一例としても解釈できよう。

 中国における日記書簡体文学ブームは20年代後半−1936年に見られた。この時期に、日記書簡は内面を表現する一形式であると承認されたのである。このブームは国民革命が行き詰まった時期に重なり、知識人の反省の記録として解釈できよう。この文芸的公共圏に特有の文学形式を、新月社グループはもっと早期に受容し、優れた作品を残した。日記書簡の公開をめぐる新月社グループの抗争は、日記書簡が隠したい内面を暴露するもろ刃の剣であると彼らが認めていたことを物語る。

 文芸的公共圏の定義を、知識人が文芸を議論する場であり、機関誌により外部に議論を発信し、それを支持する読者/公衆を持つという意味に限れば、それは同時代に新月社の他にもあり、前後の時代にもあった。だが女性を主要メンバーとし、近代的な自由意思の表出、日記書簡体文学および心理小説の受容の深度という要素を加えると、新月社は比類のない文芸的公共圏であったのではないか。

 新月社グループの文芸的公共圏たる性格は1920年代までであった。1930年代中国では抗日という統合文化が文芸界を席巻する。新月社グループの社会的影響力は弱まり、ある者は統合文化に吸収され、ある者は孤立し、徐志摩の死と相まって新月社は文芸的公共圏の性質を失い崩壊したといえよう。

審査要旨 要旨を表示する

 1910年代後半から20年代までのいわゆる五・四新文化運動期は、近代中国文学の成長期にあたる。この五・四時期には全国各地に100余りの文学結社が成立しており、その中でも著名な文学者が集結し有力メディアと結びつきながらサロンとしての個性を持ち続けた結社の一つが新月社であった。

 新月社の中心は詩人の徐志摩(シュイ・チーモー、じょしま、1897〜1931)で、1917年北京大学入学後、18年から22年にかけて米英に留学し、コロンビア大学・ケンブリッジ大学等で学ぶいっぽう、ロンドンではバートランド・ラッセルやブルームズベリー・グループのサロンに出入りし、K・マンスフィールドらと交際している。

 当時のロンドン・サロンは第一次世界大戦後の混乱の中で、既成道徳の打破、自由と進歩への信念、美への専心を掲げた知的エリート集団であった。徐志摩は22年に帰国し、北京大学などで英文学を教えるかたわら24年6月にロンドン・サロンにならって、月一、二回の晩餐会を中心とした新月社を北京に設立、これを二年ほど維持したのである。同社には胡適、陳源、女性作家の凌叔華らが集まり、同社系の『現代評論』(1924年12月〜28年12月)、『新月』(1928年3月〜30年6月)などの雑誌には、聞一多、梁実秋、沈従文らも参加している。

 新月社のメンバーは多くが上流階級出身者で欧米留学帰り、政治的にはリベラルであるいっぽう研究系の領袖梁啓超との関係が深く政財界に通じていた。彼らは愛・自由・美を標榜して、離婚再婚、不倫、三角関係など、ロンドン・サロンから同性愛以外の奔放なあらゆる愛情関係を移入して、実際に繰り広げてみせた。とりわけ彼らがサロンを舞台に実践した未婚男女の社交と自由恋愛、結婚後の核家族の形成、既婚男女の社交は、中国にあっては空前の現象であった。

 本論は徐志摩を中心とする新月社をJ・ハーバマスによる文芸的公共圏理論の枠組みを応用しつつ、その形成過程から解体までの文学史的および社会史的意義を解明したものである。第一章では中国における交通通信出版業の発達と近代的学制制度の導入による新興知識階級、特に女性知識人層の形成を論じ、第二章では徐志摩の米英留学体験を考察し、第三章では新月社の成立とインド詩人タゴール訪中歓迎や雑誌刊行などその社会的活動、および北京女子師範大学学園紛争をめぐる魯迅らとの論争等を分析し、第四章では新月社における恋愛という制度の展開とマンスフィールドの受容および徐志摩・凌叔華らの創作活動等を論じている。

 本論文の主な成果は次の通りである。

(1) 日中英米における研究成果を踏まえて、新月社の歴史的展開とその意義を比較文学および社会史的に考察し、同社に新しい文化史的位置づけを与えた。

(2) 北京女師大論争を文芸的公共圏の視点から再検討することにより、この論争に清末1900年代の呉稚暉vs章炳麟論争のそれぞれ門下生による継続的論争という側面がある点を浮き彫りにした。

(3) マンスフィールドが中国において受容されていく過程をより明確にし、特にその凌叔華文学への影響を詳細に解明しつつ、それが新月社においては恋愛・創作のためのモデルであったことを論証した。

(4) 新月社がそのサロン的性格により日記書簡体文学形式をいち早く試み、それが中国でブームを呼び起こした点、そのブームとは国民革命後の知識人の反省の記録として解釈できる点を指摘した。

 本論文は米英大学等における公文書調査までは試みておらず、徐志摩留学体験に関しては新材料に乏しい。またハーバマスの公共圏理論の適用において、欧米と中国との社会的基礎の差に関し十分な考慮を払っていない。新月社が示したマンスフィールド心理小説への関心についても、さらに掘り下げて論じることが可能であったろう。これらは今後の課題といえよう。だが上記(1)〜(4)を中心に顕著な成果をあげており、その内容は博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

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