学位論文要旨



No 116715
著者(漢字) 樋口,徹
著者(英字)
著者(カナ) ヒグチ,トオル
標題(和) 分裂酵母の栄養源飢餓に応答する転写因子の解析
標題(洋)
報告番号 116715
報告番号 甲16715
学位授与日 2001.12.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4075号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 斎藤,春雄
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 助教授 榎森,康文
 東京大学 助教授 菊池,淑子
 東京大学 教授 山本,正幸
内容要旨 要旨を表示する

 個々の細胞は、細胞外界の環境に適切に応答している。特に多細胞生物では、ホルモン・神経伝達物質・成長因子など、体内の他の細胞から発せられる細胞外の情報に対し、個々の細胞が適切に応答することにより、個体の発生や、神経伝達、恒常性などが制御されている。これまでに、細胞外からの情報が、受け取った細胞の中でどのように変換され、応答するかという情報伝達機構の解析が進んできた。そして、様々な環境応答について調べられた結果、細胞内ではいくつかの共通の情報伝達系を介して、遺伝子発現や生理活性が制御されていることがわかった。このような共通の情報伝達系の一つに、cAMP-cAMP依存性キナーゼ(PKA)によるものがある。この情報伝達系は、肝細胞では糖代謝を制御したり、免疫細胞ではサイトカインの発現を調節したり、感覚細胞では感覚情報を送るなど、様々な細胞応答に用いられている。私はより単純な細胞を用いて研究することにより、このcAMP-PKAによる制御機構を分子レベルで詳細に明らかにしたいと考えた。

 遺伝学的・生化学的に解析が容易で、真核細胞のモデルとされる出芽酵母および分裂酵母細胞では、培地中の栄養源、とくにグルコースを主体とする炭素源の状態が、細胞内のcAMPの濃度に反映され、ひいてはcAMP依存性キナーゼ(PKA)の活性を規定する。分裂酵母においては、飢餓条件において誘導される有性生殖と糖新生は、栄養の豊富な条件ではPKAの活性を介して抑制されている。有性生殖はそのマスター転写因子をコードするste11遺伝子が発現することによって開始され、糖新生はfbp1にコードされるフルクトース・ビスフォスファターゼの発現が反応を律速する。ste11およびfbp1は、転写レベルにおいてPKAにより抑制される。反対に、PKAが欠損した変異株ではste11、fbp1の転写は脱抑制される。そこで、栄養源の情報やPKAによって、ste11、fbp1がどのような機構で転写抑制されているかについて解析した。

 PKAが恒常的に活性化している変異株は、有性生殖不能の表現型を示す。この表現型を過剰発現により抑圧して有性生殖を可能にする遺伝子として、C2H2型Zn-finger転写因子をコードするrst2遺伝子が得られた。この遺伝子の破壊株は有性生殖不能の表現型を示し、ste11の転写誘導に欠損を示した。またrst2破壊株では、非発酵性のグリセロールを炭素源とする培地において、増殖能に欠損があり、fbp1の転写誘導が欠損していた。つまり、rst2はste11、fbp1の転写を活性化させる因子であることがわかった。また、PKAとrst2の両方を欠失させた株では、ste11もfbp1も脱抑制されなくなった。したがって、rst2はPKAによって負に制御されている可能性が高いことがわかった。

 ste11とfbp1の転写調節領域には、Rst2pが結合する6塩基対の配列が見つかった。STREPと名付けられたこの配列は、独立な研究からste11、fbp1の転写誘導に必須な配列であることが示されていた。そこで、STREP配列を転写調節領域に組み込んだレポータ遺伝子の転写活性を調べたところ、fbp1遺伝子の転写と同様に、高グルコース培地で抑制され、グリセロール培地で誘導され、rst2破壊株では活性がなかった。したがって、STREPに依存したレポータは、Rst2pの活性を反映していることがわかった。さらに、このレポータの活性は、PKAが活性化している株では抑制され、PKAの欠損株では脱抑制された。したがって、Rst2pがPKAに活性を負に調節されていることがより確実となった。つまり、Rst2pは、飢餓条件でSTREP配列を介してste11、fbp1を転写誘導し、栄養の豊富な条件下ではPKAを介して抑制されている考えられた。

 PKAの活性を変化させる炭素源によって、rst2遺伝子の機能発現の中でどの段階で制御されるのかを検討した。rst2の転写量は培地の炭素源条件を変えてもほとんど変化がなく、転写後における制御を受けていることが予想された。ウェスタン解析においてRst2pタンパクを検出すると、SDS-PAGEにおける泳動度が炭素源によって変化していることがわかった。フォスファターゼ処理の実験から、泳動度の変化はリン酸化によることが判明した。そして、Rst2pは、高グルコースの培地では低レベルの、グリセロール培地では高レベルのリン酸化を受けていることがわかった。したがって、rst2はその産物のリン酸化レベルが炭素源によって制御されると考えられた。

 炭素源によるリン酸化レベルの制御に、PKAが関わっているかどうかを検討した。Rst2pにはPKAによるリン酸化のコンセンサス配列が存在していたので、直接のリン酸化による制御が予想された。Rst2pはin vitroでPKAによりリン酸化され、その部位はDNA結合領域の近傍と、タンパクの中央領域との二つの箇所であることがわかった。

 Rst2pはin vivoにおいてPKAにリン酸化されているかを検証した。PKAは高グルコース条件で活性化するので、高グルコース条件で検出された低レベルのリン酸化がPKAによっている可能性が考えられた。しかし、in vitroでリン酸化された部位に変異を導入したRst2-M3pでも、この低レベルのリン酸化は検出された。したがって、野生株で高グルコース条件で観察されたRst2pの低レベルのリン酸化は、PKAからのリン酸化を反映するものではなく、電気泳動による移動度の違いでPKAによるリン酸化を検出することには成功しなかった。

 一方、グリセロール培地で観察された高リン酸化型Rst2pは、PKAの欠失株や、PKAによるリン酸化部位に変異があるRst2-M3pを発現する株では高グルコース培地においても観察された。反対に、PKAが恒常的に活性化している細胞では、野生型Rst2pはグリセロール条においても高リン酸化に至らないが、Rst2-M3pを発現すると、リン酸化状態は、低レベルのリン酸化型のものから、高リン酸化型のものまで観察された。これらのことから、飢餓条件において見られるRst2pの高リン酸化は、PKAによる直接のリン酸化と間接的な関与の両方で抑制されることが示唆された。

 野生型のRst2pは、発現量を低レベルに抑えた場合、PKAが活性化した株の有性生殖不能の表現型を抑圧することはできない。しかし、PKAからのリン酸化を受けないRst2-M3pをPKAの活性が高い株に同じレベルで発現したところ、有性生殖不能を抑圧でき、ste11の転写を回復した。したがって、Rst2pのPKAによるリン酸化は、in vivoにおいてRst2pの活性を抑制する上で重要であることがわかった。

 転写因子であるRst2pの炭素源やPKAによる機能抑制が、その細胞内局在を介しているかどうかを検討するため、蛍光タンパクや、抗原エピトープを付加したRst2pを細胞内に発現させて、蛍光観察や抗体染色によりRst2pの局在を調べた。Rst2pの存在を示すシグナルは、高グルコースの条件では細胞質全体に拡散し、グリセロール培地に移すと核に集中した。細胞をグリセロール培地でしばらく培養した後、培地にグルコースを添加すると、Rst2pのシグナルは速やかに核外に排出された。したがって、グルコースはRst2pの核局在を、阻害することがわかった。

 高濃度のグルコースによるRst2pの核局在の阻害が、PKAを介しているかを検討した。Rst2pは、PKAの活性が高い変異株では細胞質に拡散し、PKAの活性がない変異株では核に強く濃縮した。つまり、Rst2pの核局在をPKAが阻害していることがわかった。また、PKAからのリン酸化を受けないRst2-M3pの局在を観察すると、高グルコース条件においた野生株でも、PKAの活性が高い変異株においても、通常のRst2pに比べ有意に核内に局在していた。したがって、Rst2pの核局在の抑制にはPKAによるリン酸化が関わっていることが強く示唆された。

 以上のことから、Rst2pは、分裂酵母において有性生殖・糖新生という栄養源飢餓応答に必須な転写因子として機能し、PKAによる直接のリン酸化によって、高リン酸化状態へ移行と、核局在が抑制を受けることで栄養源に応答した遺伝子発現を行っていることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

真核細胞のモデル材料として研究が進んでいる分裂酵母では、培地中の栄養源、とくにグルコースを主体とする炭素源の状態が、細胞内のcAMPの濃度を規定し、ひいてはcAMP依存性プロテインキナーゼ(PKA)の活性を規定している。飢餓が引き金となって誘導される有性生殖と糖新生という二つの事象は、栄養の豊富な条件下では高いPKA活性により抑制されている。PKAは、有性生殖に関係する多くの遺伝子のマスター転写因子の遺伝子ste11と、糖新生の律速反応を触媒するフルクトース・ビスフォスファターゼの遺伝子fbp1を、ともに転写レベルにおいて抑制する。PKAが欠損した変異株ではste11とfbp1の転写は恒常的になる。学位申請者樋口徹は、栄養源の情報やPKAの活性によって、ste11およびfbp1遺伝子がどのような機構で転写抑制されているかについて解析し、その結果を本論文にまとめた。

 申請者の所属する研究室において、PKAが構成的に活性化して有性生殖不能となった突然変異株を、過剰発現により抑圧して有性生殖可能にさせる遺伝子rst2が得られていた。その産物Rst2pはC2H2型Zn-finger転写因子で、ste11遺伝子の転写誘導に必須であることもしられていた。申請者は本研究でまず、fbp1遺伝子の転写誘導がやはりRst2pに依存することを示した。PKA欠損株でみられるste11とfbp1の恒常的転写は、Rst2pを欠損させると消失し、Rst2pがPKAによって負に制御される転写因子である可能性が高いことがわかった。

 申請者はste11とfbp1の転写調節領域を比較検討し、両者に共通する6塩基の配列(STREPと命名)をみつけ、その配列がRst2pとの結合に必須であることを証明した。STREP配列を転写調節領域に組み込んだレポータ遺伝子を作製して分裂酵母内での発現を検討したところ、その転写活性はRst2pに依存し、培地に高濃度のグルコースを加えたり、細胞内PKA活性を高めると抑制された。すなわちこの単純なシステムにより、Rst2pが飢餓条件ではSTREP配列を介してste11やfbp1を転写誘導し、栄養の豊富な条件下ではPKAによってその活性が抑制されていることが確かめられた。

 rst2遺伝子の転写は、培地条件やPKAの活性変化によりほとんど影響を受けなかった。しかしその産物であるRst2pは、条件に応じて修飾状態が変化することがわかった。Rst2pは、PKAによるリン酸化のコンセンサス配列をN端に近いDNA結合領域の近傍と中央領域との二箇所にもっていた。in vitroの実験で、Rst2pがPKAによりリン酸化され、リン酸化の部位はこの二箇所であることが確認された。PKAが活性化した株に、これらの部位に変異をもつためPKAによるリン酸化を受けない変異型Rst2pを発現させたところ、ste11の転写が回復し、有性生殖不能が抑圧された。したがって、Rst2pがPKAによって直接リン酸化されると、in vivoにおけるRst2pの活性が抑制されることがわかった。

 培地条件やPKAが与えるRst2pの挙動の変化を調べた。Rst2pは、活性化を受けるグリセロール培地では、リン酸化を受けて電気泳動での移動度が明らかに小さくなっていた(高シフト型リン酸化)。この高シフト型リン酸化が起こるためには、PKAの活性低下に加えて、グルコース飢餓がPKAを介さない形でも関係していることもわかった。Rst2pの細胞内局在を調べたところ、Rst2pは高グルコースの条件では細胞質全体に拡散し、グリセロール培地に移すと核に集中した。また、Rst2pはPKAの活性が高い変異株では細胞質に拡散し、PKAの活性がない変異株では核に強く濃縮された。PKAによるリン酸化を受けない変異型Rst2pは、高グルコース条件でも、PKAの活性が高い変異株においても、通常のRst2pに比べ有意に高い核局在を示した。したがって、PKAによるリン酸化はRst2pの核局在を阻害することが強く示唆された。

 以上、樋口徹は栄養源の情報伝達に関わる分裂酵母の転写制御因子Rst2pの活性制御機構を解析し、Rst2pが有性生殖および糖新生という二種類の栄養源飢餓応答反応に共通の転写因子として機能すること、6塩基配列からなるSTREPがその結合部位であること、Rst2pはPKAによる直接のリン酸化を受けて活性を抑制されること、PKAによるリン酸化がない場合に他のプロテインキナーゼによって高シフト型のリン酸化を受けること、そしてPKAによるリン酸化がRst2pの核局在を抑制することを示した。これらの成果は、細胞がどのように栄養源に応答するかという分子機構、ならびcAMP-PKAが関与する情報伝達機構に重要な新知見をつけ加えるものであり、学位申請者の業績は博士(理学)の称号を受けるにふさわしいと審査員全員が判定した。なお本論文は渡辺嘉典、山本正幸との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、樋口徹に博士(理学)の学位を授与できると認める。

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