No | 116716 | |
著者(漢字) | うーご,みずこ | |
著者(英字) | UGO,MIZUKO | |
著者(カナ) | ウーゴ,ミズコ | |
標題(和) | 日本の「文化財保護法」に関する建築史的研究,保護行政初期における仏・伊との比較分析を通じて | |
標題(洋) | A historical study on the Japanese "Law for the Protection of Cultural Properties" Companative analysis with the French and Italian protection administrations at their early stages | |
報告番号 | 116716 | |
報告番号 | 甲16716 | |
学位授与日 | 2001.12.10 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(工学) | |
学位記番号 | 博工第5096号 | |
研究科 | 工学系研究科 | |
専攻 | 建築学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | これまで海外においてなされた日本建築の研究は主として現代建築か、日本家屋と日本庭園を対象とするものであった。一方で、日本建築の保存・修理を主題にした研究はまったくなかったが、1994年に奈良で行われたICOMOS国際会議をきっかけに、フィンランドやドイツの研究者、建築家によって研究成果が発表されるにいたった。しかし、これらの研究が取り上げるものは、解体修理や近年の修理工事である。歴史や法律についての序文があったしても、最終的には現在の状況を把握するのが主たる目的であった。 本研究の目的は、文化財保護に関する法律において、時代とともに変化する保存の対象を追跡し、「歴史的・芸術的な価値のある物」から「文化財」という概念が生まれるまでの保護行政を分析することである。特にフランスやイタリアで展開された保護行政との比較によって、そこに共通する推移や変化の過程を明らかにしたい。また、日本における建築史学の発展とともに変化した研究・保存の方法に注目し、建物がどのように把握されたのか、保存を目的とした研究調査がどのようなものだったのかを理解したい。そして最終的には、日本における「文化財」という概念の中で建築物がどのように保存・研究の対象になったのかに注目し、それを生じさせた背景を追究したい。 対象は、主として19世紀から1950年の「文化財財保護法」までである。これは、ここに扱う「保存」がどこまでも時代を遡って見つけられる概念ではなく、近代に確立された歴史意識や国家と密接に関わる概念であり、国家行政に捉えられる「保存」だからである。 第1章 ここでは、美術団体と殖産興業と美術保護を通じて、明治維新後の行政と美術の関係を述べる。そして、美術体制における「美術」、「工芸」、「工業」の意味を明らかにし、法律を定める前段階でどのような資料や芸術作品の分類がなされていたかを検討した。 分析対象は、寛政12(1800)年の『集古十種』と、明治11(1878)年、同21(1888)年に出版された『工芸志料』である。前者は、松平定信の編集によるもので、彼が望んだ全国調査の成果である。その内容は、明治4(1871)年に公布された「古器旧物保存方」と関連させることができる。後者は、黒川真頼の著作で、パリ万国博覧会にあわせて日本国内にも工芸の歴史と価値を自覚させようという目的があった。この書で使われている「工芸」は、現在の意味よりももっと広く、建築も含める範囲を占めている。まさに職人が有する「工」を中心とするもので、人間のワザを尊重する見方である。欧州では、歴史的・美術的価値のあるものの分類は考古学の発展に影響された。個人的に行なわれた発掘調査が国の遺産を損なう恐れが生じたため、動産の遺産が特化され保護されるようになった。こうして、基本的な資料の分類が動産と不動産に分けられた。この分け方は現在まで引き継がれるものである。 第2章 ここでは、目録作成後の建築や宝物の保護行政に注目し、その流れを総合的に捉え、とくにフランスの保護行政の成立経緯と比較した。日本では、廃物毀釈から、古器旧物保存方、古社寺保存金、そして臨時全国宝物取調局の調査まで、フランスでは、革命から、建造物保存金、文部大臣F.ギゾーが定めた全国資料調査とその出版関係委員会の設立までが対象となる。時代は若干異なるものの、双方ともに中央集権的な構造、強いヒエラルキー制度等に共通点が見られる。 第3章 ここでは、法律制定前の基礎調査について、日本で行なわれたものを中心に日欧を比較検討した。日本については、明治5(1872)年に町田久成によって行なわれた全国調査、明治12(1879)年に得能良介によって行なわれた関東、中部、近畿における調査、明治21(1888)年に九鬼隆一らによって行なわれた調査、臨時全国取調局の調査に注目した。芸術が産業製作に役立つかどうかという問題は、19世紀、特に英・仏において活発に議論された課題であり、ここではA.C.カトルメール・ド・カンシーやP.メリメの意見を概説した。 第4章 続いて、建築を中心に法律の制定を扱う。日本では、臨時全国取調局の調査結果の鑑査表において、「歴史上ノ徴拠及美術、美術工芸建築上ノ模範トシテ要用ナルモノ」が最上位のカテゴリーとなっている。本カテゴリーにおいて「建築」という言葉が見つけられるが、美術工芸から独立したものと考えられる。そして、1897(明治30)年の「古社寺保存法」が、本格的な建築に関する法律として公布される。とくにフランスと比較すると、保護行政設立の段階ではむしろ日本の方が建築を専門にする関係者が多い。欧州では、国と個人の権利の問題が大きな原因で法律が公布されるのは非常に遅いのだが、公布前の運動は大変活発なものであった。各国で、保存そのものを試みた法律と保護委員会が設立されたが、建築の保存にもかかわらず建築家の関与は少なく、美術の専門家が多かった。 第5章 昭和25(1950)年に公布された「文化財保護法」において、文化財は「有形文化財」、「無形文化財」、「史跡、名勝および天然記念物」と三つの枠組みに分けられた。ここにおいて、無形文化財という新しい枠組みが登場した。そして、国宝重要文化財の指定に際し文化財専門審議会が開催されたが、これは美術工芸品、建造物、記念物、無形文化財の分科会に分けられている。ここには、美術工芸品とも記念物とも区別された建造物が認められる。「文化財保護法」に至るまでには、まだいくつかの法を経なければならないが、なかでも大正8(1919)年に公布される史蹟名勝天然紀念物保存法は、土地と強い繋がりを持つ封建制度の「宝物」という概念を踏襲しながら、英・独の動きに合わせたものであると考えられる。その後日本では、昭和4(1929)年に「国宝保存法」、昭和8(1933)年に「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が定められる。これに対して、欧州では古い町や環境を守る運動は、20世紀に入ってから活発になる。そして、初の国際チャーターであるアテネ憲章からG.ジョバンノーニのいう「モニュメントの民主化」、一軒の建物から一般の建物へと広がっていく保護対象の変化が進められていく。また、歴史研究との関連では、保存対象としての"monument"、その"document"との関係、そこにおいて次第に「物質」を重視してゆく経緯を追った。最後に、建造物の研究と保存方法の関係を建築史学・修理技術の発達を述べながら検討した。建築史の研究は建造物の調査、そして、その復原、修復、保存へと繋がってゆく。文献と遺構の研究を合わせて、その技術と構造を研究すると同時に、そこで理解された技術は修理方法にもなるのである。建造物は法律、研究、技術の各側面から注目されるようになり、修理の方法、つまり建造物の「解釈」が変わっていく。その「解釈」は実測と実測図に読み取ることができる。 第6章 ここでは、日本の建造物調査の具体的な結果とされる実測図を対象にする。何をどのように表現したいかによって実測方法は異なり、図面は建物を描く道具として建物の解釈を表現する。基本的には、建物の現状の調査と、建物に記された設計意図を調査する二種類の実測があるだろう。そして、日本では実測図の目的は建物の破損状態を表すことではなく、その技術、整然とした状態の形を表現する。この表現は伝統的な日本建築の解体修理方法とも繋がっていると思われる。そうすると、伝統的な日本建築とは異なる洋風建築には別な方法がありうるだろう。 第7章 前章の見解は実際の現場体験に基づいている。数ヶ月のみではあるが池上本門寺五重塔解体修理現場の解体作業を中心に、その原理と、必要性、方法を理解しようとした。そこでの実測は現状の寸法を測る実測と、墨打ちされた線を測る「デザイン」の実測に分かれる。後者は、日本の伝統的な建物の作り方に基づく特徴である。 第8章 ここでは、桐生市にある店舗[昭和8(1933)年建設]の実測を事例にして、解体修理をしない日本建築だけではなく、とくに洋風建築の実測のために役立つ方法として、東側ファサードの実測と写真補正を用いた立面図作成を提案した。 結論 建築に関して「有形文化財」、「無形文化財」、「史跡、名勝および天然記念物」という区分を考えるとき、日本の「文化財保護法」の特徴が明らかになる。ヨーロッパにおける動産・不動産の区分において、建築は必ず不動産に属する。しかし、日本では建築が必ずしも「有形文化財」の建造物に限定されるとは言えないところがある。たとえば、「史跡」のなかの建造物は建物自体に価値が認められるわけではないが、確かにそれが建つ場所が記念されている。この場合、「モニュメント」は建築と繋がるよりも、その言語当初の意味を残して場所と繋がると言える。また、「無形文化財」の規矩術などは、建造物を生み出す目に見えない技術が記念されている。すなわち、建築とは「有形文化財」、「無形文化財」、「記念物」のすべてに存在できるのである。とくにヨーロッパの区分には存在しない「無形文化財」は、技術を所有する人間を指定するという意味で日本の特徴を示すものである。 日本に「有形文化財」、「無形文化財」の両方が存在することは、何よりも文化財が総合的な概念として扱われ、その中で目に見えない人間の能力が大きな評価の対象となっていることを示している。生きている物(者)を対象とすることで変化を許容し、同時に、保存が生産的であり続けるのだろう。一方、目に見えないものは絶対的な証拠とはなりえない、この不確定性を排除し、西洋は物質へと向かった。それは保存の歴史、建築修理・修復の歴史、そして実測の方法にも顕著に見られる。このように、文化財保護行政の形成を日欧の比較で追ってくると、非常に似ている点があることに気づく。しかし、前者は人から人へと伝わる部分に価値を残すのに対し、後者は完全に物質への信頼に貫かれていると結論できるのである。 | |
審査要旨 | 本論文の目的は、日本近代において、「文化財」という概念がどのように成立し、どのように立法化され、その保護行政の進展とともにその内容がどのように変化していったのか、ヨーロッパにおける行政の進展とを比較的しながら、建築を対象に具体的に論じたものである。 本論文は全8章と結論からなる。 第1章 文化財保護に関する法律の制定以前に、芸術作品の分類、把握概念を検討した。江戸時代末、明治時代初期では、「工芸」という概念が中心にあった。内容は、いわゆる工芸(応用芸術)という概念より大きなもので、しかもそれが物を指すのでなく、職人が身に付けている「工」である。これが日本独特の概念であることを明らかにした。 第2章 西欧における文化財保護関係の法律の成立過程を追跡した。考古学の発展に伴い、整備されたが、大きな分類として、文化財に動産・不動産という概念が成立した。動産(遺物・美術品)の移動、すなわち輸出の禁止が強調されている。 第3章 法律制定以前の基礎的な調査について触れた。1)明治5年、町田久成による調査、国際博覧会への出陳品を創作するという目的。2)明治12年、大蔵省印刷局長得能良介による調査。3)明治21年、臨時全国取調局、九鬼隆一による調査、文化財調査であると同時に、産業政策のモデルの捜索でもある。西欧においては、19世紀の英仏では、国家より私的な団体による保存運動が先行した。そして文化財の目録が作成され、国家がそれを吸い上げることになる。 第4章 日本と西欧(特にフランス)での保護行政の成立過程を概観した。保護行政は、ヨーロッパが先行するが、中央集権的な構造、強いヒエラルキーという性格は共通している。 第5章 建築保護に関する日本・西欧の法律の成立過程を論じた。明治30年の「古社寺保存法」、大正8年の「史蹟名勝天然紀念物保存法」、昭和4年の「国宝保存法」という経過で、建築の保護のための法律が整備される。しかし、昭和25年に公布された新しい「文化財保護法」においては、有形文化財と同時に無形文化財という新しい枠組みが形成された。これは日本独自の展開である。西欧においては、当初にはモニュメントが主体であったが、次第に一般の建物に保護対象が広がっていく。そこでは、次第に「物質」が重視されていく方向が認められる。最後に、日本における建築の研究と保存方法の関係を、建築史学と修理技術の発展過程の概要を述べた。 第6章 本章では日本の建造物調査の具体的な結果である建築の実測図を対象に検討した。日本の建築の実測図は、建築の破損の状態を記述、表現するのではなく、その技術、整然とした状態を表現している。これは、建築の設計意図を表現しているのであって、伝統的な建築への理解、解体修理の方法と繋がっているようだ。したがって、洋風の建築については、それとは別の表現方法も必要と思われる。 第7章 池上本門寺の解体修理現場での知見を記録した。日本における原理、必要性、方法を丁寧に記述した。現状を測定することと、元々のデザインを推定するという2通りの実測を確認した。 第8章 桐生市にある店舗(昭和8年建設)を対象とした実測の報告である。洋風のファサードを持つので、伝統的な実測方法でなく、写真補正を用いた立体図の作成法を提案した。 結論 以上の論考を通して得た結論を述べた。建築という物の保存が主題であったが、日本と西欧との比較をすると、顕著な違いが指摘できる。西欧の場合では徹底的にものを対象とするが、日本では、無形である人々の能力を対象とする保存形態が発見される。それは、同時に、保存が生産的であることを保証しているように思われる。 本論文は、日本における文化財保護のうち、建築の保護制度の成立過程を論述し、それを西欧との比較的な視点で、対照的に描いたものである。比較的な視点から、日本の文化財保護の特徴は、大変に明解に論じられたということが出来る。 特に、建築の実測を通して、図化の方法において、極めて顕著な特徴を発見した点、建築を実測して図化するとき、実際の姿を描かないという、わが国では常識であったことが、日本の建築の本質に関わるという指摘などは、本論文提出者において初めて到達した視点である。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 | |
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