学位論文要旨



No 116730
著者(漢字) 藤本,雅子
著者(英字)
著者(カナ) フジモト,マサコ
標題(和) 母音の無声化の発現に関わる要因 : 持続時間制御と喉頭調節の様式
標題(洋)
報告番号 116730
報告番号 甲16730
学位授与日 2002.01.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1872号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 教授 杉下,守弘
 東京大学 教授 加藤,進昌
 東京大学 教授 上野,善道
 東京大学 講師 田山,二朗
内容要旨 要旨を表示する

 [はじめに]母音の中性化や音の脱落などの音の弱化は基本的には発音運動の単純化と考えられ、その生起は自然で生理学的な現象と思われる。日本語には狭母音/i/や/u/が無声子音に挟まれると無声になる母音の無声化という弱化現象が見られる。その生起頻度は東京方言(標準語)では多く近畿方言では少ないとされている。伝統的な国語学の分野では、東京方言は近畿方言に比べ母音ではなく子音が「丁寧」に発音されるため無声化しやすいという指摘がある。しかし日本語の母音の無声化が、実際に隣接する子音の発音が影響する現象であるのか、単に無声化環境での母音の発音の省略現象であるのかは未解明であり明らかにする必要がある。そのためには無声子音発話時の喉頭調節を観察することが必要である。そこで本研究では、無声化の多い方言話者と少ない方言話者の発音の特徴を、無声化する環境としない環境について、音響分析と喉頭の観察の両面で比較検討を行った。

[本研究の目的]無声化の少ない大阪話者の発音を東京話者と比較し、母音の無声化の生起に関係する要因を持続時間制御と喉頭調節の様式の2つの観点から調べること。無声化が隣接する子音の発音が影響する現象であるのか、単に無声化環境での母音の発音の省略現象であるのかを明らかにするために、2つの実験を行い以下の各々の事項を検討した。

実験1音声の音響分析:東京話者と大阪話者の母音、子音の持続時間を比較した。

1)子音の有声、無声によるモーラ長の変動パタン。特に東京話者の無声化した場合の/ki/のモーラ長の時間特性を検討した。

2)母音長、子音長の比較。無声化していない場合の一般的な発音の特徴について調べた。

実験2喉頭観察:光電グロトグラム(Photoelectric Glottogram : PGG)を用いて東京話者と大阪話者の無声子音発話時の声門開大運動の時間パタンを比較した。

1)子音による声門開大パタンの違い。特に東京話者の無声化した/kite/の声門開大パタンの特徴を検討した。

2)東京話者と大阪話者の声門開大パタンの比較。無声化していない場合の一般的な発音の声門開大パタンを比較した。

[実験方法]母音の無声化の生起は母音の種類と先行、後続する子音の有声、無声に関係する。そこで検査語には母音/i/と/e/、子音/k/と/g/、および/t/と/d/を組み合わせた/kite/、/kide/、/gite/、/gide/、/kete/、/kede/、/gete/、/gede/の8語を用いた。/kite/は母音/i/が無声化する典型的な条件の語である。アクセントは平板型、発話速度は普通と速めとし、これらの検査語を検査文中で発話させた。実験1では東京と大阪の話者各7人の計1344発話(8語×6回×2速度×14人)、実験2では東京話者3人と大阪話者2人の計240発話(8語×6回×5人)の資料につき分析した。

 実験2の声門の開大運動パタンについてはPGG曲線を折れ線近似して解析し、声門の開放時間、開大幅、開大のピーク位置、声門の開大のピークと子音/k/の破裂とタイミング、および、声門の閉鎖と声帯振動のタイミングについて調べた。

[結果1:音響分析]

<子音によるモーラ長の変動パタン>一般に/ki/、/ke/のモーラ長は後続子音が無声の場合、有声の場合より短い。ただし/kede/に対する/kete/の/ke/の短縮率と/kide/に対する/kite/の/ki/の短縮率を比べると、母音が無声化した東京話者と大阪半無声群の[ki]は特に短かった。

<東京話者と大阪話者の比較>

≪母音長≫母音が無声化した話者と無声化しなかった話者の発音の特徴を比較する為に、/kite/の語を除く/ki/と/ke/の子音、母音の長さを調べた。モーラ長と母音長の関係をみると、東京話者の母音は無声化しなかった大阪話者(大阪有声群)より短かった。東京話者の/i/はモーラ長に関らずほぼ一定の長さである点、特徴的であった。速めの発話で無声化した大阪の話者(大阪半無声群)の母音は、普通速度の/i/の場合を除き、東京話者と同程度に短かった。

≪子音長≫母音が短い事に対応して東京話者は大阪有声群より/k/の子音が長かった。ただし子音を閉鎖区間と気音区間に分けると、東京話者は気音区間だけが長く、子音が長いのは気音区間が長い為である事が示された。無声化していた大阪半無声群の速めの発話でも気音区間が東京より短いという特徴は大阪有声群と共通していた。

 </ki/と/ke/の比較>母音が無声化しやすい/ki/は無声化しにくい/ke/より子音が長く母音が短かった。子音が長いのは気音区間が長い為であった。これは東京話者、大阪話者共に見られる特徴であった。

[結果2:喉頭調節の観察]

<子音による声門の開大パタンの違い>声門の顕著な開大は第1モーラの/k/では見られたが第2モーラの/t/では見られなかった。モーラ長で正規化した長さで比較すると、母音が無声化していた東京話者の[kite]の[kit]は[kide]の[k]より声門の開大幅が大きく開放時間も長かった。

<東京話者と大阪話者の比較>/kide/、/kede/、/kete/の/ki/と/ke/についてみると、東京話者の声門の開放時間は大阪話者より長かった。そのため東京話者の方が子音が長く母音が短くなっていた。/k/の破裂は大阪話者では声門の開大のピーク後に起こっていたのに対し、東京話者ではピークと一致していた。

</ki/と/ke/の比較>/ki/は/ke/より声門の閉鎖を基準にしたときの声帯振動の開始が遅かった。東京話者ではその為、/ki/が/ke/より子音が長く母音が短くなっていた。

[考察]

1.東京話者と大阪話者の比較

1.1東京話者の特徴

 音響分析の結果、東京話者は大阪有声群より無声化しない環境の語でも子音が長く母音が短かった。この事は一般に母音を短く発音する話者では母音が無声化しやすい事を示していると考えられる。なお東京話者の母音が短いという条件は/i/では普通速度でも保たれており、東京話者は発話速度に関わらず無声化しやすくなっていたと考えられる。

 東京話者の子音/k/は大阪話者より長いが、それは気音区間が長い為であった。東京話者の子音/k/の特徴はここでの大阪話者に比べ気音区間が長い事にあると考えられる。東京話者の子音区間と気音区間が長い事には、声門の開放時間が長いという喉頭調節が関与している事が示唆され、母音の無声化には子音の発音が影響していると推察された。また東京話者では/k/の破裂と声門の開大のピークが一致するような発音が行なわれている事は気音を強める方向に作用していると考えられる。

1.2大阪で無声化した話者の特徴

 速めの発話で無声化が発現した大阪の話者の母音/i/が、早い発話では東京話者と同程度に短かった事は、大阪話者でも母音を短く発音する話者は無声化しやすい事を示している。ただし子音/k/の気音区間は東京話者より短い事は無声化しない大阪話者と共通して見られた。

3.無声化したモーラの時間特性

 一般に/ki/、/ke/のモーラ長は後続子音が無声の場合、有声の場合より短いが、無声化した[kite]の[ki]のモーラは特に短かった。また、声門の開大は第2モーラの[t]では顕著でなかったにも関わらず、無声化した[kite]の[kit]は単独の[k]より大きかった。これらの事は、無声化した[kit]の声門の開大が単独の[k]と[t]の開大の単純な足し合わせでは説明できない非線型の現象である可能性を示すものであり、無声化したモーラでは何らかの意味での脱落または短縮がある事を示すものである。

4.東京話者の無声化の機序

 無声化したモーラでは母音は脱落しているという議論がある。これに対し母音の無声化は無声子音の声門の開大ジェスチャーが重なる為に起こるとする説(ジェスチャー・オーバーラップ説)がある。この説では無声化の為の特別の過程があるのでなく、子音の声門の開大の動きが母音の為の動きに重なる為、無声化するという線形の過程を想定している。今回の結果、無声化した語では[kit]区間の声門の開大が連続的な1回の開きになっている事、無声化した[ki]のモーラ長が特に短かった事は、東京話者の無声化では喉頭調節および構音運動で何らかのカテゴリカルな脱落または短縮がされていると結論される。

5./ki/と/ke/の無声化のしやすさの違い

 喉頭観察の結果、声門の閉鎖に対する声帯振動の開始は/ki/が/ke/より遅かった。これは/i/が/e/より構音時の声道が狭いため呼気流量が少なく声帯振動が起こりにくいためと推察される。

[まとめ]本研究の声門の開大パタンの比較の結果、東京話者は無声化の少なかった大阪話者に比べ無声子音発音時の声門の開放時間が長いという喉頭調節を行っており、このため無声化しない環境でも子音が長く母音が短いことが分かった。子音を長く発音することは東京で母音の無声化が発現しやすい要因であると推察された。また/ki/は/ke/に比べ母音が短かったが、それは/i/の方が母音構音時の声道が狭いため呼気が流れにくく声帯振動が起こりにくいためと推察された。これらは音響上は母音区間が短くなるといった同じパタンとして表れるため、音響分析の手法だけではこれらの喉頭レベルでの差異は検知できない。この事はことばの生成の基礎研究における喉頭観察の重要性を示すものであると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は日本語音声に見られる母音の無声化に関わる要因について、音響分析と光電グロトグラム(Photoelectric Glottogram)による喉頭観察の手法を用いて、持続時間制御と喉頭調節の両面から検討したものである。従来、定性的に指摘されてきたように、無声化の発現と子音、母音の長さ及び子音の発音の特徴が関与するか否かにつき、一般的に無声化の多い東京方言(標準語)話者と無声化が少ない大阪方言話者の発話を比較し検証した。その結果以下の知見が得られた。

1.東京話者は母音が無声化しない大阪話者に比べ、/ki/と/ke/の子音が長く母音が短いこと、子音が長いのは無声子音/k/発音時の声門の開放時間が長いためであることが示された。東京話者の無声化の頻度が多いことには子音の発音が影響していることが示唆された。

2.東京話者の子音/k/の特徴として大阪話者に比べ気音区間が長いことが明らかになった。また/k/の破裂時点を声門の開大のピークに一致させるような発音が行なわれていた。このことは東京話者の気音を強める傾向をもたらしていると考えられた。

3.速い発話で母音が無声化した大阪話者は、速い発話でも母音が無声化しない大阪話者に比べ母音が短く、速めの発話では東京話者の母音長と差がなくなることが分かった。このことはこれらの大阪話者が速い発話で無声化したことと対応していると考えられる。ただし、子音長が東京話者と同程度に長い場合でも気音区間は東京話者ほど長くなく、大阪話者は共通の子音の特徴を保っていた。

4.母音が無声化した東京話者の[kite]では、[ki]のモーラ長が特に短く、声門の開大は第2モーラの/t/では顕著でないにも関わらず、無声化していた[kite]の[kit]の開大は[kide]の[k]より大きいことが明らかになった。このことは無声化していた[kite]の[kit]の声門の開大の大きさが[k]と[t]の単純な足しあわせでは説明できないことを示し、無声化環境での東京話者の無声化は喉頭調節、および、構音運動で何らかのカテゴリカルな脱落または短縮がなされていると結論された。

5.一般に/ki/は/ke/より無声化しやすいが、東京話者、大阪話者共に/ki/は/ke/より子音が長く母音が短かった。また声門の閉鎖と声帯振動の開始点のタイミングは/ki/が/ke/より遅いことが明らかになった。/ki/が/ke/より母音が短いことには、母音/i/の方が構音時の声道が狭いため呼気が流れにくく声帯の振動が起こりにくいためと推察された。

以上、本論文により、母音の無声化と子音、母音の発音の特徴、特に喉頭調節との関係性が明らかになった。本研究はこれまで定性的にしか示されなかった無声化の発現のメカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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