学位論文要旨



No 116733
著者(漢字) 木村,俊義
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,トシヨシ
標題(和) 衛星受信赤外放射スペクトルに含まれる地球放射収支情報に関する研究
標題(洋)
報告番号 116733
報告番号 甲16733
学位授与日 2002.01.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4076号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 今須,良一
 東京大学 教授 中島,映至
 東京大学 助教授 高薮,縁
 東京大学 助教授 中村,尚
 国立極地研究所 教授 山内,恭
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では、人工衛星による赤外スペクトル観測データに含まれる大気構造と放射収支に関する情報の抽出について詳細な研究を行った。地球放射収支観測を目的とした衛星センサプロジェクトはERBE(Earth Radiation Budget Experiment)が有名であり、地球大気構造と放射収支の相関についてこれまで多くの議論が行われている。しかし、ERBEは短波長域と長波長域全体の波長積分値を観測をしているために、気候の変化などによる大気構造の変化を全ては捕らえ切れていない可能性がある。例えば、温暖化が引き起こす全球平均長波放射フラックスの変動は10年間で1W/m2以下程度であり、ERBE等によるモニターからは変化を検知できない。そこで本研究ではこれまでよく調べてこられなかった雲を含む大気の構造と大気上端での多波長放射輝度の関係を調べる。すなわち、多波長放射輝度は地球・大気系の構成要因の変動に敏感に反応するので、これらの依存性を研究することによって、大気構造変化が引き起こす放射収支への影響を調べることができる。

 このような研究の為にまず、雲量や温度・湿度の鉛直プロファイルに関する既存データセットが多波長放射輝度の衛星観測値をどれだけよく説明できるかを調べた。さらに、雲を含む大気からの多波長放射輝度の応答を利用して、逆に大気構造を推定することによって、雲を含む大気構造の変化が全波長放射収支や、スペクトル区間ごとの放射収支に及ぼす影響評価を行った。このような逆問題解析法はこれまでほとんど開発されてこなかったので、本研究では新たにニューラルネットワーク法を開発した。

 適用する人工衛星データとしては最も長期間のデータが存在するTOVS/HIRSを用い、新たに開発した放射伝達コードを用いて解析を行った。新規開発の放射伝達コードは相関k分布法(Correlated k disribution; CKD)法を用いて衛星応答関数を考慮したものであり、高速且つLine by Line(LBL)計算に比しても精度が維持されている。このように本研究の大きな特色は雲を含む全天大気の構造と放射収支を同時に扱う所にある。

 本研究ではまず、最初に一般的な雲と水蒸気の鉛直構造を仮定し、波長と各高度におけるネットの放射フラックスと、TOVS/HIRSが観測する波長別放射輝度における大気構造の変化の影響を調べた。HIRS放射輝度に対する雲を含む大気構造の変化の影響はほとんど調べられていないので、雲と水蒸気、主要温室効果気体であるCO2の構造を独立に変化させ、それぞれのチャンネルに対する応答を調べた。その結果、HIRS観測値から雲情報を抽出するような簡単なインデックスが作れることが明らかになったので、まず、HIRS観測値に雲統計の変化に関する情報が含まれているかを簡単に診断した。実際の衛星データにあてはめると、ISCCP(全球衛星雲気候計画)による雲気候統計とも良好な相関を持つことが明らかになった

 次に精度が良いと考えられている客観データセットと雲統計データを使用してHIRSの放射輝度の再現を行った。ERBEと比較して、HIRS観測値および放射伝達モデルから計算された理論値から推定された赤外放射量の積分値は、晴天と全天の両方でバイアスがあることが分かった。例として、図1にHIRSTARによる理論値、図2にERBE-HIRSTARの全天相関の図を示す。更に雲と水蒸気に特徴的なチャンネルを個別に見ていくと、雲に良く感応するチャンネルでやや輝度が高く、水蒸気に感応するチャンネルにおいて輝度が低く、大気モデルの上部での水蒸気量の過多、また雲についても雲量、雲頂温度、雲水量などに誤差があることが分かった。

 このようなバイアスを修正する方法として、輝度値とより整合するような大気構造を求めることを考えた。そのために実際の気候にあらわれるこのような複合的な変化を網羅するように大気構成要因を変化させたHIRS放射輝度の大規模なデータベースを作成した。これを教師データとして、ニューラルネットワークを教育することにより、大気構成要因の推定を試みた。その結果、現実に知られている気候の地域的特徴と比較して矛盾のない結果が得られた。また水蒸気については大気モデルで使用した水蒸気量との比較として差が見られた。

 次に得られたこれらの結果を元に既存データセットによって構築された大気モデルを修正し、再び放射スペクトルの理論値を求めた。図3に修正前後のチャンネル毎の理論値と観測値の相関図を示す。その結果、既存データセットによる理論値に見られたバイアスが改善される場合があることが明らかになった。従って、既存データ利用して構築した大気モデルには、雲の幾何学的厚さなどの情報不足や統計データの上層雲量の不適切さが存在しており、それが逆問題解析による補正によって是正されたと考えられ、このことは本研究で提案する手法の有効性を示していると思われる。

 新たに得られたこのような知見をもとに本研究ではERBEなどによって得られる短波フラックスおよび長波フラックスに代わって大気構造の変化により敏感に反応する区間スペクトルフラックスという概念を導入した。このような波長区間毎の放射フラックスでは、それらの区間内に衛星受信観測値をもたないHIRS観測値からも、正しく推定される。本研究では区間フラックスの概念の利用例として、良く知られている大規模な気候変動とHIRS観測データをから得られた区間スペクトルフラックスの関係を調査した。ENSO監視海域では、上層雲量と上部水蒸気量がENSOの周期に伴った変化を見せている。この海域で区間スペクトルフラックスの評価をしてみると、特に雲量の変動によって、大気の窓領域で放射収支の変動の半分以上の変化が起きていることが明らかとなった。この領域での長波放射収支が、水蒸気変動より上層雲量変化による窓領域での放射の遮蔽に強く影響を受けていることが定量的に示された。

 本研究を通して、多波長のセンサHIRSを使ってERBEと同様の積分的放射収支を評価しつつ、かつその波長区間による大気の放射収支を説明できる大気構造を推定する手法を示すことが出来た。このような研究によって、いままで困難であった全天状態における雲と水蒸気が同時に引き起こす放射収支への影響を定量的に評価する手法の有効性を示した。

図1 HIRSTARによる1985年7月での全天条件での理論値の月平均OLRを全球分布で示した図。

単位は[W/m2]。ERBEの結果に比較して南半球高緯度域でフラックスが低い特徴がある。

図2 Y軸にERBE観測値、X軸にHIRSTAR理論値を取ったOLR相関図。

1985年7月の全球全天データを使用し、単位は[W/m2]である。低フラックスの領域でHIRSTARの値がERBEに比較して低く、また高フラックスの領域においてもHIRSTARの値がERBEに対して低い傾向があることが分かる。

図3 HIRS観測値とHIRSTAR理論値のチャンネル毎相関図。

X軸をHIRS観測値、Y軸を大気モデル予測値とする。単位は等価黒体温度[K]であり、黒が修正前のモデル、青を修正後のモデルとして示した。各々のチャンネルは、図の下に示した大気構造要素に応答を持つ。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、衛星が受信する分光放射輝度情報と地球大気構造の関係を詳細に調べることによって、地球大気系の放射エネルギー収支に果たす雲と水蒸気の役割を理解する研究をおこなった。従来このような研究は2つの方向においておこなわれてきた。ひとつは、できるだけ正確な大気上端での波長積分放射エネルギーフラックス収支を測ろうとするもので、ERBE型放射収支計システムによる観測とデータ解析がなされている。もうひとつの手法は、NOAA衛星に搭載されたHIRS分光放射計などで分光放射輝度を測定することによって、その逆問題から大気構造を推定するものである。この手法は晴天大気に適用されて、温度や水蒸気量の鉛直プロファイルが得られており、多くの気候研究に使われている。

 しかし、ERBE型の放射計観測では波長積分観測をおこなうために、例えば、雲頂温度の変化のみが起こる場合は、その変化が波長積分放射収支の観測値にあらわれにくい。一方HIRS型の分光放射観測では、逆問題を簡単にするために主に晴天状態の解析のみがおこなわれてきた。本研究ではこのふたつの手法の利点を合わせ持ち、かつ、両者の欠点を補うことができるような、衛星データの利用手法を提案している。このような方向の研究は過去に無いものであり、その独創性が高く評価される。

 本研究の前半では、まず、雲が存在する大気構造の変化が引き起こす、大気上端での分光放射輝度の変化を詳細に調べた。それによると、もっとも信頼できるとされているECMWF客観解析データとISCCP(国際衛星雲気候プロジェクト)データによって構成された大気モデルをもとに理論計算される、大気上端でのERBE波長積分放射輝度およびHIRS分光放射輝度は、それぞれの衛星観測値と整合していないことが明らかになった。すなわち、晴天時の南半球高緯度領域と曇天時の上層大気には、衛星観測輝度を説明するためには低温バイアスがあることが明らかになった。その原因としてこれらの領域で、水蒸気と雲量あるいは雲の光学的厚さが過大であることが推測された。

 論文の後半では、この不整合の原因を追及するために、全天大気状態のHIRS分光放射輝度から逆問題によって雲量、雲頂温度などの雲パラメーターや水蒸気量を推定することを考えた。まず、理論計算によって雲が存在するような全天大気状態でも分光放射輝度には、大気構造、特に雲パラメーターと水蒸気量を推定するための情報が含まれていることを確認した。しかし、その依存性は非常に複雑でこれまで十分研究されてこなかったが、ここでは新たに開発したニューラルネットワーク手法によって、全天状態のHIRS分光放射輝度から雲パラメーターと水蒸気量を推定することに成功した。その結果、前半で利用した大気モデルにおいて、南半球高緯度および上層大気で水蒸気量を減少させ、かつ上層雲の光学的厚さを小さくすることによって、HIRS分光放射輝度をより整合的に説明できる大気モデルを構成することができた。大気上端での分光放射収支に基づく、このような気候モデルの診断法は新しいものであり、今後の気候研究のひとつの方向を示すと考えられる。

 以上の研究をもとに本研究では、スペクトル構造をある程度維持しつつ、かつ波長積分による放射収支研究の利点を活かすように全赤外波長領域を4区分した、区分フラックスの概念を導入した。さらにHIRS分光放射輝度から区分フラックスを推定するニューラルネットワークを開発し、それを11年分のHIRSデータに適用することによって、熱帯海洋域の放射収支と大気構造に関する事例解析をおこなった。その結果、ENSO変動にともなって上層水蒸気量と上層雲量が顕著に変化するが、その結果起こる放射収支変動は、そのうち上層雲量変動に伴う赤外窓領域の遮蔽効果による温室効果が全体の約50%を占めていることが明らかになった。このような評価は、これまで定性的に言われてきた知見を地球大気系の放射エネルギーフラックス収支の観点から定量的に記述したものである。

 結論として、本研究は細部において十分な結果の検証がおこなわれていないなどの未成熟な部分も存在するが、論文が提案する手法と解析結果は、気候研究の新しい指針を示すものと考えられその寄与は非常に高い。従って、博士論文として十分なレベルに達しており、博士(理学)の学位を授与できると結論する。

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