学位論文要旨



No 116736
著者(漢字) 石井,啓文
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,ヒロフミ
標題(和) 軟X線分光によるNi化合物の電子状態の研究
標題(洋)
報告番号 116736
報告番号 甲16736
学位授与日 2002.02.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5100号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辛,埴
 東京大学 教授 吉澤,英樹
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 教授 小谷,章雄
内容要旨 要旨を表示する

 銅やニッケルなどの重い遷移金属化合物の、その電子状態は電荷移動型を示す物質として分類される。これらの物質は電子相関が強い為、モット転移を起こすこともとしても知られている。重い遷移金属化合物は高温超伝導に代表される様々な興味深い物性を示し、現在もなお盛んに研究されている。これら電荷移動型物質の電子状態を解明することは、未だ解明されていない超伝導機構の解明や新しい物質の開発に重要である。

 このような物質群は、これまで光電子分光や光反射・吸収分光によって、その電子状態が研究されてきた。本研究では、モット絶縁体として典型的なNiO及び、モット転移を起こす典型的な物質としてNiS2-xSexを選び、軟X線発光分光、共鳴逆光電子分光、超高分解能光電子分光等の軟X線領域の新しい分光法により、その電子状態の新しい知見を得ることを目的としている。軟X線分光は特定の元素に対応した内殻電子を励起することができるため物質中の注目する元素の電子状態の研究に適している。しかし、軟X線分光という実験手法は使用可能な励起光の強度や検出器の感度の問題などにより、実用化が難しかった。近年、シンクロトロン放射光の高輝度化をはじめ、測定装置の改良などによる分解能の向上により、今まで観測できなかった現象が観測できるようになってきている。そこで、本研究では、軟X線を用いた分光法の理解することと、この分光法を用いて観測し得られた情報について検討することを目的とした。以下に、本研究によって得られた、それぞれの分光による実験結果とその解釈についてまとめる

(1)軟X線発光分光

 軟X線発光分光とは、今まで行われてきたX線蛍光分析等と異なり、内殻電子を吸収端付近に励起することによりその素励起を調べる分光法である。この測定では、入射光エネルギーが可変であることが必要である。加えて、観測される素励起の強度が非常に弱いために、高強度であることも重要になる。この2点を満足する光源として、放射光が上げられる。近年、多くの放射光施設が建設され、軟X線発光分光を行うのに適した条件がほぼ整い、実験が行われ始めている。しかし、非常に新しい実験手法であるため、実験的な蓄積が非常に乏しいことは否めない。そこで、本研究では、軟X線発光分光を行うための装置を製作し、この分光法の理解を深めることを第一の目的とした。また、具体的な測定として、主にNi化合物のL2,3吸収端実験を行った。それより得られた実験結果を他の分光法との比較考察することにより、素励起の起源を明らかにすることも目的とした。

 それでは、NiOのL3吸収端の実験結果を図1に示す。図の横に書いてあるグラフがNiのL3の吸収スペクトルである。この吸収スペクトルから励起エネルギーを決定した。そして、その吸収端に合わせて測定した軟X線発光の結果が真中のスペクトルである。図中のスペクトルは、ラマン成分が分かり易いように、入射エネルギーをOeVとした。これらのスペクトルから、0〜12eVの範囲にラマン成分の構造があり、0〜4eVの範囲に高強度のラマン成分、また、4〜10eVの範囲に弱いスペクトルの構造が見て取れる。これらのラマン成分を、共鳴効果及び他の実験との比較することにより、強度の高い素励起がd-d遷移に対応し、強度の弱いものが電荷移動遷移に対応すると同定することが出来る。これより、重い遷移金属のラマン成分は主にd-d遷移で構成される事が判った。また、これをNiS2-xSexのNiL3付近で行うと、共鳴点で構造がシフトすることが観測された。この成分もまたNiOとの類推から、d-d遷移によるものと解釈し、加えて、Seドープによる結晶場の変化として解釈すれば、実験で得られたラマン成分の変化をよく説明出来た。

本実験では、重い遷移金属の軟X線発光分光の素励起が、主にd-d遷移で構成されていることと、それが結晶場の変化に起因していることを証明した。また、d-d遷移は一般に双極子禁制であり、実験に観測することは非常に困難であるが、軟X線発光分光を用いれば非常に鮮明に観測出来ることも実証した。

(2)共鳴逆光電子分光

 共鳴逆光電子分光とは、今まで行われていたバンドパス型のフィルターで単色光を検知する逆光電子分光と異なり、入射電子エネルギーを内殻レベルに共鳴させて、その発光を分光する手法である。これまで、Ce化合物などで共鳴現象が観測されているが、遷移金属化合物の共鳴逆光電子分光の報告例はない。本研究では、Ni化合物で初めて共鳴逆光電子分光を行い、3dバンドのエネルギー位置と共鳴効果を解釈することを目的とした。また、NiS2-xSexにおいては、dバンドの組成変化によるバンド幅の変化を観測し、共鳴逆光電子分光によって得られた非占有電子状態の情報を用いて、Mott転移を解明することを試みた。

 はじめに、NiOを用いて基底状態3d8のNi2+の共鳴点における振る舞いを調べた。Niの3p-3d共鳴点での共鳴逆光電子分光は、そのフェルミ準位直上の構造が、共鳴点で減少することが観測された。この事実は、共鳴点では3dのeg軌道のみでなく、t2g軌道からも電子が落ちることが可能となる為、結果として、eg軌道とt2軌道から落ちる電子の干渉効果により強度が減少すると解釈した。このことは、3d8電子状態を持つNi化合物の共鳴効果は、共鳴点での強度の減少であることを示す。この結果を考慮して、NiS2-xSexの共鳴逆光電子分光を行うと、非占有状態におけるNiのdバンドの位置を実験的に知ることができる。今まで、dバンドの位置はバンド計算などでその位置は予想されていたが、本研究の共鳴効果を用いることにより、実験的にNi dバンドの位置を特定できることが予想される。実際の測定でも、共鳴点(66eV)と非共鳴点(78eV)とのスペクトルを比較すると、共鳴点(66eV)の方が強度の減少を起こしているのが判る。(図2)また、組成を変化させたNiS2-xSexの実験結果からは、SeドープによるNi dバンドの広がりが観測され、その広がりがホール係数の測定によるキャリア数の変化と対応していることを示した。

(3)超高分解能光電子分光

 光電子分光の研究は、比較的前の二つの実験より進んでいる。本研究では、特に、高分解能化された光電子アナライザーとHeランプを用い、極低温で超高分解能分光を行った。具体的には、NiS2-xSexの金属絶縁体転移による電子状態の変化と、磁性転移における電子状態の変化を詳細に調べた。特に、磁性転移での電子状態の変化を光電子分光で観測した例は少ない。図3より、金属絶縁体転移に伴いEF近傍のスペクトルの強度が増大し、且つ、シフトする構造があることが判る。これらの構造は、角度分解光電子分光で観測されていたが、今回、角度積分でも非常に鮮明に観測できることを示した。また、金属絶縁体転移を伴わない常磁性→反強磁性転移温度近傍でも、測定を行った。その結果、反強磁性転移点付近で、スペクトルの構造のシフトが観測された。このシフトは常磁性相では観測されないことから、反強磁性転移特有のものであるのではないかと解釈した。このシフトする構造は、光学伝導度で観測されたインコヒーレントな伝導から、コヒーレントな伝導への変化と同様なものを捉えている可能性があることを指摘した。

図1:NiOの軟X線発光分光と吸収分光[1]C.-C. Kao, et.al., Phys. Rev. B54, 16361(1996) [2]R. Newman, R. Chrenko, Phys. Rev. 14, 1507 (1959)

図2:NiS2-xSexの共鳴逆光電子分光実験結果

図中bの構造が共鳴点でのスペクトルで減少することがわかる。

図3:NiS1.50Se0.50の超高分解能光電子分光結果 下図はスペクトルをFermi-Dirac関数で割ったもの。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「軟X線分光によるNi化合物の電子状態の研究」と題し、5つの章から成り立っている。古くからモット絶縁体として知られているNiOや、温度や組成比によって金属絶縁体相転移を起こすNiSxSe2-xなどの典型的な強相関物質を例に取り、軟X線分光が物性研究に如何に有用かを明らかにしようとしたものである。軟X線分光が物性研究に応用され始めたのは比較的新しいが、これまでは非常に悪かった実験精度や分解能が、近年、飛躍的に上がりだしたために、次々に新しい研究分野が生じつつある。特に、本研究では、軟X線ラマン散乱分光、共鳴逆光電子分光、高分解能光電子分光の3つの典型的な軟X線分光法を用い、様々な角度から強相関物質の電子状態を明らかにしようと試みた。これらの分光法は単にフェルミ準位付近の詳細な電子情報を与えるだけでなく、これまでの他の実験方法では難しかったd-d遷移や、非占有電子状態の情報を与えることが可能になった。これらの軟X線分光による研究を更に進展させることにより、強相関物質の電子物性を支配するバンド構造や、d電子間のクーロン相互作用や電荷移動エネルギーなどを系統的に求められること事を明らかにした

 まず、第1章において、研究の背景と目的を述べている。本研究の背景として、軟X線分光法の歴史と概説を行った。一方、強相関物質の一般的な概要について述べ、その中で、NiOおよびNiSxSe2-xでこれまで行われた研究の概要をやや詳しく述べた。更に、このような物質における軟X線分光法を行う本研究の目的が明らかにされている。

 次に、第2章では、軟X線発光分光の歴史や概観について述べた後、本研究で用いた実験装置について述べた。本研究においては、新しい軟X線発光分光器の装置開発および建設を行った。その結果、世界最高の分解能を達成することができた。このような研究は、ドイツとアメリカで研究が行われているが、日本においては、研究がほとんどなかったものである。従って、本研究は、研究テーマとして、博士論文にふさわしいものであると言うことが出来る。また、強相関物質の典型であるNi化合物での共鳴実験は世界で初めてである。この結果、軟X線発光分光は物質内の特定元素内のd-d遷移を測定できる有効な方法であることを示せた。また、電荷移動バンドも共鳴効果を用いることによって強度を増大させることが可能になり、観測する事ができた。このようなスペクトルを光学伝導度や、X線発光と比較することにより、構造の同定を行った。NiSxSe2-xにおいては、組成を変えることによってd-d遷移の変化を追うことが出来た。

 第3章では、共鳴逆光電子分光の歴史や概観について述べた。これまで、Ce化合物でのみ共鳴逆光電子分光実験が行われてきたが、本研究で、初めて、遷移金属化合物の共鳴逆光電子分光を行うことができた。その結果、d8の電子配置をもつNi化合物の共鳴点での振る舞いはCe化合物の場合と著しく異なり、強度の減少として現れることがわかった。また、強度が増大するサテライト的なバンドも観測した。一方、NiSxSe2-xの逆光電子分光では3dバンドがSeのp成分との混成により反強磁性金属相から常磁性相金属相に向かって広がっていくことが観測された。また常磁性金属相に入るとほとんどその構造の広がりが観測されない。このようなバンド幅の変化はNiSxSe2-xの金属絶縁体相転移と何らかの関係があるものと考えている。

 一方、第4章では、NiSxSe2-xの超高分解能光電子分光も行い、金属絶縁体転移に伴って、大きくフェルミ準位近傍にシフトする70meV付近の構造が観測された。また、金属相における反強磁性転移でもこのシフトする構造が観測された。この構造のシフトは反強磁性転移特有のものである。このような反強磁性転移に伴う電子状態の変化を光電子分光により実験的に観測したのは初めてである。このスペクトルの変化は、光学伝導度で観測されたようなインコヒーレントな伝導からコヒーレントな伝導への変化とコンシステントであると思われる。光電子分光では1.5eV付近に観測されるmainピークの電荷移動バンドがSeの置換により、その幅を徐々に狭めることが観測されている。一方、逆光電子分光で観測された構造は、より金属相に近い常磁性金属相に向かってバンド幅を広げ、フェルミ準位に近づくことが分かる。この様に、光電子分光と逆光電子分光を組み合わせると、3d電子構造全体を知ることができ、電子状態の総合的理解にきわめて有用である。

 最後に第5章では、本研究の結論について述べた。また、本研究で得られた結果から予想されるそれぞれの分光法について将来の展望について述べた

 以上、本研究は、3つの軟X線分光を組み合わせることによって、強相関物質の電子状態の総合的理解を深めることができることを明らかにした。新しい研究の発展に寄与する実験方法を切り開いた事が言える。論文提出者は、これらの実験装置の建設に初期の頃から大きく寄与した。また、もっとも典型的な強相関物質として知られているNiOおよびNiSxSe2-xの電子状態について新しい知見を与えた。これらのことは今後の物性研究の進歩に寄与するところが極めて大きいものと考えられる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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