学位論文要旨



No 116742
著者(漢字) 長谷川,弘基
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,ヒロキ
標題(和) エクフラシスと自己と他者の関係
標題(洋) Ekphrasis and the Relationship of the Self and the Other
報告番号 116742
報告番号 甲16742
学位授与日 2002.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第338号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,英夫
 東京大学 教授 丹治,愛
 東京大学 教授 山本,史郎
 東京大学 助教授 中尾,まさみ
 日本女子大学 教授 山内,久明
 武蔵大学 教授 高村,忠明
内容要旨 要旨を表示する

 エクフラシスの定義は必ずしも定まっていないが、この30年ほどの、主に英語による研究での定義は"the verbal representation of a visual representation"(Heffernan),"the poetic description of a pictorial sculptural work of art"(Spitzer)というもので代表される。以下の研究では、エクフラシスを暫定的に「造形美術作品の詩的描写」と定義した上で、エクフラシスに自己と他者の関係が反映されているというMitchellの指摘に注目し、実際にWordsworth、Keats、Yeats、Hughesによる個々のエクフラシス作品を分析する。エクフラシスに表される言葉とイメージの関係が、自己と他者の関係と著しい類似があるというMitchellの主張を確認するためにも、また、実際にエクフラシス作品に認められる情緒が自己と他者の葛藤を反映しているということを確認するためにも、以下の研究ではエクフラシスとエクフラシス以外の詩との間の相関性にも十分な注意が払われる。

 一般にエクフラシスの分析においては、

 1.言葉が(視覚イメージの描写を通して)自ら静止したイメージになりたい

 2.静止した視覚イメージを(描写を通して)動かしたい

 という二つの、正反対のベクトルを持つ欲望が指摘される(Krieger)。しかし、この第1の動機はそのまま詩の一般則ともなりうるものである。芸術作品とは押しなべて「静止した、確固とした一つの世界」を築こうという営みの反映に他ならない。また、第2の「静止したイメージを動かしたい」という欲望も「作品を解釈したい」という一般的な「欲望」に吸収されるように思われる。事実、美術作品の描写には解釈の問題が根本的に関連している。描写の対象が「作品」であるがゆえに、その対象に「意味」が込められていることが当然視される。エクフラシスの過程はこの視覚的に表された意味を読み解く過程であるとは言い得る。しかし、解釈の問題もまたエクフラシスにのみ固有の問題ではないことは明らかである。このように、エクフラシスとは何か?という問いは非常に捉えがたい。むしろ、問題の焦点を「エクフラシスが提出する問題は何か?」と置きかえることにより、興味深い論点が浮かび上がる。

 エクフラシスの定義が必ずしも厳密ではないにもかかわらず、文学(詩)と美術(視覚イメージ)の関係は詩人のみならず研究者の注目を集め続けてきた。これまでの研究のタイプは大まかに以下の三種類に分類できる。

 1.ある文学テクストとそれに対応する美術作品の比較研究

 2.記号論的研究(言語的記号体系と視覚的記号体系の比較)

 3.現象論的、あるいは文化論的研究

 エクフラシスの問題に取り組むとき、最も有効であろうと目されるのが第3のアプローチである。このアプローチを代表する研究者であるMitchellは、エクフラシスの中に以下の三種の相矛盾する相を認める、

 1.視覚イメージを言葉によって描写(再現)することは無理であると認める冷静さ(ekphrastic indifference)、

 2.それにもかかわらず、想像力や比喩によって視覚イメージの再現が可能であるという期待(ekphrastic hope),

 3.視覚イメージが(比喩的に)言葉によって再現されんとするするときに生じる奇妙な反発、言葉は視覚イメージを追求すべきでないという訓告的態度(ekphrastic fear)。

 以上のような相異なる相をエクフラシスに認めた上で、Mitchellは、エクフラシスに認められる「期待」や「恐れ」には、我々が他者を表現しようとする、あるいは他人と交じり合う際に感じる不安が表現されていると言う。そして、エクフラシスが実際にしていることは、この他者に対する相矛盾した感情を、様々な二項対立を通して、表すことであろうと述べる。

 エクフラシスに「他者」に対する態度の反映を見ようとするアプローチの最大の利点は、「言葉によって視覚イメージを再現すること(言葉が絵になること)は不可能である」という常識的な事実を前にして、なおも視覚イメージを描写するエクフラシスが特別に興味深い現象と見なされ続けることへの一つの理由付けを与えることにある。言葉が視覚イメージを描写するということ自体には、冷静に考えれば、視覚イメージを描写しているという即物的な事実以外には何ら特別なことはない。それなのに、なぜ視覚イメージは言葉との鋭い二項対立にさらされるのか?なぜイメージはしばしば女性化されるのか?なぜイメージは、実際に豊かな意味を持ちながらも、「沈黙している」と見なされるのか?答えは、言葉とは明らかに異なった表現様式を持つ視覚イメージが、言葉と異なっているがゆえに、典型的な「他者」と見なされているからである。言い換えれば、エクフラシスが提出する興味深い問題の一つとして、「言葉が視覚イメージを描写することに何か特別な意味があると考えられてきた背後には、言葉とイメージの関係を自己と他者の関係の反映として受け止めてきたイデオロギーが横たわっている」ということをエクフラシスがあからさまに示しているという論点がある。Mitchellの問題提起の意義はここにある。

 エクフラシスを他者との関わりで理解することは、実際にエクフラシス作品の読解を深めることに貢献し、なおかつ、エクフラシスの分析を通して確認される他者への複雑な情緒は、詩人の実際の他者に対する関心・態度に新しい光を当てる。Wordsworthのエクフラシスは、詩人が他者としてのイメージを完全に把握していることを示し、このようなエクフラシスではイメージから「他者性」が完全に消え去っている。それが詩人の「エゴティズム」と密接に関連していることが明らかになる。このWordsworthの「エゴティズム」に反発したKeatsは、これとは対照的なエクフラシスを残し、彼のエクフラシスではイメージは理解不可能な「他者」として留まり続けている。Keatsの"Negative Capability"やLamia、"Belle Dame"における自己と他者の扱いを並べて考えるとき、Keatsが他者の他者性、理解不可能性を積極的に尊重したことがはっきりと指摘できる。

 Keatsの詩における「エゴティズム」の否定の意義は十二分に評価できるにしても、彼の立場は半ば必然的に「距離を置いた観察者」、「対象(他者)に近づけない自己」のものになる。Wordsworthのエクフラシスがあまりに強引に「他者」について語る一方、Keatsのエクフラシスは他者の他者性を強調するあまり、エクフラシスの根拠そのものを危うくしかねない問いを引き寄せる。つまり、イメージが言葉によって完全に捕捉される(描写される)ことがないとわかっているのに、なぜそのような不可能な企てを図るのか、という問いである。Mitchellの言う、indifferenceとhopeの問題でもあり、同様の問題にKriegerも注目している。

 エクフラシスが不可能だと知りながら、それでもなおエクフラシスを行うというこのディレンマを説明する鍵をYeatsのエクフラシスが提供する。Yeatsのエクフラシス、とりわけ肖像画を扱った詩は詩人のイメージに対する「責任」という側面を明らかにする。絵に描かれた他者を言葉で再現することは不可能である。しかし、彼にはその責任がある。エクフラシスを支える動因の一つに、Kriegerの指摘した「静止したイメージを動かしたい」という欲望と関連して、たとえ他者を完全に捕捉することが不可能であってもなおもその他者に向かって働きかけねばならないという「他者に対する責任」というものが考えられる。他者の他者性と、それにもかかわらず他者について語らねばならない責任が最も顕著になるのは、その他者が死者である場合であろう。死者の肖像画を題材としたYeatsのエクフラシスは、静止したイメージ、閉じた空間、沈黙した他者、不在というエクフラシスに付きまとう特徴を端的に示している。Yeatsは他者との間の埋めがたい距離を十分に意識した上で(この点では彼はKeatsと同様である)、Keatsのエクフラシスには見られない積極性を発揮して、この無限に遠い他者へ言及する。

 エクフラシスが自己と他者の関係を反映し、かつ他者としての死者の記憶とも密接な関係があることをいっそうはっきりと示すのはHughesのBirthday Lettersである。この詩集は、これまでのところもっぱら詩人の伝記的な側面にのみ注目して語られることが多いが、エクフラシスと他者という視点から分析すると、この作品の意義が明らかになる。実際、ほとんど全ての詩がIとyouの関係に言及し、しかも数編の極めて興味深いエクフラシスが含まれている。Yeatsのエクフラシスで確認したイメージとしての他者=死者に対する責任はここでも重要な働きをするが、同時に、他者への恐れ、あるいは逆に他者の蹂躙といった極めてエクフラシス的な感情の振幅が確認できる。Birthday Lettersの解釈を通して、エクフラシスを自己と他者の問題と関連させて考えることの有効性が示される。エクフラシスを通して見えてくるもの、少なくともその一つ顕著な特徴は、描かれた視的イメージの姿というよりも、むしろ「見るもの」と「見られるもの」との間の距離、関係である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、元来、古典ギリシャ時代より「描写」を意味する修辞学上の用語・概念であったekphrasisを、ホメロスの『イーリアス』に見られるアキレスの盾の描写に始まる、美術作品の文学的描写の意味に取る伝統に従い、さらに、20世紀、とりわけ1967年のM. Krieger論文以来、注目されるに至った文学批評概念としてのekphrasisを詩の分析・批評のための手段として用いることの有効性を、理論と実践の両面において実証することを目的として執筆されている。本論文の理論的立脚点は、W.J.T. Mitchellによるekphrasis論であり、ekphrasisにおいて、詩人の自我と他者の関係のさまざまな様相が具現化していることを実作品の分析と批評を通じて明らかにしている。

 論文はIntroductionに加えて5章から成っている。

 Introductionは、本論文の理論的枠付けを提供する重要な部分であり、ここでは、広義・狭義のekphrasisの概念を検討し、18世紀のLessingに始まる、20世紀までの文芸批評家や文学研究者によるekphrasisの概念・用語の使われ方を整理した上で、1)文学と絵画の比較研究、2)記号論的アプローチ、3)「現象論的」アプローチの三者にまとめ、実作品の分析には、「現象論的」アプローチが最も有効であるとしている。

 このアプローチでは、言語的なるものと視覚的なるものとの間に、能動的に、見、語る、優勢な支配者と、受動的に見られ、黙し、抑圧される被支配者との力学、分裂、対立を認めるのが特徴的である。この方法論を採るのが、本論文が依拠するところ大である、Mitchellであるが、彼がekphrasisにおける詩人の他者に対する態度を、無関心、希望、恐怖の3つに分類したのに対し、無関心と恐怖の間に、「受容」ないしは「諦観」、積極的には「責任」という態度も措定する必要を説いている。

 以下の章では、以上のようなIntroductionでの理論的考察と提言がekphrasisを正面から体現している実作品のみならず、通例ではekphrasisの作品とは見なされない作品までも射程内に収めて検証されることになる。

 第1章ではロマン派の詩人、W. Wordsworthの"egotistic sublime"が同じくロマン派の詩人、J. Keatsの"negative capability"との比較、対照の上で取り上げられ、Wordsworthが、画家、視覚的なものよりも、詩人、言語的なものを優位とみなし、他者の理解において、いかに画家よりも詩人の方が勝っていると考えていたかを分析している。そして、その見られるものに対する詩人の優位性が、直接的には美術作品を主題としていない作品においても、単に見られる対象として受動的で、ひたすら沈黙する他者に対する、見る側としての、言葉を発する詩人の優位性にも見られると指摘している。

 第2章では、最初に一般にekphrasisの代表的作品とされるKeatsのギリシャの壷に寄せる詩その他の作品を取り上げ、Mitchellやその流れを汲むScottらが男性的凝視者対女性的イメージの対立、さらにはその逆転形である女性が男性を無力化する恐怖という単純化された構図で捉えようとしたことに異議を唱え、Negative Capabilityとの関連で捉え直すべきことを主張している。Keatsの場合はWordsworthの場合と対照的に、自我を否定し、不可解な他者を謎として謎のまま受容することにより、他者とのコミュニケーションを願望しつつも、結局は他者理解を断念し、いわば他者と距離を置いて眺めることに止まる傾向が特徴的であるとしている。

 以上のようにekphrasisにおける他者に対する態度の両極端を見据えた後、以下の章でさらにそれらの中間に位置すると見なせる2人の詩人の作品が分析されることになる。

 第3章では、19世紀後半から20世紀前半にかけての詩人W.B. Yeatsの作品が取り上げられ、死や喪失、不在、時の不可逆性、そして回復の可能性の問題がelegyと関連づけられ、ekphrasisに内在する問題として論じられる。特に、他者が過去に位置付けられ、詩人の自己が現在と等価ととされることにより、時の観点からekphrasisを捉え直しているがこの章の特徴である。Yeatsには、Wordsworth、Keatsとも異なる、第三の道、すなわち、自己と他者の断絶を認めつつ、そのいずれも否定することなく、両者を共存、並置させ、曖昧なまま受け入れる態度が見られるとしている。

 第4章では、20世紀後半の詩人、Ted Hughesのelegy詩集『誕生日の手紙』から多様な作品を取り上げ、これまで伝記的読みに偏っていた解釈を補完するものとしてekphrasis、とりわけ、不在の者に関する記憶の観点からの解釈を導入することによって、この詩集における自己と他者の問題に肉薄しようとしている。Ted Hughesの場合は、究極的には理解不可能な他者を理解不可能なものと認めつつも、意志疎通の努力の試みはあくまで続けようとする態度を看取し、その程度がYeatsの場合よりもさらに凝縮していると指摘する。

 結論となる最終章の第5章では、オヴィディスの『変身物語』のTed Hughes訳の中から特にナルキッソスとエコーの物語における、視覚的なイメージと聴覚的な言葉との対立に見られる自我と他者の関わり方を例とし、我々と究極的には異なる他者を、その差異性を否定することなく、理解することは可能か、という問題をekphrasisを通じて考えられるとし、第1章から第4章までで扱った詩人における自我と他者の関係を振り返ってまとめている。

 ほぼ以上が本論文の主要な論点と具体的な分析の内容、および結論の概要である。これで明らかなように、著者は従来のekphrasis論に立脚しながらも、その不備を補いつつ独自の説を提唱し、それを実作品に応用してその有効性を検証することに成功していると言える。具体的には、まず第一に、ekphrasisに内在する自己と他者の問題に注目し、それが単に美術作品を主題とした作品のみならず、現存、あるいは不在の人間が対象の作品の分析、解釈にも有効であることを論証した点、そして、第二に、著者自身は必ずしも明言している訳ではないが、いわば縦軸に自己と他者の関係を据えると同時に、横軸に過去から現在への時の経過という要素を措定することにより、ekphrasisを考察するに当たって、「時」の考えを導入した点が挙げられるだろう。この第二の点は本論文の後半、第3章、第4章で特に顕著である。Lessing以来、ekphrasisに空間と時間の対立概念を認めるのは一般的であったものの、それはあくまで構造的考察からであって、本論文のように「現象論的」な視点からのものとは言い難かった。この「時」の軸を据えることにより、記憶、不在、蘇生等の興味深い視点が、特にelegyのgenreに属する作品の解釈に際して興味深い光を照射することになっている。ekphrasisとelegyのいわば橋渡しに成功し、ekphrasisの門戸を広く開放した本論文の功績は高く評価されてよいだろう。さらに、1998年というごく最近に出版されたばかりで、書評を超えた本格的な学問的研究はこれからというTed Hughesの詩集にekphrasisの観点から説得力ある分析と解釈を加えた意義は、本論文の顕著な貢献の一つと言える。

 とはいえ、改善の余地が全くないという訳ではない。まず、ekphrasisの定義と批評の手段としてのその応用の間に、一種の乖離が認められる。従来の定義を踏まえつつも、より広い応用範囲を包含しうる、著者独自の定義を提案できなかった点が惜しまれる。また、自己と他者の問題を考える際に、著者はしばしばフランスの20世紀哲学者Levinasを引き合いに出しているが、Levinasを援用する必然性が必ずしも明らかでなく、また、方法論としての「現象論」ないしは現象学に関する理解と咀嚼が十分とは言い難い恨みがある。分析の俎上に乗せた実作品の選択基準、必然性も明確に示されていない。こうした若干の問題点は残しているものの、論の根幹を揺るがすようなものではなく、その多くは著者の今後の研鑽に待つべき事柄であって、本論文の学問的意義と貢献をいささかも損なうものではない。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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