学位論文要旨



No 116743
著者(漢字) マリィ,クレア
著者(英字) MAREE,CLAIRE
著者(カナ) マリィ,クレア
標題(和) 日本語とジェンダー及びセクシュアリティ : 切り抜ける・交渉・談判・掛け合いネゴシエーション自分が自分[あたし・ぼく・おれ]でいるために
標題(洋)
報告番号 116743
報告番号 甲16743
学位授与日 2002.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第339号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小森,陽一
 一橋大学 教授 イ・ヨンスク
 東京大学 教授 近藤,安月子
 東京大学 助教授 藤井,聖子
 東京大学 助教授 エリス,俊子
内容要旨 要旨を表示する

第一章 「ジェンダー」「セクシュアリティ」「言葉」−理論と実態−

 「ジェンダー」および「セクシュアリティ」そして、「言葉」−これらの関係性は日本語においてはどのように考えられているのか。本研究は、日本語の発話者が発話場面において常に行う多彩な、多面的なネゴシエーション(切り抜ける行為・交渉・談判・掛け合い)に注目し、発話場面の総体に広がる発話者自身の複合アイデンティティに考慮しつつ、日本語という言語を用いて、発話者自身が、どのような行為を遂行するのか、という問いに応じようとするものである。

 本研究は、社会的なカテゴリーに属する者がどのように話すのかを考察するのではなく、話者に身体化された、社会が規定するジェンダーや話者自身が抱く「ジェンダー感/観」がどのように発話に現れるのかを考察する。また、先行研究において主に「外れた言語使用」として見なされるクィアー言語を中心に、発話者が行う複合的なネゴシエーション(切り抜ける行為・交渉・談判・掛け合い)を考察し、日本語とジェンダー及びセクシュアリティと発話の複合的アイデンティティと発話の実践を探る1。

第二章 批評的考察−先行研究を読む−

 従来の日本語とジェンダー研究・「女性語・男性語」研究2は、「性」を対人関係において話者及び聞き手が遂行する社会的ジェンダーと捉えるという認識にさえ達しておらず、「女性語」の研究においては、未だに本質的な傾向が見られるのである。Bakhtin(1981,1986,バフチン1979,1980,1988)の理論を援用するなら、ジェンダー言説と実際の言語使用の不一致は、ヘテログロシアにおける支配的な「単一言語」の変遷(ダイナミックス)によるものだ。「共通語」とされている「単一言語」は、言語の「標準化」へと働きかけるのに対し、現実に存在する言語的多様性(ヘテログロシア)はその中心に向いた動きを脱中心化する。つまり、多様性のない、一元的な言語は概念としてしかありえず、言語使用といった言語を実施する領域においては、言語の多元性が現象する。

 また、日本語におけるジェンダー・セクシュアリティ研究に必要とされるのは、固定したジェンダーコミュニティを基盤とする分析法ではなく、ジェンダーの遂行性を説明可能とする枠組みの新たな設定ある。Butler(1990,1993,1997a,1997b、バトラー1996,1997)が指摘するようにジェンダーを本質的な特徴及び性質としてではなく、人間が行う行為遂行として論じる必要がある。

第三章 <セクシュアリティと言葉>−談話資料に基づく言語実態

 本研究では、対談とその後に行われた参加者へのインタビュー(以下「インタビュー」)を資料にし、日本語話者がどのように<ジェンダー・セクシュアリティ・言葉>を考えるのかを解読する3。

 対談の中では、発話者がどのように<セクシュアリティと言葉>を言語化していくのかを問題化することにした。すると、二つの言語スタイルが話題にのぼった。一方は、<男の人>が使用する「オネエ言葉」であり、他方は<女の人>が使用する<うっす、どうも。元気です。>という発話形式である。<娑由里>や<オカ>は、「女性らしい」言葉を強制されることに抵抗を示しつつ、<オネエ言葉>を用いることによる直接性や連帯感の可能を説明する。対談において<レズビアンの言葉>と言えるような特定の言語スタイルは話題として成立しなかったものの、語彙レベルにおけるレズビアン同士、あるいは女を愛する女たち、が使用するいくつかの語彙が発話されている(例えば、<ギョーカイ>)。

 対談においてメタ言語的に語られた<セクシュアリティと言葉>の関係には、隠語としての側面があることは否定できないが、アンチ言語(Halliday 1976)としての可能性が含まれることを指摘しなければならない。ここには、Bakhtinが述べる求心的な働きならびに遠心的な動きの相互操作が確認できる。また、発話が実施する社会的差異の境界線を越えた言語操作(Pratt1987)も明確となる。ジェンダー行為遂行という面において、主流言説をパロディ化する<オネエことば>は、主流言説の積極的な引用であると共に、「女性言葉」「男性言葉」が真実の座を勝ち取れないことを見せ付ける。

第四章 発話者が語る<自分の言葉>−談話及びインタビューから読み取る<ジェンダー><セクシュアリティ><複合アイデンティティ>−

 <ジェンダー>と<セクシュアリティ>の関係は一対を成すものではないからこそ、その関係性を安易に語ることはできない。強制異性愛に基づく規範の働きかけの一側面は、<ジェンダー>と<セクシュアリティ>の混同である。発話者は、主流言説が強制するジェンダーに基づく言葉遣いを束縛と感じる場合がある。強制されるジェンダーを<束縛>と感じた場合、会話が進むにつれて、抵抗が生まれ、自発的に言葉の操作を実施し得る発話者の主体性が形成される。このような操作には、ネゴシエーション(切り抜ける・交渉・談判・掛け合い)という行為が伴われている。

 発話場面において、発話者は単一的役割ないし単一のアイデンティティのみを遂行するわけではなく、反復的に複合アイデンティティを遂行し続けるのである。<複合的アイデンティティ>の遂行は場面に基づいており、断続的に行われ、修正される行動であるから、「中心」となる「核」を成しえない。その反面、「複合的アイデンティティ」とは、行為遂行論が指摘する「実践におけるアイデンティティ遂行」の結果として現れるものではない。

 対談の参加者では、同じ言語の現象に対して異なった意識が持たれ、異なった選択が行われている。例えば、「わたし」に関して、一方は、「レズビアン」に向けられるジェンダーステレオタイプ、他方は場面目当ての丁寧さを用いた相互関係性である。更に、言語生活の過程において、複合アイデンティティの推移と意識の変化、言葉にも変化が生じることが確認された。発話者が自ら抱くセクシュアリティに関するステレオタイプの解釈によって、如何なる言語行動が選択されるのかは異なる。ここで行われた談話では、交差する異なった言語意識を見ることができ、その実践における差も確認された。

 日本語のジェンダー規範を拠り所とする<女言葉><男言葉>が強制異性愛主義と密接に関連することも明白である。また、発話者の複合アイデンティティにより、個人が意識的に「選択する・させられる」、「作りだす・だされる」表現方法に差異が生じていることも分かる。反面、<ジェンダー><セクシュアリティ>という軸においてのみ発話者が行う瞬間的かつ慣習的な言葉の選択については十分に語ることはできない。

第五章 「ジェンダー」「セクシュアリティ」「言葉」−自分が自分(あたし・ぼく・おれ)でいるために−

 量的解析研究の方法論に基づく社会言語調査であるならば、最後の章は「結論」として提出され、その「結論」には幾つかの言語要素とその談話における使用頻度の分析結果が提供されるだろう。しかし、ここではあえて「結論」を提供しないことにする。本研究の中心概念である複合アイデンティティ並びに言語使用において既に常に行われるネゴシエーション(切り抜ける、交渉、談判、掛け合い)という発話者の言語行為には、「結論」なるものは存在しないからである。むしろ、ここでは、第一章で述べた理論的な解説に回帰し、日本語を巡回する強制的なジェンダー規定、つまり、家父長制度に基づく異性愛を中心とするジェンダー規定、を再び浮き彫りにする。

 <田辺>との間に行われたインタビューは、様々な問題を換起する。その中で、きわめて重要なのは、発話者が自ら意識する<自分>という捉え方である。ここでいう<自分>は、流動的でありながら、身体化された境界線を保有する複合アイデンティティをネゴシエート(切り抜け・交渉・談判・掛け合い)するサイト(敷地)の結合と解釈される<自分>である。その<自分>は、内観的かつ回顧的に、予想という形態でしか存在しない、すなわち保証のない未来へと、発話者の選ぶ・選ばされる行為を通して形成(遂行)され、身体化されるものなのだ。

 本研究は、あえて批評的な方法論を用いることで、日本語とジェンダー研究が行ってきた従来の問いには直接的に言及せず、日本語の発話者が発話場面において常に行う多彩な、多面的なネゴシエーション(切り抜ける行為、交渉、談判、掛け合い)に注目した。本研究で明らかなように、日本語におけるネゴシエーション(切り抜け・交渉・談判・掛け合い)行為は、常にあらゆる場面で実践されている。日本語、ジェンダー、セクシュアリティ、複合アイデンティティを考察する上でのネゴシエーション(切り抜け・交渉・談判・掛け合い)への配慮を再び強調し、論を結ばず、問いを提示しておきたい。

1本研究の中心データとなる資料は、1)7人の参加者の間に行われた「セクシュアリティと言葉」座談会、2)8人の参加者の間での(1)直後の食事会、3)(1)及び(2)のいずれに参加した7名との間の個人インタビューである。

2「女性語・男性語」及び言葉の男女差は、主に人称代名詞、終助詞、ポライトネスの面において分類され、差異化される。

3本研究は、参加者を尊重したデータ収集法を取り、当事者性を強調する研究法(マリィ1998)を採ることとする。筆者は、一人の参加者として関わり、他の協力者と同様に自らの経験や意見を語った。

審査要旨 要旨を表示する

 クレア・マリイ氏の博士論文は、女性同士の性愛を自らのセクシュアリティとして選びとった、七人の参加者の間で行われた「セクシュアリティと言葉」という座談会、クレア氏を含めた座談会直後の食事会、七人の参加者に対する個人的インタビューを資料とし、その音声資料を記述的に分析することによって、日本語におけるジェンダーとセクシュアリティの関係を明らかにしたものである。

 この論文では、参加者の意思を尊重した、当事者性を強調する研究法、すなわちクレア氏自身が一人の参加者として座談会、食事会、インタビューにかかわり、他の協力者と同様に自らの経験や意見を語っている。音声として録音された七人の参加者の発話に対する分析は、話者個人に内面化され、身体化された社会が規定するジェンダーと、話者自身が抱いているジェンダーに対する考え方と気分感情がどのように発話にあらわれているのかを考察している。この方法は、ある特定の社会的カテゴリーに属する者がどのように話すのかを考察してきた、従来の日本語におけるジェンダー研究、「女性語、男性語」研究とは大きく異なっている。クレア氏は、従来の研究では「外れ言語使用」として見なされてきたクィアー言語をあえて分析の対象とすることによって、話者の「性」とその言語使用を本質主義的に結合してしまい、「性」が対人関係の中で話者と聞き手が遂行する社会的なジェンダーとして捉えるという認識にさえ達していないこれまでの「女性語」研究を厳しく批判している。こうした立場から、クレア氏は発話を行為が遂行される現場における、多層的で、複合的なネゴシエーション、すなわち言葉を使用することによって困難な状況を切り抜け、交渉し、談判し、掛け合いを行う実践として捉えることになる。

 クレア氏は、たとえば語彙のレベルにおけるレズビアン、あるいは女を愛する女たちが使用する特徴的な言葉を問題にし、そこに隠語にとどまらない、アンチ言語としての可能性を見いだしている。通常の「女性語・男性語」の区別をパロディ化する「オネエ言葉」(男性があえて使用する「女性語」)が一方でメイン・ストリームの言説を積極的に引用する求心性を持つと同時に、「女性語」と「男性語」が入れ替え可能であることを暴露してしまう遠心性を持っていることを明らかにする。発話者は単一のアイデンティティを遂行するのではなく、場面に基づきながら複合的なアイデンティティを遂行し、それぞれのアイデンティティには断続性があり、場面によって修正されることを実証している。この問題はとくに、一人称をどのように使用するか、というところに顕著にあらわれてくる。クレア氏は、一人称の使用が、レズビアンに対して向けられる、ジェンダーステレオタイプに対する抵抗、あるいは場面の中における話し手と聞き手との間の相互関係の中で変容することをあとづけている。複合アイデンティティが言語生活の過程において推移し、意識の変化に応じて言葉の使用にも変化が生じることを確認している。

 以上の分析をとおして、クレア氏は、日本語のジェンダー規範を拠り所とする「女言葉」「男言葉」が日本社会に強制された異性愛主義と密接に結びついていることを明らかにし、個人が意識的に「選択する」と同時に気がつかないうちに「選択させられている」アイデンティティの葛藤は、その場で「作り出す」「作り出される」表現方法に差異を生じさせ、発話者の複合的アイデンティティによって遂行される、多面的なネゴシエーションの様態を実証した。

 審査委員からの質問は、まず方法論の問題に集中した。藤井、近藤両委員からは、クレア氏の論文で使用されている「談話分析」という概念は、通常の言語学で用いる用法とかなり異なっているのではないか、という点が問われた。これに対し、クレア氏は、あえて批判的な言語論を用いることで、これまでの日本語研究におけるジェンダー研究を相対化しようとする意図があったと答えた。

 またイ委員は、クレア氏の分析が現実のネゴシエーションの過程よりも、むしろメタレヴェルの分析になっているのではないか、という点、さらにアイデンティティという概念をあえて維持する必要があるのか、クレア氏の論文ではアイデンティティというとらえ方自体の無効性が明らかにされているのではないか、という問いかけがなされた。これに対して、クレア氏は、「性」のアイデンティティが構成されていく局面と、それが裏切られていく局面の両面を問題にしたために、メタレヴェルのような印象を与えたのではないか、ということと、アイデンティティという概念をあえて使用することで、異性愛主義が強制されている日本社会の実状を明らかにしようとしたと答えた。

 審査委員会としては、クレア氏の論文を言語学のディシプリンに促したものとしてではなく、広い意味での文化研究としてすぐれた成果を示した学問的業績として評価し得ると認定した。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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