学位論文要旨



No 116744
著者(漢字) 大庭,三枝
著者(英字)
著者(カナ) オオバ,ミエ
標題(和) 「アジア太平洋」地域への道程 : 日豪の政策担当者と知識人の「自己包摂的地域」の模索
標題(洋)
報告番号 116744
報告番号 甲16744
学位授与日 2002.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第340号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 山本,吉宣
 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 名誉教授 渡邉,昭夫
内容要旨 要旨を表示する

 1989年11月、日本とオーストラリアのイニシアチブによって、「アジア太平洋」における地域協力をその目的とした閣僚級の地域枠組みであるアジア太平洋経済協力会議(APEC)が設立された。APECの設立は、アジアの太平洋沿岸部、オーストラリア、ニュージーランドという大洋州、太平洋の東岸に位置する北米を核とする「アジア太平洋」という地域概念の制度的具現であった。本稿は、主に第二次世界大戦終結後からこのAPEC設立に至るまでのアジア太平洋地域主義史が、国際社会におけるアイデンティティの不安定性を本質的に抱える「境界国家」日本とオーストラリアの「自己包摂的地域」模索を軸として展開してきたということを明らかにしようとするものである。またこれは、アイデンティティ理論と地域主義理論の双方の視点を用いて、それらを結合した新たな理論的視点からアジア太平洋地域主義の流れを分析しようとするものでもある。

 本稿で提示する境界性の概念とは、ある国家が複数の国家グループに属してはいるが、どのグループにおいても周辺的な地位におかれている状態を指す。そうした境界性を帯びた国家を「境界国家」としている。日本とオーストラリアはこのような境界国家に該当する。境界国家の構成員は、周りがその国がいつまでも境界性を帯びている状態でいることを許す状況ではないと彼らが認識し、さらに自国がどのグループにおいても周辺的な地位におかれている状態を変えねばならないと考える場合、自国のアイデンティティの不安定性を特に強く感じる。すなわち境界国家は「アイデンティティ・クライシス」に直面するのである。これは、様々な国際情勢の変化や激動、いわゆる「危機/変動」によってもたらされる。彼らは、それらの「危機/変動」をどう受け止め、それにどのように対応すべきなのか、という問いと連動した重要な問い−自国のアイデンティティを安定化させるために自国の新たなアイデンティティを如何に提示すべきか−という問いに直面することになる。

 境界国家の政策担当者や知識人らが自国のアイデンティティ・クライシスを解消するための方策として、三つの戦略が存在し得た。第一の戦略は、既存の国家グループへの参入を目指す形のアイデンティティを提示するものである。第二の戦略は、複数グループの周辺にいるという自国の境界性を「架け橋」として肯定的に読み替え、自国の果たしうる役割を最大限にアピールする形のアイデンティティを誇示することである。そして第三の戦略は、自国がそこに一員として属する新たなグループを自国が中心となる形で提示し、自国はその一員であるというアイデンティティを想定することである。

 日本とオーストラリアの政策担当者と知識人たちは、これらのどの戦略を採るにせよ、その際「地域」という形の国家グループを想定することが多かった。その「地域」は、単に地理的にある範囲を切り取るという意味以上に、そこに自国を帰属させるべき「我々」「ウチ」として想定された「自己包摂的地域」であった。日本とオーストラリアの既存の自己包摂的地域への参入やそこでの積極的な活動、また新たな自己包摂的地域の提示は、自国はどのようなメンバーをウチにある「我々」と規定してまとまっていくべきか、その「我々」はいかなる原理でまとまるべきなのか、そして何をそこで具体的に行うのか、という問いに対してその時々の「危機/変動」のなかで出された解答であった。「我々」を定義するとは、すなわち定義する側である「我」−この場合日本とオーストラリア−が、ある「他者」をそこにウチ=「我々」として組み入れると想定し、そしてある「他者」をソトに排除されるべき「他所者(よそもの)」として定義することであった。アジア太平洋地域主義史は、「危機/変動」に直面した日豪の政策担当者や知識人たちが自国のアイデンティティ・クライシスを解消するために行った「我々」ないし「ウチ」たる自己包摂的地域の模索によって彩られていたのである。日本とオーストラリアの自己包摂的地域模索の過程において、具体的には、「アジア」「太平洋」「アジア太平洋」という様々な地理的名称を関した、様々な意味内容を持つ地域概念が地域協力構想に付随して創出され、提唱された。その結果、APECをはじめとする、いくつかの地域機構、地域組織が設立され、そこでの地域協力が推進されたのである。

 しかしそれは、決して直線的な成功物語ではなかった。日本やオーストラリアの政策担当者や知識人たちによって提示された「自己包摂的地域」は、その範囲の設定も、冠される地理的名称も、そこで実際に何をすべきかについての設定も様々であった。「まず、「アジア」「太平洋」「アジア太平洋」の指し示す範囲や意味内容がその時々の状況を反映して定義/再定義されたという意味でそれは非連続性を帯びていた。また同じ時代であっても、「アジア」「太平洋」「アジア太平洋」それぞれの指し示す意味は多様であった。また、例えば「太平洋協力」を日本とオーストラリアの政策担当者や知識人たちが協同で推し進める動きがあったとしても、彼らがそれに期待していた内容が一致していたとは限らなかったし、それぞれの国内でも「太平洋協力」に期待する内容についてコンセンサスができているとは限らなかった。そして彼らは同床異夢でありながら、しばしば協同して「地域」の具現化に努めることも多かったのである。

 こうした非連続性、多様性、同床異夢性の一方で、日本とオーストラリアの政策担当者や知識人たちが自国の「境界性」から来るアイデンティティの不安定性を解消するために様々な自己包摂的地域=「我々」の定義とその提示を行ってきた、という意味での連続性も、アジア太平洋地域主義史の大きな規定要因だった。しかし、こうした日豪による自己包摂的地域という「我々」の定義とそれに伴う「他所者」の定義は、「我々」に組み入れられた「他者」であるところのアジア諸国やアメリカなどから拒否されることがしばしばであった。提示した側のみならず、提示された「他者」にも「ウチ/ソトの論理」が受容され、「我々意識」が共有されなければ、自己包摂的地域の提示は単なる概念提示で終わってしまう。「我々」のあり方を定義し、「我々」とそれ以外と区別する「ウチ/ソトの論理」が共有されない場合、日本とオーストラリアの試みは頓挫せざるを得なかったのである。また、新たな自己包摂的地域から「他所者」として明確に排除された場合、排除された「他者」があからさまにある地域のソトにおかれたことに拒否反応を示したことで、それに配慮せざるを得ないこともあった。両国の地域模索の事例の数に比べ、実現した機構、組織−自己包摂的地域の現実化の例−が少ないことは、こうした「我々」=自己包摂的地域のあり方についての、提示する側とされる側との間のダブル・コンティンジェンシー(二重の不確実性)の解消が多くの場合困難であったことに起因している。

 論文の構成は以下の通りである。まず、序章においてはアジア太平洋地域主義の歴史に関する先行研究のサーベイし、問題の所在を明らかにするとともに新たな視点を提示した。第1章では、国際関係理論におけるアイデンティティ論や地域主義論をサーベイしつつ、「アイデンティティ」や「地域」という概念の見直しを行った後、「境界国家」「自己包摂的地域」「アイデンティティ・クライシス」「我々」「他者」「他所者」「ウチ/ソトの論理」「危機/変動」などの諸概念の定式化を行い、本稿の論議の枠組みを提示した。第2章においては、日豪それぞれの「アジア」との連帯を基礎とした地域主義に参入するという形で具体化された自己包摂的地域模索に焦点を当てた。これは、第二次世界大戦後の新たな国際秩序の現出と冷戦の勃発、またヨーロッパやラテンアメリカ、アフリカなどが地域統合へと向かうなどの様々な「危機/変動」に触発された動きであった。第3章では、それまでは大国間競争の単なるアリーナとしての地域であった「太平洋」が、日豪の新たな自己包摂的地域模索の過程で域内先進五カ国をその範囲とするものに再定義されたこと、そしてその再定義された地域に立脚した地域主義とはどのような性質を持っていたかを論じる。その動きをもたらした「危機/変動」はヨーロッパ統合の動きや南北問題と南北間対立の激化などであった。第4章では、1960年代から1970年代にかけて日豪の多くの政策担当者や知識人たちが提示した自己包摂的地域である「アジア太平洋」に焦点を当てた。この章においては、「アジア太平洋」と一言でいっても様々な「危機/変動」の中で様々な論理のもと様々な「アジア太平洋」が提示されたことを示した。第5章においては、日豪の政策担当者や知識人たちによって再定義され、アジア諸国をもカバーし範囲を拡大した新たな自己包摂的地域である「太平洋」地域概念のもとでの地域主義の推進を中心に扱った。この拡大された「太平洋」概念に立脚した地域組織として具体化した太平洋経済協力会議(PECC)は、1970年代における様々な「危機/変動」−米中和解という地域のパワーバランスの根本的な変化、多極化、イギリスのEC加盟、貿易摩擦の激化と資源問題の浮上、南北間対立の激化、アジアNIEsの経済成長など−の中、新たな自国のアイデンティティを描こうとした日豪の様々な構想がもとになっていた。しかし一方でPECCが設立されても異なる含意の「太平洋」概念もしばしば提示されたのである。そして第6章では、1980年代後半の新たな「危機/変動」−EC、NAFTAなどの地域主義の浮上、プラザ合意後の日本、アジアNIEs, ASEAN諸国の急激な経済発展、アメリカとアジア諸国の貿易摩擦問題、アメリカからの自由貿易協定の申し入れ、ウルグアイラウンドの不調など−に直面し、新たなアイデンティティを求める日豪において新たな意味内容を持つ「アジア太平洋」が再定義されたことを明らかにする。そして様々な地域協力の構想が相互作用する中で、異なる概念が一つに収斂していき、1989年11月のAPEC設立へと繋がったことを示した。最後に終章においては、本稿全体の結論を示すととともに、1990年代の日豪の彷徨の続きを概観した後、今後の課題を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

 今日、アジア太平洋という言葉は太平洋に面するアジア大陸東部、南北アメリカ大陸西部、オセアニアを含む広大な領域を指し、しかもこの領域に含まれる国家や人々がひとつの地域としてまとまっている、ないしまとまろうとしているという理解が浸透している。この領域が地域として認識され受け入れるにいたった背景には、1989年に発足したアジア太平洋経済協力会議(APEC)の存在と活動がある。この比較的に新しい「アジア太平洋」地域がいかにして地域として捉えられるようになったかという問題は、地域主義の理論的研究はもちろん日本の対外政策研究にとって重要なテーマである。この問いに対する従来の通説は、この地域に属す政府や知識人、経済人たち(とくに日本とオーストラリアの関係者)が協力して、民間レベルの制度から開始し、政府を巻き込んだ非公式組織を経て、ついにAPECという政府機構を作り上げたという、いわば「成功物語」である。

 このような通説を、単線的発展モデルに基づくものと批判し、新しい視点から「アジア太平洋」地域が地域として捉えられるようになった過程を描き直したのが、「「アジア太平洋」地域への道程−日豪の政策担当者と知識人の「自己包摂的地域」の模索」と題する審査対象論文である。論文は、本論をなす6章に序章と終章がついた全8章からなり、400字詰め原稿用紙に換算して約800枚に相当する分量である。そこでは新しい国際関係理論が構築され、通説よりもはるかに広範な歴史過程が分析の対象となった。通説と同様に日本とオーストラリアの関係者の認識と言動に焦点を当てながら、結果として、アジア太平洋が地域として受け入れられる過程は、非連続性、多様性、同床異夢性という単線的発展モデルとは対照的な特徴を有していることを明らかにし、さらにアジア太平洋地域の成立は決して到達点ではなく、現在進行形の地域模索のひとつの経過点であることを示した。本論文はアジア太平洋地域形成史(ないし地域主義史)の研究水準を一段高めたものであり、きわめて高く評価できる。しかし本論文の国際関係論への学問的貢献は、アジア太平洋地域形成史(ないし地域主義史)を書き換えた点にあるだけではなく、なぜそのような経過を辿ったのかという問題に解答を与えるべく、関係者にとって自国がどのような地域に属すべきなのかという地域的アイデンティティを中心概念に置く分析枠組みを提示し、それを用いて新しい切り口から国際関係を叙述・分析した点にもある。

 具体的には本論文では、議論は次のように展開している。まず、序章でアジア太平洋地域形成史に関する先行研究を整理し、上述のような特徴を析出した上で、その方法論上の問題点を指摘し、新しい理論的枠組みを構築する必要性と分析対象の範囲を拡大する必要性とを明らかにする。第1章では、アイデンティティと地域という2概念に関する国際関係理論を紹介しつつ、その有用性とともに既存理論の不十分さを指摘し、本論文で駆使する分析枠組みを示す。すなわち一方では、間主観性とダブル・コンティンジェンシー問題とを正面から捉え、集団アイデンティティの一種としての地域的アイデンティティを提起して、国際社会の中で安定的なアイデンティティを確立し得ない国家として、特に複数の地域帰属の狭間に置かれた「境界国家」という国家概念を分析枠組みとして提示した。他方では、地域類型論を展開して「自己包摂的地域」の捉え方を提起し、この概念を上述の「境界国家」に結びつけた。すなわち、「境界国家」は安定的な地域アイデンティティを模索する中で、ひとつの選択肢として「自己包摂的地域」の創設を試行する、という命題を立てた。以上の中心的分析概念を軸に、国際環境の危機/変動、アイデンティティ・クライシス、ウチの我々に想定される他者とソトの余所者に想定される他者との分別、といった補助概念を導入する。第2章以降は実証分析に移るが、第2章では第2次世界大戦以降の日本とオーストラリアがいかなる意味で境界国家なのかを示し、特にアジアとの関係性が孕む問題として、その後の自己包摂的地域の模索の歴史の出発点を明らかにする。ここでは、両国とも各々アジアとの関係を安定させるのに失敗する過程が論じられる。第3章では、1960年代から70年代にかけて「太平洋」が新たに自己包摂的地域として両国によって提唱される経緯が明らかにされ、それが具体的には環太平洋先進5カ国(日本、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、アメリカ)に限定され、そこへの帰属が課題であったと指摘する。第4章ではやはり1960年代から70年代にかけて、既に「アジア太平洋」という名称で自己包摂的地域を形成しようとする構想がいくつか提唱されるが、その意味も、またウチとして想定される国家群も、今日のアジア太平洋地域とは大きく異なることが明らかにされる。第5章では、1980年代を中心に「太平洋」が新しい意味内容を込めて提唱され、それが拡散してついには地域概念としての凝集性を失っていく過程が明らかにされる。そして第6章では、1980年代末に、以上のさまざまな自己包摂的地域の模索試行とは別個に、APECの設立に繋がるアジア太平洋の地域化の動きが論じられる。終章では、以上の実証分析を踏まえて、今日流通している地域概念としてのアジア太平洋が決して、段階的に発展し確立したのではなく、国際環境の変動の中でアイデンティティ・クライシスに陥った、ないし新たな自己包摂的地域の必要性を痛感した日豪両国の政策担当者と知識人が独自に、場合によっては相互に連携しつつ、さまざまな用語をさまざまな意味内容に結びつけながら試行錯誤を続けてきたことが確認される。その過程では、協力しつつも実際には同床異夢であったり、ウチに想定した相手から拒絶されて挫折することもあったことが強調される。そして、1990年代末以降の新しい動き、すなわち「東アジア」が新しい意味内容を込めて提唱され始めたことを指摘しつつ、アジア太平洋地域形成史といった把握方法さえ相対化されるかも知れないことに読者の注意を喚起する。

 第2章から第6章に至る実証分析は、このように、必ずしも時間軸を切る時期区分に従うのではなく、自己包摂的地域(ないしその構想)を表す用語の異同に注目しつつ、時間的に重なり合いながら歴史叙述が進行する。そこでは、日豪両国の政府の公式文書はもちろん、政治家、官僚、学者、経済人などの発言やさまざまな組織や団体の提言、声明など、豊富な一次資料を用いながら、ある時代状況に置かれた関係者の複雑で、場合によっては互いに矛盾しかねない認識を丹念に読み込んでいる。その結果、単線的発展モデルの適用によって見落とされてきた、あるいは不当に無視・軽視されてきた、両国関係者のさまざまな試行錯誤、提唱と挫折が、成功の事例とともに立体的に浮かび上がってきている。そのような半世紀に及ぶ決して平坦ではなかった道程を歩んできた日本人とオーストラリア人の自己認識、両国を見る周辺の眼、そして自分たちを中心に位置づけたい地域を提唱する動機とその帰結が、第1章で提示された分析枠組みの中で理論的に意味づけられている。

 本論文は、このようにかなり込み入った論理と多種多様な一次資料とを駆使した多彩な内容であるにも関わらず、平易な文章で書き表されているので全体の叙述の流れは理解しやすい。本審査委員会は、本論文を、アジア太平洋地域形成史(ないし地域主義史)を日本とオーストラリアが主として関わってきた自己包摂的地域のさまざまな形での提唱と試行錯誤という観点から複合的・多元的に書き換えたものとして高く評価するだけでなく、その際に用いられた分析枠組みの構築を通じて国際関係理論へも貢献面した点からも高く評価する。

 もちろん、さらに改良する余地は残されている。実証分析にあたって、1950年代におけるオーストラリアの地域認識と地域機構参画は、本論文でなされている以上にさらに詳細に検討するに値しよう。また、日本とオーストラリアが互いに相手に対するイメージをどのように変化させていったかを強調すれば、両国の各々単独での、あるいは競合・協力しての自己包摂的地域の提唱が特定の事例においてなぜそのようになったのかについて、一層説得的に議論が展開されただろう。理論的には、本論文の実証分析を踏まえれば、国際環境の変化、関係者による認識、具体的な地域構想の提唱の相互間に一定の法則性を導入するまで洗練できたかもしれない。また、直接的にはアジア太平洋地域形成に関わる日豪両国を理解するために構築された分析枠組みではあるが、それが他の地域形成、他の地域主義にどのように適用可能かという問題も残っている。さらに付け加えれば、間主観性に基づく理論と主体の合理性に基づく理論体系との関連性についてもう一歩踏み込んで論じれば、理論的貢献はさらに高まっていたであろう。このような実証的、理論的課題は残ってはいるものの、それらはこの論文の本質的欠陥をなすものではなく、提出者にとっての今後の研究課題の在処を指し示すものであると本審査委員会は受け止めている。

 以上を要するに、本論文は国際関係論の研究に実証面、理論面の双方で卓越した貢献をなす作品であり、したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するのにふさわしいものと認定する。

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