学位論文要旨



No 116746
著者(漢字) 張,玉萍
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ギョクヘイ
標題(和) 戴季陶の日本観の研究
標題(洋)
報告番号 116746
報告番号 甲16746
学位授与日 2002.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第341号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 並木,頼寿
 日本女子大学 教授 久保田,文次
内容要旨 要旨を表示する

 本論稿は、戴季陶の少年期の日本留学経験やその後の日本との繋がりと、彼の政治活動や政治思想とを明らかにした上で、当時の輿論や彼の人生に最も大きな影響を与えた孫文の日本観などと比較しつつ、彼の日本観の形成・発展・変化の過程とその内容・特徴を考察し、日本という存在が戴にとってどのような意味を持ったのかを検討するものである。

 戴季陶を取り上げるのは、彼が多くの留日経験者の中で、後に最も傑出した知日家となり、意味深い日本論を著した人物であり、また彼の日本観が同時代の中国人の対日認識に大きな影響を与え、国民党政権の樹立・強化及び国民政府の対日政策の決定に力を発揮したからである。各時期の革命情勢に基づく発生・発展・変化の過程を経て、次第に成熟した彼の日本観を分析するには、時系列的な変化の外に、さらに彼が日本問題について意見を発表した際の、背景・動機・対象・目的から環境などに至るまで、多くの関連する要因を併せて考慮しなければならない。歴史的な実証研究と併せて、その思想(日本観)を分析することを試みる本論稿は、戴季陶が1891年に生まれてから、1949年に亡くなるまでの58年間を研究範囲として限定し、日本観の分析は彼が留学を終えて帰国した後の1909年以後を対象とする。彼の経歴や思想と相互に関連・影響しながら、その日本観に生じた内在的な変化を軸として、これを以下のように六つの時期に分ける。第一期、辛亥革命期(1909〜1912年)、第二期、討袁運動期(1913〜1916年)、第三期、護法運動期(1917〜1918年)、第四期、五・四運動期(1919〜1923年)、第五期、国民革命期(1924〜1928年)、第六期、国民革命後(1929〜1949年)。戴の経歴や思想・日本観の変遷を縦軸とし、各時期の中国の政治状況や輿論及び孫文の日本観を横軸として、全体的かつ立体的に戴の日本観を捉えることにする。そこで、本論での論証を通して以下のような結論に到達した。

 清朝末期、科挙に失敗して日本と出会った戴は、日本留学こそが唯一の教育・出世の機会であったため、必然的に早くから日本自体に対して強い関心を持った。そして、最も感受性の強い時期に日本で高等教育を受け、抜群の日本語力と専攻の法学の知識によって中国で出世する能力を獲得した。初恋の失敗の打撃により日本帝国主義の残酷さ、植民地化された朝鮮の悲惨さ、中国の存亡の危機を痛切に実感した。日本の庶民との交流により、日本に対する感性的認識も深まった。一貫して日本自体に関心を持ち、日本を明確な認識・研究対象としていた戴は、日本人の文化・民族性をその内側から総合的に認識し、日本人の価値観を把握・表現する基礎が、この時期に作られたのである。

 辛亥革命期に一介の留日学生から政治評論家になった戴は、中国の存亡問題に強い関心を持ち、清朝の列強に対する無能・弱体を目の当たりにして反清思想を抱き、列強の一員と見なした日本に注目した。日韓関係・日英同盟関係及び日本自身の状況や民族性の分析を通して、日本の対中侵略の必然性を確信した彼は、日本批判の立場から出発して「日本敵視論」を持つようになった。これは、同時期の上海輿論界にあった日本批判論よりも急進的である。この敵視論は後年、中国国民党の対日政策にも影響を与えたほどの、客観的・総合的な日本理解が形成される一つの基礎となったのである。

 討袁運動期に政治評論者から政治実践者に転じた戴は、討袁革命運動の勝利のために、日本の援助が必要不可欠だと認識したので、討袁革命に世界的意義を注入し、日本を仲間だと見なし、初めて日本人の共同的信仰の強固さを評価した。辛亥期の「日本敵視論」から一変して、「欧米大同盟」の「黄禍抵抗」という黄白人種衝突の視点から、「日中提携論」を唱えるようになった。これは、孫文の影響に加えて、彼自身の特別な経歴・思想と深く関わり、中国国内で二十一か条問題を巡って起った激しい反日感情と鮮明な対照をなしており、特異な対日認識である。彼は、専ら日本の視点に立って研究対象としての日本を論じるという姿勢・態度を獲得し、後に日本の長所・短所を共に客観的に捉えることができるようになる基礎が作られた。また、この提携論は辛亥期の敵視論と合わせて、後に対日認識が集大成される一つの原型となったのである。

 護法運動期に戴は、軍政府成立直前の重要な対日工作の実体験に基づき、日本はモデルでありながらライバルでもあると認識し、日本の侵略性を批判しながら日本との提携を模索し、「批判的提携論」を唱えた。「中日軍事協定」の締結により全国的に反日感情が高まっていた輿論及び日中提携を策略として提唱し、最大限に日本に妥協していた孫文の日本観と比べると、戴は日本の大陸政策を理解する態度を示しながらその侵略性をも見抜き、中国の富強化を唱え、ある程度の客観性・冷静さを表している。これは、辛亥期に日本の対中侵略の必然性を確信したことや、討袁期に日本の視点に立って研究対象としての日本を論じるという姿勢・態度を身につけたことに、基づいたものだと考えられる。

 五・四運動期に政治思想家と政治実践者の両面を一身に兼ね備えた戴は、日本観を含む思想の成熟期を迎えた。青島問題を巡って中国全土で史上空前の反日輿論及び帝国主義を批判した孫文の日本観と比べると、戴は、日本国内の社会革命の成功により日本が大陸侵略の伝統政策を放棄することが実現してこそ日中親睦が可能になると主張している。そこで、辛亥期の「日本敵視論」を改め、日本の国民と日本の貴族・軍閥・藩閥を区別し、前者との親善を図り後者との対決という道を示した。また、討袁期の「日中提携論」も消え、代わりに両国の現政権の打倒を目指す社会革命が成功してこそ両国関係を改善でき、その場合には両国の平民連合が必要だと認識した。従って、護法運動期の「批判的提携論」の批判と提携のそれぞれの対象を、より明確化することができた。即ち、日本の特権階級との対決と日中平民連合の総合、いわば「対決・連合論」を持つようになった。

 国民革命期に国民党理論家・対日外交有力者になった戴は、日本訪問を通して日中戦争の不可避性を認識し、結局日本と提携できない根本原因について歴史的・系統的に検討し、日本の近代化経験に中国統一のための貴重な参考要素を見出した。済南事件を巡る反日輿論や孫文の日本観にあった日本国民に期待する傾向と比べると、戴は日本の民衆が覚醒と組織化の初期段階に位置し、中国の革命的民衆と連携する意思があっても実力がなく、一方で日本の反動的・軍国主義的な政治勢力が圧倒的に強いことを見抜いた。さらに彼は軍閥・官僚・財閥が日本の政局を握り、変質した政党はそれの間のブローカーに過ぎず、民衆の力が薄弱なため日本は民族主義から国家主義へ、さらに帝国主義・軍国主義の道へと暴走したと分析し、日本の政治に幻滅してしまった。一方、高く評価した日本人の信仰力と尚美の民族性が消え社会全体が退廃的になったと実感した戴は、終に日本の文化に対しても幻滅してしまった。従って、戴の日本観は「中国自強論」と表裏一体を成す「幻滅的日本論」だと言える。これは、辛亥期の日本帝国主義に対する鋭い指摘・批判、討袁期に身につけた日本の視点に立って日本を分析する姿勢、護法期の日本はモデルでありながらライバルでもあるという認識を継承しながらより深めたものである。他方で完全に変化した面としては、討袁期以来提唱してきた「日中提携」の範囲が次第に縮小し、五・四時期に期待した日中平民連合の主張も完全に消え、日中対決の不可避性が再確認され、日本政治に幻滅したことがある。また、討袁期には日本の神権思想が発展の原因だと認識し、五・四時期になると、それが武士道を生み出し武力主義に変化して大陸侵略の根本原因になったと批判したが、この時期に入るとそれが信仰力と尚武精神を生み出し、近代化の成功を促した一因だと称賛しながらも、日本訪問の実体験によりこれらの特質と尚美・平和精神の減少に「隔世の感」を持った戴は、終に日本文化にも幻滅したのである。当時、中国の不安定な情勢の中で、彼は日本という材料の解剖を通して、中国人に独自性の保持、三民主義に対する信仰の統一、民族的自信力の回復という自己の政治思想を表明し、国民党政権の強化のために一定の役割を果すと共に、近代国家建設の経験を探ろうとしたのである。これこそが『日本論』を著した最大の目的であり、彼の日本観が持つ最大の意義でもある。

 国民革命後、国民党元老・対日政策の制定者になった戴は、近代国家の建設と「剿共」を優先的に考え、「中国自強論」を現実政治に最大限に生かすと同時に、文化的観点から「日本非敵論」を持つようになった。これは軟弱で妥協的だと見られて批判され、その苦心は抗日民族主義が昂揚していた国民には受け容れられず、戴は対日外交や中国政治の第一線から退出してしまった。理想と現実に挟まれた戴の日本観は結局、日中戦争という最も重要かつ特殊な時期において、十分に効果を発揮できなかったのである。

 日本は戴にとって個人の立身出世の手段から現実に中国革命への提携や援助を期待し得る対象となり、さらに政治思想における参考対象となって、国民の「信仰」上の統一や「安内攘外」政策など、国民党政権の政策確立の思想的基礎となった。しかし同時に、戴は批判・対決・提携・連合など様々な日本観を持ち、より良い対日関係を模索しながらも、結局は全てが徒労に終り、日本に対して幻滅感を抱かざるをえなかった。日本という存在は彼の「成功」を促したのであるが、日本の中国侵略は彼の政治生命を滅ぼしたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 戴季陶(1891-1949年)は,清末に日本に留学し,その後孫文の側近として中国国民党史上に名を知られた有力政治家であり,また『日本論』などの著作で知られる日本通の思想家である。彼は孫文の革命運動の追随者であったのみならず,マルクス主義の中国への紹介者や三民主義の儒教的解釈者,国民党の元老,蒋介石の無二の盟友など,多彩な顔をもつ人物であり,従来からその思想や行動が注目され,また,国共両党間の対立や融和に応じて,後世の評価は大きく揺れ動いてきた。

 本論文は,近代中国の対日政策・対日関係において大きな影響力をもった戴季陶の日本観を,その形成・発展・変化の過程にそくして,全面的に考察しようと試みたものである。とりわけ,戴季陶の日本留学経験やその後の日本との接触が,彼の政治活動や政治思想にどのようにつながるのかを,大量の一次資料を用いて解明しようとした点に,本論文の大きな特色がある。

 論文は,序章と本論7章,および終章の全9章からなり,付録として「戴季陶の来日」と「『戴季陶と日本』に関する文献目録」を収める。本文は166ページで,付録・参考文献を含めると,総ページ数は197ページ,400字詰め原稿用紙に換算すると,約780枚の分量になる。

 以下,章をおって,本論文の内容を紹介する。まず,序章は,戴季陶に関する先行研究と研究動向を整理し,その問題点と限界を指摘した上で,本論が採用するアプローチと史料の概要を提示する。本論に当たる第1章から第7章では,ほぼ時系列に沿って,当時の国際関係や政治状況,国内世論の動向などを踏まえつつ,戴季陶の日本観を分析している。

 第1章「戴季陶の日本との邂逅」は,清末に日本に留学した戴季陶の生活や勉学の様子を限られた史料から再構成し,「日本経験」がその後の彼の人格形成に大きな痕跡を残したことを指摘する。続く第2章「辛亥革命期の日本観(1909〜1912年)」では,中国の存亡に強い危機感を抱く戴季陶が,日本の対中侵略の必然性を強く意識し,新聞紙上に「日本敵視論」というべき論陣を張ったことが,明らかにされる。

 さらに,第3章「討袁運動期の日本観(1913〜1916年)」および第4章「護国運動期の日本観(1917〜1919年)」は,下野した孫文にしたがい袁世凱打倒運動に従事した戴季陶が,革命には日本の援助が必要であるとの政治判断から,一転して「日中提携論」を唱えるに至り,日本の侵略性を意識すると「批判的提携論」を主張したことを指摘する。当時の世論の動向が,反日に傾く中,戴季陶は感情的な反日運動には距離を置き,冷静な日本研究の必要性を説いていた。このことは,後年の『日本論』に結実する彼の対日観の原型を形作った,と著者はいう。

 第5章「五・四運動期の日本観(1919〜1923年)」は,日本批判の姿勢を維持しつつ,戴季陶が日本の社会主義思潮やデモクラシーの隆盛に刺激を受けて,両国の平民が連合した社会革命を指向すべきだという「対決・連合論」を抱くようになったことを明らかにする。さらに,第6章「国民革命期の日本観(1924〜1928年)」は,日本訪問を通して,戴季陶の日本認識がますます厳しくなってゆく過程をたどり,日本が彼にとって提携や援助を期待する対象から,中国革命の遂行のための参照項に変じたと述べる。彼の日本研究の集大成ともいえる『日本論』は,かくして「中国自強論」と表裏一体をなす「幻滅的日本論」に彩られることになった。

 国民革命後,中国国民党の元老,対日政策の策定者になった戴季陶は,近代的民族国家の建設と「剿共」を優先課題に掲げ,文化論的立場(王道論)から日本を批判した。第7章「国民革命後の日本観(1929〜1949年)」は,こうした彼の認識を「日本非敵論」と位置づけている。終章では,以上のような各時期の日本論を総括して,その変遷の軌跡を次のように整理している。すなわち,辛亥期の「日本敵視論」から一変して討袁期の「日中提携論」になり,護法期にはこの両者を基礎にして「批判的提携論」を唱えた。五・四期には前の時期の日本批判と提携の対象を明確化して「対決・連合論」を主張したが,国民革命期には「幻滅的日本論」に到達した。国民革命以後は,日本の中国侵略の激化という現実問題に対処するため「日本非敵論」を抱くようになったが,各時期の種種の日本論・日本観の根底には,それらと表裏一体をなすかたちで「中国自強論」が持続していたのだ,と。

 以上のような,構成と内容を持つ本論文は,当時の変転きわまりない政治環境を背景に,戴季陶の曲折した政治行動や対日認識を詳細に分析している。文中では,戴季陶の思想の分析と並んで,当時の国内世論や孫文の対日態度なども論じられているが,平明で論理的な表現・文体で書かれているので,全体の叙述の流れは理解しやすい。また,大量に引かれる一次史料の扱い方や読解も正確で,学術論文としての体裁を十分にそなえている。本審査委員会は,本論文を戴季陶研究のみならず,近代中国史・日中関係史・中国国民党史研究への新たな貢献として高く評価する。より具体的に,本論文の長所を挙げてみると次のようになるであろう。

 第一に,従来しばしば戴季陶研究につきまとってきたイデオロギー的評価から離れて,新発掘の史料なども駆使しながら,戴季陶の実像をできるだけ内在的・客観的に解明しようとしたこと。

 第二に,断片的恣意的な紹介にとどまってきた戴季陶の日本論の全体像を,時間的な変化を追いつつ,一本の太い線として描き出し,かつ各時期の日本観の有機的関係に整合的な説明を与えたこと。

 第三に,政治実践者でもあり,文化人・思想家でもあった戴季陶の複雑なパーソナリティを,全生涯を通観した上で明らかにし,さらに彼の政治活動や国内世論の動向との連関を描き出したこと。

 以上,総括すれば,中華民国期の対日外交・対日認識において最重要の位置を占める戴季陶という人物を分析することを通じて,近代日中関係の一側面に新たな光を照射したことに,本論文の最大の貢献があると言えるだろう。

 もちろん,以上のような長所を持つ本論文ではあるが,今後改善すべき余地がないわけではない。審査委員会では,戴季陶の日本論を支えた「知の枠組み」がいかなるものであったのかに関する検討が不十分なこと,戴季陶が絶えず触発されていた同時代日本の言説への目配りが足りないこと,彼の日本論を一体のものとしてみるのではなく,大きく政治論と文化論に分けて論じるべきこと,などの注文がつけられた。

 しかしながら,以上指摘された短所は,本論文の学術的な価値を損なうものではなく,むしろ今後発展させるべき課題であると言える。本論文が,戴季陶や中国国民党史,さらには中華民国史・中国近代史の研究に多大の貢献をもたらし,近代日中関係史の研究に新境地を切り開いたことは疑いない。したがって,本審査委員会は一致して,博士(学術)の学位を授与するのにふさわしいものと認定する。

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