学位論文要旨



No 116747
著者(漢字) 太田,里子
著者(英字)
著者(カナ) オオタ,サトコ
標題(和) 膜融合初期過程の分子動力学シミュレーション:脂質分子の配向変化と脂質−水相互作用の変化の検討
標題(洋)
報告番号 116747
報告番号 甲16747
学位授与日 2002.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第342号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大森,正之
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 助教授 安田,賢二
 名古屋大学 教授 楠見,明弘
内容要旨 要旨を表示する

 膜融合は、全ての細胞における膜構造の形成や小胞輸送の重要な素過程であり、また、エンベロープウイルスの細胞内への感染などでも重要なステップとなっている。このため、多くの膜融合関連タンパク質が同定されてきた。しかし、膜融合が実際にどのような分子機構と過程で起こるかは分かっていない。我々は膜融合タンパク質によって二枚の膜が引き寄せられたとき、その間に水分子がほとんど存在しないくらいの距離にまで接近したごく小さい領域が生じ、そのような接触部分で脂質分子の配向変化が起きることが膜融合の引き金となるのではないかと考えた。そこで本研究では、二枚の膜がごく小さい領域で接触したときに、脂質分子の大きな配向変化や構造変化(異性化)が起こるか、起こるとしたらどの程度の時間スケールで、どの程度の空間スケールの変化が起こるか、について検討した。そのため、二枚のジミリストイルホスファチジルコリン(DMPC)二重層膜を近づけ、その間に存在する水の量を変化させて分子動力学シミュレーションを行った(図参照)。

 十分水和したDMPC二重層膜では、DMPC一分子あたり平均5個の水分子が水素結合している。そこで二枚の二重層膜の間に挟まれた水分子の数を、DMPC一分子あたり5個(W5)、2個(W2)、0個(W0)のように変えた3つの初期構造を作り、温度310Kで平衡化した。それぞれの系について合計の計算時間を約2ナノ秒にそろえて、膜の構造変化を比較した。その結果、3つの系すべてにおいて2ナノ秒以内に、二枚の二重層のうちの向かい合っている側の2層に、大きく配向の変化した脂質分子が現れた。その変化は、アルキル鎖が疎水部分の外に露出し、膜面にほぼ平行に倒れるというものであった。そのような分子の割合は、膜間の水分子を減らしていくのに伴い5%(W5)、7%(W2)、12.5%(W0)と増加した(図参照)。一方、向かい合っていない側の2層では最大2%であった。アルキル鎖の配向が変わった分子のコンフォーメーションは、膜融合の初期過程に出現すると考えられる、配向の大きく変わった脂質分子のコンフォーメーションと似ていた。

 アルキル鎖の配向が変化する過程を観察すると、アルキル鎖の付け根のカルボニル酸素がコリン基とチャージペアを形成するという構造が、外にでたアルキル鎖のうちの45%で見られた。このようなチャージペアの形成が、アルキル鎖がコンフォーメーション変化した原因の一つである可能性がある。

 向かい合っている側の層の間(層内ではなく、向かい合っている二層の間で)でのDMPC間のチャージペアは層間に存在する水の数を減少させるとともに増加した。特に、W0では、全ての脂質分子が層間のチャージペアを形成した。その数はDMPC1分子あたり3.6対にも達し、層内でのチャージペアの数より多くなった。W5、W2では、リン酸基と水分子の水素結合と、リン酸基とコリン基のチャージペアの交換が数百ps以下の時間スケールで生じた。

 これらの結果は、二枚の膜を、膜間の水分子の数がDMPCに対して5個以下になるように密着させると、脂質分子に水素結合した水分子がはずれ、数ナノ秒以内に膜の間でチャージペアが形成されること、また、疎水部分を膜外に出したり倒れたりする脂質分子が多数出現するという大きな変化が生じて、これによって膜融合が開始される可能性がある、ということを示す。

上:膜小胞同士の融合の初期に、二枚の膜が非常に接近し、脂質分子の配向が変化して融合の中間状態を形成し、その部分で切れて小胞が2つから1つにつながるモデル図。

下:二枚のリン脂質二重層膜が非常に接近した緑の四角で囲った部分を取り出した系を作成し、分子動力学シミュレーションを行った。膜間の水分子の数を、5個/lipid、2個/lipid、0個/lipidと変えた3種類の系を作り、これらについて2nsの計算を行った結果、膜間の水分子が少ないほど多数の膜表面に平行に倒れた脂質分子が出現した。

審査要旨 要旨を表示する

 膜融合は、全ての細胞における膜構造の形成や小胞輸送の重要な素過程であり、また、エンベロープウイルスの細胞内への感染などでも重要なステップとなっている。このため、多くの膜融合関連タンパク質が同定されてきた。しかし、膜融合が実際にどのような分子機構と過程で起こるかは分かっていない。太田らは膜融合タンパク質によって二枚の膜が引き寄せられたとき、その間に水分子がほとんど存在しないくらいの距離にまで接近したごく小さい領域が生じ、そのような接触部分で脂質分子の配向変化が起きることが膜融合の引き金となるのではないかと考えた。本研究では、二枚の膜がごく小さい領域で接触したときに、脂質分子の大きな配向変化や構造変化(異性化)が起こるか、起こるとしたらどの程度の時間スケールで、どの程度の空間スケールの変化が起こるか、について検討している。具体的には、二枚のジミリストイルホスファチジルコリン(DMPC)二重層膜を近づけ、その間に存在する水の量を変化させて分子動力学シミュレーションを行っている。

 十分水和したDMPC二重層膜では、DMPC一分子あたり平均5個の水分子が水素結合している。そこで二枚の二重層膜の間に挟まれた水分子の数を、DMPC一分子あたり5個(W5)、2個(W2)、0個(W0)のように変えた3つの初期構造を作り、温度310Kで平衡化した。それぞれの系について合計の計算時間を約2ナノ秒にそろえて、膜の構造変化を比較した。その結果、3つの系すべてにおいて2ナノ秒以内に、二枚の二重層のうちの向かい合っている側の2層に、大きく配向の変化した脂質分子が現れた。その変化は、アルキル鎖が疎水部分の外に露出し、膜面にほぼ平行に倒れるというものであった。そのような分子の割合は、膜間の水分子を減らしていくのに伴い5%(W5)、7%(W2)、12.5%(W0)と増加した。一方、向かい合っていない側の2層では最大2%であった。アルキル鎖の配向が変わった分子のコンフォーメーションは、膜融合の初期過程に出現すると考えられる、配向の大きく変わった脂質分子のコンフォーメーションと似ていた。

 アルキル鎖の配向が変化する過程を観察すると、アルキル鎖の付け根のカルボニル酸素がコリン基とチャージペアを形成するという構造が、外にでたアルキル鎖のうちの45%で見られた。このようなチャージペアの形成が、アルキル鎖がコンフォーメーション変化した原因の一つである可能性がある。

 向かい合っている側の層の間(層内ではなく、向かい合っている二層の間で)でのDMPC間のチャージペアは層間に存在する水の数を減少させるとともに増加した。特に、W0では、全ての脂質分子が層間のチャージペアを形成した。その数はDMPC1分子あたり3.6対にも達し、層内でのチャージペアの数より多くなった。W5、W2では、リン酸基と水分子の水素結合と、リン酸基とコリン基のチャージペアの交換が数百ピコ秒以下の時間スケールで生じた。

 これらの結果は、二枚の膜を、膜間の水分子の数がDMPCに対して5個以下になるように密着させると、脂質分子に水素結合した水分子がはずれ、数ナノ秒以内に膜の間でチャージペアが形成されること、また、疎水部分を膜外に出したり倒れたりする脂質分子が多数出現するという大きな変化が生じて、これによって膜融合が開始される可能性がある、ということを示している。

 以上のように本論文では未解明であった膜融合の分子機構について、分子動力学的シミュレーションを駆使して取り組み、ユニークな仮説を提案するに至った。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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