学位論文要旨



No 116748
著者(漢字) 小沢,哲史
著者(英字)
著者(カナ) オザワ,テツシ
標題(和) 社会的参照現象における養育者の能動的役割
標題(洋)
報告番号 116748
報告番号 甲16748
学位授与日 2002.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第343号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
内容要旨 要旨を表示する

1.社会的参照の定義と発達的意義

 生後,8,9カ月頃から,ヒトの乳児には,特に新奇性のある対象に遭遇した際,緊張を秘めた面持ちで他者(多くの場合養育者)に対して,頭部回転運動を伴う視線を向けることが観察されている。社会的参照は,こうした現象を説明し,その発達的意味を探るために概念化されたと言える。研究者のほとんどが同意している唯一の定義といったものはないと考えるべきかも知れないが(Desrochers et al., 1994),本研究では,「意味の不確かな対象と遭遇した際に生じた不安定な情動状態を,他者が発する情報を活用し,その対象の意味を知る(情報探索)ことによって建て直し(情動調整),さらにはその対象に対する自らの行動を決定・実行する(行動調整)という一連のプロセス」を採った。ここにおける情報とは,自らが遭遇した対象に対する他者の解釈としての情動的な情報を指すと考えられている。社会的参照の下位能力を列挙すれば,それは,(1)情動の弁別的理解,(2)情動が何に対して発せられているのかという指示的性質の理解,(3)他者が有用な情報源として機能しうるかに関する他者の潜在的有用性の理解ということができよう(Baldwin & Moses, 1996)。

 社会的参照の発達的意義とは,まず,ヒトが社会的存在として環境に適応しているという種としての本質に関わると考えられることである。ある特定個人の情動が,その人物の対峙している外的状況ないし事象のインデックスとして機能しているとすれば,心理的関係というものをヒトが対象に持ちうるということ,および自他の潜在的等価性を前提に膨大な社会的・文化的学習を行うヒトという種にとって,社会的参照は大きな可能性を秘めていると言えよう。

 また,社会的参照は,"葛藤場面",すなわち,多くの場合,ある対象の出現が個体の情動システムの安定を脅かした状況において生じやすいとされている。自己をある種の情動的な核を持った連続体とすれば,社会的参照は,いわばその断絶部分に位置し,そこにおいて他者を求めることから,自己の成り立ち,および自己における他者の位置付けに関わっていると考えられ(Emde, 1992),自己および他者というものの意味を理解していく上で,きわめて興味深い現象であると言えよう。

2.社会的参照の実証的研究史

 実証的な社会的参照は,主に行動調整効果を検討する目的で,乳児に潜在的な危険を感知させるような電動玩具を刺激として呈示し,その時に他者が与えた情動的情報に沿って,刺激に対する対処行動が調整されるか否かという実証的枠組みによって検討されてきている。

 本論文においては,乳児・他者・刺激状況のそれぞれについてのトピックという形を採って,研究史を概観した。まず,主体となる乳児自体に絡む議論としては,生後12カ月前後における社会的参照を完成体とみなすことが困難であることや,社会的参照が愛着のメカニズムと何らかの関連性を示す可能性を論じた。さらに,刺激に遭遇した乳児が養育者に対して視線を向けた,すなわち"ふりかえり行動"を示したからと言って,そのすべてが真に情報探索行動として良いのかどうかという疑問を報告した。

 次に,参照される者あるいは情報源として機能する他者に関しては,特に養育者が表情・音声・身振りなどによって多重に情動的情報を与えた場合に行動調整効果が見られやすく,表情のみによっては見られにくいことや,その時に刺激に向かってというよりも,直接乳児本人に向かって情動的情報を与えた場合に行動調整効果が見られやすいことを報告した。

 最後に刺激となる状況に関しては,そこに求められる"あいまいさ"の意味が未だ明確にされていないものの,30cm前後の電動玩具が比較的有効である事,および多くの研究において,刺激が十分な葛藤をすべての乳児に喚起できたとは言えず,かなり多くの乳児が,そもそも社会的参照を行う動機づけを有さなかった可能性があることを論じた。

3.従来の実証的枠組みへの批判と3種の社会的参照

 これまでに行われた研究から,特に養育者が日常的働きかけに近い多重な情動的情報を与えた場合,十分に適応的といえるふるまいを12カ月頃以降の乳児が刺激に対して示しているということが言えよう。しかしながら,その実証的枠組みは,必ずしも,それが乳児単独のコンピテンスによる社会的参照であるのかどうかを明確にするものではなかったようである。特に,養育者が多重に情報を与えさえすれば,刺激が社会的参照への動機づけを生じるような葛藤を喚起せずとも,あるいは乳児が情報探索行動を示さずとも,行動調整効果らしき刺激への行動の変容が示されてしまうことからすれば,現在の実証的枠組みは,乳児単独のコンピテンスによる真に自律的・能動的な社会的参照を検証するものとしては機能していなかった可能性が高い。

 そこで,本論文では,乳児が自律的/能動的に行ういわば定義通りの社会的参照を(1)自律型の社会的参照とする一方で,養育者が乳児の能動性に考慮せずに一方的に情報付与を行い,乳児が模倣や気分変容,情動感染などの低次の身体的同調作用メカニズムによって反応し,結果的に刺激への行動の変容が生じた場合を(2)巻き込まれ型の社会的参照と呼び,分別・整理して捉えることとした。しかしながら,これら2種の社会的参照だけでは,十分な説明は与えられないだろう。社会的参照が他者なくして生じず,またこの他者が乳児の日常生活(および殆どの実験場面)においては養育者であるということ,さらには,養育者が一般的に,乳児の不明瞭な表出行動に社会的に整合的な評価・意味付けを行いながら,乳児の発達の最近接領域に働きかけていく傾向を有することから(Miller, 1995, Vygotsky, 1978),日常場面において最も頻繁に生じているのは,乳児の未分化な社会的参照行動を行おうとしていると養育者がみなし,学習場面の明確化や情動的情報の明確化によって補うことから生じている相補性の社会的参照であろうと考えられた。そこで本論文では,1歳台の日常生活において中核を占めると考えられるこのようなコミュニケーションを(3)相補型の社会的参照と呼び,今後の社会的参照研究は,養育者のあり方に注目しながら行うべきであることを提唱した。

4.養育者の主観性の特質としての"自律促進傾向"が,養育者の"情報探索評価"に及ぼす影響

 このように社会的参照獲得に養育者が関わっているとすれば,今後の研究は,養育者の個人差が乳児の社会的参照の個人差に関わっているという仮説を検証していくものとなろう。但し,日常場面で生じているような自発的かつ多種多様な養育者のふるまいを十分客観的に多くの対象者においてデータとするのは困難である。そこで,本論文においては,養育者の主観性のレベルにおいて,「自律促進傾向」というものを仮定し,この自律促進傾向が,乳児の表出行動を情報探索行動として評価させ,そうした評価に基づき乳児に働きかけると仮定した。そして,さらにこの働きかけによって補われた相補型の社会的参照が蓄積し,最終的に乳児の自律型の社会的参照が獲得される,という因果モデルを想定した。

 子どもが依存から自律へ進む以上,これを促進しようとする養育者側の主観性,すなわち自律促進傾向を想定するのは自然なことであるが,そこにはかなり広範な個人差が生じていると考えられる。本論文では,第1に,この個人差を質問紙によって測定することで,社会的参照に対する養育者の介在を実証研究に乗せることとした。この自律促進傾向には,現実の養育実践において乳児をどれだけしつけようとしているのかという直接的に表出されるレベルと,乳児との関係性において生ずるが直接的な表出は困難な違和感や不快のレベルという2種類が想定されたため,それぞれについて3項目計6項目を,99名の養育者(子は,言語的なコミュニケーションが活発になる直前の19カ月児)に対して問うた。その結果を数量化にかけた所,ほぼ予想された形で2つの相関軸が得られた。そこで,第1相関軸を「自律期待(依存への否定的感情)」,第2相関軸を「自律的養育への構え」と命名した。

 次に,養育者の自律促進傾向の個人差が,何らかの意味で社会的参照場面において乳児の自律性を促進するような養育者のあり方に関わっているという仮説が置ける。そこで,本研究においては,まず,刺激呈示法を改善する事によって乳児が等しく刺激に対して明確な葛藤を起こした(社会的参照への動機づけを持ちやすい)場面を実現した。そして,そこで乳児が示したふりかえり行動というものを刺激とし,養育者がこれを情報探索行動と評価するか否かを測度として採った。その結果,仮説通り,自律促進傾向が高い養育者ほど情報探索評価を行いやすかった。

5.養育者の自律促進傾向が乳児の社会的参照に及ぼす影響

 さらに,今回対象とした生後19カ月の時点で,すでに養育者のふるまいによって補われた相補型の社会的参照を多少なりとも乳児が蓄積しており,早期の自律型の社会的参照能力を持っている可能性があろう。そしてそこに,養育者の自律促進傾向が影響しているという仮説が置ける。すでに述べた通り,現況の実証的枠組みは,乳児の自律型の社会的参照を十分に検討する枠組みとはなっていないが,刺激呈示法や養育者の情報付与のあり方に配慮する事によって,改善する事は可能であると考え,実行した。その結果,養育者が表情によって否定的情報を与えた群において,養育者の自律促進傾向が乳児の刺激への情動調整効果に影響をもたらしていることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,人間の自他理解や情動理解に関わる社会的参照(social referencing)という現象の起源を,養育者の能動的な役割という観点から解明しようとした発達心理学的研究である。本論文は,大きく3つの部分から成る。第1部の前半は,従来の社会的参照研究を,実証主義的観点から概観している。ここでは、従来のおびただしい数の研究が,理論的に整理されておらず,データからの結論もまちまちであり、その結果,従来の乳児の発達的特性を中心とする理論的観点と方法では,乳児が真に自律的に社会的参照を行い得ているのかという点を明らかにすることは困難であることを指摘している。第1部の後半は,視点を転じ,養育者が乳児の自律性を引きだす能動的行動を重視し,新たな理論的枠組みを提示している。第2部においては,第1部の議論に基づき,「自律促進傾向」という養育者の特徴を質問紙によって測定した。さらに、養育者が乳児の行動を自律的な社会的参照とみなしやすいかどうかを評価し,両者の関係を検討した。第3部では,乳児の自律的な社会的参照の個人差を測定し,第2部において測定した養育者の「自律促進傾向」が,自律的な社会的参照にどのような影響を及ぼしているかを検討している。

 まず,第1部では社会的参照の概念の定義から始まる.社会的参照とは,主体が葛藤あるいは混乱を喚起された時に,主体がとっさに他者をふりかえって,他者の情動的情報を探り(情報探索),その情動的情報を活用して,主体が対象に対する自らの情動や行動を調整する現象である(情動調整/行動調整)。言い替えれば,社会的参照とは,"自律的"な情動理解と言える。

 しかし,従来の研究では,この自律性の捉え方にあいまいさがあった。従来の研究において,情動調整や行動調整が概して見い出されやすいのは,他者(特に養育者)が表情,音声,しぐさなどを交えて多重に働きかけた場合であり,この場合,他者が乳児の情動感染力や模倣能力や注意に訴える形で様々な誘導を行いうる結果,乳児に自律性は要求されない。逆に,他者の情報を表情のみとした場合には,乳児が情報を取るためには,自律的に他者の顔をふりかえる必要がある。こうした手続きを採った場合,概して情動調整や行動調整が得られにくいことが知られている。かといって,後者の結果を受けて,乳児に社会的参照がないのかと言えば,そうとも言い切れない。この時期のコミュニケーションにおいて,養育者が,音声を含めずに働きかけること自体,生態学的妥当性を欠いているという可能性もあるからである。社会的参照研究において,ひとつの障壁となっているのが,この自律性をめぐる問題である。

 そこで,論文執筆者は,いったん日常現象としての社会的参照に視点を転じ,そこに養育者が大きく関わっている可能性を見い出した。ある現象を解明する上で,軽視されてきた要因に目を向けること自体は別段驚くべきことではないが,本論文が評価される点は,乳児の社会的参照の本質としての自律性に対応する形で,養育者側に「自律促進傾向」という心理的特徴を仮定し,これが乳児の個々のふるまいへの直感的評価(実体としての乳児の能力に関わらずより自律的に評価すること)およびふるまいの質(より乳児自身の自律的対処を促すと共に,乳児の未熟な部分に焦点化して補うこと)を規定し,その蓄積が乳児の社会的参照(自律的情動理解)の個人差を規定するという理論モデルを提示したことにある。

 第2部では,まず,養育者の特徴としての「自律促進傾向」を質問紙において測定している。直接参考にできる先行研究がなかったため,新たに質問紙が作成された.乳児の依存性(未熟さ)に対する2種類の不快感(即時に表出可能なものと表出困難なもの)を指標として各3項目計6項目を,99名の養育者(子は,言語的なコミュニケーションが活発になる直前の19カ月児)に対して問うた。回答結果を数量化3類によって分析したところ,ほぼ予想された形で2つの相関軸が得られ,第1相関軸(表出困難)を「自律期待(依存への否定的感情)」,第2相関軸(表出可能)を「自律的養育への構え」と命名した。

 その一方で,養育者が自分の子をより自律的にみなすかどうかを情報探索評価(社会的参照開始時点としてのふりかえり行動を情報探索行動とみなすかどうか)という形で測定した。従来,養育実践において個々の乳児の行動をどのように評価している(みなしている)かどうかは,その重要性が認識されながらも(Miller, 1995),実証的に測定することが難しかった。そこで本論文では,個々の乳児の葛藤・混乱に基づくふりかえり行動を録画し,その再生画面上で,母親に自由に評価させるという手法を採った。その自由回答から,ふりかえり行動を情報探索行動とみなしているものを"情報探索評価"とし,養育者ごとに,情報探索評価が有ったか無かったか(有無)を基準変数とし,質問紙から得られた養育者ごとの得点を説明変数としてロジスティック回帰を行った。その結果,自律期待スコアと情報探索評価の有無の間に統計学的に有意な関連が得られ,養育者は,その自律期待が強いほど,情報探索評価を行いやすいことが明らかにされた。この第2部で得られたデータは,実証方法に種々の工夫が見られ,この種のテーマにおける従来のデータのほとんどが数名に対する観察から得られていることに比べて,データ収集に注がれた努力が評価される.

 第3部では,従来,群間差(平均値の比較)という形でだけ検討されてきた社会的参照の情動調整および行動調整を初めて個人単位で測定し,第2部において得られた養育者の自律促進傾向が現実に乳児の社会的参照を規定しているのかどうかが検討された。従来の研究と異なり,本論文では,刺激に対して社会的参照への動機付けを有したとみなしうる葛藤・混乱状態を生じた試行のみを対象として個々の乳児において情動調整・行動調整を測定した。なお,ここでは,乳児の自律的な社会的参照を測定するため,養育者の情報は表情のみとし,協力者を2群に分けて,肯定表情を与える群と否定表情を与える群とした。結果,否定表情を与える群において,自律期待スコアの高い養育者を持った乳児ほど情動調整を示しやすいことが明らかにされた。

 本論文は,実証的な裏づけが不十分であるままに頓挫しようとしていた社会的参照研究に,新たな理論的枠組みと新たな実証手段を持ち込み,独自作成した質問紙の信頼性などの粗雑な点を残しつつも,養育者のあり方が乳児の社会的参照を規定する所までを検証した。本論文では,すでに述べた実証的工夫の他に,コードレスイヤホンを利用した教示や複数のリモコンカメラの利用,母子に対する社会的配慮など,従来の研究の限界を越える創意工夫がなされており,観察や傍証に頼りがちな乳児の社会性発達の分野において一定の貢献をしたものとして評価された。

 したがって,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

 なお,本論文の第1部の一部は展望論文として「心理学研究,71巻」に,第1部および第2部の実証データを含む一部は「心理学評論,44巻」に,また第2部の異なる実証データを含む一部は「理論心理学研究,3巻」に,いずれも厳正な審査を経て掲載された。

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