学位論文要旨



No 116750
著者(漢字) 藤ノ木,政勝
著者(英字)
著者(カナ) フジキ,マサカツ
標題(和) ハムスター精子の運動調節機構に関連する鞭毛タンパク質のリン酸化に関する研究
標題(洋) Studies on phosphorylation of flagellar proteins associating with the regulatory mechanism in hamster sperm motility
報告番号 116750
報告番号 甲16750
学位授与日 2002.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第345号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 教授 森沢,正昭
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 助教授 豊島,陽子
 獨協医大 助教授 大竹,英樹
内容要旨 要旨を表示する

 哺乳類精子鞭毛運動は、細胞外カルシウムや重炭酸イオンなどの影響により、鞭毛内のアデニレートシクラーゼの活性化が起きる。活性化したアデニレートシクラーゼはcAMPを産生する。cAMPは多くの細胞でセカンドメッセンジャーとして働く環状ヌクレトチドであるが、精子鞭毛運動においてもセカンドメッセンジャーとして働いていると考えられており、A−キナーゼの活性化を促す。活性化したA−キナーゼはタンパク質リン酸化を起こす。最終的にダイニン軽鎖のリン酸化が起こり、ダイニン−チューブリン相互作用の結果、鞭毛運動が起こると考えられている。ハムスター精子鞭毛運動においても基本的に同様な経路によって鞭毛運動が起こると考えられており、これまでに鞭毛運動への細胞外カルシウム、cAMP、A−キナーゼの関与、そしてcAMP依存的なタンパク質リン酸化の検出などが行われている。

 哺乳類精子はまた、運動活性化のみならず、超活性化と呼ばれる独特の運動状態を持つことが知られている。超活性化は「受精能獲得」と呼ばれる哺乳類精子の変化に伴って起こる現象で、in vitroでは輸卵管において、in vivoでは約3時間の培養で起こることが知られている。運動中の鞭毛の波形が、活性化と大きく異なっており、8の字を描くような運動し、全体としては円を描きながら前方に進んでいく。この超活性化もタンパク質リン酸化(特にチロシンリン酸化)によって制御されていることが示唆されている。以上のように精子鞭毛運動は一連のタンパク質リン酸化反応によって制御されていると考えられており、cAMP依存的なタンパク質リン酸化を中心に多くの研究においてタンパク質リン酸化の検出が行われてきた。しかし、その多くが精子全体からタンパク質の抽出を行っており、当然のことながら鞭毛タンパク質以外に頭部のタンパク質も含まれることになる。真に鞭毛運動に関与しているタンパク質を解析するためには、まず鞭毛のみを単離する必要があると思われた。Siによりホモジェナイズと遠心分離による精子鞭毛の単離法が開発され、ハムスター精子においてcAMP依存的にリン酸化される分子量36k-Daのタンパク質が検出されている。そこで私は、Siにより開発された精子鞭毛の単離方法を用い、全鞭毛タンパク質を可溶化し二次元電気泳動で分離することで、網羅的に鞭毛運動と関連のあると思われるタンパク質リン酸化を検出する事を試みた。

 鞭毛運動と関連のあると思われるタンパク質リン酸化の検出を行うために、まず精子鞭毛運動の運動状態の定義を行った。ハムスター精子はカルシウム依存的に活性化されることが知られている。しかしSiの報告ではカルシウムをEGTAでキレートしてもスイムアップは出来ないが若干の鞭毛運動が観察されている。これまでの多くの報告ではこの状態を非活性化とし解析の出発点としてきたが、鞭毛運動の情報伝達を調べようとする際にはこの状態ではすでに鞭毛運動を開始させる情報伝達が起こっており、解析の出発点としては不適当であると思われた。そこで、精巣上体尾部より採取した精子を低張液に懸濁することでまったく運動していない精子を調製し、この精子を「immotile精子」とした。またカルシウムをEGTAでキレートした時の若干の運動を示す精子を「initiated精子」とし、カルシウム依存的に活性化した精子を「activated精子」とした。さらに、受精能獲得の過程で起こる運動の変化(超活性化)を示した精子を「hyperactivated精子」とした。以上の4パターンの運動状態を定義し、それぞれの状態での鞭毛タンパク質のリン酸化の状態をdifferentialに解析した。

 オートラジオグラフィおよび抗リン酸化アミノ酸モノクローナル抗体でのウエスタンブロッティングの結果、Siによって報告されていたよりも多くの鞭毛運動に関連すると思われるタンパク質リン酸化を検出した。セリン残基のリン酸化をひきおこすタンパク質を4種類検出し、見かけ上の分子量と等電点から、それぞれ66k-Daタンパク質、58k-Daタンパク質、36K-Aタンパク質、36K-Bタンパク質とした。36K-Aタンパク質と36K−タンパク質は、見かけ上の分子量が36k-Daであるが、等電点が異なっており、酸性よりのものを36K-Aタンパク質、塩基性よりのものを36K-Bタンパク質とした。さらに、チロシン残基のリン酸化もしくは脱リン酸化をひきおこすタンパク質を14種類検出し、見かけ上の分子量からそれぞれ120k-Daタンパク質、115k-Daタンパク質、100k-Daタンパク質、80k-Daタンパク質、75k-Daタンパク質、70k-Daタンパク質、60k-Daタンパク質、50k-Daタンパク質、45k-Daタンパク質、40k-Daタンパク質、30k-Daタンパク質、20k-Daタンパク質、16k-Daタンパク質、10k-Daタンパク質とした。これら検出された18種類の鞭毛リン酸化タンパク質のうち、66k-Daと58k-Daタンパク質は精子の鞭毛運動がimmotileからinitiatedに変化するときにリン酸化していた。また、100k-Da、75k-Da、70k-Da、60k-Da、45k-Da、36K-A、36K-B、30k-Daそして10k-Daタンパク質は精子の鞭毛運動がactivatedするときにリン酸化していた。さらに36K-A、36K-B、30k-Da、10k-Daタンパク質のリン酸化はcAMP依存的であった。最後に、精子が超活性化した時に120k-Da、115k-Da、80k-Da、50k-Da、40k-Da、16k-Daタンパク質がリン酸化していた。

 今回検出した18種類の鞭毛リン酸化タンパク質のうち、二次元電気泳動で分離・検出が可能であった4種類の鞭毛リン酸化タンパク質(66k-Daタンパク質、58k-Daタンパク質、36K-Aタンパク質、36K-Bタンパク質)について電気泳動的に精製出来たので、まず抗血清の調製を行った。36K-Aタンパク質と36K-Bタンパク質について特異的な抗血清を調製することが出来たので、この抗血清を用い鞭毛中での局在を検討した。その結果、36K-Aタンパク質はMiddle Pieceに局在しており、36K-Bタンパク質はPrinceiple Pieceに局在していた。さらに詳細に検討するために、Fibrous SheathとOuter Dense Fiberを抽出し含まれる成分を二次元電気泳動で解析した結果、36K-Aタンパク質はFibrous Sheathの成分であった。一方、36K-Bタンパク質は軸糸もしくはミトコンドリア鞘の成分であると思われた。

 さらに上述の4種類の鞭毛リン酸化タンパク質の同定を試みた。まず、36K-Aタンパク質がFibrous sheathの成分あったこととその分子量から、A-kinase Catalytic Subunitである可能性が考えられたので、抗A-kinase Catalytic Subunit抗血清との反応性を検討した。その結果、36K-Aタンパク質と36K-Bタンパク質両方に反応性が認められた。さらに66k-Daタンパク質と58k-Daタンパク質も含め、4種類の鞭毛リン酸化タンパク質のアミノ酸配列を調べた。66k-Daタンパク質と36K-Aタンパク質については、得られたタンパク質量が少なかったこと、またN末端のブロックが疑われたことからアミノ酸配列を明らかにすることは出来なかった。58k-Daタンパク質および36K-Bタンパク質については、N末端のアミノ酸配列を明らかにすることが出来た。さらに58k-Daタンパク質については内部配列も明らかにすることが出来た。得られたアミノ酸配列を元にデータベース検索をした結果、58k-Daタンパク質はN末端側にチロシンキナーゼであるTXKと似たシステインリッチな配列を持つ新規なタンパク質であった。一方、36K-Bタンパク質はミトコンドリア成分であるpyruvate dehydrogenase E1 component beta subunitであった。この36K-Bタンパク質は抗A-kinase Catalytic Subunit抗血清との反応性も有していたこともあわせて考えると、A-kinase Catalytic Subunitと共通の抗原性を有するpyruvate dehydrogenase E1 component beta subunitではないかと思われた。一般的に、このpyruvate dehydrogenaseは、TCA回路のピルビン酸からアセチルCo-Aを産生する酵素複合体であることが知られている。pyruvate dehydrogenase E1 component beta subunitはその複合体の構成タンパク質のひとつであり、セリン残基のリン酸化と脱リン酸化を受け、酵素活性の調節をされていることが知られている。しかしながら、本来このpyruvate dehydrogenase E1 component beta subunitのリン酸化と脱リン酸化による調節は、リン酸化によって酵素活性が阻害され脱リン酸化によって酵素活性が上がるというものであり、かつこのリン酸化には基本的にcAMPは関与しない。36K-Bタンパク質は得られたアミノ酸配列からpyruvate dehydrogenase E1 component beta subunitであると同定されるが、その性状については必ずしも一般的なpyruvate dehydrogenase E1 component beta subunitの性質を有してはいない可能性も考えられた。さらなる詳細については今後、精巣cDNAライブラリーより36K-Bタンパク質の全長cDNAをスクリーニングし、全塩基配列を決めることで明らかにすることができるものと思われる。

 本研究から、ハムスター精子鞭毛運動は細胞外カルシウム非依存的に鞭毛運動を開始し、その際分子量66k-Daおよび58k-Daタンパク質のセリン残基のリン酸化を起こすことが明らかとなった。次いで細胞外カルシウム依存的に運動は活性化され、その際cAMP依存的にタンパク質リン酸化が起こっていた。cAMP依存的にリン酸化されるものとしては、等電点が異なる分子量36k-Daの2種類のタンパク質(36K-Aタンパク質および36K-Bタンパク質)のセリン残基のリン酸化と分子量30k-Daと10k-Daのタンパク質のチロシン残基のリン酸化が検出された。さらに活性化時には分子量20k-Daタンパク質のチロシン残基の脱リン酸化も検出された。これらリン酸化もしくは脱リン酸化タンパク質はすべて鞭毛タンパク質であると思われるが、その中でも特に36K-Aタンパク質はfibrous sheathに局在し、36K-Bタンパク質はミトコンドリア成分であるpyruvate dehydrogenase E1 component beta subunitであったことからミトコンドリア鞘に局在していることが明らかとなった。したがって鞭毛運動開始および活性化におけるタンパク質リン酸化・脱リン酸化を介した情報伝達経路は、軸糸のみならずミトコンドリア鞘やfibrous sheathにおいても運動に連動して情報伝達が行われている可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 精子の遊泳運動は自然界での受精にとって欠くことが出来ない要素の一つであり、その原動力は精子が持つ鞭毛の屈曲運動が生み出す力である。哺乳類精子においては、精巣における精子完成後、精巣上体における成熟、放精にともなう運動開始、雌生殖器内での受精能獲得というステップを経て初めて受精が可能となる。その過程で精子細胞内では様々な変化が生じるが、運動性もその一つである。哺乳類精子は精巣上体において運動能を獲得し、放精において運動活性化が起こる。そして雌性生殖器内では超活性化と呼ばれる激しい運動を示す。この運動性の変化は精子が置かれた異なった環境に対応するものであり、生理学的に重要な意味を持つと考えられる。それ故に、この運動の調節機構を解明することは生殖生物学においてきわめて重要な課題である。それに加えて、鞭毛は細胞生物学上重要な位置を占める微小管系運動器官の一翼を担っていることから、鞭毛および微小管運動の制御機構の解明という点においても重要な意義をもっている。

 この精子の運動制御機構は、放精や雌生殖器官への進入などの細胞外環境の変化が起こると、それに応じて作動し、その結果として鞭毛運動の変化がもたらされる。そこで細胞外情報が細胞膜を介して細胞内シグナルに変換され、それが運動器官である鞭毛軸糸に伝達されて運動を調節するというシグナル伝達系が存在し、その根幹をなすのがタンパク質リン酸化であると考えられている。現在までにこのタンパク質リン酸化反応に関しては様々な研究がなされてきたが、まだ十分であるとはいえない。その問題点を挙げると、精子中で多くのリン酸化タンパク質が発見されているが鞭毛に特定されているものは少ない。運動の変化とリン酸化の対応が必ずしも明確ではない。リン酸化タンパク質の局在と機能が明確でない等である。本論文はこれらの問題点を明らかにする上で大いに貢献するものであり、その意義は大変大きいと認められる。

 本論分の成果を以下に要約する。(1)従来多くなされてきた精子全体を対象としたものではなく、ハムスター精子からまず鞭毛を単離し、界面活性剤処理後の運動器官(鞭毛軸糸)を骨格とする鞭毛の不溶画分に的を絞り、そこに含まれるリン酸化タンパク質を2次元電気泳動法によって網羅的に解析した。(2)精子の運動性の指標として、従来の3段階法を改め、運動開始を新たに加えた、不動精子、運動開始精子、運動活性化精子、運動超活性化精子の4段階とし、それぞれの段階に対応してリン酸化、脱リン酸化されるタンパク質を新たに18種類検出した。(3)セリン残基のリン酸化に関しては、66kDa、58kDa、36kDa-A、-Bタンパク質の4種類を検出し、そのうち66kDa、58kDaタンパク質は不動精子が運動開始するのと同調してリン酸化されることを見出した。(4)36kDaタンパク質は1次元のSDSPAGE解析で既に報告があったものであるが、本論分ではそれが等電点の異なる36kDa-A、-Bタンパク質の2種に分かれること示した。それらは共に運動開始から活性化に移行する過程でリン酸化されるが、36kDa-Aタンパク質は鞭毛主部の線維鞘に、36kDa-Bタンパク質は中片のミトコンドリア鞘もしくは軸糸に局在することを示した。(5)部分的なアミノ酸解析およびウエスタンブロッティング解析の結果、36kDa-Bタンパク質はA-kinase Catalytic Subunitと共通の抗原性を有するpyruvate dehydrogenase E1 component beta subunit、また58kDaタンパク質はそのN末端側に非レセプター型チロシンキナーゼであるTXKと似たシステインリッチな配列を持つ新規なタンパク質であるという結果を得た。(6)チロシン残基がリン酸化もしくは脱リン酸化されるタンパク質を14種類検出した。そのうち、100kDa、75kDa、70kDa、60kDa、45kDa、30kDaそして10kDaタンパク質は運動活性化に同調してリン酸化され、また20kDaタンパク質は脱リン酸化された。(7)精子が超活性化される時には、120kDa、115kDa、80kDa、50kDa、40kDa、16kDタンパク質がチロシンリン酸化されていた。(8)運動の活性化はcAMP依存的に引き起こされることが既に知られているが、本研究で新たに検出されたリン酸化タンパク質のなかでは、36K-A、36K-B、30k-Da、10k-Daタンパク質のリン酸化がcAMP依存的であった。(9)以上のような結果に基づいて、不動精子が運動開始する際には66kDa、58kDaタンパク質が、また運動活性化には36K-A、36K-B、30k-Da、10k-Daタンパク質が関与することが明らかにされた。それに加えて上述したタンパク質のチロシン残基のリン酸化や脱リン酸化も精子運動性に関連する可能性が示唆された。そこでこれらの結果を包括する、精子の運動変化を調節する新しいリン酸化反応経路を提唱した。

 以上要約したように、藤ノ木氏の論文は哺乳類精子の運動調節に関わるシグナル伝達機構に多くの新しい重要な知見を加えるものである。(1)に示されるような運動器官に的を絞っての網羅的なタンパク質解析は従来ほとんどなされておらず、本研究によって(2)に示されるように多数のリン酸化タンパク質を鞭毛中で検出したことは、運動調節に関わるシグナル伝達系の経路を構築していく上で大きな貢献である。また従来の運動活性化は、精子が前進遊泳するかどうかで判断するという曖昧なものであった。すなわち、鞭毛が運動していても精子が前進していない場合は運動していないとみなされてきた。しかし鞭毛の屈曲運動を考えた場合、それが起こるか起こらないかが重要である。本研究では運動活性化の前段階として運動開始というステップを導入することによって、(3)に示されたように運動開始に関連する58kDa、66kDaタンパク質を同定したことの意義は大きい。また(4)(5)では、既に報告されていた36kDaタンパク質が等電点の異なる二つのタンパク質であり、鞭毛上の局在が異なることを示すことによってそれらの機能の解明に道筋を開いたことは高く評価できる。また58kDaがチロシンキナーゼである可能性を示唆したことによって、これがタンパク質リン酸化カスケードに関わっている可能性を示唆したことも大きな成果である。また今までチロシンリン酸化は運動活性化には関与していないと考えられてきたが、(6)ではチロシンリン酸化、脱リン酸化が関わっていることを示したのは新しい発見である。(7)で示された超活性化に関連する新しいチロシンリン酸化タンパク質と共に、今後の解析が期待される。また(8)では運動活性化に密接に関連するcAMP依存性リン酸化という点で、10kDa、30kDaという新しいタンパク質を同定している。シグナル伝達系において、cAMP依存性のA-kinaseによるセリンリン酸化の下流にあると予想されていたチロシンリン酸化が実体として示されたことの意義は大きい。以上のように、本研究は既に報告されてきたタンパク質に加えて、多くのリン酸化タンパク質が運動調節系に関与していることを明らかにし、それらが運動変化のどこに対応するかを位置付けたことで、哺乳類精子の運動調節機構の解明に多大な貢献をなすものである。したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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