学位論文要旨



No 116765
著者(漢字) 河野,礼子
著者(英字)
著者(カナ) コウノ,レイコ
標題(和) ヒトと大型類人猿の大臼歯歯冠エナメル質の厚さと分布パターンの比較解析
標題(洋)
報告番号 116765
報告番号 甲16765
学位授与日 2002.03.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4087号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 諏訪,元
 東京大学 教授 木村,賛
 東京大学 講師 近藤,修
 東京大学 教授 馬場,悠男
 日本大学 教授 金澤,英作
内容要旨 要旨を表示する

 ヒトは現生大型類人猿とくらべて,エナメル質が特異的に厚いと考えられてきた.ヒトと大型類人猿の系統でのエナメル質厚さの進化過程があきらかになれば,化石種の系統的な位置付けを知るための有用な指標になると思われ,また,歯冠エナメル質の厚さや分布パターンの機能的な意義の解明は,化石種の食生復元の一助となると期待される.ヒトと大型類人猿の大臼歯エナメル質の厚さに関して,これまで,その系統的あるいは機能的意義をめぐってさまざまな研究がおこなわれてきた.しかしながら,いまのところ,系統的にも,機能的にも,エナメル質厚さの意義が十分に解明されたとは言えない状況である.これらの先行研究はいずれも特定の断面上でエナメル質の厚さを評価したものであり,歯冠全体のエナメル質の分布パターンについてはほとんど知られていないことがその一因と考えられる.

 本研究の目的は,エナメル質の外表面とエナメル象牙境界面とによって規定される歯冠エナメル質の巨視的な形状を三次元デジタルデータとして再構築するという手法をもちいることにより,歯冠全体のエナメル質の厚さや分布パターンを評価する方法を確立し,またこれによって,ヒト,チンパンジー,ゴリラ,オランウータンの4種の大臼歯について,歯冠全体のエナメル質の平均的な厚さや部位ごとの厚さをしらべ,それぞれの種のエナメル質の分布パターンの特徴をあきらかにすることである.そして,種ごとのエナメル分布パターンの機能的意義を考察し,エナメル質形状の進化の過程を推測することを目指した.具体的には,はじめに第一部で,歯冠全体のエナメル質の厚さや分布パターンを評価する方法の検討を兼ねて,ヒトの第一大臼歯のエナメル質分布パターンを分析し,つづく第二部では,第一部の方法を応用して,現生のヒト,チンパンジー,ゴリラ,オランウータンの4種を対象に,大臼歯歯冠エナメル質の三次元形状を比較検討した.

 ヒトの第一大臼歯のエナメル質分布パターン分析の結果,個体間で厚さの違いがあるが,分布のパターンは共通することが明らかになった.下顎では頬側,上顎では舌側のエナメル質が厚いことが確認されたが,下顎頬側でもprotoconidよりhypoconidのエナメルが厚いなど咬頭ごとの特徴がみられたため,分布パターンの分析は側面ごとの比較では不十分であり,咬頭ごとに調べる必要性が示された.咬合面のエナメル質厚さに関しては,全体としては隆線や溝などの表面形状に対応しているが,主隆線では副隆線よりも薄めであることや,上下顎ともに近心頬側咬頭の先端付近で特異的に薄いことなどの特徴も見出された.この近心頬側咬頭頂付近のパターンに関しては,機能的に意義があるとは考えにくいため,機能適応以外の要因を考慮する必要があると思われる.

 つぎに,現生のヒト,チンパンジー,ゴリラ,オランウータンの4種を対象に,大臼歯歯冠エナメル質の厚さと分布パターンを比較検討した.はじめに歯冠全体の平均的なエナメル質厚さをしらべ,先行研究の結論と比較し,次に歯冠内の部位ごとのエナメル質厚さを比較し,種ごとの分布パターンの特徴を探った.その結果,4種それぞれが独自のエナメル分布を持つことがあきらかになった.まず,歯冠全体の平均エナメル質厚さの比較により,ヒトの大臼歯は他の3種とくらべて相対的にエナメルが厚く,ゴリラは相対的にエナメルが薄いことが示された.チンパンジーとオランウータンでは相対的には同等のエナメル厚さであった.歯冠のすり減りに対する寿命をあらわす指標では,ヒトのみがエナメルが多いが,他の3種の間では差は明瞭でなかった.歯冠内の分布パターンを比較した結果,オランウータンでは歯頚部の,チンパンジーでは咬合面のエナメル質が特異的に薄いことがあきらかになった.

 このような種間比較の結果をもとに,エナメル質分布パターンの進化過程と,それぞれの種のパターンの機能的意義を考察した.エナメル質の厚さについては,ヒトとゴリラが派生的であり,分布パターンについてはチンパンジーとオランウータンが派生的であると解釈することが可能であり,これらの種の共通祖先段階ではこのような派生的な特徴のないエナメル質の厚さ・分布パターンであったと推測される(図).機能的には,ヒトの大臼歯はすり減りに対して耐性を高める方向に,ゴリラの大臼歯は切り裂き効率を高める方向に適応した結果であり,また,オランウータンの大臼歯は固いものを噛み潰すのに有利であり,チンパンジーの大臼歯は切り裂き効率をある程度保ちながらクラッシングにも適したものであると考えることができる.

 歯種ごとの比較によって,ヒトの第一大臼歯は第二大臼歯よりエナメル質が薄いことはなく,むしろ耐久性の面では第一大臼歯のほうが勝っていることが示された.また,ヒトではエナメル質の分布パターンの歯種ごとの特徴が明らかになったが,チンパンジーでは歯種による違いはあまりみられなかった.ヒトでのこのような歯種による分布パターンの違いの意義は今のところ不明であるが,発生上の制約によると推測される部分もあり,負荷に対する強度やすり減りへの耐性といった機能的要因とともに,さまざまな視点から検討する必要がある.

 本研究では特にエナメル質形状に注目したが,それぞれの種のエナメル質分布パターンについての意義をさらに検討するためには,エナメル質分布だけでは情報不足であり,歯冠の形状の違いなども考慮する必要がある.今後の方向性としては,歯冠形状,特にエナメル質の分布とは別のメカニズムで発生的に決定されているエナメル象牙境界面の形状についての種ごとの特徴と,エナメル芽細胞によるエナメル基質形成の速さや形成期間の長さとそれらの制御要因など,エナメル質分布の形態発現機構を視野にいれて分析する必要があるだろう.

 ヒト上下第一大臼歯の近心頬側咬頭頂付近でエナメルが薄いことや,オランウータンの大臼歯で上下とも頬側面のエナメル質が薄いことなど,機能適応としては理解しにくいパターンが見られた.これらのパターンの成因については今後検討していく必要があるが,機能適応以外の要因も関与する可能性のあることは非常に興味深い.

図.本研究で示唆されたエナメル質分布パターンの進化過程

本研究では,ヒトと大型類人猿のエナメル分布パターンとして,ヒトやゴリラのエナメル質は厚さが独自で派生的であると考えられ,また,チンパンジーやオランウータンでみられたように特定部位が薄いのは分布パターンとして派生的であることが示唆された.これによって推測される共通祖先段階(LCA)のパターンと現生のそれぞれの分布パターンを模式的にあらわした.ここではエナメル質の分布パターンをよりわかりやすく示すために,仮想的にエナメル象牙境界面の大きさと形状を統一して表現した.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は序文、主要二部と結論からなる。序文では本研究の目的、背景、構成がまとめられ、結論では主要二部のまとめと結語が述べられている。また本研究の一環として開発された三次元形状データの取得と解析方法の詳細がAPPENDIXにまとめられている。

 第1部では、現代人の上下顎第一大臼歯10点について、レーザー三次元計測装置により、約50ミクロンのボクセル解像度の三次元形状データをエナメル質の外形と脱灰後の象牙質表面について取得し、これらによりエナメル質の三次元分布を可視化する方法を確立し、歯冠部位ごとの厚さ分布を比較した。その結果、エナメル質厚さの分布様式の主たる特徴は個体間に共通であり、機能的解釈と整合する部分としない部分が含まれることが判明した。この研究によって、ヒトのエナメル質厚さの3次元分布様式がで初めて明らかにされ、同時にエナメル質の形成機構に対して示唆的な結果が得られた。

 第2部では、ヒトと現生類人猿(チンパンジー、オランウータン、ゴリラ)の第1および第2大臼歯74点についてエナメル質の厚さと分布様式を解析した。第1部で用いた標本以外では、マイクロX線CT装置による50から80ミクロン程度のボクセル解像度をもつ連続断層画像のボリュームデータから、エナメル質と象牙質の表面形状データを抽出し、エナメル質の総量と三次元分布の諸特徴を数量化した。歯冠全体もしくは部位ごとのエナメル質と象牙質・歯髄腔部の体積、面積、線計測値を三次元形状データから抽出し、発生学的あるいは機能的に意義のあると思われるパラメータを比較解析した。その結果、ヒトと各類人猿種の大臼歯の三次元的なエナメル質分布様式の諸特徴が初めて明らかにされた。

 ヒトの大臼歯はいずれの測度の比較においても類人猿よりエナメル質が特異的に厚く、特にすり減りに対する耐性が強調されていると解釈された。ゴリラの大臼歯はエナメル質厚さが相対的にまんべんなく薄いが、咬頭は高く、咬耗への耐性は保存され、これらの特徴は繊維質を多く含んだ植物食への適応と解釈された。チンパンジーとオランウータンの大臼歯は同等に中間的な相対エナメル質厚さを示したが、エナメル質の分布様式が異なっていた。チンパンジーの大臼歯では、咬合面のエナメル質が薄く、そのため、幅広く窪んだ咬合面と切り立った咬頭を片側に形成する。これらは破砕効率を確保しながらある程度のせん断効果を保持した形態と解釈され、雑食的な果実食との関連が想定された。オランウータンの大臼歯では、厚さ分布が咬合面に集中する傾向が見られ、また咬頭の低さが特徴的であり、これら諸特徴は堅い果実・種子類の破砕に適した形態と解釈された。上記の種間比較の結果から、各現生種の派生的特徴を除いた、総量は中間的で分布様式は比較的一様な状態が、人類と類人猿の祖先型仮説として提示された。また、これらエナメル質の三次元分布様式に関する各種の諸特徴は、部位ごとの詳細な分布様式にも反映されていたが、その反面各種に共通な分布様式、機能論では説明できない分布様式が認められた。これらはエナメル質の形成機構と関連する可能性があり、今後の検討の必要性が指摘された。

 エナメル質の厚さは約30年前のラマピテクス論争以来、ヒト科の起源に関する重要な形質の一つとして注目され、その適応的、系統的意義が議論されてきた。今日では、400万から600万年前の最初期の人類化石の評価において、やはり注目されている形質の一つである。エナメル質厚さの比較解析は、1970年代末から現在まで、三次元的評価が理想とされながらも、断面における2次元基盤の解析が主体であった。本研究は、世界でも初めて高解像度の三次元計測を実現したものであり、ヒトと類人猿のエナメル質厚さに関し、新たな知見をもたらしたことは意義深い。

 以上、本論文は、形態人類学の分野において、博士論文としての価値を十分に有すると判定された。なお、本論文は諏訪元、谷尻豊寿との共同研究であるが、論文提出者が主体となってデータ取得、分析および考察を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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