学位論文要旨



No 116770
著者(漢字) 河野,崇
著者(英字)
著者(カナ) コウノ,タカシ
標題(和) FET電子回路によるニューロンモデルの設計と特性解析
標題(洋)
報告番号 116770
報告番号 甲16770
学位授与日 2002.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5103号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 石川,正俊
 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 柴田,直
 東京大学 助教授 村重,淳
 東京大学 講師 堀田,武彦
内容要旨 要旨を表示する

 思考はどのようにして生成されるのか?心の座としての脳は太古より人類の興味の対象となり続けてきた。実際、ギリシャ時代にはすでに脳解剖が行われていたという記録が残っている。長年の研究によって脳についての理解は進み、細胞レベル、分子レベルでの解析が行われるようになってきている。脳を構成する細胞は大きく分けて二種類あることが知られている。一つは約90%を占めるグリア細胞であり、もう一つは神経細胞である。現在、脳における情報処理の本質を担っているのは神経細胞であり、多数を占めるグリア細胞はその栄養・支持組織であると考えられている。

 1952年、HodgkinとHuxleyはヤリイカの巨大軸索を対象とした実験を行い、神経細胞膜における電気的興奮のメカニズムを解析した。この研究は細胞膜電位(細胞膜の内部の、外部に対する電位差)と、神経細胞膜上のNa+チャネル、K+チャネルの挙動に着目した4変数の微分方程式を導出している。Hodgkin-Huxley方程式と呼ばれるこの微分方程式(1)〜(4)は生体ニューロンモデルの基本であり、現在に至るまで多くの研究者によって解析され、また、新たなニューロンモデルの土台となり続けてきた。

 Hodgkin-Huxley方程式:〓

 Emは膜電位である。m, h, nはそれぞれNa+チャネルの活性化パラメータ,Na+チャネルの不活性化パラメータ,K+チャネルの活性化パラメータであり、[0,1]の値をとる。αx,βxはそれぞれEmの関数として与えられている。gNa, gKはそれぞれNa+チャネルのコンダクタンスの最大値、gLはその他のイオンチャネルのコンダクタンスである。ENa,EK,ELはそれぞれNa+, K+,その他のイオン特有の電位で平衡電位と呼ばれる。

 生体神経細胞を進化という面から見ると、生物が個体あるいは集団として生存するのに有利となるように、すなわち、素早く正確に、刻々と変化する環境に適切な反応を起こせるように、という力が働いて進化論的シナリオに従って発生、発達してきたと考えられる。この進化の制約条件となったものの一つに生体材料の特性があったことは明らかであり、任意の材料を用いることができれば全く同じ原理で情報処理を行うとしても格段に素早い反応が得られることは容易に推察できる。実際、反応速度の改善は進化上の目的の一つであり、現在までの進化の途上で軸索の有髄化という形で実現されている。

 したがって、HodgkinとHuxleyが観測したような生体神経細胞の挙動は、情報処理の本質に生体材料の特性に基づいた性質がおおいかぶさって現出していると考えられる。生体神経細胞の挙動から、この生体材料の特性による性質を取り除き、神経回路における情報処理の本質を解明するために、Hodgkin-Huxleyモデルを変形・簡略化した様々な神経モデルが提案され、そのモデルの挙動に対する解析が行われてきた。

 神経回路網において行われている情報処理の本質を解明し、その原理を応用することによって自己学習能力を持ち、柔軟な処理が可能で、耐障害性の強い計算システムを構築することは、脳の工学的研究の一つの重要な目的である。そのような計算システムを構築するにあたっての基盤として最終的にどのような素材が採択されるのかはわからないが、現時点で最も有望であるのは半導体であると思われる。

 本研究では、生体神経細胞との接続といった医用工学的応用も視野に入れ、比較的容易にパラメータを変化させることのできる「生もの」的ニューロンを構築することを目的として、MOS FETを用いた電子回路神経膜モデルを提案する。この電子回路神経膜は生体神経細胞と同じ時間スケールで動作し、入手可能なMOS FETによって実装可能である。

 まず、生体材料の特性にとって自然な形であるHodgkin-Huxley方程式を、MOS FETの特性にとって自然な形に変形した。すなわち、解析を容易にするために単純化するのではなく、なるべくHodgkin-Huxley方程式に忠実であるよう注意しながら、MOS FETによって単純な回路で実現できる形を目指して回路方程式の設計を行った。

 提案する電子回路神経膜の方程式:〓

 yは膜電位である。m,h,nはそれぞれNa+チャネルの活性化パラメータ,Na+チャネルの不活性化パラメータ,K+チャネルの活性化パラメータ。Hodgkin-Huxley方程式におけるENa,EK,gNa,gKの要素もこの変数に含まれている。Tm,Th,Tnはそれぞれm,h,nの時定数である。

 Hodgkin-Huxley方程式との大きな違いは

 1.変数m,h,nの時定数が定数であること。(Hodgkin-Huxley方程式ではEmの関数)

 2.g1(m,h),g2(n)がそれぞれMOS FETの持つ2乗特性で実現しやすい形となっている。(Hodgkin-Huxley方程式ではそれぞれm3h,n4)

 3.(6)〜(8)の式のnullclineの形がMOS FETの作動増幅器によって実現される形となっている。という点である。

 次に、設計したモデルの実装とその特性解析を行い神経膜としての以下の性質をもつことを示した。つまり、

 1.Zeeman(1972)によって提唱された神経興奮の特徴を満たす。つまり、

 (a)安定な平衡点が存在する

 (b)外部からのtriggerによって興奮を引き起こすのに閾値が存在する

 (c)興奮は引き起こされたときの速さにくらべるとゆっくりともとの平衡点にもどる

 2.不応期が存在する

 ことを示した。

 さらに、本回路の周期的矩形波刺激に対する応答を調べた。ヤリイカの巨大軸索に対して周期的な矩形波刺激を与えるとカオス的応答が得られることがあることが報告されており、生体神経細胞が単純な入力に対してさえ複雑で予測不可能な応答を示す能力を持つことが知られているが、本回路においても同様の現象がみられることを示した。

 最後に、本回路における興奮の発生機序についてHdogkin-Huxley方程式と比較した。Hodgkin-Huxley方程式には刺激入力による興奮発生において固定的な閾値が存在しないことが知られているが、このことは、定電流刺激(Ic)に対する応答のIcをパラメータとした分岐現象(Hopf分岐)によって説明できる。

 本回路においても定値刺激に対する応答で刺激値をパラメータとしたときにHopf分岐が発生することを示し、Hodgkin-Huxley方程式と同様の興奮の発生機序を持つことを示した。

 以上によって、提案するFET電子回路神経膜によりHogkin-Huxley方程式と同様で、パラメータ可変なニューロンを構成することが可能であることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

 心の座としての脳は,太古より人類の興味の対象となり続けてきた。実際,ギリシャ時代にはすでに脳解剖が行われていたという記録が残っている。長年の研究によって脳についての理解は進み,細胞レベル,分子レベルでの解析が行われるようになってきている。脳を構成する細胞の中で特に神経細胞は,活動電位と呼ばれる膜電位の変動を介して隣接する神経細胞へ情報を伝達し,これによって情報処理を行っていると考えられている。1952年,HodgkinとHuxleyはヤリイカの巨大軸索を対象とした実験を行い,神経細胞膜における電気的興奮のメカニズムを解析した。この研究は細胞膜電位(細胞膜の内部の,外部に対する電位差)と,神経細胞膜上のナトリウム・チャネルとカリウム・チャネルの挙動に着目した4変数の微分方程式を導出したものである。HodgkinとHuxleyが観測したような生体神経細胞の挙動は,情報処理の本質に生体材料の特性に基づいた性質がおおいかぶさって現出していると考えられる。生体神経細胞の挙動から,この生体材料の特性による性質を取り除き,神経回路における情報処理の本質を解明するために,Hodgkin-Huxleyモデルを変形・簡略化した様々な神経モデルが提案され,そのモデルの挙動に対する解析が行われてきた。

 神経回路網において行われている情報処理の本質を解明し,その原理を応用することによって自己学習能力を持ち,柔軟な処理が可能で,耐障害性の強い計算システムを構築することは,脳の工学的研究の一つの重要な目的である。そのような計算システムを実装するにあたっての基盤として最終的にどのような素材が採択されるのかはわからないが,現時点で最も有望であるのは半導体である。そこで本論文では,生体神経細胞との接続といった医用工学的応用も視野に入れ,比較的容易にパラメータを変化させることのできる「生もの」的ニューロンを構築することを目的として,MOS FETを用いた電子回路神経膜モデルを提案する。この電子回路神経膜はHodgkin-Huxley方程式を変形したものであり,生体神経細胞と同じ時間スケールで動作し,入手可能なMOS FETによって実装可能である。

 本論文は,"FET電子回路によるニューロンモデルの設計と特性解析"と題し,6章よりなる。

 第1章では,本研究の背景と概略を記述している。本論文ではHodgkin-Huxley方程式の記述する活動電位の発生メカニズムを参考とした,MOS FETによる実装に適した回路方程式を提案する。この方程式とその実装が満たすべき特性は以下の通りである。一つ目は古典的な神経としての機能を持つこと,つまり,安定な平衡点を持ち,Zeemanが主張した特徴を満たす興奮現象を起こし,興奮現象に不応期が存在する,ということである。二つ目は生体神経細胞と同様,単純な刺激入力に対して複雑で予測不可能な興奮パターンをも生成しうるということである。三つ目はHodgkin-Huxley方程式の示す興奮の発生メカニズムを受け継いでいるということであり,このことが生体神経細胞との結合を考えた場合に重要な点である。

 第2章では,神経細胞の基本構造と膜電位の発生機構,Hodgkin-Huxley方程式の示す活動電位の発生のシナリオを縮小モデルを用いて解説している。膜電位は細胞外液に対する細胞内液の電位であり,膜のイオン透過性によって説明できる。このイオン透過性の変動によって活動電位が発生する。イオン透過性の変化の動力学をナトリウム・イオンとカリウム・イオンとに着目して4変数の微分方程式として記述したのがHodgkin-Huxley方程式である。4変数のうち2変数の時定数が残りに比べて十分短いことから,これら2変数のみに着目した縮小Hodgkin-Huxleyモデルによって短時間の振る舞いを理解することができる。

 第3章では,MOS FETとMOS FETを用いた差動増幅器の特性について解説した上で,MOS FETの実装に適した回路方程式を提案する。MOS FETは2乗特性をもつ電子素子であり,これを用いた差動増幅器の特性はHodgkin-Huxley方程式の変数のうち3つの変数のnullclinesと似た形をしている。提案する回路方程式は,Hodgkin-Huxley方程式をMOS FETの2乗特性と差動増幅器の特性に着目して変形した4変数の微分方程式であり,各変数はHodgkin-Huxley方程式と1対1に対応している。Hodgkin-Huxley方程式と同様,4変数のうち2変数の時定数を十分に小さく設定することによって縮小モデルで興奮の発生を理解することができる。

 第4章では,矩形波刺激に対する応答特性について,提案した回路方程式の実装系とシミュレーションの結果についてまとめる。入力はパルス幅1(msec)の矩形波刺激であり,単発,二連,周期的という3パターンについて実験を行った。単発刺激に対する応答ではZeemanの主張する神経興奮の特徴を満たすこと,さらに刺激の大きさによって応答のピーク発生までの遅延が変化することを示した。二連刺激に対する応答では不応期の存在を示した。周期刺激に対する応答では,興奮の発生/非発生の判定を行って興奮の有無についての周期性を調べ,大域的分岐図を作った。さらに,非周期的な応答においては,刺激終了後0.5(msec)の時点での膜電位についてのリターンマップを作成し,これを用いてリアプノフ指数の推定を行った。この値が非周期的応答領域においては正であったことから,カオス応答の存在が示唆された。

 第5章では,興奮の発生メカニズムが定値刺激を与えた場合の応答特性によって説明できることを解説し,本回路の定値刺激応答特性についてまとめ,Hodgkin-Huxley方程式と同様の興奮の発生メカニズムを持つことを示している。神経細胞に対する定値刺激実験で,Hodgkinは刺激値をゆっくりと変化させた場合の自己発振の発生パターンに2通りあることを発見した。一つは刺激値が閾値を超えると周波数が十分低い自己発振が始まり,次第に周波数が高くなってゆくタイプであり,CLASS Iと命名された。他方は刺激値が閾値を超えた途端に非0の周波数の発振が始まるタイプであり,CLASS IIと命名された。Hodgkin-Huxley方程式がモデル化している運動神経であるヤリイカ巨大軸索はCLASS IIの応答特性を持つことが知られている。CLASS IIニューロンにおけるHopf分岐は安定平衡点から不安定平衡点へのinvertedなHopf分岐であり,不安定なリミットサイクルのさらに外側に安定なリミットサイクルが存在するという構造になっている。このため系は分岐点を超えた途端に外側の安定なリミットサイクルに移行する。回路方程式の分岐解析によってHodgkin-Huxley方程式と同様のHopf分岐構造を持つことを示すと共に,実装系に対する定値刺激応答がCLASS II特性を示すことを明らかにした。さらに,Hopf分岐点を持つために回路パラメータが満たすべき条件についてまとめ,本研究において用いた回路パラメータがこの条件を満たすことを示した。

 第6章では,本論文において提案した回路方程式がみたす性質について各章の結果を総合することによって以下のようにまとめた。本論文は,古典的にいわれている神経としての機能(すなわち,安定平衡点,閾値を伴う興奮現象と不応性),生体神経細胞と同様の複雑な非線形応答特性,Hodgkin-Huxley方程式と同様の興奮メカニズムを持つ,FET電子回路ニューロンを構築したものである。この結果,運動神経損傷等の人工神経を必要としている医療向けの医用工学的応用の可能性も持つ,パラメータ可変な電子回路ニューロンを提供した。

 以上を要するに,本論文は,生体神経細胞との接続といった医用工学的応用も視野に入れて,パラメータ値を容易に変化させることができ,かつHodgkin-Huxley方程式と同様のダイナミクスを有する人工神経膜をMOS FET電子回路を用いて構築し,その非線形特性を明らかにした。これは,生体情報工学,そして計数工学上貢献するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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