学位論文要旨



No 116775
著者(漢字) 平井,進
著者(英字)
著者(カナ) ヒライ,ススム
標題(和) 近世後期・近代初頭の北西ドイツ村落社会 : 定住管理体制の構造と展開
標題(洋)
報告番号 116775
報告番号 甲16775
学位授与日 2002.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第149号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 大澤,眞理
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 教授 森,健資
内容要旨 要旨を表示する

(要旨)

 本論文は、17世紀末から19世紀中頃の北西ドイツ・オスナブリュック地方を事例地として、下層民に対する社会統制(下層民管理)という観点から定住管理をめぐる社会的諸関係(定住管理体制)を検討することによって、近世後期から近代初頭のドイツにおける村落社会秩序と農民身分の自律性の歴史的な特質と展開を考察するものである。

 序章では、これまで主に領邦国家に対する政治的な自治においてその自律性を考察されてきたドイツの農民身分・村落社会の評価に疑問を呈して、近世後期・近代初頭を通じて村落社会にとって最も日常的で重要な秩序問題であるものの、伝統的農業史研究でも近年の農村社会史研究でも正面から論じられなかった下層民管理のあり方とそこにおける村内支配身分としての農民身分の位置・役割に注目する必要を述べている。

 そして、近年の農民・下層民関係の研究に見られる、農民身分と村落団体との等値や領邦当局との関係の不明確さという傾向を批判して、下層民を管理する現実の要素である個々の農場保有者・村落団体・領邦当局の三者の相互関係に注目し、そこから村落社会秩序の構成と農民身分の自律性をとらえ、また検討期間を比較的長くとって三者の相互関係の変容からそれらの展開を析出する方法を提起している。

 第1〜4章では、かかる問題関心・方法の下で、これまで体系的な検討に乏しかった下層民に対する定住管理体制を、その増加・堆積が典型的・頂点的に進み、同時に定住管理制度が典型的に段階的な発展をみせた北西ドイツ・オスナブリュック地方を事例地に選び、17世紀末から19世紀中頃まで4段階に分けて詳細に検討している。

 第1章では、近世後期における村落団体の定住管理制度をめぐる諸関係が問題とされる。

 近世のオスナブリュック地方(オスナブリュック司教領)の村落社会における定住管理制度は、村落団体の一種であるマルク共同体がもつ住居新設(住居の新築や既存の建物の住居への転用)や共有地の開墾・入植に対する同意権と、領邦当局による住居新設に対する許可金の賦課とから成り立っていた。制度的には、直接的な規制対象は定住行為ではなく住居新設であり、また定住者というよりも住居新設者であった。

 領邦当局は、国法も承認したマルク共同体の入植同意権によって共有地を舞台とする入植政策を制約される一方、住居新設に対して許可金を賦課しようとしたが、その関心は定住管理ではなく財政利害にあり、しかも村落団体や身分制議会の抵抗のために、全ての住居新設に賦課し得ていたわけではなく、定住行為の把握は、徴税に関わる事後的な届け出によったと思われる。その一方、実質的に定住管理を主導した村落団体も、共有地への零細地保有者の入植は制限できたものの、その成員である個々の農場保有者が労働力確保や賃料収入を目的に、土地なし借家人世帯であるホイアーリングを受け入れるために行う、付属小屋住居の新設は十分規制できなかったと見られる。

 したがって、ホイアーリングの定住、つまり農場保有者による受け入れは、領邦当局の規制も村落団体の規制も十分に及ばず、その結果、農場保有者の私的寄留者というべきホイアーリングが、18世紀後半に農村住民世帯の過半を占めるまで増加・堆積した。

 第2章では、こうした定住管理体制の限界に対する、18世紀後半の国家介入とそれに対する農民身分の対応が、定住管理体制の再編として論じられる。

 共有地用益と小作地に依存する極小規模の農業経営と、亜麻織物業やオランダへの出稼ぎなどといった副業に依存する、生活の不安定な階層の増加・堆積によって、救貧・治安問題が拡大して七年戦争後に深刻化した。特に1770年代初頭に生じた食糧危機は、メーザーら領邦指導層に大きな衝撃を与え、領邦の過剰人口状態と、ホイアーリングに対する定住管理問題を認識させることになった。

 このような状況の中で、領邦当局の対応としてホイアーリングに対する旧来の定住管理の規律化を意味する立法、1766年及び1774年の両救貧条例が成立した。村落団体(行政村)の救貧責任を確定した前者では、ホイアーリングを受け入れる個々の農場保有者の責任が喚起され、後者では特に新たに教区外から受け入れる余所者ホイアーリングに関して、村落団体(教区団体)に対する個々の農場保有者の責任が法定され、そうした新定住のホイアーリングに対して、追放制度を含む居住権制度が事実上導入された。村落団体は、かかるメーザーの立法介入に積極的に対応し、村落団体による居住拒否、農場保有者を介さない新定住者に対する直接的な規制、定住管理の自主的強化を目指す農民運動までもが法規定を越えて生じた。共有地分割までは旧来の定住管理制度と併存しつつ、かかる介入立法と村落社会の対応とによって、個々の利害をある程度押さえた農場保有者たちの集団としての村落団体と、領邦当局の地方官吏たる小管区役人とが協力・連携して、余所者ホイアーリングの定住を監視する体制が形成された。

 もっとも、この体制もホイアーリング人口の抑制や救貧問題に関して大きな成果は挙げられず、19世紀初頭にはホイアーリングとして定住する地元下層民への規制の拡大が、村落社会からも地方官庁からも提起されていた。

 第3章では、近世末のかかる状況を受けた三月前期(オスナブリュック司教領は世俗化後ハノーファー王国の1州となる)における定住・結婚規制をめぐる諸関係が検討される。

 三月前期の初頭にも、ホイアーリング問題は引き続き注目を集め、その定住管理の強化が地方官庁・州議会で議論され、提案されていた。かかる状況下で、ハノーファー王国の定住・結婚規制法たる居住権地条例・結婚許可状条例が1827年に成立したが、両条例は、オスナブリュック地方ではとりわけホイアーリングに関わるものであった。農場保有者集団としての村落団体(教区団体または行政村)が、居住権付与と領邦当局が与える結婚許可への同意を通じて、個々の農場保有者を通さずに直接的にホイアーリングの定住を管理し、また結婚許可への同意において、余所者のみならず地元下層民も村落団体の規制下に置かれるようになった。そして、かかる制度の下で、村落団体は、居住権・結婚許可を得てホイアーリングになろうとする者の経済力・人格を厳しく審査し、またそれらの申請を受理せずに、救貧責任の引き受けをも同時に意味する居住権付与・結婚許可への同意をできるだけ回避しようとした。それに対して領邦当局は、一方で村落団体による経済力・人格審査を前提としつつ、他方で申請先の村落団体を決定し、村落団体による法規定を超えた規制を認めなかった。

 しかしながら、このような定住管理体制下でも、居住権付与・結婚許可に関わらぬホイアーリングの定住は村落団体も領邦当局も規制できず、また経済力・人格審査の基準規定の前提でもあった下層民の経済基盤の動揺・縮小(特に共有地分割と亜麻織物業の崩壊)によって、貧窮ホイアーリング世帯の増加は進んだのである。

 第4章では、1840年代中頃以降頂点に達する大衆窮乏に対する農民身分・領邦当局の対応による定住管理体制の修正が論じられる。

 ホイアーリングの貧窮化を主問題とする、かかる社会的危機に対して、1840年代中頃の議論では、農民・ホイアーリング関係を規制し(=農場保有者に対するホイアーリングの受け入れ規制)し、ホイアーリングの経済基盤を農業化させることが検討されていた。すでに一部地域では、農場保有者たちが、農民・ホイアーリング関係に関する規制協定を締結する動きが見られ、領邦当局も注目するところとなっていた。

 こうした経緯の後に、三月革命期のホイアーリングによる騒擾・請願運動を受けて、領邦当局は調停という形で農民・ホイアーリング関係に介入していき、さらにこれを踏まえて、行政村ごとまたは教区ごとに選出された、農場保有者とホイアーリングの双方の代表からなる委員会が、ホイアー設定を小作地の扶養力の観点から規制する1848年法を制定した。ホイアーリングとして定住を希望する者の経済力・人格を吟味し、監視するという従来の規制に加え、同法の成立によって、村落団体(の一機関)が領邦当局の後見・監督で、定住後の生活を安定させるように個々の農場保有者によるホイアーリングの受け入れ一般を管理するシステムが確立され、反動期以降機能していった。

 終章では、第1〜4章で論じた定住管理体制の構造と展開を整理した上で、下層民管理と農民身分の自律性についてまとめている。

 すなわち、下層民問題の社会的圧力の増大の中で、領邦当局の介入と農民身分の主体的対応とが絡み合いつつ、近世的な下層民管理が18世紀末以降再編され、19世紀中頃までに下層民に対する監視・統制システムが発展した。この背後で、近世後期においてなお存続した、村内支配身分としての農民身分の古い自律性が規律化されていき、個々の農場保有者の自律性は縮減され、領邦当局は村落団体に関与・監督を強めていった。こうした過程は、日常生活に介入して下層民の監視と統合を図るという意味で、社会国家の一部としての19世紀後半の村落自治へとつながっていくと見られる。そして、このような考察成果は、土地なし借家人の増加・堆積という事例地の地域的特性から、近世後期・近代初頭のグルントヘルシャフト・農場−子相続制地帯の村落社会秩序と農民身分の自律性のあり方について、一定の一般性と同時に一つの側面を典型的に示していると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,17世紀後半〜19世紀半ばにおけるドイツ村落社会の秩序と自律性の歴史的展開とその特質を,社会統制,具体的には農村下層民に対する定住管理の問題に焦点を合わせて,北西ドイツのオスナブリュック地方の事例に即して実証的に解明することを課題としたものである.その構成と内容を紹介すれば以下のようになる.

 序章「村落社会秩序・定住管理・北西ドイツ」では,内外の研究史の整理に基づいて本論文の課題が設定される.すなわち,領主制や農業経営を重視する「伝統的農業史」に代わって,近年,村落社会そのものや民衆生活に注目する「農村社会史」が発展したことを背景として,近世・近代の村落社会の階層構造・身分階層制,さらに村落社会における社会統制の自律性が注目されるに至っていることから,その際最も日常的な秩序問題である定住管理,特に下層民管理のあり方とそこでの農民身分の自律性の解明が必要であることが指摘される.そして,個々の農場保有者(農民),村落団体,領邦当局の相互関係に留意して,村落社会秩序の構成やそこでの農民身分の位置・役割の段階的変化を,約200年にわたって追跡するなかで明らかにすることが本論文の課題として設定される.北西ドイツが対象として選ばれたのは,農民身分の法的・経済的安定,非農業収入機会の拡大に伴う村落社会への下層民の定住の増大,その結果としての村落社会の階層構造の進展といった特徴が明瞭であるため,当該期のドイツ村落社会の特質を最も典型的にもつと考えられるからである.

 本論部分は4つの章からなり,上述の視角から定住管理体制の展開が,4つの時期に分けて詳細に明らかにされる.第1章「近世後期のマルク共同体・領邦国家と下層民定住」では,本論文の考察対象となるオスナブリュック地方の国制や階層構成,村落団体,定住史的状況などが概観された(第1節)のち,17世紀後半から18世紀半ばにいたる時期の定住管理体制が検討される.この時期の領邦政府の定住政策として注目されるのは,領邦当局の共有地人権政策に対するマルク共同体の同意権および領邦当局による住居新設許可金制度であるが,後者は財政的関心によるものであり,住居新設の把握・賦課や人的管理も十分ではなかった(第2節).また,村落団体(マルク共同体)の定住規制も,新たな零細土地保有者の入植を阻むことはできたものの,個々の農民が自己の農場に土地なし借家人(ホイアーリング)を受け入れることは阻止できなかった.これは,領邦国家に対する村落共同体の自律性,および両者に対する農民身分の自律性を意味するものであり,こうした農民主導の「自治的な定住管理」が村落社会の身分階層制を拡大・深化させることになった(第3節).

 第2章「近世末の下層民問題と定住管理体制の再編」では,1766年と1774年の条例成立の背景とそれによって再編された定住管理体制の帰結を検討することが課題とされる.ホイアーリングは村落内で居住農場の寄留者として不安定な地位にあり,農業的基盤も弱かったため亜麻織物業やオランダへの出稼ぎなどの非農業的副業に従事していたが,既に17世紀後半から存在したその困窮に伴う救貧・治安問題が,村外・教区外からの下層民の流入によって顕在化した(第1節).これに対して領邦当局は,ホイアーリングを農場保有者が「勝手に」受け入れていると認識し,J.メーザーの主導のもとに,まず1766年条例で,行政村や個々の農場保有者にホイアーリング受入れに対する自主規制を要求し,さらに1770〜72年の食糧危機を契機として1774年条例が定められ,行政村・教区団体に救貧責任を課し,農場所有者に定住管理責任を与えて余所者ホイアーリングの受入れを制限しようとした(第2節).こうして,19世紀初頭には新たな定住管理体制が定着し,農場保有者とホイアーリングの関係は村落団体の規制を受けはじめたものの,なお地元のホイアーリングの受入れに伴うその増加を押さえることはできず,村落社会の対外的な閉鎖化を進めることになった(第3節).

 第3章「三月前期の大衆窮乏と定住・結婚規制」では,三月前期にホイアーリングの貧窮が深刻化した結果,二つの立法により定住・結婚規制が導入されるにいたる過程が考察される.19世紀初頭オスナブリュック地方は国制上の変化を経験するが,下層民の堆積という身分階層構造はなお維持され,ホイアーリングは,共有地分割に伴う利用権の喪失,亜麻織物業の衰退,オランダへの出稼ぎの条件悪化による経済基盤の動揺・縮小の結果,貧窮化を進めていった(第1節).こうしたなかで1827年に居住地権条例と結婚許可状条例が成立し,村落団体と領邦当局は経済力と人格を基準として下層民に居住権とそれを前提とする結婚許可状を与えた(第2節).史料の立ち人った分析を通じて明らかになる定住・結婚規制の構造と性格は,村落団体が居住権・結婚申請者を厳しく審査してできるだけ排除しようとしたのに対して,領邦当局は抗告の制度化などによってこれを監督・調整し,村落団体が領邦国家の法規を越えて規制を行うことを認めないというものであった(第3節).このような定住・結婚規制は,北米への移民の一因とはなったが,婚外出生率を高めたため人口動態には大きな影響を与えなかったのに対して,下層民の定住・結婚行動を実際に制約し,ホイアーの親子継承や世代間同居を現出させた.しかし,規制の基準と範囲にはなお限界があり,困窮ホイアーリングの増加を抑止することができなかった(第4節).

 第4章「三月革命と定住管理」では,三月革命期の社会的混乱のなかで下層民の定住管理体制が再び修正を受ける過程が分析される.1840年代に入って貧窮問題が一層深刻になるなかで,貧窮化の要因として農場保有者によるホイアーリングの農業的基礎の圧迫が問題となり,農民とホイアーリングの関係の規制が,領邦当局と農民自身により模索されるようになった(第1節).三月革命期に下層民による騒擾と請願運動が起きたが,領邦当局は騒擾を鎮圧する一方,農場保有者とホイアーリングが後者の地位改善のための調停委員会を設置することを促し,農民も設置を受け入れた(第2節).これを受けて1848年に「ホイアーロイテに関する法」が成立し,農民とホイアーリングの関係を規制するための「ホイアーリング委員会」の設置などが定められた.その結果個々の農民の自律性が大きく制限されることになり,ホイアーリング自身が下層民管理に参加するという新たな村落社会秩序が出現するとともに,これ以後ホイアーリングの状況も徐々に安定していった(第3節).

 終章「総括」では,第1章〜第4章の内容が総括されたのち,本論文の課題と方法が農村社会史研究においてもつ独自性が,農民による村内支配あるいは農民・下層民関係を立体的かつ長期的に検討した点,農民身分と村落社会の自律性を,領邦国家との関係を念頭に置きながらやはり長期的に跡付けた点などにあることが確認され,併せてオスナブリュック地方を事例とした本論文の結論がドイツのグルントヘルシャフト・農場一子相続制地帯において一般性をもつことが指摘される.

 本論文の意義は以下のようにまとめることができよう.第一に,内外のドイツ農業史・農村社会史研究の丹念な整理の上に立って,社会統制,具体的には農村下層民に対する定住管理体制という未開拓の問題領域を探り当て,17世紀後半〜19世紀半ばにおけるドイツ村落社会の秩序と自律性の歴史的展開とその特質の段階的変化を明らかにしたことが挙げられる.

 第二に,ドイツでの広範な一次史料(法令集,裁判記録,共有地関連文書,請願書等々)の渉猟とその精緻な分析に基づいて,密度の高い実証作業を行っていることが注目される.これは第1章〜第4章全体にわたって言えることであるが,特に第2章,第3章の実証水準の高さには剋目すべきものがある.

 第三に,ドイツの他の地域と比べても北西ドイツで顕著であったホイアーリング層の増大という,これまでにも確認されてきた史実を,「自然かつ予定調和的に進む過程」としてではなく,「村落社会をめぐる様々な経済的・政治的利害の対抗の所産」として,より重層的・立体的に説明し,藤田幸一郎が三月前期について提示した「共同体農民」と「農村プロレタリアート」との対立という構図がそれ以前の時期に妥当するものではなかったことを指摘して,農民と農村下層民の関係の動態化に道を開いたことが注目される.また,いまだ仮説的ながら三月革命後に成立した定住管理体制のなかに,「社会国家の一部としての近代村落自治の確立へ向けた転換点」を読み取ったことも,ドイツ農村の近代化との関連で重要な指摘ということができる.

 第四に,北西ドイツのオスナブリュック地方の単なる個別実証研究にとどまることなく,より一般的な問題(領邦国家と村落団体と農民身分の関係)についても,内外の研究史を一歩深めることを目指しており,農民・村落社会の自律性が後退していたとされる近世後期においても,定住管理という問題に即してみるならば,領邦国家に対する村落共同体の自律性,および両者に対する農民身分の自律性が確認できることを,ドイツ,とりわけグルントヘルシャフトと農場一子相続制が支配的であった地域におけるその一般的妥当性とともに指摘したことは重要である.

 とはいえ,本論文にも問題がないわけではない.第一に,ホイアーリングの受入・増大に伴う貧困・治安問題の深刻化−→新たな定住規制立法の制定による領邦国家・村落共同体・農民の関係の変化というプロセスの段階的進展が議論の展開の基本線となっているため,実態と規制の相互作用が当然視野に収められているが,定住管理の問題に関心が集中しすぎており,日常的な救貧業務の実態,下層民の騒擾の具体的様相あるいはホイアーリング委員会の業務内容といった関連事項の説明がおろそかになっており,説得力をそぐ結果となっている.これらの点は今後補強される必要があろう.

 第二に,「伝統的農業史」から距離を置き,「農村社会史」に力点を置いた分析をしているため,逆に経済史的分析が弱い点が指摘される.200年に及ぶ長期的分析の意義を強調しているわりには,農業・土地制度の発展が議論のなかに十分組み込まれておらず,例えば共有地分割も定住管理体制との関連でのみ論じられ,その経済史的意義が十分に捉えられていない.経済史研究の蓄積を生かすことは,著者の研究の説得力を増すことはあっても,損なうことはないと思われる.

 第三に,ホイアーリングとは何か,この階層は如何に再生産されたのか,あるいはホイアーリングと農民(農場保有者)はどのような関係にあったのかという,本論文の課題の前提となる事実関係が必ずしも明らかではないことが挙げられる.何故農民は農場内にホイアーリングを受け入れたのか,ホイアーリングが結婚できたのは何故か,何故1827年まで結婚ないし世帯形成は規制されなかったのか,といった基本的論点がさらに立ち入って検討されることが求められる.

 以上のような問題点をもつとはいえ,本論文が,内外の研究史を踏まえた上での問題設定,明快な構成と論旨,一次史料に基づく緻密な実証作業など,課程博士論文としては出色と言いうる内容と水準をもつものであることは疑いない.審査委員会は,全員一致で著者が博士(経済学)の学位を取得するに相応しいという結論に達した.

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