学位論文要旨



No 116790
著者(漢字) 川喜田,敦子
著者(英字)
著者(カナ) カワキタ,アツコ
標題(和) ドイツ連邦共和国における被追放民の統合
標題(洋)
報告番号 116790
報告番号 甲16790
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第348号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 石田,勇治
 東京大学 教授 相澤,隆
 東京大学 助教授 足立,信彦
 東京大学 助教授 木宮,正史
 東京大学 助教授 森井,裕一
内容要旨 要旨を表示する

 第二次世界大戦末期、ソ連軍の侵攻とともにドイツ東部、東欧からドイツ系住民の自発的な逃亡、立ち退きが始まった。戦闘が終息した後には東欧諸国民による自然発生的な追放行為が行なわれ、さらにポツダム会談で、オーダー=ナイセ川以東のドイツ東部領を割譲して暫定的にポーランドの統治下に置くことと並んで、東欧諸国に残留するドイツ系住民の大量移住を行なうことが決定されると、この協定に基づくドイツ系住民の強制移住が開始された。この一連の経過はドイツ連邦共和国(BRD)では「追放(Vertreibung)」、ドイツ民主共和国(DDR)では「移住(Umsiedlung)」と総称され、その過程で発生した大量の難民はそれぞれ「被追放民(Vertriebene)」「移住民(Umsiedler)」と呼ばれた。BRDで人口の20%、DDRでは25%近くを占めたこれらの難民を統合することは、戦後ドイツの重要な課題となった。

 占領期から1950年代にかけての東西ドイツにおける被追放民統合政策を比較すると、両者のあいだには著しい相違が確認できる。ソ連占領地区では、占領初期から被追放民の統合を援助するための措置がとられた。しかし、それらの援助措置は1947年には早くも財政的な危機に陥り、継続が困難になっていった。一方、この時期には、冷戦の激化に伴って共産主義諸国への経済的依存が強まり、東部国境問題を早急に解決する必要性が高まる中で、被追放民の統合への圧力も急速に強まった。この状況の中でドイツ社会主義統一党は、「移住民問題は解決された」と一方的に宣言することにより、被追放民に対する特別の援助措置を次々に縮小させていった。ソ連占領地区では、早期から、被追放民の迅速な統合を阻害するという名目でかつての故郷の歴史や文化についての記憶は抑圧され、組織化が禁じられて被追放民どうしの人的つながりも切断されていった。とくに「移住民の統合が完了した」と言われるようになった後は、「移住民」が彼ら特有の困窮状態に置かれているということが否定されたばかりか、「移住民」という呼称の使用が禁じられ、「移住民」という枠でくくられるべき住民集団そのものも存在しないことにされてしまった。これ以降、DDRにおいて「移住民」はタブーテーマとなった。

 一方、BRDでは、1949年の緊急援助法、1952年の負担調整法、1953年の連邦被追放民法などの被追放民関連の諸立法に基づく様々な統合援助措置により、被追放民の社会経済的統合が進行した。BRDの被追放民統合政策の特徴は、このように社会経済的統合を促進する一方で、文化的な同化を避けようとしたという点にあった。DDRの状況とは対照的に、BRDでは、被追放民の文化を保護することを連邦ならびに諸州に対して義務づけた連邦被追放民法第96条に基づき、被追放民の集団としてのアイデンティティの保護が進められた。同規定に基づく連邦政府の文化保護の実施は、助成金による財政援助という形態を取った。連邦被追放民省、連邦全ドイツ問題省、連邦内務省、外務省の各省の助成を受けて、東部ドイツの文化団体、被追放民組織、教会の組織、青少年を対象とした文化活動に携わる組織が活動を行なっていたほか、芸術活動、出版、文書館・博物館・図書館、東方教育、研究などの各分野に対してもこの規定の枠内で助成が行なわれた。

 被追放民の文化的アイデンティティを保護するという発想は、DDRの同化政策に対するアンチテーゼとして打ち出された構想であった。BRDおよびDDRでは、被追放民統合政策やその成果の優劣が体制そのものの優劣に読み替えられ、自己の体制を正当化するために利用された。BRDでは、DDRにおいて被追放民の集団としてのアイデンティティが抑圧されたことがボルシェヴィズムと結びつけられて批判され、共産主義化の防止という観点から被追放民の文化を保護することに積極的な意味が与えられた。一方、DDRでは、被追放民に帰郷の可能性を示唆し、集団としての彼らの存在を維持しようとするBRDは新たな戦争を準備する「帝国主義国家」として批判され、「平和を希求する国家」としてのDDRと対置された。BRDにおける被追放民の文化保護政策は、このような東西ドイツ間の対抗関係の中から生じてきた発想であった。

 被追放民の文化を保護するという決定は、被追放民の文化を保護するのか抑圧するのかという単なる統合方法の選択の問題ではおさまらない意味をも有していた。BRDにおいて、被追放民には、旧東部領回復要求と反共産主義という政治的な基本コンセンサスを体現する存在としての役割が与えられたためである。被追放民の文化を保護し、集団としての彼らの存在を国民の中に意識化しておくことは、彼らが体現する基本コンセンサスの意識化、強化につながることであった。旧東部領問題や反共産主義に関わる政治的利害に照らして、連邦政府は被追放民の文化事業に干渉した。連邦被追放民法第96条に基づく助成を受けて行なわれた研究プロジェクト『追放の記録』の場合には、編纂した史料集を東部国境問題の交渉に際してドイツ側に有利な証拠として役立てようとする連邦被追放民省と純粋に学術的な立場から編纂を進めようとする学術委員会の方針のあいだにずれが生じたため、連邦被追放民省はこの史料集の編纂作業に厳しく介入した。連邦被追放民省は、被追放民の統合に関する論文集『西ドイツにおける被追放民』の場合にも、編集段階で連邦政府の意に添わない方針が打ち出された場合に干渉し、研究成果の出版を阻止するだけの権限を維持しつづけた。また、東方研究の場合にも、助成対象となった研究機関には、BRDの政治的利害に即し、連邦政府の意向を汲んで研究を進めることが期待されていた。政府による助成は、他方では、被追放民の政治的要求が一定以上に急進化することを妨げる役割をも果たした。例えば、被追放民の統合組織であり、旧東部領回復要求の急先鋒として知られる「被追放民同盟」は財政基盤の大部分を政府の助成金に依存していたが、被追放民の内部で組織の意義が失われるにしたがって国家や政党の機関への依存を一層強め、その影響下に置かれることになった。このように、被追放民の文化事業に対して政府が助成を与えるということは、当該の活動を活性化させ、促進するという意味で被追放民の側からの要請に応えるものであったと同時に、財政的に援助を行なうことによって活動の方向性に干渉し、統制を加えるということでもあった。

 被追放民が東部領回復要求と反共産主義という基本コンセンサスを体現する存在として位置づけられ、彼らの文化がそのような政治的文脈の中で保護されたことは、「被追放民の故郷」と呼ばれた東部地域の歴史、「追放」および統合の歴史など、被追放民と結びつけられた歴史の解釈に大きな影響を与えた。このことは、単なる個々の史実の解釈を超え、歴史認識を媒介としたナショナルアイデンティティの構築に関わる問題としてとらえなければならない。

 旧東部領回復要求と反共産主義を背景として、BRDでは、第二次世界大戦におけるドイツ人の被害体験である「追放」が、ナチの暴力支配や侵略戦争という加害の記憶から切り離されて強調される傾向が生じた。また、東方研究教育活動の振興の重要性に関して党派を超えた幅広いコンセンサスが形成され、その下で、ナチ期に東方拡大を正当化した戦前の東方研究と人的、制度的、内容的連続性をもつ研究が政府の助成を受けて続けられていくことにもなった。ドイツ人の文化的貢献を中心に据えた東欧史解釈、東方侵略を心理的に準備したスラヴ人に対する蔑視観、ナチの侵略、占領政策への東方研究の荷担に対する反省は、1950年代には、とくに東方研究の内部においてはほとんど見られない。1950年代に行なわれた被追放民の文化保護およびそれを規定した政治的文脈は、ナチの過去に対する反省に立脚した批判的歴史認識の醸成や、それを根幹に据えたナショナルアイデンティティの構築には阻害的に作用した。

 被追放民の文化保護は、戦後ドイツがナショナルアイデンティティの基盤をどこに置こうとしたかという問題とも密接に関わっていた。BRDでは、DDR、旧東部領まで含めた戦前のドイツ帝国の全領域が統一されたひとつのドイツとして存在しつづけているという前提の下に、その認識に立脚するナショナルアイデンティティの構築が試みられた。その際、失われた旧東部領との結びつきを国民の意識の中に維持する役割を与えられたのが被追放民という存在であった。オーダー・ナイセ線を国境として承認したDDRでは、東部につながる記憶を抑圧する一方、国土を放棄したという事実から逆に積極的な価値を引き出すことが試みられた。それが、国土喪失の原因たるナチ体制との決別を掲げる反ファシズム国家、また東欧諸国との友好関係の中で平和を希求する国家としての自己認識であった。国土喪失と分断に直面して、BRDは過去の国民国家の記憶の基盤の上に、DDRは国土を放棄するという決断の上にナショナルアイデンティティを構築しようとして、それぞれ、被追放民の存在を利用し、またタブー化したのである。

 東部領の喪失、冷戦下での東西分断、被追放民問題は1950年代のBRDにおいて互いに密接に関連しあっていた。被追放民の統合をこの連関の中でとらえることは、被追放民の流入がBRDに及ぼした影響を、戦後ドイツ社会が第二次世界大戦の帰結とどのように向き合い、第二次世界大戦の過去とどのように取り組み、その中でどのようなナショナルアイデンティティを構築していったのかという問題との関連において考えることになる。

審査要旨 要旨を表示する

 第二次世界大戦の末期、ドイツ東部領の住民は、ベルリン攻略をめざして進撃するソ連軍を前に一斉に西方に避難を始めた。東欧各地では、かつてナチの暴力支配に苦しめられたスラヴ系住民やソ連兵の報復欲求が現地のドイツ系住民に向かい、かれらも暴力的に故郷を追われた。さらに戦勝三大国によるポツダム会談は、オーダー・ナイセ川以東のドイツ東部領の切り離しと当該地域に残留するドイツ人の即時立ち退きを決定した。こうして戦中戦後の混乱のなか着の身着のままで過酷な移住を強いられたドイツ人「被追放民」は総数で1500万人にも上り、その内約300万人が移住の途上で命を奪われた。

 戦後のドイツ連邦共和国(以下、西ドイツ)は、東部から流入するこれら大量の「国内難民」を受け入れるという困難な課題に直面した。被追放民がどのようにして新しい社会に統合され、それが戦後のドイツ社会にいかなる影響を与えたかという問いは、ドイツ現代史研究に従事する者はもとより、アジア太平洋戦争後に多くの「引き揚げ者」問題や「中国残留孤児問題」を抱える東アジアの研究者にとっても関心を引くテーマであろう。先の問いにたいする従来の回答は、アデナウアー政権下の「奇跡の経済復興」が、被追放民の生活水準の向上と社会統合を可能にし、その結果かれらの政治的な急進化が回避され社会の安定化につながったというものである。

 本審査対象論文は、こうした通説を踏まえながらも、従来の社会経済的観点とは異なる新しい問題関心からこのテーマにアプローチしている。つまり本論文の提出者は、戦後初期の被追放民問題がもつ政治的な意味合いを西ドイツの内政と対外関係の視点から、とくに東ドイツとの関係を視野に入れて分析し、あわせてこの問題が分断国家西ドイツの国民的アイデンティティの形成と歴史意識にどのように関連したかを解明しようとしている。主な考察対象は西ドイツであるが、その特徴を際立たせるために、東ドイツにも比較分析のメスを入れている。東西ドイツ双方を視野に収めた本論文の分析手法は非常に説得的で、本研究の特長のひとつとなっている。利用された一次史料は非常に幅広く、ドイツ連邦文書館所蔵の関係官庁、関係団体の公文書と個人文書を渉猟し、それ以外にも連邦議会文書室や被追放民団体など各種のアーカイヴで史料の蒐集にあたっている。

 本論文は、序章、第1章から第4章、終章、付録(表・文献リスト・地図など)からなる。目次等を含めて296頁で、四百字詰め原稿用紙換算では約800枚の分量に相当する。以下、それぞれの部分の概要を紹介する。

 まず序論では、被追放民問題に関する主要概念を定義(東ドイツではたんに「住民移動」と呼ばれ、西ドイツでは「追放」と呼ばれた)したのち、研究動向の紹介と問題点の整理がおこなわれる。とくに近年この分野で成果をあげたゲーアマンやミューレンらの研究が批判的に検証され、被追放民問題の政治的な含意を分析することの重要性と、東西の比較と相互連関を解明することの有効性が示される。

 四つの章からなる本論は概ねクロノロジカルな流れにそって展開されている。

 議論の前提となる第1章「被追放民統合政策の展開」は、各占領軍政府の下で個別に実施された統合政策の展開を東西占領地区に分けて比較検討する。ソ連地区では、当初、積極的な統合支援措置がとられたが、これが財政難で打ち切られると、ドイツ社会主義統一党は早々に「移住民問題の解決宣言」をおこなった。提出者はその理由を社会主義統一党のソ連軍政府への配慮、つまり被追放民問題がポーランドとの国境問題に波及し、ソ連軍政府の反発を招くことを恐れた点に求めている。一方、西側地区でも統合措置がとられた。西ドイツ建国後はさらに統合に拍車が掛かり、連邦緊急援助法、連邦負担調整法、連邦被追放民法など立法による統合援助政策が実行された。

 第2章「被追放民の集団としてのアイデンティティとの関わり方における東西ドイツの相違」では、建国直後における東西ドイツの統合政策が比較分析される。まず東ドイツは、被追放民の徹底した統合=同化政策を実行した。そのさい、同化の妨げとなる被追放民の文化的アイデンティティの温存は容認されなかった。旧東部領の歴史や文化は忌避・抑圧され、被追放民同士の連帯も禁じられた。東部の故郷を想起させる駅や通りの名前も改められ、被追放民問題を語ることは社会主義の友邦であるポーランドやソ連にたいする侮辱とみなされた。これにたいして、西ドイツの統合政策は被追放民の社会統合を促進する一方で、かれらの文化的伝統の保護とアイデンティティの維持に努めた。提出者は、この目的で制定された連邦被追放民法の策定過程を外務省・被追放民省・全ドイツ問題省の三つ巴の確執を交えて分析し、あわせて東ドイツの同化政策を、すべてを画一化する野蛮なボリシェヴィズムの所業として批判する西ドイツ側の主張を精密に分析している。

 本論文の中心は第3章と第4章だが、第3章「西ドイツにおける文化保護政策」は、西ドイツ政府による被追放民の文化保護政策の実態を検討し、そこに秘められた政府と関係省庁の政治的な意図を明らかにしている。具体的には、政府の助成を得て進められた文化事業のうち、当代一流の歴史家や法学者が大勢携わった長大な資料集『追放の記録』(全九巻)と『西ドイツにおける被追放民』(全三巻)という二つの研究プロジェクトをとりあげ、それらにたいする政府と行政の支援と介入に注目している。ここでは、追放の不法性が一方的にソ連・東側陣営に帰せられ、集団としての被追放民の存在を強調することで、来るべき講和(主権回復)にむけて少しでも有利な条件を引きだそうとする政府の意図が解明される。また50年代後半には常設文相会議が東部ドイツ領の歴史と文化を学校で詳しく教えるための新科目「東方学」の導入を勧告するが、そこにいたる文部行政の政治的な動機を、当時広く流布していた反共主義と東ドイツへの対抗意識に着目して浮き彫りにしている。

 第4章「1950年代の西ドイツ社会と被追放民問題」は本論文の佳境で、先に論じた文化保護政策に投影された歴史認識の問題を、この政策を策定・実行した政治家や官僚、学者等による種々の言説・叙述の分析を通して検討している。ここで分析俎上に載るのが、被追放民問題を語りながらはしなくも露呈する伝統的な東方観、つまりナチ体制の崩壊後もなお命脈を保つドイツ文化優位論である。提出者は、かつてナチの東方侵略と人種主義を正当化した行政官・学者の一部が、戦後の被追放民統合問題に関与した事実を究明している。さらに文化保護政策に関連して本格化した東方学や東方研究において、追放の暴力性と不法性がことさら強調されることの意味合いが分析される。提出者は、「追放」というドイツ人の被害体験が、ナチ時代のドイツの不法、つまり侵略戦争の首謀やユダヤ人大虐殺から完全に切断され、一面的に強調されることで、ドイツ人の加害者としての意識が相殺されるメカニズムを論証している。また被追放民を国民的アイデンティティの基盤と捉える西ドイツの政治家や行政官の認識枠組みにも光があてられる。提出者によれば、被追放民とその伝統文化は、東西ドイツはもとより、かれらの「故郷」旧東部領を含む「全ドイツ」の文化的一体性の証であり、失われた東部領と、これがシンボリックに表象するかつての国民国家との精神的なつながりを担保する存在であった。

 終章は以上の分析に基づいて被追放民問題の多様な意味合いを総括している。それをさらに要約すれば、西ドイツの統合政策は、冷戦下で競合・対立関係にあった東ドイツの同化政策のアンチテーゼであり、東を批判することで自己の政策を正当化してきた。被追放民の存在は、反ソ・反共主義に裏打ちされた東側陣営との対抗と、旧東部領の回復要求という50年代西ドイツ社会の基本的合意を担う中核であり、その合意を国民に意識化させるための役割を負わされていた。そのため文化保護事業も当初から政治的なバイアスを免れなかった。50年代後半には経済的豊かさの下で社会統合が成果をあげ、かれらの東部領とのつながりは希薄化し、執着心も失われていった。こうしてアデナウアー政権末期には、被追放民問題を政治道具化しようとする権力の側と、かつての被追放民との間に意識の乖離がみられるようになるのである。

 このように、ドイツ連邦共和国における被追放民の統合は、従来の社会経済的観点からする通説をはるかに超える、複雑な政治的、社会的意味連関のなかに定位する問題であった。従来の見解を乗り越える豊かな論点をもつ本論文は、何よりも提出者自身のドイツでの精力的な史料蒐集がなければとうてい実現しなかったものである。提出者が文化保護政策の細部に分け入ってその策定過程を解明し、被追放民に関する種々の叙述を丹念に分析したことは、900を数える注の厳密な表記に明瞭に示されている。論文の構成、論理の展開にも隙がなく、この点でも成功している。国際的に見てきわめて高い水準にあり、歴史学界への貢献は大きいと評価できる。

 むろん欠陥がないわけではない。そのひとつは、考察対象とする時期をアデナウアー政権期に限ったために、60年代末のブラント政権下で生起した大きな変化への展望が十分に示されていないことである。また、社会経済的要因を重視しなかったために実際の統合の様子が読み手にリアルに伝わってこないという弱点もある。しかし、これらは全体の論旨からみて些末なことでしかないであろう。

 本論文はたしかに歴史学の論文ではあるが、政治史、外交史、社会史、日常史などに区分された既存の歴史学の枠組みにとらわれない自由な地域文化研究の特性を活かした優れた研究ともなっている。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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