学位論文要旨



No 116791
著者(漢字) 孫,国鳳
著者(英字)
著者(カナ) ソン,コクホウ
標題(和) 茅原華山と近代日本 : 民本主義を中心に
標題(洋)
報告番号 116791
報告番号 甲16791
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第349号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 黒住,真
 東京外国語大学 教授 稲田,雅洋
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 助教授 野島,陽子
内容要旨 要旨を表示する

 大正デモクラシーを代表する思想であ「民本主義」という言葉は、明治中期から昭和初期にかけてジャーナリストとして活躍した茅原華山(一八七一〜一九五二)によって初めて使われたものである。本論は、彼の生涯をたどるとともに、彼が最も旺盛に活動をした一八九二年から一九二八年に至るまでの著作・論稿を追いながら、その思想の展開のあり方を検証し、日本近代思想のなかでの華山の位置を確認しようとするものである。

 本論の構成は以下の通りであるが、この要旨では、章立てに沿ってではなく、彼の中心的な思想である民本主義の展開に則してまとめておくことにする。

 第一部 思想の形成と初期の政治観

 第一章 思想の形成

 第二章 地方新聞時代の立憲政治と対外論

 第二部 民本主義論の展開と挫折

 第三章 『万朝報』の時代

 第四章 「第三帝国」の時代

 第五章 『洪水以後』と『日本評論』

 第六章 『内観』の時代

 華山の民本主義は、政治上と経済上との二つの意味をもっている。政治上のそれは、国民の機関である国会の勢力を進展・助長し、藩閥(貴族)主義、官僚主義、軍治主義(軍人政治)に反対するものであり、経済上のそれは、自由貿易の政策を実行し、少数資本家の利益ではなく多数消費者の利益を考慮しなければならないとするものである(「民本主義の解釈」)。いずれにしても、華山の民本主義論が「生活」を基本として作られたものである点では共通している。その意味において、華山の民本主義論は独特なものであったと言える。

 華山の政府批判や日本人批判は、つねに国民の生活を基礎に論じられている。彼が長い間、激しい政府批判を展開したのも、山県有朋らに代表される藩閥官僚政治が国民生活と隔離していたからであり、それ故に彼らを必ず倒さねばならない敵としたのである。華山が目標としたのは、民意を反映した政治の運営であり、そのための立憲的プロセスによる内閣の成立であったが、藩閥官僚政治はその対極のものであった。

 国民の生活を基盤にして作られた華山の民本主議論は、本論において検討したように、その内容から三つの段階に分けられる。

 第一段階は、一八九二年に『東北日報』に入社しジャーナリストとしての活動を開始してから、一九一五年の第一二回総選挙に立候補して落選する(彼の言う「模範落選」)までである。この時期の華山は、民本主義の実現を主として政治の改革に求めた。つまり、国民の選挙によって選ばれた代表者によって構成される国会において国策を決定するという代議政治の実現をめざしたのである。地方新聞時代の反藩閥政治論、『万朝報』紙上で展開した選挙権拡張論、軍国主義・官僚主義・藩閥主義批判などは、みなそれである。彼は、そうした主張の根拠として国民の生活難を挙げており、藩閥政府に対して生活のための政治の改革を要求したのであった。同時にまた彼は、民本主義を実現するために自覚した民衆の力に期待し、国民の覚醒にも努めた。

 この時期の華山の論調は、ストレートな藩閥官僚政治批判と、国民の覚醒へほぼ全面的な信頼とが基調になっていたと言える。つまり、日本人の国民生活の負の側面は、国民から乖離した政治に起因しているのであり、本当の民意の代表者が政治を担っていないことに原因があるとしていた。そして、国民の自覚があれば、真の国民の代表を議会に送ることができ、藩閥政治を打破し現実の生活を改めることが可能であるとして、国民の自覚を強調したのである。

 しかし、いわば楽天的とも言えるこの華山の主張が、大きく変更を余儀なくされるときがくる。一九一五年の総選挙における落選である。第二段階は、この「模範落選」から以後、徹底した日本の研究を経て、国民生活の改造という「民生維新」を唱える一九一八年までであり、いわば華山の苦悩の時期である。

 華山は、この年の選挙で、民本主義の実現をめざした自分が落選し、与党が大勝したことによって、国民に対して疑義を抱き始める。つまり、その時までは華山は、国民の自覚さえあれば、日本でも西洋的代議政治が実現できると思っていたが、このときから日本にはその基盤はないのではないかと疑い出すのである。そして、長い歴史によって形成された日本人の意識を変えない限りは、選挙を通じて立憲政治を勝ち取ることは不可能であり、民本主義は実現しないと考えるようになった。その上で、国民の自覚が育たない主たる原因は、日本が東洋的生活意識に束縛されて自我を埋没させてきたことにあるとみなしたのである。

 つまり、華山は第一段階において、民本主義を阻んでいるのは藩閥官僚政治であるとして、激しい政府批判を展開した。しかし、この時期の彼は、日本人には民本主義を実現しようとする意識や能力が欠如しているのではないかという方向に力点を変えていったのである。そして、彼の批判の対象は国民に向けられ、国民自身の改造を伴う精神改造が説かれたのである。

 彼のこうした考え方は、この時期の長期にわたる第二回目の外遊によって強められたと言える。特に、西洋の現実に再び触れることによって、日本では明治以降、立憲制度が採り入れられはしたが、それは単なる西洋の真似に過ぎず、国民の自覚に基づくものではなかったということを改めて確認するとともに、日本人は西洋を参考にしながらも、新らしい精神を創造しなければならないとの認識を深めたのである。

 第三段階は、一九一八年以後の「民主主義」を主張するようになる時期である。第二回目の外遊から帰国して以降の華山は、民主主義が日本にとって不可欠であると述べるようになる。民本主義そのものを否定したわけではないが、視点を個人としての「自主」に向け、その自主を団体的に組織するのが民主主義であると説くようになった。(ただし、民主主義はあくまでも精神であるので、天皇主権に対抗するものではないとした。それによって、天皇を国家の唯一絶対の主権者と規定した明治憲法との法理念上の対立を回避したのである。もっとも華山は、第一段階において民本主義を唱え出した頃でも、民意の代表者による国会での政策の決定の重要性を説きはしたが、人民主権に関する議論を嫌っていた。)

 その上で華山は、この個人の自主性に根ざした民主主義を実現するために、国民の生活意識の根本的な転換を訴え、政治体制を改革した明治維新につぐ第二の維新、つまり民主生活の創造を目指した「民生維新」を提唱する。それまでの民本主義が広い意味での国民の自覚に主軸を置いたものとするならば、この民主主義の呼びかけは生活意識に根ざした国民の自主性に重心を移したものであると言える。そのような認識にたって提起されたのが、一九一八年の「民生維新」である。

 民主主義を掲げた第三段階の華山は、再び政治運営組織の改革に立ち向かうべく普通選挙の実現に努めた。しかし、一九二〇年に山県が、そして一九二一年に原敬が相次いで死去したことによって日本の政治運営の中心が大きく変わり、はからずも二大政党政治が実現することになった。しかし、華山は一方でその現実を認めながらも、他方では国民の生活意識が根底から転換されなければ真の国民の代表は選出されず、したがって民意による真の政策決定は遂行されないという自らの長年の主張を変えることはなかった。そして、一九二五年に普通選挙法が発布されると、民主主義的政治体制の運営に欠かせないものとして、民意を直接反映する手段としての「第三者会」を提唱し、かつ実際にそれを設立した。

 上述の三つの段階を通して、華山の民本主義には、自主論(個人の覚醒に基づいて自らの生活問題を自主的に解決しようとするという意欲によって政治に参加するという理論)と代議政治論(国民の自主によって選ばれた代議士による衆議院を中心にして政治運営をするという理論)という二つの基軸を見い出すことができる。

 しかし、本論ではさらに、この二つの基軸と密接な関係をもちつつも、かつ上述の三つの段階を貫くもう一つの基軸を明らかにした。それは、すなわち反軍拡論である。日露戦争前、華山は反軍拡論者ではなかった。しかし、日露戦争後の日本の国際的ならびに国内的情況の変化、および欧米諸国での生活体験、欧米諸国に関する研究をなど通して、彼の対外観は変わり、国民の生活問題を重視する観点に基づき反軍拡を唱えるに至ったのである。ただし、ここで一つ明確にしなければならない点がある。それは、華山の反軍拡論の主軸が大陸政策反対であるということである。第三章で述べた『万朝報』の時代における軍国主義批判や、第四章の『第三帝国』の時代の小日本主義論(軍拡反対)、第五章の『洪水以後』の紙上における日本のミリタリズム批判、そして第六章の『内観』の時代におけるワシントン会議前の日本の大陸政策批判などは、一部海軍の軍縮までに及んでいるものもあるが、主として陸軍拡張に反対するものであった。通観して見れば、華山の反軍拡論は、列強の領土拡張の競争という国際情勢を念頭に置きつつも、政府の推進した朝鮮領有や中国への領土拡張に反対し、むしろ移民による海外(人口の少ない地域)への「経済的膨張」という「富国」策を主とするものであることがわかる。その観点から彼は「大英帝国分割論」を唱え、日本の軍事力に頼らないで移民先を確保しようと主張するに至った。華山は、民本主義を追究する過程で、西洋列強中心の国際社会において近代日本が採った外交策、特に藩閥主導の軍国主義的な大陸政策に反対して、国民生活重視の観点から自らの反軍拡論を展開したが、それは民本主義論と密接に関連しているものであったのである。

 民主主義は、人類の発展に普遍的な理想である。民主主義のルールこそ、いずれの国家においても政治の運営において遵守せねばならない原則である。このような意味において、民主主義を実現するために闘いぬいた華山が姿は、今日なおきわめて意義深いものがあり、いずれの国家・社会にも必要なものである。

 華山は、近代日本の早い時期に、民主主義(民本主義)に目覚め、その実現を夢み、試行錯誤をくり返しながらも独善に陥ることなく、悪戦苦闘の末に、国民個々の自主こそが民主主義の実現の基盤であるとの認識に達した。

 自主、自覚がなければ真の民主主義には至らない。しかし、日本には長い間にわたって人情や道徳を重んじる独自の文化が形成されてきたことから、それが国民の個々の自主性を妨げる要素となってきた。華山は、そのような歴史を踏まえて、日本人には根底からの生活意識の改造が必要であると主張したのである。民主主義においては、自主あるいは覚醒した理知ある個人が主役とならねばならないという華山の考え方は、普遍的な意義を有しており、今日においてもなお重要な課題であるということができる。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、日本のいわゆる「大正デモクラシー」を代表するジャーナリスト、茅原華山の最初の系統的な伝記である。茅原華山は、長い文筆生活を通じ、内政・外交・思想など様々の領域で評論を展開したが、本論文はその焦点を、彼が創唱した「民本主義」という言葉が示す、立憲政治の実現という課題に絞り、関係する対外論の解説を点綴しながら、その内容を詳しく紹介・分析している。本文199頁に、関連論説の詳細な目録および年表を付した、浩瀚な論文である。

 本論文は、初期議会期から政党内閣交代期、茅原が評論活動を始めた頃から、様々の試行錯誤を経て、立憲政治のあり方につき一応の結論を見いだすまでの約36年を、3つの時期にわけ、3部構成で叙述している。第1部は、生い立ちから日露戦争の直前までを扱う。茅原は旧幕臣の家に生まれ、小学校を中途退学して官庁に勤務しながら、独学した人であった。漢学の才を買われ、英学の塾に通ってジャーナリズムへの道を見いだしたが、この生い立ちは、彼に強いオポジション志向を植え付けた。茅原の一生は、立憲政治への情熱と、薩長藩閥や政界の多数派に対する強い不信感とで一貫している。論説記者としての出発点に仙台の『東北新報』を選んだのも、反藩閥の旗印の下、戊辰内乱で痛めつけられた東北人士と力を合わせ、立憲制の活用によって共に失地回復を図るためであった。もっとも、彼は藩閥との対決を専らとする人でなく、長州閥の巨頭伊藤博文が自由党系と合流して政友会を結成した際には、これを立憲政への一歩として歓迎している。しかし、政友会が藩閥・官僚勢力と妥協して政権を譲るとその批判に回り、以後は一貫して、内閣は元老や政党幹部の談合でなく、選挙で国民の支持を得た衆議院の多数党が組織すべしと強調し続けることとなった。

 第2部は、茅原が独自の政見を打ち出した日露戦後の時期を扱う。彼は日比谷焼打事件に始まる都市民衆運動に着目し、これを背景として藩閥打倒を画策した。しかし、彼は他のオポジション言論人と異なって、国民の生活問題を重視し、日露戦争が課した重税の解消を選挙権の拡張や軍拡反対の主張に結びつけた。それは、6年間の欧米外遊をへて帰国した後、とくに鮮明に打ち出される。1912年における「民本主義」の提唱である。吉野作造が使用する4年前のことであって、その意味は、西洋のデモクラシーを念頭におきながら、「官本」主義や「軍本」主義に反対し、国民の生活権確保のため、選挙権の拡張と行使を訴えるものであった。彼は雑誌『第三帝国』を主宰し、益進会を組織して民本主義運動を展開し、東京市議会選挙で成功した勢いを駆って、1915年には、普通選挙の実現を旗印に、自ら衆議院議員選挙に出馬した。それは、選挙権者の利益誘導でなく、逆に同志に対して寄付を募ることを特徴としたが、この「模範選挙」は完敗に終わった。

 茅原は「模範落選」に衝撃を受けた結果、有力な同志と仲違いして『第三帝国』の発行権を失い、他方では政策に無関心な選挙民の投票行動に絶望して、「代議政治無用」まで唱えるに至った。日本人は自己の階級的利害に鈍感で、利害を代表する西洋風の「代議政治」になじまないというのである。彼は「立憲政治」への望みを捨てたわけではなかったが、西洋直訳の「階級政治」は不可能と判断した。この主張は、社会主義者から強い反発を蒙り、論壇で四面楚歌の立場に陥ったが、彼自身は新しい雑誌を舞台に、「新東洋主義」「新日本主義」「新英雄主義」などの可能性の模索を始め、1916年には渡米して、日本人移民の生活の徹底観察から、日本での立憲政治の可能性を探ろうとするに至った。

 第3部は、この渡米から帰国後の「民主主義」提唱への転換、および「民生維新」提唱と、普通選挙制実施の際の「第三者会」運動までを扱う。第1次世界大戦の終結後、1918年に帰国した茅原は、「憲政」実現への希望を取り戻していた。従来の「霊」と「肉」の一致という理念を捨て、唯物主義の徹底という主張に転換する一方、日本国内でも労働運動が勃興し、生活上の利害を基礎とした政治を可能とする条件が成立していたからである。彼は、国民の利害への覚醒を目ざす「民生維新」を主張し、政治理念においても「民本主義」を捨てて、君主制下における人民の「自主」「自治」という意味での「民主主義」を提唱するに至った。彼は、普通選挙期成同盟会の有力な指導者となり、雑誌『内観』を発行して、国民の生活と政治の主体としての覚醒を訴え続けた。そして、1920年代後半に藩閥が潰え、普通選挙を基礎に政党内閣が組織される条件が整うと、政党外に立って「国民的意思」を表示し、国政を監督する言論組織として「第三者会」を組織した。茅原は、立憲政治の実現を終生の課題としたが、それには何よりも、政治家ならぬ国民の自活意志と自発的行動、選挙権の行使と言論による批判が不可欠と信じていたのである。

 この論文は、近代日本の特異な言論人として知られた茅原華山に関する最初の系統的な研究であるが、欠陥もなくはない。まず、全体の構成が新聞や雑誌の発行期間をもとになされているため、彼の主張や思想の変化とうまく対応していない。また、茅原の評論活動の背景をなし、読者へのインパクトを喚起していたはずの、20世紀初頭における「生の哲学」や第一次大戦後の社会主義との関係が掘り下げられていない。総じて、彼の論説の内容紹介に傾いて、政治的・思想的分析が物足りない嫌いがある。さらに、1930年代の記述がないため、彼の批判的言論人としての特徴やそのニッチの解明が十分に解明されたとは言い難い。

 しかしながら、本論文は、大正期に強い影響力をもち、日本における代表民主制の成立に大きく貢献した一言論人について、膨大な史料を読みこなした上で、対外論までを含むその言論活動の全体像を無理なく提示することに成功している。とくに、「代議政治無用」論に関する通説の誤謬を正し、「民主主義」提唱への転換と普選実現運動への繋がりを説得的に示した点は、大きな功績である。本論文は、これからの近代日本ジャーナリズム史、および民主体制成立史の研究において、常に参照され続ける基礎的な研究となるであろう。本審査委員会は、したがって、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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