学位論文要旨



No 116792
著者(漢字) 禰屋,光男
著者(英字)
著者(カナ) ネヤ,ミツオ
標題(和) 低酸素環境への急性及び亜急性曝露が運動時の生理反応に及ぼす影響
標題(洋) Influences of acute and subacute exposure to hypoxic environment on physiological nesponses during exercise
報告番号 116792
報告番号 甲16792
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第350号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,寛道
 東京大学 教授 福林,徹
 東京大学 助教授 八田,秀雄
 東京大学 教授 石井,直方
 東京大学 助教授 松田,良一
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 高地トレーニングは、酸素運搬に関与するヘモグロビンの増加等による持久力の向上を主目的として実施されてきている。近年では高地トレーニングと同様の効果を期待した低酸素トレーニングが注目されてきている。高地トレーニングについては、標高、期間、方法等について各種の試みがなされてきているが、その効果についてはさまざまな論議がある。高地トレーニングは、従来3〜6週間の期間が必要であるとされてきたが、近年では短期間の高地トレーニングによって乳酸性作業閾値の改善やスポーツパフォーマンスの向上に有効な結果が生じることが報告されている(小林1997)。しかし、小林らの報告以外、短期的高地トレーニングの実証的な研究成果は不足している。また、低酸素環境(常圧低酸素環境)に滞在したり(前嶋1994、Rusko 1995)、トレーニングを実施することの効果については、研究が始まったばかりであり、常圧低酸素環境における急性曝露時の運動に伴う生理反応や間欠的な曝露を伴ったトレーニングの効果についての研究は極めて少ない。

 高地トレーニングに関して、標高は1,800〜2,300mが適切であるとされているが、日本国内では標高等の問題で適切なトレーニング環境が得られにくい。本研究では、高地トレーニングにはやや標高が低いが、比較的国内に適地を得られやすい標高1,300mにおいて短期間(5泊6日)のトレーニングを実施することの効果を検討した。さらに人工的低酸素環境施設(常圧低酸素)を用いて、標高2,800〜3,000mの酸素濃度に相当する低酸素環境(15.0〜14.5%O2)で運動やトレーニングを実施した時の生理的反応について検討し、これらの研究から、パフォーマンスを高めるための準高地(標高1,500m以下)の利用や低酸素環境施設の有効利用の可能性を拡大することを目的とした。

実験1 準高地環境における水泳トレーニングの生理的効果

 女子高校水泳選手8名を対象に、標高1,300mで5泊6日の水泳トレーニング合宿を行い、合宿期間中、及び合宿実施前後に運動生理学的測定を行った。合宿実施前と比較し、合宿期間の水泳トレーニング中の心拍数は最初の3日間高水準を示し、主観的運動強度は全期間を通して高い値を示した。また、実施後には、実施前と比較して、最大下速度での水泳中の血中乳酸濃度が低下した。エリスロポエチンは合宿2日目に、網状赤血球は合宿後にそれぞれ増加した。すなわち、標高1,300mのトレーニングでは平地より運動負荷が増大し、造血刺激も生じることが示唆された。また合宿後の水泳時の血中乳酸濃度の減少がみられたことから、標高1,300mでの短期間トレーニングは高地トレーニングの方法のひとつとして有効であることがわかった。

実験2 常圧低酸素環境への急性的暴露がシャトルランテストによる最大酸素摂取量推定に及ぼす影響

 健康な男子大学生21名(長距離選手6名、ラグビー選手7名、一般学生8名)を対象に、2種類の低酸素環境(15.0% O2,17.5%O2)及び常酸素環境(20.9%O2)において、マルチステージシャトルランテスト(MSSR)を実施し、最大酸素摂取量の推定値の変化および生理的指標(血中乳酸濃度、心拍数)の変化をとらえた。また、常酸素環境でトレッドミル法による最大酸素摂取量を測定した。その結果、常酸素環境と比較して、低酸素環境では酸素濃度が低いほどパフォーマンスの低下がみられ、推定最大酸素摂取量は17.5% O2で6.4%、15.0% O2,で11.9%それぞれ低下した。長距離選手では推定最大酸素摂取量は17.5% O2で4.6%と低下率がやや小さかった。スポーツ種目の特性に基づく変化はみられるがMSSRは低酸素環境での有酸素能力を評価する指標として有効であると考えられる。

実験3 常圧低酸素環境への急性暴露が漸増負荷運動中の筋酸素化状態に及ぼす影響

 男子大学運動選手13名を対象として、常酸素環境と低酸素環境(15.0% O2)で自転車エルゴメーターによる漸増負荷運動を実施し、外側広筋の筋酸素化状態を空間分解法近赤外線分光装置(NIRS)を用いてとらえた。筋酸素化状態は[酸素化ヘモグロビン・ミオグロビン](Oxy[Hb+Mb])、[総ヘモグロビン・ミオグロビン](Oxy[Hb+Mb]+deoxygenated[Hb+Mb]=Total[Hb+Mb])を指標とした。低酸素環境では最大酸素摂取量及び乳酸性作業閾値がそれぞれ有意に低下した。低酸素環境での安静時Oxy[Hb+Mb]には大きな変化がみられず、Total[Hb+Mb]が増大したことから、低酸素環境では血管拡張(vasodilation)が生じていることが示唆された。低酸素環境での運動時ではOxy[Hb+Mb]は常酸素環境の場合と比較し、同じ相対運動強度(%VO2max)でも常に低値を示したが、Total[Hb+Mb]には差がみられなかった。相対的運動負荷が同じであっても低酸素環境では筋酸素化レベルが低く、このことが最大酸素摂取量や運動時間の低下の一因となることが示唆された。

実験4 常圧低酸素環境への間欠的曝露による短期間持久性トレーニングが血中乳酸濃度に及ぼす効果

 男子大学生14名を対象に、常酸素トレーニング群(7名)及び低酸素環境15% O2での低酸素トレーニング群(7名)にわけ、連続5日間のトレーニングを実施した。トレーニングは45分間の自転車駆動トレーニングとし、強度は65%VO2maxとした。

 5分ごとに測定した血中乳酸濃度は、1日目では低酸素トレーニング群(低酸素群)で高く推移し、常酸素トレーニング群(常酸素群)と有意な差がみられたが、5日目では両群間で有意な差が見られなかった。常酸素群では1日目と5日目では差はみられなかった。最大酸素摂取量はトレーニング後で両群とも有意に増加したが、乳酸性作業閾値は低酸素群のみ有意に増加した。これらの結果により、短期間(5日間)の低酸素環境への間欠的曝露(1日1〜2時間)によるトレーニングは、低酸素環境への順化とトレーニング後の運動時血中乳酸濃度の上昇を遅延させるなどの効果があることがしめされた。

実験5 常圧低酸素環境への間欠的曝露による短期間持久性トレーニングが生理的順化に及ぼす影響

 男子大学運動選手20名を対象に、トレーニング群10名と安静対照群10名にわけた。トレーニング群は低酸素環境(14.5% O2)で強度65%VO2maxで45分間の自転車駆動トレーニングを連続9日間実施した。安静対照群は低酸素環境に1日2時間、連続9日間曝露した。

 トレーニング前後に実施した血液検査の結果から造血の可能性は両群ともにみられなかった。トレーニング群では、最大運動時間、乳酸性作業閾値が有意に増加したが、安静対照群ではこれらに変化はみられなかった。トレーニング期間中、初日と比較して5日目、9日目には運動中の動脈血酸素飽和度は有意に高く、血中乳酸濃度、血中グルコース濃度、心拍数は有意に低下した。また9日目の血中アンモニア濃度は有意に低値を示した。これらの結果から連続9日間の低酸素環境への間欠的曝露を伴うトレーニングは、トレーニング後の常酸素環境での乳酸性作業閾値、漸増負荷運動時の運動時間、最大仕事量などを増大させる効果を持つことが明らかとなった。

論議

 Levineら(1997)は標高2,500mに滞在し、1,250mで4週間トレーニングする'living high, training low'の方法を提唱し、高地トレーニングの世界に大きなインパクトを与えた。本研究は標高1,300mに滞在し、トレーニングを行うという'living low,training low'に相当し、しかも5泊6日という短期間であるにもかかわらず、運動時の血中乳酸濃度の低下やエリスロポエチン、網状赤血球の増加など高地トレーニングの効果指標とされる生理的効果が認められた。このことは国内での高地トレーニングの可能性を実証したものとして注目される結果であるといえる。

 常圧低酸素環境室は'nitrogen house'(窒素ハウス)と呼ばれ、Rusko(1993)らによって開発された。本研究で用いた常圧低酸素環境室は30mの走路をもつテント式構造のもので、小林らによって1998年に開発された。Ruskoらは窒素ハウスを滞在のための低酸素環境室として利用したが、本研究では低酸素環境でのトレーニングを行う施設として利用し、そのトレーニング効果について検討した。

 常圧低酸素環境では、急性曝露の場合、15.0% O2の環境下でマルチステージシュトルランテストの成績が低下し、推定最大酸素摂取量は約12%の低下がみられ、自転車運動時では最大酸素摂取量及び乳酸性作業閾値が低下するとともに、筋酸素化レベルの低下が観察された。

 15.0% O2の環境下(標高2,800mに相当)で、65%VO2max強度の自転車トレーニングを45分間実施した場合、5日間のトレーニングで最大酸素摂取量の増大及び乳酸性作業閾値の有意な向上が観察された。また、14.5% O2の環境下(標高3,000mに相当)で、同様のトレーニングを9日間実施した場合、安静対照群では観察されなかった乳酸性作業閾値の向上、最大仕事量の増大及びトレーニング期間中の動脈血酸素飽和度の改善がみられた。

 これらのことがらは、常圧低酸素環境を単に滞在のための環境として利用するだけでなく、高地トレーニングの効果を生じさせる積極的な環境刺激として有効利用することの可能性を拓いたものといえる。常圧低酸素環境を利用したトレーニングは、自然環境を利用した高地トレーニングと併用することによって、その利用価値を拡大することができると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「Influences of acute and subacute exposure to hypoxic environment on physiological responses during exercise(低酸素環境への急性及び亜急性曝露が運動時の生理反応に及ぼす影響)」は、準高地(標高1300m)を利用した短期間トレーニングが、高地トレーニングとしての効果をもつか否かについて検討するとともに、近年注目を高めている人工的常圧低酸素環境を利用して運動やトレーニングを行った場合の運動生理学的特徴をとらえ、これらの有効利用に関する科学的アプローチを深めることを目的として実施した研究の成果をまとめたものである。

実験1<準高地環境における水泳トレーニングの生理的効果>

 女子高校水泳選手8名を対象に、標高1,300mで5泊6日の水泳トレーニング合宿を行ったところ、合宿実施前と比較し、合宿期間の水泳トレーニング中の心拍数は最初の3日間高水準を示し、主観的運動強度(RPE)は全期間を通して高い値を示した。合宿実施後には、実施前と比較して、最大下速度での水泳中の血中乳酸濃度(BLa)が低下した。エリスロポエチンは合宿2日目に、網状赤血球は合宿後にそれぞれ増加した。標高1,300mのトレーニングで平地より運動負荷は増大し、造血刺激も生じることが示唆された。

実験2<常圧低酸素環境への急性暴露がシャトルランテストによる最大酸素摂取量推定に及ぼす影響>

 健康な男子大学生21名(長距離選手6名、ラグビー選手7名、一般学生8名)を対象に常酸素環境でトレッドミル走による最大酸素摂取量を測定するとともに、2種類の低酸素環境(15.0% O2,17.5% O2)及び常酸素環境(20.93% O2)において、マルチステージシャトルランテスト(MSSR)を実施し、最大酸素摂取量の推定値の変化および生理的指標(血中乳酸濃度、心拍数)の変化をとらえた。その結果、常酸素環境と比較して、低酸素環境では酸素濃度が低いほどパフォーマンスの低下がみられ、推定最大酸素摂取量は17.5% O2で6.4%、15.0% O2で11.9%それぞれ低下した。長距離選手では推定最大酸素摂取量は17.5% O2で4.6%と低下率がやや小さかった。

実験3<常圧低酸素環境への急性暴露が漸増負荷運動中の筋酸素化状態に及ぼす影響>

 男子大学運動選手13名を対象として、常酸素環境と低酸素環境(15.0% O2)で自転車エルゴメータによる漸増負荷運動を実施し、外側広筋の筋酸素化状態を空間分解法近赤外線分光装置(NIRS)を用いてとらえた。低酸素環境では最大酸素摂取量及び乳酸性作業閾値(LAT)がそれぞれ有意に低下した。低酸素環境での安静時Oxy[Hb+Mb]には大きな変化がみられず、Total[Hb+Mb]が増大したことから、低酸素環境では血管拡張(vasodilation)が生じていることが示唆された。低酸素環境での運動時ではOxy[Hb+Mb]は常酸素環境の場合と比較し、同じ相対運動強度(%VO2max)でも常に低値を示したが、Total[Hb+Mb]には差がみられなかった。相対的運動負荷が同じであっても低酸素環境では筋酸素化レベルが低く、このことが最大酸素摂取量や運動時間の低下の一因となることが示唆された。

実験4<常圧低酸素環境への間欠的曝露による短期間持久性トレーニングが血中乳酸濃度に及ぼす効果>

 男子大学生14名を対象に、常酸素トレーニング群(7名)及び低酸素環境15% O2での低酸素トレーニング群(7名)にわけ,連続5日間のトレーニングを実施した。トレーニングは45分間の自転車駆動トレーニングとし,強度は65%VO2maxとした。5分ごとに測定した血中乳酸濃度は,1日目では低酸素トレーニング群(低酸素群)で高く推移し、常酸素トレーニング群(常酸素群)と有意な差がみられたが、5日目では両群間で有意な差が見られなかった。常酸素群では1日目と5日目では差はみられなかった。最大酸素摂取量はトレーニング後で両群とも有意に増加したが、乳酸性作業閾値(LAT)は低酸素群のみ有意に増加した。

実験5<常圧低酸素環境への間欠的曝露による短期間持久性トレーニングが生理的順化に及ぼす影響>

 男子大学運動選手20名を,トレーニング群10名と安静対照群10名にわけた。トレーニング群は低酸素環境(14.5% O2)で65%VO2max強度で45分間の自転車駆動運動を連続9日間実施した。安静対照群は,低酸素環境に1日2時間,連続9日間曝露した。

 トレーニング前後に実施した血液検査の結果から造血の可能性は両群ともにみられなかった。トレーニング群では,最大酸素摂取量,最大運動時間,LATが有意に増加したが,安静対照群ではこれらに変化はみられなかった。トレーニング期間中、初日と比較して5日目、9日目に運動中の動脈血酸素飽和度は有意に高く、血中乳酸濃度、血中グルコース濃度,心拍数は有意に低下した。また9日目の血中アンモニア濃度は有意に低値を示した。これらの結果から連続9日間の低酸素環境への間欠的曝露を伴うトレーニングは,トレーニング後の常酸素環境でのLAT、漸増負荷運動時の運動時間、最大仕事量などを増大させる効果を持つことが明らかとなった。

結論

 実験1〜5の研究結果から、(1)準高地(標高1300m)でのトレーニングが高地トレーニングに準じる効果を有すること、(2)低酸素環境では、パフォーマンスの低下が生じるが、それらはMSSR(シャトルランテスト)の推定最大酸素摂取量によっても評価できること、(3)低酸素環境での運動では、筋酸素化レベルの低下が生じ、パフォーマンスの低下を導くこと、(4)短期間(5日間)の低酸素環境でのトレーニングでは、乳酸性作業閾値の改善がはかられること、(5)9日間のトレーニングでは運動選手の持久的生理学的指標の改善がはかられること、などが明らかにされた。

 これら一連の研究は、従来考えられていた高地トレーニングの方法をさらに拡大させるとともに、低酸素環境を利用した運動の方法を開拓する上で重要な知見を提示したと考えられ、その意義は大きい。

 従って、禰屋光男氏により提出された本論文は、東京大学大学院による学位(学術)の授与に相応しい内容と判定した。

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