学位論文要旨



No 116795
著者(漢字) 亀井,綾子
著者(英字)
著者(カナ) カメイ,アヤコ
標題(和) シアノバクテリアSynechocystis sp.PCC6803における真核生物型タンパク質リン酸化が関与するシグナル伝達経路の解明
標題(洋) Signal transduction pathways via eukaryotic-type protein phosphorylation in the cyanobacterium Synechocystis sp. PCC 6803
報告番号 116795
報告番号 甲16795
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第353号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池内,昌彦
 東京大学 教授 大森,正之
 東京大学 助教授 箸本,春樹
 東京大学 助教授 渡辺,雄一郎
 東京大学 助教授 園池,公毅
内容要旨 要旨を表示する

 光合成生物の環境応答において光は重要な要因の1つである。光合成生物は強光による光阻害に対して様々な防御機構を発達させており、一方弱光に対しては光捕集効率を上げるための幅広い応答を示す。しかし、これまでの多くの研究にも関わらず、光シグナル感知機構、遺伝子発現制御やその間をつなぐシグナル伝達についての分子レベルでの知見は非常に少ない。本研究はシアノバクテリアの環境応答のしくみを詳細に明らかにすることを目的とし、ゲノム情報が明らかであり、かつ遺伝子操作が容易な単細胞性のSynechocystis sp. PCC 6803を材料に用いた。Synechocystis sp. PCC 6803(PCC株)は、一方向から光を照射してプレート上で培養すると光に向かって運動する正の走光性を示すことが知られている。修士課程において私はslr2031遺伝子破壊株(△slr2031)の表現型の解析結果から、slr2031遺伝子が強光感受性、運動性、形質転換、色素組成など多機能の調節に関与していることを明らかにした。さらにslr2031遺伝子産物はPP2C型Ser/Thrプロテインフォスファターゼと相同性があった。PP2C型Ser/Thrプロテインフォスファターゼは枯草菌においてストレス応答シグナル伝達経路の調節因子であることや、高等植物においてアブシジン酸依存性のリン酸化シグナル伝達経路の構成成分であることが知られている。これらのことから、シアノバクテリアにおいてタンパク質リン酸化によるシグナル伝達経路が環境応答に関わることが示唆された。本研究では、この仮説を検証するために、Ser/Thrプロテインキナーゼの探索とその解析を行った。

 このslr2031遺伝子に対応するSer/Thrプロテインキナーゼ遺伝子を検索する目的でゲノムに存在する候補ORFの全てをそれぞれPCC株で破壊した。その結果、△sll1575は運動性が失われ、△slr2031と似た表現型を示した。ゲノムの情報が決定されている非運動性のGT株では、sll1575とすぐ上流のsll1574の2つのORFが、ひとつの真核生物型Ser/Thrプロテインキナーゼ遺伝子に対応していた。そこでこの領域の塩基配列を決定したところ、運動性を示すPCC株ではこれらが単一のORFを形成していた。このORFはよく保存された真核生物型Ser/Thrプロテインキナーゼドメインを持つ521残基の産物をコードしており、spkA (Synechocystis protein kinase)と命名した。Synechocystisの運動には、線毛構造を必要とすることが報告されている。spkAと運動性との関連性を詳細に知るため、線毛のサブユニットをコードするpilA1の発現レベル及び線毛の形成を確認したが親株との違いは見られなかった。これは、SpkAは運動や線毛の生合成の必須因子ではないことを示唆している。SpkAはN末端にHis-tagをつけた融合タンパク質として大腸菌での発現を試みた。可溶性画分にわずかに得られたSpkAをNi2+アフィニティークロマトグラフィーで精製した。in vitroリン酸化実験の結果、自己リン酸化活性と真核生物型Ser/Thrプロテインキナーゼの一般的な基質として知られているカゼイン、ミエリン塩基性タンパク質、ヒストンへのリン酸化が確認された。SpkAの生理的基質を同定するため、Synechocystisの細胞抽出液を分画してin vitroリン酸化実験に用いた。可溶性画分においてHis-SpkAの添加による新たなリン酸化タンパク質は確認されなかったが、膜画分では30 kDaと90 kDaタンパク質がリン酸化された。これらの結果はSpkAが細胞の運動性に関与した真核生物型プロテインキナーゼであり、Synechocystisの細胞膜に存在する運動装置もしくはシグナル伝達経路の成分をリン酸化し、細胞の運動性を活性化していることを示唆している。

 △slr1697は、正の走光性は保持されていたものの運動性が著しく減少した。このORFはspkAと同様に、よく保存された真核生物型Ser/Thrプロテインキナーゼドメインをコードしており、その活性を確認できた(後述)ので、spkBと命名した。SpkBタンパク質はN末端には保存された4個のCys残基を、C末端側には特徴的なペンタペプチドの8回リピート配列を持っている。このSpkBのN末端にHis-tagをつけた融合タンパク質を大腸菌で発現させ、精製した。His-SpkBはHis-SpkAと同様に自己リン酸化活性及び外来基質に対するリン酸化反応を示したが、Synechocystisの細胞抽出液には新たなリン酸化タンパク質は確認されなかった。また△spkBにおいて、pilA1の発現レベル及び線毛の形成を確認したが親株との違いは見られなかった。spkAと同様にspkBもタンパク質のリン酸化による細胞の運動調節に関与していることが示唆された。以上の結果は、Synechocystisの運動は少なくとも2つの真核生物型プロテインキナーゼが関与したシグナル伝達経路によって調節されていることを示唆している。

 他の候補遺伝子の遺伝子破壊株においては、運動性、増殖速度、細胞内の色素含量、光化学系II/系Iの量比に野生株との違いは見られなかったため、それぞれの遺伝子の生理的機能は現時点では不明である。この5つの遺伝子も、真核生物型Ser/Thrプロテインキナーゼドメインが保存されていたため、それぞれspkC(slr0599)、spkD(sll0776)、spkE(slr1443)、spkF(slr1225)、spkG(slr0152)と命名した。これらの遺伝子を大腸菌に導入し、SpkG以外の発現を確認できた。SpkC、SpkD、SpkFは、未精製ではあるが自己リン酸化活性と基質タンパク質へのリン酸化が確認された。一方SpkEはリン酸化活性を示さなかった。SpkEの配列を詳細に見ていくと、プロテインキナーゼ活性に重要なアミノ酸が多く欠失していた。糸状性シアノバクテリアのAnabaena sp. PCC 7120に存在するSpkEのホモログではこれらのアミノ酸は保存されていることから、Synechocystisにおいて変異が生じ、偽遺伝子となった可能性が考えられる。以上のことから、SynechocystisにはSpkA、SpkB、SpkC、SpkD、SpkFの少なくとも5つの真核生物型プロテインキナーゼが存在することが明らかになった。

 細胞の運動調節におけるSpkA及びSpkBの入力系及び出力系を含めたシグナル伝達経路の全貌を明らかにする目的で、SpkA及びSpkBと相互作用する因子及びシグナルの入出力系の検索を試みた。酵母two-hybridスクリーニングによりSpkA及びSpkBと相互作用する候補が複数得られた。今後、これらの遺伝子産物とSpkAまたはSpkBタンパク質との相互作用の解析から、入出力系が解明できる可能性がある。

 プロテインキナーゼによるシグナル伝達経路の下流に転写因子が関与している例が知られている。そこでSynechocystisの転写因子の破壊株を作成し、△sll1626において運動性の欠失を確認した。sll1626遺伝子は、大腸菌においてSOS遺伝子群の発現を抑制する転写因子のlexA遺伝子と相同性が見られた。sll1626遺伝子によって発現に影響を受ける遺伝子を検索するため、DNAマイクロアレイを用いて野生株と△sll1626との比較解析行った。大腸菌においてLexAによって発現が抑制されるSOS遺伝子群(recA、umuC、sulA他)のホモログの発現レベルは野生株と比べて有意な差は確認されなかった。一方、sll1626遺伝子自身を含む数個の機能未知遺伝子(sll1009、slr0179、sll1765他)の発現量が△sll1626において7-10倍増加していた。また線毛のサブユニットをコードするsll1694(pilA1)、pilA1と相同性のあるslr2015、slr2016、slr2017、slr2018やslr1667、slr1668、などの機能未知遺伝子の発現量が大きく減少していた。sll1626、sll1009、pilA1、slr2015の発現量の変化はノーザン解析においても確認できた。slr2015、slr2016、slr2017を別々に破壊したところ、△sll1626や△pilA1と同様に運動性が失われた。このことは、Sll1626は大腸菌のLexAとは異なり、運動性に関与した線毛様構造体をコードする遺伝子などの発現の調節因子であることを示唆している。Sll1626の生理機能を明らかにするため、N末端にHis-tagをつけた融合タンパク質として大腸菌で大量発現し、精製した。このタンパク質が自身のプロモータに結合することを、ゲルシフトアッセイによって示すことができた。一方、大腸菌のLexAはアルカリ条件で自己切断が起こることが知られているが、Sll1626は自己切断部位が保存されているにもかかわらず自己切断の明確な結果は得られなかった。これらの結果はSll1626が大腸菌とは異なるメカニズムによりその活性が制御されていることを示唆している。

 本研究で用いている運動性のSynechocystis sp. PCC 6803(PCC株)と同一起源の非運動性の培養株(ATCC株、GT株、Kazusa株)が存在する。これらの培養株における遺伝的変異の有無を調べた。本研究で明らかになったspkA内の1塩基の挿入は他の3株すべてにみられた。一方、slr2031の開始コドンを含む154bpの配列の欠失はGT株とKazusa株で認められた。また、運動に必須なpilCの1塩基挿入?によるフレームシフト変異がKazusa株だけに生じていることが知られている。また、spkAだけに変異がみられたATCC株に正常なspkA遺伝子をもどしたが運動性は回復しなかったので、ATCC株ではさらに未知の運動遺伝子にも変異が生じていると考えられる。このことは研究室での長期間の培養により運動機能にかかわる多数の遺伝子に次々と変異が生じたことを示している。このような人工的な培養条件におけるSynechocystisの小進化の方向性は自然界に生育していくためには必要だった運動性や強光感受性など複数の機能が不要もしくは不利となったことを示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「Signal transduction pathways via eukaryotic-type protein phosphorylation in the cyanobacterium Synechocystis sp. PCC 6803(シアノバクテリアSynechocystis sp. PCC 6803における真核生物型タンパク質リン酸化が関与するシグナル伝達経路の解明)」は、5章から成っている。第1章では、真核生物型プロテインキナーゼSpkAの活性と生理的役割、第2章では真核生物型プロテインキナーゼSpkBの活性と生理的役割、第3章では、真核生物型プロテインキナーゼSpkC〜Fの生化学的解析、第4章では、転写因子Sll1626の生化学的解析と遺伝子の発現解析、第5章では、Synechocystis sp. PCC 6803の遺伝子の進化の特徴を解析している。

 第1章では、真核生物型プロテインキナーゼSpkAの活性と生理的役割の解析結果を報告している。ゲノム情報が決定されている培養株では、この遺伝子は1塩基の挿入変異によって2つの読み枠(ORF)に分割されているが、運動性の培養株では真核生物型プロテインキナーゼをコードする単一の遺伝子であることを示した。大腸菌でこの遺伝子(spkA)を発現・精製し、自己リン酸化活性と一般的な基質であるヒストンタンパク質などのリン酸化を実証した。また、シアノバクテリアの細胞抽出物を添加し、30kDa、90kDaの膜タンパク質をリン酸化することを示した(生理的基質)。spkA破壊株の解析から、この遺伝子が細胞運動に必須であることを示した。線毛サブユニットをコードするpilA1遺伝子の発現をノーザン解析したが変化はみられなかった。しかし、電子顕微鏡で細胞表面を観察すると、運動に関与している太い線毛の数は大幅に減少していた。これらは、SpkAが線毛の形成もしくは運動を調節するプロテインキナーゼであることを示唆している。

 第2章では、真核生物型プロテインキナーゼSpkBの活性と生理的役割の解析結果を報告している。大腸菌でこの遺伝子を発現・精製し、自己リン酸化活性と一般的な基質であるヒストンタンパク質などのリン酸化を示した。2価カチオン依存性を調べ、Mg2+やMn2+は活性に必要であるが、Ca2+は効果がないことを示した。spkB破壊株の解析から、この遺伝子が細胞運動の活性化に必要であるが、走光性には関与しないことを示した。しかし、pilA1遺伝子の発現や細胞表面の太い線毛の形成には影響はみられなかった。これらは、SpkBが運動を調節するプロテインキナーゼであることを示している。

 第3章では、真核生物型プロテインキナーゼSpkC〜Fの生化学的解析を報告している。これらの遺伝子を大腸菌で発現し、SpkC、SpkD、SpkFタンパク質が自己リン酸化とヒストンなどのタンパク質に対するリン酸化活性をもっていることを生化学的に示した。とくに、SpkFは膜タンパク質であることが示唆された。一方、SpkEはキナーゼドメイン内の重要な残基に置換変異を生じており、発現させたタンパク質も活性を示さなかった。これらの遺伝子の破壊株は運動性も含めて野生株と区別できなかったが、spkD破壊株においては野生型DNAを完全には除去できず、spkAが生育に必須であることが示唆された。

 第4章では、転写因子Sll1626の生化学的解析と遺伝子の発現解析を報告している。複数の転写因子の破壊株の解析から、運動に必須な遺伝子sll1626を同定した。この遺伝子産物Sll1626を大腸菌で発現・精製し、自己の上流配列との特異的な結合をゲルシフトアッセイによって示した。sll1626が発現を調節する標的遺伝子を網羅的に同定するために、破壊株をDNAマイクロアレイで解析した。sll1626は多くの原核生物のSOS応答調節遺伝子lexAに似ていたが、SOS応答を示すrecAなどDNA修復系の遺伝子の発現は破壊株で変動していなかった。一方、新規の線毛サブユニット遺伝子(slr2015、slr2016、slr2017)の発現は大きく低下し、逆にsll1626自身やsll1009などの少数の遺伝子の発現は大きく増加していた。ノーザン解析でもこれらの遺伝子の発現への影響を確認した。この発現解析で明らかになった遺伝子の破壊株を作成し、slr2015やslr2016、slr2017はそれぞれ独立に運動に必須であることを示した。一方、大腸菌で示されているLexAの自己切断と同様の切断をSll1626が示すかどうかを検討したが、幅広い条件でも切断を確認することはできなかった。シアノバクテリアのゲノム解析で明らかになっている多くの種にもlexAは存在しているが、Synechocystis sp. PCC 6803のものだけが、自己切断に必要な残基が欠失していることが判明した。これらは、転写因子Sll1626は、大腸菌LexAのようなDNA損傷以外の何らかのシグナルを受けて、slr2015など新規線毛遺伝子の発現を調節することによって、運動を調節していることを示している。

 第5章では、Synechocystis sp. PCC 6803を材料として、シアノバクテリアの遺伝子の進化の特徴を解析している。つまり、spkAにおける塩基挿入による遺伝子の不活性化は、運動性の培養株と非運動性の培養株の間で知られる唯一の遺伝的変異である。さらに、この非運動性培養株へのspkAの導入すによって運動性が回復できないことを示し、さらに未知の変異も同時に起こっていることを示唆した。つまり、修士論文で明らかにした真核生物型プロテインホスファターゼの遺伝子の欠失変異とともに、シアノバクテリアの人工的な培養とともに運動性に関与する遺伝子群が次々と機能欠失につながる変異を生じていることを示している。一方、Sll1626の自己切断に関与するアミノ酸残基の変異やSpkEプロテインキナーゼの変異は、複数の残基の置換を引き起こしているにもかかわらず、遺伝子全体の読み枠を破壊することはない。これは、既存の遺伝子が、新しい進化の可能性を探っている途中段階ととらえることもでき、非常に興味深い。

 これらの研究成果をまとめると、原核生物における真核生物型プロテインキナーゼの存在を実証し、その生理的役割をはじめて明らかにした点で関連研究分野に与える影響が非常に大きい。また、原核生物のSOS応答調節遺伝子に似たsll1626が実際にはSOS応答ではなく、運動調節にかかわっていることを示したことも非常に意義深い。これらの業績は、今後の研究、とくに原核生物における真核生物型プロテインキナーゼの果たす役割や、真核生物におけるプロテインキナーゼによる調節機構の進化的背景などの研究に大きな貢献をすると考えられる。

 なお、本論文の第1章は、湯淺高志、折川紅美、耿暁星、池内昌彦との共同研究、第2章〜第5章は池内昌彦との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究の立案、遂行を行っており、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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