学位論文要旨



No 116796
著者(漢字) 望月(川合),寛子
著者(英字)
著者(カナ) モチヅキ(カワイ),ヒロコ
標題(和) "手続き"の記憶システムと神経基盤 : 脳損傷例における神経心理学的研究
標題(洋)
報告番号 116796
報告番号 甲16796
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第354号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 大築,立志
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
内容要旨 要旨を表示する

 自転車に乗る,箸を使うなどの技能は,試行錯誤の中で徐々に上達する。運動に限らず,言葉を操る行為や計算をする行為も認知的な技能という側面がある。私たちの日常生活は様々な技能によって成り立っているといえよう(Fitts, 1964)。このような技能をSquire (1987)は,手続き記憶と呼んだ。

 新しく手続き記憶を学習する場面では,はじめ試行錯誤のなかで顕在的(意識的)に行っていたことが,次第に自動化され,潜在的(無意識的)に行えるようになる。「手続き学習」は顕在から潜在へと脳内処理が移行する過程であり(彦坂,1998),その結果形成されたものが「手続き記憶」である。本研究では,様々な脳損傷患者に手続きの学習・記憶課題を試行し,その神経基盤の解明を試みた。以降,本文において潜在的かつ非陳述的である記憶形態を限定して指す時は"手続き記憶"と表し,その記憶形態を問わない(たとえば,顕在/潜在,陳述/非陳述)場合は"手続き"と表記する。

 研究1では,新しい手続き記憶の形成における各脳部位の役割を検討した。研究2では,既存手続き記憶の発現における脳部位を検討した。研究3では,エピソード記憶や意味記憶など,他の記憶区分が手続き学習に与える影響を検討した。最後に研究4では,Button press task (Hikosaka et al., 1995)を用いて,PD患者手続き学習を検討し,手続きの形成における脳内モデルの構築を試みた。

<研究1>新しい手続き記憶の獲得と長期保持:手続きの固定化における基底核−前頭葉ループの役割

 対象は,皮質下病変をきたすパーキンソン病(PD)患者および皮質病変をきたすアルツハイマー型痴呆(DAT)患者であった。先行研究では,患者に手続き記憶課題を施行し,その獲得を評価するのみで,保持は検討されていない。研究1では,手続き記憶の獲得だけでなく保持を評価することで,新たな知見が得られることを期待した。

 運動性の高い課題と認知性の高い課題の2種類の手続き記憶課題を用いた。PD患者は,一時的にパフォーマンスが向上したが,数ヶ月後には消失し,長期保持されないことが示された。一方,DAT患者の成績は,運動課題において健常高齢者よりも不良であったが,パフォーマンスは徐々に向上し,獲得可能と考えられた。また,保持も認められた(最長18ヶ月)が,認知課題になると重症例では獲得できなかった。このことから,後方連合野を中心とする皮質構造は,とくに認知性の高い課題の学習初期に重要であり,学習全体を効率化する。これに対し,皮質下に位置する大脳基底核は,学習の後期に重要であり,ここを経て形成された記憶が長期保持されると考えられた。また,課題遂行に用いる刺激を変化させたところ,PD患者の保持障害は,刺激の変化によって顕著に示されたが,DATでは,刺激の異同に関係なく所要時間が減少した。このことから,DAT患者は,刺激が変化しても適応できるような,generalな記憶を形成していたのに対し,PD患者では,特定刺激にのみ適応できるたspecificな記憶に頼って課題を遂行していた可能性が考えられる。

<研究2>既存手続き記憶の保持と再生:手続きの取り出しにおける大脳皮質(頭頂葉)の役割

 本研究では,実験室で測定される新しい手続き記憶ではなく,日常生活に見られる既存の手続き記憶に焦点を当てた。頭頂葉後部(角回周辺)の損傷によって,四肢に問題がないにもかかわらず,箸を使ってご飯を食べることや,服の着脱などが困難となる失行症が生じる。研究2-1では,血管性疾患によって失行症を呈した患者の手続き記憶能力を検討した。その結果,失行症患者であっても新しい手続き記憶を獲得し,3ヶ月間保持できることが示唆された。

 研究2-2では,DAT患者に対して,手続き記憶の縦断調査を行った。その結果,症状の進行および失行症の発現に伴って,手続き記憶の再生に障害を示した。このことから,失行症の責任病巣である角回を中心とした頭頂葉後部は,既存手続き記憶の再生に重要であることが考えられた。

<研究3>手続き記憶と他の記憶機能との関わり:手続きの取り出しにおける大脳皮質(側頭葉および頂葉)の役割

 脳梗塞や萎縮によって,エピソード記憶や意味記憶の選択的障害を呈した患者を対象に,手続き記憶課題を施行した。その結果,顕在的なエピソード記憶は手続き記憶の獲得に,潜在的な意味記憶は手続き記憶の再生に影響を与えることが示唆された(研究3-1)。意味記憶の責任病巣とされる中・下側頭回は手続き記憶の再生に重要であるといえる。また,DAT患者のプライミング効果を長期的に検討したところ,時間経過に伴って消失する傾向が認められた。DATにおける手続き記憶の再生の障害(研究1-1)の一因として,プライミング効果の減衰が示唆された。

<研究4>"手続き"の学習と記憶における神経基盤

 Button press taskは,Hikosakaら(1995)によって考案された系列学習課題の1種である。これまでの研究から,本課題では,PD患者は手続き学習は可能だが,学習した内容は長期保持されないと考えられた。また,研究1-1では課題に用いる刺激を変化させることで所要時間が増加する傾向を認めた。本課題においても,系列の変化は,PD患者におけるエラーや反応時間の増加をもたらすことが予想された。

 PD患者における獲得は,系列の長さによって影響を受け,系列が長いほど反応時間の減少を示さない。つまり,手続きは獲得されないという結果が得られた(研究4-1, 4-3)。一方で,系列が長くても,エラー数は試行錯誤を繰り返すごとに減少した(研究4-3)。獲得条件と同じ系列を1ヶ月後に再度施行した保持条件では,エラーは獲得に比べて減少するが,反応時間は増加することが明らかとなった(研究4-2, 4-3)。また,獲得・保持条件と異なる系列を施行した転移条件では,PD患者の試行数のみ増加した(研究4-3)。これらの結果から,第1点目として,正しいボタン押しを実現させる(エラー数を減少させる)神経基盤と,動作を早くする(反応時間を減少させる)神経基盤は異なることが考えられる。Hikosakaら(2000)も同様の説を提唱しており,本研究と一致する。第2点目は,PD患者は課題遂行において,前者の(正しいボタン押しの実現)システムはほぼ正常であるが,後者の(動作を早くする)システムの一部に障害ある可能性が考えられる。第3点目に,健常者が系列の変化に柔軟に対応できたのは,後者の(動作を早くする)システムによって実現している可能性が高い。PD患者は,研究4においても一定の系列のみに対応したspecificな記憶を形成していたと考えられる。

<まとめ>

 本研究より,"手続き"には,皮質,皮質下を問わず広汎な部位が関与しており,それぞれの部位において異なる役割を担っていることが考えられた。潜在的かつ非宣言的な手続き記憶の形成には,従来の研究で示されているように,線条体が重要であるが(Salmon & Butters, 1995),現行の様々な手続き記憶課題の遂行には,何らかの形で皮質機能が関与している。ヒトの脳は,本来ならば何度も試行錯誤を繰り返さなければならない手続き記憶の形成を,発達した大脳皮質によって期間で可能にしていると考えられる。

 Button Press Taskにおいても,これまでの見解と一致する結果が得られ,研究4における知見は,Hikosakaら(2000)の一連の研究とも矛盾しない。彼らはのモデルでは,Button Press Taskの遂行に関与する過程を,知覚情報を制御し,次に起こる出来事を予測するシステムと,適切な行動を予測するシステムに大きくわけており,研究4で示した,正しいボタン押しを実現させるシステムと,動作を早くするシステムに類似している。しかし,大脳基底核の役割については,「行動の結果が有益であるか否かを判断し,有益である行動を強化し,有益でない行動は消去するシステムを担っている」とされ,本研究の結果と必ずしも一致しない。そこで,Hikosakaら(2000)のモデルを一部改変する形で,新たに手続きの形成モデルを考案した(図1)。本研究からは,大脳基底核が「手続きの形成」と「予測結果の調整」という2つの役割を担っていると考えられる「手続きの形成」の形成は,補足運動野から大脳基底核に送られてくる情報によってなされる。一方,系列の変化に柔軟に対応し,エラーを増加させないシステムは,大脳基底核−背外側前頭前野ループが担っていると考えられた。研究1では,この様な刺激変化に柔軟に対応できる記憶を一般記憶(general memory),一方,特定の刺激にのみ対応した記憶を特定記憶(specific memory)と呼んだ。この区分は,そのままButton Press Taskにも当てはまると考えられる。系列が変化しても適応できる記憶は,一般記憶であり,単一の系列を施行する場合にのみ適応する記憶は,特定記憶である。研究4においても,PDは,特定記憶に依存して課題を遂行しており,一般記憶を形成できなかったと考えられる。皮質下病変による痴呆を報告したAlbertら(1974)は,皮質下性痴呆患者の認知障害を,すでに獲得した知識の利用障害と表現しているが,彼の考えも,一般記憶の障害として位置づけられるかもしれない。

図1 手続きの形成における脳内モデル

審査要旨 要旨を表示する

 自転車に乗ったり箸を使うといった運動技能や,言葉を操ったり計算をしたりといった認知的な技能についての研究は,心理学では「手続き」の獲得や記憶の研究というかたちでおこなわれている。本論文は,手続きの獲得や記憶は脳のどの部位においておこなわれているかという問題意識のもとに,神経心理学的な解明をおこなったものである。すなわち,脳のいろいろな部位に損傷を持つ患者を対象として,いろいろな「手続き」の課題をおこなって,その獲得や記憶の障害を調べ,それによって「手続き」の獲得や記憶を司る脳部位を推定するという方法をとっている。

 本論文は大きく4つの研究からなる。研究1では,新しい手続きの記憶について各脳部位の役割を検討した。研究2では,既存の手続きの記憶について脳部位の役割を検討した。研究3では,手続きの記憶と,他の記憶(エピソード記憶や意味記憶など)との関連について調べた。研究4では,ボタン押し課題という新たに開発された課題を用いることによって,研究1と研究2の知見を再検証した。

 研究1では,新しい手続きの獲得・保持・転移について調べた。これまでの研究では,手続きの「獲得」を調べるだけであり,「保持」については検討されてこなかった。本研究の意義は,手続きの長期的な「保持」について,はじめて詳細に検討した点をあげることができる。また,一度学習した課題において,用いる刺激を変えることによって,学習の「転移」も調べた点も新しい着眼点といえる。実験の対象は,パーキンソン病とアルツハイマー型痴呆の患者である。前者は,皮質下の大脳基底核に障害があり,後者は,大脳皮質に障害がある疾患である。実験の結果,パーキンソン病においては,手続きの保持と転移に障害があることが見いだされた。このことから,手続きの保持と転移には,皮質下の大脳基底核がかかわることが明らかとなった。一方,アルツハイマー型痴呆においては,保持の障害はみられなかった。このことから,手続きの保持や転移には,大脳皮質はそれほど関与しないことが明らかとなった。

 研究2では,実験室で測定される新しい手続き記憶ではなく,日常生活に見られる既存の手続き記憶について調べた。対象は,頭頂葉後部の角回周辺部に損傷を持つ失行症の患者である。実験の結果,失行症患者においては,新しい手続きの獲得や保持が可能であった。したがって,手続きの獲得や保持には,頭頂葉後部の角回周辺部はそれほど関与しないことが明らかとなった。

 研究3では,対象は,脳損傷によってエピソード記憶や意味記憶の選択的障害を呈している患者であった。実験の結果,顕在的なエピソード記憶は手続き記憶の獲得に影響を与え,潜在的な意味記憶は手続き記憶の再生に影響を与えることが示された。意味記憶の責任病巣とされる中・下側頭回は手続き記憶の再生に重要であると考えられた。また,アルツハイマー型痴呆の患者のプライミング効果を長期的に検討したところ,時間経過に伴って消失する傾向が認められた。前述のように,研究1では,アルツハイマー型痴呆において手続き記憶の再生の障害がみられたが,この一因として,プライミング効果の減衰が考えられた。本研究から長期視覚性プライミングを可能にしていると考えられた後方連合野の後部も,中・下側頭回と同様に,既存「手続き」の再生を円滑にしていることが示された。

 研究4では,Hikosakaら(1995)によって新たに考案されたボタン押し課題をもちいて,手続きの獲得・保持・転移の障害について調べた。対象は,大脳基底核に障害をもつパーキンソン病患者である。実験の結果,パーキンソン病患者は,手続きの獲得・保持・転移に障害があることが見いだされた。この結果は,研究1の結果を確認するものであった。このことから,手続きの獲得・保持・転移には,大脳基底核がかかわることが明らかとなった。

 このような実験研究の結果にもとづいて,博士論文では,「手続き」の学習や記憶を司る脳部位について考察を加えている。研究1と研究4より「手続き」の獲得・保持・転移には,大脳基底核が重要な役割を果たしていることが明らかになった。また,研究3より,「手続き」の保持には大脳皮質が関与していることも明らかとなった。

 以上要約した本論文においては,とくに次の諸点が高く評価された。

1)方法論的に,脳損傷という稀な事例に対して,心理学実験をおこなうという実証研究を行い,とくに,1年〜3年にも及ぶ長期の縦断データを粘り強く収集していること。

2)従来の心理学研究で見逃されることが多かった記憶の「保持」や「転移」に着目し,そこから新たな知見を見いだすことに成功していること。さらに,ボタン押し課題という新たに開発された課題について,臨床例を対象として,組織的な検討を加えたこと。

3)着実な実験研究の成果にもとづいて,手続きの獲得・保持・転移における大脳基底核や皮質の役割を明確にしたこと。

 これらの成果により,本論文は,博士(学術)の学位に値するものであると,審査員全員が判定した。

 なお,研究2はすでに「神経心理学」誌上に公表済みであり,研究1の一部は「脳と神経」誌に掲載が決定し,研究3の一部は「神経心理学」誌に掲載が決定している。

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