学位論文要旨



No 116797
著者(漢字) 杉谷,正三
著者(英字)
著者(カナ) スギタニ,ショウゾウ
標題(和) 電子顕微鏡における情報伝達についての逆問題的観点からの研究
標題(洋)
報告番号 116797
報告番号 甲16797
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第355号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 教授 川戸,佳
 岡崎共同研究機構 教授 永山,国昭
 東京大学 助教授 箸本,春樹
 東京大学 助教授 上村,慎治
内容要旨 要旨を表示する

 顕微鏡の第一の目的は目で見えない物を見えるようにすることである.しかし,透過型電子顕微鏡(TEM)における情報伝達の理論が示すように測定結果の画像には歪みがあるために,目的の試料の構造を再構築するのは困難である.

 顕微鏡法一般について,像の持つ情報量はレンズ等の顕微鏡の技術的な問題だけではなく,どうのような測定方法を用いたかに強く依存している.TEMにおける位相差像や複素観測法の登場によって,TEMにおいてもどの測定方法を用いるかという選択が必要となりつつある.

 定量的な測定方法の選択の基準を求めるために,我々は測定結果の画像にどれだけの情報が伝わっているかという問題を検討した.しかし,そこで測定方法を定量的に評価する基準が無いという問題に直面した.得られた画像の質を表わすために広く用いられているS/N比や分解能では測定方法を評価するには不十分であったのである.個々のデータの質の評価だけではなく測定法の違いまで表わすことが可能な指標が必要であった.

 そこで試料を通過した位置での電子の波動関数を決定する問題として,明視野像,位相差像,複素観測法といったTEMにおける観測法について逆問題の観点から定式化を行なった.

 これまで用いられてきたTEMにおける結像のモデルから導かれたのは,

 d=Gm

 という線型の逆問題であった.ここでベクトルdは周波数空間での画像データを表わし,Gは測定方法によって決まる変換行列,ベクトルmは求めようとしている電子の波動関数を表わすモデルパラメータである.

 この結果から,線型逆問題の理論に従って各測定法を定量的に比較するための指標として,各観測法によって得られる画像の情報の質を表わす情報の信頼性(ITR : Information Transfer Reliability)と情報の量を表わすInfoを定義した.

 そしてこれらが測定法の選択の基準として使えることを示すために,high potential iron sulfer proteinを試料として,シミュレーションによって情報伝達に関するこの2つの指標を計算した.その結果得られた値に基づいて我々は最適な測定法の用い方を説明することができた.

 明視野像,位相差像,デフォーカスシリーズ,複素観測方の4つの測定方法について検討した結果,対象とする試料か弱い散乱物体の場合は,目的とする分解能が低けれは位相差像の撮影が最も良い結果が得られるという結論に達した.染色などの処理を行なっていない生物試料の多くがこの条件にあてはまる.

 また位相差像では分解能が不十分である場合には複素観測法とデフォーカスシリーズを用いることになるが,従来用いられてきたデフォーカスシリーズは新しく登場した複素観測法に比べ得られる情報の定量性に欠けるという点を定量的に示すことができた.

 さらに,吸収ポテンシャルの効果をモデルパラメータに含めた解析を行なおうとする場合には複素観測法が必須となることも示された.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は1編からなり、第1章では序論、第2章では電子顕微鏡における結像の仕組み、第3章では線型逆問題として画像から電子の波動関数を求める問題、第4章ではマルチスライス法により試料から散乱された電子の波動関数を求める方法と画像のS/N比を推定する方法、第5章ではシミュレーション実験により電子顕微鏡法の比較と評価を行なった結果について述べられている。さらに、第6章では測定法の評価に用いられた指標の意味について考察が行われている。

 第1章の序論では、本学位論文で行われた研究の背景と目的について述べられている。顕微鏡の第一の目的は目に見えない物を見えるようにすることである。しかし、透過型電子顕微鏡における情報伝達の理論が示すように、測定結果の画像には歪みがあるために目的の試料の構造を再構築することは一般には困難である。歪みの原因はレンズ収差などの技術的開題だけではなく、測定方法そのものにも強く依存している。しかし、測定方法を定量的に比較して評価するための適当な指標が存在していない。通常用いられるS/N比や分解能は、測定方法を評価するには十分であるとはいえない。そこで、論文提出者は測定方法を定量的に評価するための新しい指標を提案することから始め、それらを用いて透過型電子顕微鏡の4つの測定方法、すなわち、明視野像法、位相差像法、デフォーカスシリーズ法、複素観測法を比較して評価することを行なった。

 第2章では、本論文の基礎である透過型電子顕微鏡における結像の仕組みとその定式化について述べられている。試料から散乱された電子の波動関数を表すパラメータのベクトルをm、結像により得られた画像の周波数空間でのデータを表わすベクトルをd、測定方法によって決まる変換行列をGとすると、それらの間には陽的線型関係式d=Gmが成立する。したがって、結像データから散乱電子の波動関数を求める問題は、線型逆問題として定式化することができる。

 第3章では、結像データから散乱電子の波動関数を求める逆問題を解くための方法と測定法の比較を行うための指標について述べられている。試料から散乱された電子の波動関数を表すモデルパラメータの推定値ベクトルであるmestは、観測された画像の周波数空間でのデータを表すベクトルをdobs、一般逆行列をG-gとすると、mest=G-gdobsで与えられる。ダンピングファクタを先験情報として与えると、逆問題の解の存在と一意性、安定性が保証されるようになり、一般行列G-gは特異値分解法により求めることができる。論文提出者は、測定方法を定量的に評価するために、この一般逆行列に基づいて情報伝達の信頼性(ITR : Information Transfer Reliability)と情報伝達の総量Infoという2つの指標を提案した。ITRは一般逆行列G-gと変換行列Gとの積であるモデル解像度行列R=G-gGの対角成分として定義され、真のモデルパラメータが観測された像から推定したモデルパラメータにどれだけ伝達されているかを表している。一方、InfoはシグナルのパワースペクトルをITRの重みを付けて積分した量で、伝達された情報の総量を表している。論文提出者は、透過型電子顕微鏡の4つの測定方法、すなわち、明視野像法、位相差像法、デフォーカスシリーズ法、複素観測法の比較を行うために、それぞれについて一般逆行列G-gおよびITRの具体的な形を導くことを行なった。先験情報であるダンピングファクタとしてはS/N比の逆数が用いられた。

 第4章では、ITRとInfoの値を求めるために必要となるS/N比の推定方法について述べられている。試料から散乱された電子はレンズ系で結像されて試料の像として観測される。その画像に含まれるノイズの主要な原因は入射電子線のショットノイズである。画像に含まれるノイズのS/N比を推定するためには、透過型電子顕微鏡によって得られる試料の像を計算により求めることが必要である。論文提出者は、散乱された電子線の波動関数をマルチスライス法により計算するプログラムを作成するとともに、変換行列Gを用いて散乱された電子がレンズ系により結像してできる画像を計算するプログラムを作成し、結像した試料の画像に含まれるノイズのS/N比を空間周波数の関数として求めることを行なった。

 第5章では、highpotential iron sulfer protein(HISP)を試料として用いたシミュレーション実験により透過型電子顕微鏡の4つの測定方法の比較を行った結果について述べられている。また、第6章では測定法の比較のための指標として用いられたITRとInfoの意味について考察が行われている。明視野像法、位相差像法、デフォーカスシリーズ法、複素観測法の4つの測定方法について、第3章および第4章で述べられている方法にしたがって試料であるHISPのITRとInfoが具体的に計算され、それらの測定方法の比較検討が行われた。その結果、対象とする試料が弱い散乱物体の場合、目的とする分解能が低ければ位相差像の撮影が最も良い結果が得られるという結論に達している。染色などの処理を行なっていない生物試料の多くがこの条件に当てはまる。また、位相差像では分解能が不十分である場合には複素観測法とデフォーカスシリーズ法を用いることになるが、従来用いられてきたデフォーカスシリーズ法は新しく登場した複素観測法に比べて得られる情報の定量性に欠けるという点が定量的に示された。さらに、吸収ポテンシャルの効果をモデルパラメータに含めた解析を行う場合には、複素観測法が必須となることも示された。

 以上のように、論文提出者は透過型電子顕微鏡の測定方法を定量的に評価するための新しい指標を導出し、それらを用いて実際に測定方法の正確な比較ができること、染色などの処理を行なっていない生物試料の画像を透過型電子顕微鏡により高い分解で得るためには複素観測法が最も適していることをはじめて明らかにした。

 本論文の研究は、永山国昭氏との共同研究であるが、論文提出者が研究全体を主体的に行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(学術)の学位を授与できると認める。

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