学位論文要旨



No 116798
著者(漢字) 高田,則雄
著者(英字)
著者(カナ) タカタ,ノリオ
標題(和) 海馬における一酸化窒素産生の可視化解析
標題(洋)
報告番号 116798
報告番号 甲16798
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第356号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 助教授 安田,賢二
 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 助教授 小倉,尚志
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、ラットの海馬スライスにおける一酸化窒素(nitric oxide;NO)産生をNO感受性蛍光色素を用いて可視化解析するとともに、神経ステロイドのひとつである硫酸プレグネノロン(pregnenolone sulfate;PREGS)のNO産生に与える作用を調べた。その結果、PREGSが海馬NO産生量を増大する作用を持つことを発見した。

 海馬は記憶に重要な働きを持つことが知られている。ヒトの事例では、H.M.というイニシャルで知られる、てんかんの治療のため海馬を両側性に切除された患者が有名である。H.M.は1953年の手術以前の記憶は保持しているが、海馬を切除した後は物事を憶えることができなくなった。1973年にBlissとLφmoらによってラットの海馬に於いてシナプス伝達効率の長期増強(long term potentiation;LTP)が報告されると、LTPは記憶の素過程ではないかと注目を集めた。LTPとは、海馬を高頻度に電気刺激すると、刺激後数10分以上シナプス伝達効率が上昇したままになる現象を言う。その後の研究によって、LTPの発現には海馬神経細胞の細胞膜に存在するNMDA受容体が重要であることが知られている。NMDA受容体は神経細胞が強く興奮した時にだけ、細胞外のカルシウム(Ca2+)を細胞内に流入させる。NMDA受容体からのCa2+流入を阻害するとLTPが阻害されてしまうことも報告されている。

 海馬において一酸化窒素(NO)は、一酸化窒素合成酵素(nitric oxide synthase;NOS)によって作られる。NOは他の多くの神経情報伝達物質と異なり、細胞膜を自由に透過できる拡散性の情報伝達物質である。生体内でのNOの半減期は数秒と言われている。NOはシナプス後膜からシナプス前膜へと細胞膜を透過する逆行性情報伝達物質と予想されて注目を集めた。海馬に存在する神経型一酸化窒素合成酵素(nNOS)はCa2+依存的にNOを作る。nNOSはNMDA受容体に結合することが知られているので、nNOSはNMDA受容体から流入するCa2+に非常に敏感に応答してNOを作ると考えられている。海馬におけるNO産生を阻害するとLTPも阻害されてしまので、NMDA受容体からCa2+が流入して一酸化窒素合成酵素がNOを産生することが、海馬におけるLTPの発現に必要であるとの報告がある。

 硫酸プレグネノロン(PREGS)をネズミの海馬にごく微量注入すると、記憶力が非常に良くなることが知られている。PREGSの作用の分子機構としては、PREGSはNMNDA受容体に作用して、NMNDA受容体経由のCa2+流入を増大することが知られている。最近、東京大学の川戸研究室によって、海馬をNMDAで刺激してNMDA受容体からCa2+を流入させると、海馬自身がPREGSを作ることが示された。PREGSはNMDA受容体に作用してNMDA受容体経由のCa2+流入量を増大させるが、このCa2+流入量の増大がその後の神経細胞内の情報伝達にどのような影響を持つかは知られていない。本研究では、NMDA受容体に結合している、Ca2+依存的にNOを作る蛋白質である神経型一酸化窒素合成酵素(nNOS)に着目した。PREGSによるNMNDA受容体経由のCa2+流入量の増大がNO産生を増量する程十分なものであるかどうかを検証した。そのために、近年開発されたNO感受性蛍光色素DAF-FMを用いて、海馬スライスにおけるNO産生の蛍光測定を行った。

 PREGSの研究は分散培養細胞を用いたものが多かったので、まず初めに、海馬スライスの場合でもNMDA刺激時のCa2+応答がPREGSによって増強されるかどうかをCa2+感受性蛍光色素fura-2を用いて確認した。PREGSがない場合には、1 mMのNMDAで海馬を刺激すると細胞内カルシウム濃度に対応するfura-2蛍光強度の比f340/f380は0.53から30秒の間に0.79に上昇した。その後f340/f380は0.66にまで減少した。NMDA刺激20分前から海馬スライスに10μMのPREGSを投与した場合はNMDA刺激によって、f340/f380は0.53から20秒間の間に急上昇して1.01になり、その後0.72まで減少した。このことから、PREGSが海馬スライスにおいてもNMDA刺激時のカルシウム応答を増強することが明らかとなった。

 次に、PREGSによる海馬スライスのカルシウム応答の増大が、海馬におけるNO産生を増大できるかどうかを検証した。PREGSがない場合に、1 mMのNMDAで海馬を刺激するとNO産生量に対応するDAF-FM蛍光強度が26%上昇した。NMDA刺激20分前から海馬スライスに100μMのPREGSを投与した場合には、NMDA刺激によるDAF-FM蛍光強度の上昇が48%に増大することが判明した。NMDA刺激によるDAF-FM蛍光強度の上昇はNO合成酵素の阻害剤であるL-NMMAやNMDA受容体の阻害剤であるMK801によって抑制された。以上の結果から、PREGSはNMDA刺激時のNO産生を増強することが判明した。

 NMDA刺激によって海馬自身がPREGSを産生することを考慮すると、生体内におけるPREGSの作用機構として、以下のようなモデルが考えられる。シナプス前終末からグルタミン酸が放出され後シナプス神経細胞が強く興奮するとNMDA受容体が活性化されてCa2+が流入する。流入したCa2+はNOを産生するとともにPREGSの産生を引き起こす。産生されたPREGSはNMDA受容体に作用してCa2+流入を増大する。その結果NOの産生が増強される。以上のように、NMDA受容体を開くほど強く興奮した海馬神経細胞にとって、PREGSは神経情報の増幅物質として働いていると考えられる。なお、PREGSによる神経情報増幅の発散を防ぐであろう、以下のような機構が知られている。まず、NMDA受容体からのCa2+流入によるPREGSの産生は一過性であり、いつまでも産生されている訳ではない。また、産生されたPREGSは順次、PREGS以降のステロイドに変換されて行くので、時間と共にPREGSの濃度は下がってゆく。さらに、産生されたNO自身がNMDA受容体に作用してCa2+流入を抑制することが知られている。

 本研究によって、硫酸プレグネノロン(PREGS)がNMDA刺激時の海馬におけるNO産生を増強することが明らかとなった。NOの産生がLTPの成立に必要であるとの報告を考え合わせると、PREGSの記憶増強作用はPREGSによるNO産生の増大が原因であるのかもしれない。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、海馬スライスを刺激した時の一酸化窒素(nitric oxide;NO)産生の二次元直接測定を行うことを目的として行われた。初めにNO感受性蛍光色素DAF-FMを用いて海馬におけるNO産生の蛍光測定法を確立し、ニューロステロイドである硫酸プレグネノロンのNO産生に与える効果を測定した。さらに、改良型NO感受性蛍光色素DAR-4Mを用いてNMDA刺激時の海馬各領域におけるNO産生量を比較するとともに、テタヌス刺激時の海馬CA1領野のNO量を測定した。また、海馬のカルシウム信号も計測することでカルシウム信号の大きさとNO量の対応を調べた。

 海馬においてNOは、一酸化窒素合成酵素(nitric oxide synthase;NOS)によって産生される。NOSはカルシウムに依存してNOを産生する蛋白質であることが知られている。海馬の主要な神経細胞はNOSを持つことが示されている。NOの測定法には海馬神経組織をすり潰すなどして海馬全体の平均のNO量を測る手法などしかなかったために、NO量の空間分布を知ることはできなかった。NOは海馬で多様な作用を持ち、NOの濃度によって異なる生理作用を発揮することすらあると報告されている。そのため、NO量の空間情報を知ることはNOの生理を理解するうえで重要であることが本論文で指摘されている。

 海馬スライスにおけるNO産生の二次元分布の測定を目的として、本研究ではまず初めにNO感受性蛍光色素DAF-FMを用いている。一般の測定方法では海馬を刺激した時にDAF-FMの蛍光強度が低下してしまうという問題があった。本研究では海馬スライスを保存する人工脳脊髄液中のグルコースをピルビン酸に置き換えるという手法を用いて、DAF-FM蛍光強度の低下を防ぎ、海馬におけるNO産生の蛍光測定に成功している。DAF-FMを用いた研究では、ニューロステロイドの一種である硫酸プレグネノロンの海馬におけるNO産生に与える効果を測定した。その結果、硫酸プレグネノロンはNMDA受容体経由のカルシウム流入を増やすことで海馬におけるNO産生量を増強することを発見した。

 本研究では次に改良型NO感受性蛍光色素DAR-4Mを用いた測定を行っている。その結果、DAR-4Mを用いてNMDAで刺激した時の海馬CA1、CA3、DG各領域におけるNO産生量の比較を行った。NMDAとはNMDA型グルタミン酸受容体だけを開口する刺激薬である。その結果、CA3とDGにおけるNO産生量は同程度であること、およびCA1におけるNO産生量が他の領域に比べて2倍程度大きいことを示した。更に、各領域におけるカルシウム信号を計測した。その結果、CA1とDGのカルシウム信号が同程度に大きいこと、CA3のカルシウム信号が他の領域と比べて半分程度に小さいことを示した。海馬を刺激した時のDGのNO産生量はCA1の半分程度であるにもかかわらず、DGのカルシウム信号がCA1と同程度に大きいことから、海馬の領域ごとにカルシウム信号の大きさとNO産生量との対応関係が異なることが示唆された。

 本研究では次に、海馬をテタヌス電気刺激した時のCA1におけるNO産生量の二次元蛍光測定を行った。テタヌス電気刺激は海馬のシナプス長期増強を引き起こすために用いられる刺激方法である。実験の結果、テタヌス電気刺激時のNO産生量は刺激電極から遠ざかるにつれ少なくなること、およびCA1内の放射状層におけるNO産生量が特に大きいことが判明した。更に、テタヌス電気刺激時のカルシウム信号を計測した。その結果、海馬錐体細胞層ではNO産生量が放射状層より少ないにもかかわらず、カルシウム信号の大きさは放射状層と同程度に大きいことが示されている。この結果は、海馬のCA1領域内ですらNO産生量とカルシウム信号の大きさが必ずしも比例しないことを示している。また、テタヌス電気刺激の情報をカルシウムは細胞体まで伝えるのに対して、NOはシナプスの存在する放射状層にのみ情報を伝えていることが示唆される。

 以上要約すると、本研究では、海馬スライスにおけるNO産生の蛍光測定法を確立し、NO産生の二次元測定に成功した。その結果、海馬各領域におけるNO産生量が異なることが明らかとなった。海馬各領域におけるNO産生量の比較は今まで誰も成功できなかった成果である。また、海馬のカルシウム信号も測定して、海馬ではカルシウム信号の大きさとNO産生の大きさが必ずしも対応しないという、今まで想定されてこなかった新知見を示した。

 よって審査委員一同、論文提出者高田則雄は東京大学博士(学術)の学位を受けるに十分な資格があるものと認めた。なお、本論文の内容は2002年にBioimages誌に公表することになっている。これは共著論文であるが、論文提出者はそのすべてにおいて研究の主要部分に寄与したものであることを確認した。

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