学位論文要旨



No 116817
著者(漢字) 井上,耕治
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,コウジ
標題(和) 絶縁体単結晶中の陽電子消滅
標題(洋)
報告番号 116817
報告番号 甲16817
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第375号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 久我,隆弘
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 助教授 植田,直志
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

 陽電子は正の電荷を持つ電子の反粒子である。放射性同位元素の崩壊や加速器によって生成され、反粒子の中では最も身近な半粒子である。そのため、陽電子は、物性研究など幅広い分野で利用されている。

 本研究では、これまであまり研究されていない絶縁体の電子運動量分布を、陽電子消滅角相関法を用いて研究を行った。コンプトン散乱法を用いても電子運動量分布の測定を行い、陽電子を用いた測定結果と比較検討した。また第1原理計算結果を行い、実験結果と計算結果を比較し、局在系についても第1原理計算結果が適応できるかの検証を場を初めて提供した。

 アルカリ土類フッ化物中の電子陽電子対の束縛状態であるポジトロニウムの挙動についても詳しく調べた。アルカリハライド中のポジトロニウムについては詳しく調べられているが、アルカリ土類フッ化物中のポジトロニウムについてはあまり詳しく調べられていない。どういう挙動を示すのか、基礎研究の面から非常におもしろいと思われる。

2.TiO2単結晶の電子及び陽電子状態の研究

 ルチル型TiO2(空間群P42/mnm)はバンドギャップ3eV程度の絶縁体である。格子定数はa軸(<100>,<010>軸)が4.5937A、c軸(<001>軸)が2.9619Aである。このルチル型TiO2単結晶の運動量分布を<100>,<110>,<001>方位について陽電子消滅1次元角相関法、及び、コンプトン散乱法を用いて運動量分布を測定した。温度は室温であった。運動量分解能は、陽電子消滅1次元角相関法では0.062a.u.、コンプトン散乱法では0.16a.u.である。コンプトン散乱の実験は大型放射光施設SPring-8のBL08Wにて行った。陽電子消滅1次元角相関の実験では、磁気クエンチング効果を利用してTiO2単結晶中にポジトロニウムが存在するかどうかを調べた。第1原理計算はFLAPW(Full Potential Linearized Augmented Plane Wave)法を用いて行った。

 磁気クエンチング効果を利用した角相関曲線の結果からTiO2単結晶中にはポジトロニウムは存在しないことがわかった。これにより、陽電子消滅角相関曲線において実験と第1原理計算結果との比較が可能である。陽電子消滅角相関測定の結果は、方位によって陽電子電子対の運動量分布が大きく異なるのに対し、コンプトンプロファイルで見た電子運動量分布には小さな異方性しかなかった。この結果、陽電子電子対の運動量分布の大きな異方性は主に陽電子に起因することがわかった。実験結果をFLAPW法による計算結果と比較した。その結果、陽電子電子相関に異方性があること、そして<100>方向が相対的に強いことがわかった。また、現在の陽電子電子相関の理論では、この現象を説明するのに不十分であることがわかった。

3.BaF2単結晶の電子状態とポジトロニウムの研究

 BaF2(結晶構造:螢石型、空間群:Fm3m、格子定数:6.2001A)単結晶はアルカリ土類フッ化物の一つであり、高速シンチレータとして非常に有名な物質である。BaF2単結晶中ではポジトロニウムが存在するらしいということはわかっているが、詳細についてはまったくわかっていない。BaF2単結晶中の陽電子消滅について10K〜室温まで詳しく測定した。陽電子消滅角相関曲線の磁気クエンチングの結果、BaF2単結晶中ではポジトロニウムが存在することを確認した。このポジトロニウムは格子間の非常に狭い空間に局在していることがわかった。陽電子寿命スペクトルの温度依存性の結果は、90Kから100Kの間で急激な大きな変化が見られた。88Kと110Kの角相関曲線の比率曲線の結果からも、この温度領域で陽電子電子対の運動量分布が変化していることが確認できた。陽電子消滅法での測定結果の温度依存性の原因が、電子状態の変化なのかポジトロニウムの変化なのかを調べるために、この温度領域でコンプトン散乱法を使って電子運動量分布についての測定を行った。コンプトン散乱法を用いて、イオン結晶の電子運動量分布の温度依存性を測定したのは、本実験が初めてである。TiO2が半導体に近い絶縁体であるのに対し、BaF2は完全イオン結晶に近い。より局在した電子系に対しバンド計算がどこまで通用するのかの検証の場も提供した。規格化したコンプトンプロファイルの88Kと110Kの差分を見ると、±2a.u.付近より内側では波打ったような構造らしきものが見えるが、このデータから88Kと110Kで電子状態が変化していると断言することはできない。もう少しカウントを貯める必要がある。

 実験と計算のコンプトンプロファイルの比較すると、かなりの不一致が見られた。実験のプロファイルには、Baの6s軌道と思われる幅の狭い運動量分布を持つ電子からの寄与がかなり存在する。イオン結晶であるBaF2の基底状態は、LCAO的な見方をすると、Baの6s軌道に電子はほとんど存在しないので、バンド計算に問題があるということではない。これは、コンプトン散乱測定の新しい可能性を示唆するものであると思われる。

4.SrF2単結晶中のポジトロニウムの研究

 SrF2(結晶構造:螢石型、空間群:Fm3m、格子定数:5.7996A)はBaF2と同じアルカリ土類フッ化物の一つである。このSrF2単結晶において、陽電子消滅寿命スペクトル、ドップラー広がりスペクトル、1次元角相関曲線から、ポジトロニウムの挙動(10K〜室温)について調べた。陽電子寿命スペクトルを2成分解析した結果、温度に大きく依存することがわかった。またドップラースペクトルから得られるS-パラメータ(トータルカウントに対する中央部分のカウントの割合)も温度によって非常に大きな変化を示した。(S-パラメータの大きい温度と小さい温度では、ドップラースペクトルの形が明らかに異なった。)1次元角相関で、磁気クエンチング効果を利用してポジトロニウム成分のみを取り出した結果、低温では幅広い運動量分布を持つ局在ポジトロニウムが存在しているが、温度が高くなるにつれてその強度が減少し、180K以上では狭い運動量分布を持つポジトロニウム成分が出現し、その強度が増加していった。室温の角相関曲線では逆格子点付近がわずかに膨らんでいるように見える。このことからも、この狭い成分は非局在ポジトロニウムであり、SrF2単結晶中では、ポジトロニウムの局在−非局在転移が起っているものと思われる。いくつかのアルカリハライド(NaF、NaC1、KI、KC1、KBr、RbC1)においては非局在−局在転移が起ることが知られているが、今回の現象はその逆の現象であり、いままでに報告されたことのない現象である。低温でのポジトロニウムの局在状態は、自己束縛状態ではないと予想される。自己束縛状態であれば、単位格子の数だけトラップサイトが存在するため、デトラップしても、またすぐにトラップすると考えられるからである。つまり、局在サイトの数が少ないことが条件である。また10Kと室温の角相関曲線では、ポジトロニウムの自己消滅成分以外からの運動量分布が変化していることなどから、低温では不純物にトラップされていたポジトロニウムが室温付近では非局在ポジトロニウムに変化するものと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は2部構成であり,第1部の陽電子消滅2光子2次元角相関装置用の新しいタイプの位置敏感γ線検出器の開発で,序論に続き,第2章は従来の位置敏感γ線検出器の概説,第3章は新しいタイプの位置敏感γ線検出器の試作,第4章が陽電子消滅2光子2次元角相関装置用の位置敏感γ線検出器の開発の記述に当てられている。第2部は絶縁体単結中の陽電子消滅の研究で,序論は陽電子消滅法とコンプトンプロファイル法による運動量分布測定の概説,第2章はTiO2単結晶の電子及び陽電子状態の研究,第3章はBaF2単結晶の電子状態およびポジトロニウムの研究,第4章はSrF2単結晶中のポジトロニウム研究に当てられている。

 陽電子消滅2光子2次元角相関法(2D-ACAR)は,物質中の電子の運動量分布を調べるための有力な手段として知られている。物質中に入射された陽電子は主に物質の価電子と対消滅して2本のγ線を放出する。この際,電子・陽電子の質量を含めたエネルギーと,運動量の双方が保存されるために,2本のγ線は正反対方向からわずかの角θだけずれて放出される。その角度分布を測定することで,電子の運動量分布がわかる。

 それを測定するための装置の心臓部が,γ線の2次元位置敏感検出器である。ただし,位置のみでなく2本のγ線の同時計測が必要なので,時間分解能も必要である。

 従来,この目的のために使われるγ線検出器は,個別のシンチレーション検出器のアレイ,アンガー・カメラ,鉛コンバータ付電離箱,柱状のシンチレータのアレイと位置敏感光電子増倍管等が用いられている。

 本研究では,2676本の柱状BGOシンチレータ結晶のアレイを光学ガラス板の上に並べて,その発光を36個のメタルパッケージ位置敏感光電子増倍管(PMT)で受けて,その出力を抵抗アレイで分割することにより,γ線がどのシンチレータに入射したかを判別するシステムを開発した。

 本格的な装置を作る前に,324個のシンチレータアレイに4個のメタルパッケージ位置敏感PMTで受けたプロトタイプを作製して,位置信号の分離や分解時間や,板ガラスの厚さや屈折率の最適化を行った。その結果を参考にして,本格的な装置の作製を行った。

 PMTの出力は576個あるが,これを抵抗鎖につないで縦横各8個ずつの出力にしてとりだし,工夫した演算で,2676本のシンチレータ結晶の一つ一つを明瞭に判別した。これにより位置分解能,検出効率,時間分解能を総合して世界最高クラスの性能が得られた。

 第2部では,陽電子消滅法とコンプトンプロファイル(CP)法を用いて行った,絶縁体結晶中の電子状態と絶縁体中に生成するポジトロニウムの研究が報告されている。陽電子消滅法の測定は東京大学で,CPの測定はSPring-8で行った。

 従来,TiO2, BaF2, SrF2の3種類の絶縁体の電子状態は運動量分布の側面からのバンド理論との比較はほとんど行われていなかった。本実験では,第一原理計算のひとつであるFLAPW(Full Potential Linearlized Augumented Plane Wave)法によるバンド計算と実験との詳細な比較を行った。

 まず,TiO2単結晶では,陽電子消滅2光子角相関(ACAR)に対する磁場の効果から,Psが生成しないことを確かめた。ACARにはこれまで絶縁体中では見られていない大きな異方性を見出された。これが電子の運動量分布によるものか陽電子の効果だあるかを見るために,CPの測定を行った。その結果,電子運動量分布にも異方性が見られたが,2光子角相関の異方性より小さかった。このことから,ACARの異方性は陽電子の波動関数に起因することがわかった。理論計算ではこの異方性は説明できず,電子陽電子相関の理論を整備する必要があることがわかった。

 次にBaF2単結晶の測定を行った。この物質にはポジトロニウムが生成していることがわかったので,その温度依存性を10Kから室温までの範囲で測定した。90K付近に,陽電子寿命の急激な変化が見られた。光吸収や発光スペクトルにもやはり90K付近に異常が見られる。ただしこの現象はこれまであまり注目されてこなかったようである。CPの温度依存性も調べたが,顕著な変化は見られなかった。CPの測定値とその第1原理計算との比較も行ったが一致はあまりよくない。

 最後にSnF2単結晶についても,ポジトロニウムの生成が見られたので,陽電子消滅法ではポジトロニウムの研を行った。10Kから室温の範囲で陽電子寿命と消滅γ線のドップラー拡がりを測定した。また磁場中でのACARを用いてポジトロニウムの運動量分布を抽出した。その結果,180K付近で,ポジトロニウムが自由なブロッホ状態から自縄自縛状態へ遷移することが観測された。

 このように,本研究は,陽電子消滅2光子角相関法装置に用いるためのγ線位置敏感検出器として,新しいタイプの世界最高の性能のものを開発し,また,陽電子消滅2光子角相関法とコンプトンプロファイル法を用いて,これまでほとんど行われていなかった,絶縁体結晶中の電子の運動量分布の精密測定を世界をリードする形で行ったものであり,博士の学位に十分値すると認められる。

 なお,本論文は,指導教官及び久保康則教授ほかとの共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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