学位論文要旨



No 116818
著者(漢字) 中島,正和
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,マサカズ
標題(和) 新たな分光手法の開発と硫黄を含む炭素鎖ラジカルのレーザー分光
標題(洋) Development of a New Spectroscopic Technique and Laser Spectroscopy of Sulfur-bearing Carbon-chain Radicals
報告番号 116818
報告番号 甲16818
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第376号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 増田,茂
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では新しいタイプの二重共鳴分光法の開発を行い、その手法及びレーザー誘起蛍光(LIF)法を用いた含硫黄炭素鎖フリーラジカルCCSの振電遷移を測定し、励起状態の回転解析と振動解析を行った。さらにLIF法による炭素鎖ラジカルHC4S、HC6Sの電子スペクトルに関する研究も行った。以下にそれぞれを概説する。

 新たな分光手法の開発は、既存の手法では測定の出来なかった原子・分子の情報を得るために必要である。特に様々な光源を用いた二重共鳴分光法は、今日の分子科学研究において欠くことのできない重要な手法となっている。本研究ではフーリエ変換型マイクロ波分光器と波長可変パルスレーザーを用いた、新しいタイプのマイクロ波−可視二重共鳴(MODR)を試みた。マイクロ波の吸収を検出するMODR法はこれまでに報告されているが、今回の方法ではコヒーレントなマイクロ波パルスによって誘起された巨視的な双極子の放出する自由誘導放出(FID)信号を検出する。分子にパルスレーザー光を照射することによって生ずるFID信号の変化を測定し、MODRスペクトルを得る。本研究ではマイクロ波、レーザー光共にパルス光源を用いているため、2つの光の相対的なタイミングを入れ替えることが出来る。このタイミングを制御することにより図1(b)、(c)のような2種類のMODRスペクトルを得ることが出来た。レーザーパルスをマイクロ波パルスよりも早いタイミングで照射することにより、一般的なポピュレーション・ラベリングのスペクトルを得ることができた[図1(b)]。一方、マイクロ波パルスを先に照射し、コヒーレントな状態の分子にレーザーパルスを照射すると、レーザー光がマイクロ波遷移の上下どちらの準位と共鳴してもFID信号は減少した[図1(c)]。この場合には分子のコヒーレンスの減少を検出することになるので、非コヒーレントな信号を検出する場合には到達できない50%以上の信号の減少を観測することができた。原理的には100%のFID信号の減少を達成することができると考えられ、コヒーレンスの制御という観点からも興味ある結果が得られた。この二重共鳴分光法はマイクロ波、レーザー光ともにパルス光源を用いているので、パルスジェットやパルス放電ノズルとの組み合わせが可能であり、ラジカルや分子錯体等の研究に適している。

 硫黄を含む炭素鎖フリーラジカルCCSは星間空間での存在が電波領域において確認されており、その孤立相中でのレーザー分光はDiffuse Interstellar Bands (DIBs)との比較という視点から天文学的に興味が持たれている。このラジカルは電子基底状態で直線の3Σ-状態であることが知られている。最近、このラジカルのA3Πi(3,0,0)−X3Σ-(0,0,0)振電遷移の超音速ジェット中でのスペクトルが報告されているが1、電子励起状態の振動構造に関する情報は実験的には得られていない。そこで、A状態の振動構造を明らかにするために、広いエネルギー範囲(10800〜16600cm-1)で振電励起スペクトルを観測した。観測には主にLIF法を用いた。回転線を分解したスペクトルの測定により、44個の振電バンドがCCSラジカルのX3Σ-(0,0,0)状態からの遷移であることを確認し、C-C伸縮振動のプログレッション、A(ν1,0,0)−X(0,0,0)[ν1=1〜4]、を帰属した。最も長波長の(1,0,0)-(0,0,0)遷移のΩ1=2サブバンドについては光電子増倍管の感度が十分でなかったため、新たに開発したMODR分光法を用いてスペクトルを測定した。(1,0,0)-(0,0,0)と(2,0,0)-(0,0,0)バンドについては3Πの実効的なハミルトニアンを用いて回転解析し、励起状態の回転定数を決定した。得られた回転定数からゼロ点振動準位の回転定数B0'を0.2157(1)cm-1、回転振動定数α1'を8.2(8)×10-4cm-1であると決定した。さらに得られたバンドの位置からオリジンバンドの位置T0、C-C伸縮振動の調和振動数ω1'、非調和定数X11'を表1のように決定した。A(2,0,0)-X(0,0,0)遷移のΩ'=1サブバンドは図2に見られるように非常に複雑な回転構造を示し、通常用いられるコンビーネーション・ディファレンスによる回転線の帰属は困難であった。そこで回転線の帰属のためにMODR分光法をこのサブバンドに適用し、純回転遷移JN=32-10、21-10、10-01をプローブすることによりMODRスペクトルを測定した。このスペクトルを手助けとして、Ω'=1サブバンドの回転線の帰属を図2のようにつけることができた。この帰属により、この領域には3つのΩ'=1バンドと1つのΩ'=2バンドが存在することが分った。3つのΩ'=1バンドの実効的な回転定数は、(2,0,0)-(0,0,0)のΩ'=0、2サブバンドから見積られる値と一致していなかった。このことは回転量子数Jに依存する摂動の存在を示唆する。このような摂動の選択則はΔΩ=±1であるので、Ω'=1バンドとΩ'=2バンド間のコリオリタイプの摂動を考えることにより、実験で得られた実効回転定数を説明することができた。一方、C-C伸縮振動のプログレッションから約490cm-1高エネルギー側にQ枝を持たない平行遷移、約560cm-1高エネルギー側に弱いQ枝を持つ平行遷移がそれぞれ観測された。CCSラジカルのA状態は3Πiであるので、これらの平行遷移の上位状態は変角振動の奇数量子が励起してできる振電対称性Σの準位であることがわかる。よってこれらのバンドをC-C伸縮振動とC-C-S変角振動1量子のコンビネーションバンドA(ν1,0,1)3Σ-X3Σ-(0,0,0)であると帰属した。3Π電子状態で変角振動が励起されると、Renner-Teller効果とスピン軌道相互作用によって振電準位の縮重が解ける。観測された2つの(1,0,1)-(0,0,0)バンドの位置からHougenによって導かれた式2を用いて、C-C-S変角振動の調和振動数ω3'、Rennerパラメーターε'を表1のように決定した。更に実験的に得られた振動定数との比較のため、励起電子状態に対してMRSDCI/cc-pVTZレベルの分子軌道計算を行った。7軌道8電子配置での計算結果を表1に示した。ただし変角振動に対しては、A'とA"それぞれの対称性に対するポテンシャル曲線を求め、そのポテンシャルから調和振動数とRennerパラメータを決定した。これらの計算結果は実験的に決定された値を非常に良く再現することが分った。また、CCSラジカルの(1,0,0)-(0,0,0)と(2,0,0)-(0,0,0)バンドは(3,0,0)-(0,0,0)バンドよりも大きな遷移強度を持っておりDIBsとして期待されたが、知られているDIBsと一致しなかった。

 HCnSラジカルの幾何構造は基底電子状態で直線であるが、等価電子ラジカルであるHCnOラジカルは曲がった構造を持つ。しかしHC2OラジカルのB状態は直線構造を持つことが知られている3。このことからHCnSラジカルの電子励起状態での構造には興味が持たれる。これまでにHC2Sラジカルの気相中での電子スペクトルが観測されており、電子遷移は2Πi-2Πiと帰属されている。そこでさらに長い炭素鎖を持つHC4S、HC6Sラジカルの気相中での電子スペクトルの測定を試みた。ラジカルはアセチレンと二硫化炭素の混合物ガスをアルゴンで希釈したサンプルをパルス放電ノズルで放電し、超音速ジェット中に生成した。励起スペクトルの測定にはLIF法を用いた。500nmから短波長側に17個の振電バンドを初めて観測した。高分解能スキャンにより、回転線まで分解した2Π3/2-2Π3/2のスペクトルを得ることができた。基底状態のコンビネーション・ディファレンスがマイクロ波分光で知られているHC4Sと一致したため、これらのバンドをHC4Sラジカルの2Пi-2Пi電子遷移であると帰属した。さらに590nmから短波長側にもH、C、Sの3元素から成る分子の振電バンドを数本観測した。これらのバンドは高分解能のレーザースキャンでも回転線が部分的にしか分解できなかったが、部分的に分離された回転線から基底状態の回転定数が0.01910(2)cm-1である2П3/2-2П3/2の遷移であることが分った。分子の構成元素、基底状態の対称性、さらにab initio計算による回転定数の見積りから、これらのバンドのキャリアーをHC6Sラジカルであると帰属した。さらにHC2S、HC4S、HC6Sラジカルのオリジンバンドの波長を、炭素数に対してプロットしたものが図3である。このプロットからHC2nSラジカルのオリジンバンドの位置と炭素の数は、ほぼ直線の関係になることが分った。さらに長い炭素鎖を持つHC8S分子のオリジンバンドの位置をこのプロットから外挿し、677.4nmであると見積った。また、HC2Sの蛍光減衰プロファイルは量子ビートを示すことが知られているため、HC4SとHC6Sに対しても蛍光減衰における量子効果が期待されたが、1成分の指数関数的減衰しか観測されなかった。しかしながらHC4Sに対しては励起エネルギーの増加に対して減衰時間の減少が観測された。これは状態密度の増加による、無輻射過程の速度増加として説明できる。

 参考文献

 1A.J. Schoeffler et al., J. Chem Phys. 114, 6142(2000).

 2J.T. Hougen, J. Chem Phys. 36, 1874(1962).

 3L.R. Brock et al., J. Chem Phys. 110, 6773(1999).

図1 LIF&MODRスペクトル

表1 決定された電子励起状態の振動定数

図2 A(2,0,0)Ω=1-X(0,0,0)バンドのLIFスペクトル

図3 HC2nSのオリジンバンド位置のプロット

審査要旨 要旨を表示する

 直鎖の炭素骨格の末端に水素原子、酸素原子、硫黄原子などが結合した分子種は、電波天文学による観測により、多くの種類が星間分子として観測されていることもあり、早くから注目を集めていた。これまでに電波望遠鏡や実験室のマイクロ波分光により、これらの炭素鎖分子の電子基底状態に関する研究は数多く報告されているが、可視・紫外領域に広がる電子遷移を観測した研究は、これらが希薄な星間雲による可視領域の吸収スペクトル、いわゆる「ぼけた星間線(Diffuse Interstellar band)」の有力な候補と考えられてきていたにもかかわらず、ごく最近までほとんど進んでいなかった。本論文は、主としてレーザー励起蛍光法により、特に末端に硫黄原子を含む炭素鎖分子の電子スペクトルを観測し、その詳細を明らかにしたものである。また、レーザー励起蛍光分光法の適用の困難な分子や、それだけでは解析の困難な分子のスペクトルの観測の新しい手法として、フーリエ変換マイクロ波分光法と組み合わせた、全く新しい2重共鳴分光法を開発し、これら炭素鎖分子の解析に役立てることも行っている。

 論文は全体で6章からなり、第1章は一般的な導入に当てられている。ここでは炭素鎖分子の研究の背景、特に硫黄を含む炭素鎖分子のこれまでの研究に関して概観している。第2章は実験装置の説明に当てられており、レーザー励起蛍光法、超音速ビーム中に炭素鎖分子を効率的に生成するための手法などが説明されている。

 第3章は、本研究で開発された全く新しいタイプの2重共鳴分光法について詳細に記述している。この分光法は、パルスマイクロ波によって生成したコヒーレントな2準位から放出される自由誘導放出を検出しながら、そこに可視・紫外のレーザー光を照射し、このコヒーレンスが、レーザー光による遷移で壊されることを検出することにより、2重共鳴スペクトルを得るもので、原理的には100%の信号変化を起こすことのできる手法である。本論文では、CCSとC4Hの2種類の炭素鎖分子に対し、この2重共鳴分光法を試み、信号を観測するとともにこの手法の適用可能性について論じている。

 第4章は、硫黄を含む炭素鎖分子の一つであるCCSの可視スペクトルの観測と解析が記述されている。この分子は、暗黒星雲など様々な星間空間中にその純回転スペクトルが観測され、星間空間中での分子進化や、分子雲の成長過程をプローブする重要な分子として注目されている分子である。等電子価分子であるCCOとの対比から、可視領域に電子遷移があることが予測されていたが、ごく最近まで観測が報告されていなかったものである。本論文では、600-950nmの広い領域にわたりこの分子のスペクトルを観測し、励起状態の振電構造を詳しく明らかにしている。特に、レーザー励起蛍光分光法の適用が困難になるもっとも波長の長い領域で上述の2重共鳴分光法を有効に利用して精密な分子定数を決定して励起状態の振電構造を明らかにしている。また、変角振動の励起状態のスペクトルの解析から、電子励起状態に存在するRenner-Teller効果の詳細も明らかにしている。更に、これらの実験結果の解釈のため高精度の分子軌道計算も行い、比較している。

 第5章では、より炭素鎖の長い分子HC4Sの電子遷移を500nm領域に初めて観測したことが記述されている。この分子およびその重水素置換体DC4Sの回転構造まで分離したスペクトルを観測、解析し、分子種の同定を行うとともに励起状態の分子定数を精密に決定した。また、この領域のスペクトルが、より短い炭素鎖分子である、HCCSの400nmのそれに対応するものであることも明らかにした。

 第6章は、更に長い炭素鎖を持つ分子HC6SとDC6Sのスペクトルの観測が記述されている。HCCSとHC4Sの遷移の位置からの外挿から、これらの分子のスペクトルの位置を590nm付近と予測し、実際にその領域にスペクトルを観測し、精度の高い分子定数を決定した。観測された電子遷移の波長を、HCCS、HC4Sと共にプロットする事により、この系列ではそれらが炭素鎖の長さに比例していた。これは遷移に関与するπ-電子軌道が簡単な1次元自由粒子でよくモデル化できることを示している。また、この系列の分子では、炭素鎖が長くなると励起状態の無輻射遷移による緩和が系統的に早くなることを見いだした。これは、炭素鎖分子の電子励起状態のエネルギー緩和機構の解明の基礎データになると考えられる。

 このように、本研究は興味深い一連の炭素鎖分子を取り上げ、その詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。なお、これらの研究結果は、すでに3報の論文として印刷公表されている。第3章から6章まで内容は、遠藤泰樹、住吉吉英氏との共同研究であるが、いずれも提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

 よって本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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