学位論文要旨



No 116819
著者(漢字) 石川,佳寛
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,ヨシヒロ
標題(和) 縮環TTFスピン分極ドナーの合成とそのイオンラジカル塩の導電挙動
標題(洋)
報告番号 116819
報告番号 甲16819
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第377号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 教授 阿波賀,邦夫
 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 近年、優れた機能性を有する有機材料が相次いで報告されている。その中にあって、本研究は導電性と磁性との共存に着目し、有機物質としては世界的に前例のない伝導電子を介したスピン整列系の構築を目指している。

 このような物性を有する有機分子集合体の構成分子として、すでに、高い導電経路形成能を有するテトラチアフルバレン(TTF)骨格を組み込んだ、TTF系スピン分極ドナーが開発された。ドナー部とラジカル部とが「交差共役系」で連結されたこれらのドナーラジカルは、一電子酸化により正の交換相互作用を有するカチオンジラジカルを与えるという、特異な電子構造を有している。

 これまでに報告されてきたTTF系スピン分極ドナーは、一電子酸化して得られるカチオンジラジカルにおけるスピン間の相互作用が反強磁性的であったり(第一世代)、強磁性的であってもドナー部とラジカル部をつなぐスペーサーに配座の自由度があるため、カチオンジラジカル種の化学的安定性、結晶性に問題がある(第二世代)等の理由で、導電性を示す電荷移動錯体やイオンラジカル塩を調製するには十分なものではなかった。

 そのような背景のもとで遂行された本研究の目的は以下の通りである。

1)従来のTTF系ドナーラジカルの持つ問題点を克服すべく、ラジカル部を担うπ電子系がTTF骨格に縮環するような縮環型TTFドナーの合成法を確立する。

2)縮環型TTF系ドナーの電解結晶化条件を精査し、高い結晶性を有するイオンラジカル塩を調製し、その結晶構造を解明する。

3)得られたイオンラジカル塩において、金属的導電性を実現し、ラジカル部の不対電子と伝導電子との交換相互作用に関する知見を得る。

 上記の目的に沿って遂行された研究成果について、以下のように論述されている。

2.縮環型スピン分極ドナーの合成とその性質

 これまでに開発されてきたTTF系スピン分極ドナーの問題点を克服する上で、ラジカル部を担うπ電子系をTTF骨格に縮環させることが有効であろうとの発想のもとに、チエノ、ピロロ、ベンゾ縮環型スピン分極ドナー(ETTN, EPPN, ETBN)を設計し、その合成法を確立した(図1)。

 チオフェン縮環型ETTNの新合成経路として、アルドール縮合を用い、環の形成とホルミル基の導入を一段階で行う経路を考案し、ETTNを合成することに成功した。一方、ベンゾ縮環型のETBNについても、Diels-Alder反応を利用し、環の形成とホルミル基の導入を一段階で行う合成経路により、ホルミル基を有するベンゾジチオールケトンを多量に合成し、ETBNに導くことに成功した。さらに、開発した縮環型ドナーラジカルの中で、最も高い安定性を有するベンゾ縮環型に着目し、ドナー部のπ系を拡張したテトラチアペンタレン(TTP)骨格を含んだ誘導体TTPBNを設計・合成した。

 本研究により合成した縮環型ドナーラジカルETTN, EPPN, ETBNは、期待通り良好な化学的安定性と結晶性を示すことがわかった。また、塩化メチレンとのピリジンの混合溶媒を用い、自然蒸発法により、中性種の単結晶を得、これらの結晶構造を明らかにした。

 サイクリックボルタンメトリーにより、ETTN, EPPN, ETBN, TTPBNの酸化還元電位を測定したところ、それぞれ良好なドナー性有することが明らかとなった。また、一電子目の酸化がドナーから起こる「スピン分極ドナー」の性質を有することを確認した。

3.ベンゾ縮環型ドナーラジカル(ETBN)のイオンラジカル塩の結晶構造と非線形導電挙動

3-1.イオンラジカル塩におけるETBNの積層様式

 今回合成されたETBNは、スピン分極ドナーとして初めて、電解結晶化により単離可能の結晶性のイオンラジカル塩[(ETBN)2(ClO4)(1,1,1-TCE)0.5; TCE=トリクロロエタン]を与えることがわかった。しかし、結晶の質が悪く、X線構造解析が困難であったため、電解結晶化の条件を精査し、イメージングプレート検出器を用いたX線回折により、結晶構造の中で最も重要な導電性を担うドナーの並びに関する知見を得ることができた(図2)。

 結晶中で、ETBNは分子の長軸方向を一致させ、斜めに位置しているニトロニルニトロキシドの向きを互い違いにして、(1,-1,0)方向に積層している。隣のカラムでは、ETBNは長軸方向の向きを先のカラムと逆にして積み重なり、横方向に硫黄原子間で接触している。このことより、ETBNは(0,0,1)面にシート構造を形成していることが明らかとなった。カウンターアニオン、溶媒は、ドナーのシート間に挟まれて存在すると推察される。

3-2.ベンゾ縮環型ドナーラジカル(ETBN)のイオンラジカル塩の電気伝導度

 結晶の外形と導電性と対応を図るため、板状厚み方向と横方向の二方向について、電気伝電導度を測定したところ、ドナーのシート面を含んだ(0,0,1)面方向と考えられる横方向と、c軸方向に対応する厚み方向の室温電導度は、それぞれσ=7.2×10-3Scm-1,σ=1.1×10-6Scm-1であり、電気伝導方向に異方性があることを見出した。抵抗値の温度変化からそれぞれの活性化エネルギーは、Ea=0.052eV, Ea=0.075eVと求まった。さらにこのイオンラジカル塩の測定中、抵抗値が通電する電流値に顕著に変化する現象を見出した。(図3)

 このような非線形導電挙動を示す、ETBNイオンラジカル塩の加圧効果には興味が持たれる。

ETBNのイオンラジカル塩の電導度は、加圧に伴い向上し、かつ、活性化エネルギーが低下する傾向が確認されたが、圧力印加を8Kbarまで行った限りにおいては、金属相への転移は確認されていない。ダイアモンドーアンビルセルを用いた高圧測定が、今後の課題といえよう。

3-3.ベンゾ縮環型ドナーラジカル(ETBN)のイオンラジカル塩の非線形I-V特性

 ETBNのイオンラジカル塩で見出された非線形効果をより詳細に検討するため、高電圧の印加が可能な装置でI-V特性を測定したところ、電圧の印加に伴い、電流値は非線形的に上昇し、さらに一定の閾値を越えると、ある電圧付近で急激に電流が流れる現象を確認した(図4)。この変化は、低温側でより顕著である。各温度で得られたI-V曲線をJ-E曲線に換算したところ、測定温度によらず、電流密度J=1.0×10-3Acm-2付近で、導電挙動が変化することが明らかとなった。このことは、ある電流密度以上の電流を結晶に通電すると、試料の抵抗が高抵抗状態から低抵抗状態へとスイッチされることを示唆している。このスイッチングは、結晶構造から示唆されるETBN分子の四量体構造が、大電流の発生により解消され、より良導的な状態へと変化したためにおこると推察される(図5)。低抵抗状態(印加電圧100V)における電気的性質を検討するため、抵抗値の温度依存性を測定したところ、300Kから150K付近まで抵抗値が温度に殆ど依存しないことが確認された。この結果より、低抵抗状態は金属に近い状態であることが示唆される。

4.ベンゾ縮環型ドナーラジカル(ETBN)のイオンラジカル塩の電導度の磁場効果

 ETBNのイオンラジカル塩が示す磁気的性質および導電的性質を、外場印加により変調することを試みるに先立ち、対照化合物である局在スピンを持たないエチレンジチオテトラチアフルバレンとテトラシアノキノジメタンの分離積層型電荷移動錯体(ET-TCNQ)の導電挙動に対する磁場効果を検討した。ET-TCNQ錯体はETBNイオンラジカル塩と同様、パルス電圧の印加により、ある一定の閾値以上で低抵抗状態にスイッチされる。このスイッチングの閾値電圧は、磁場印加(5T)下では高圧側に有意にシフトすることが分かった。この結果は、ローレンツ力が原因となる横磁気抵抗(正の磁気抵抗)が測定されたと解釈することができる。これに対し、ETBNのイオンラジカル塩の磁場下での(5T)でのスイッチング電圧の閾値の変化量は、ゼロ磁場で測定したスイッチングの閾値の誤差範囲内に含まれており、磁場効果の有無について明確な結論は出せなかった。この実験結果は、少なくとも正の磁気抵抗効果が抑制されている、またはごく弱い負の磁気抵抗効果が存在する、ことを示唆するものである。ET-TCNQ錯体とETBNイオンラジカル塩における磁場印加効果の違いは、後者における不対電子の存在が主因である可能性があるが、正確な判断は、今後のより詳細な実験にゆだねられるべきであろう。

5.最後に

 本研究において、申請者は、まず、スピン分極ドナーという新しい電子構造を持つドナーラジカルを、導電性・磁性共存系の実現に適するように改良を加え、縮環TTF型ドナーラジカル(ETBN等)を設計・合成した。ついで、縮環型ドナーラジカル(ETBN)を用い、イオンラジカル塩を調製し、X線構造解析により、結晶内でのドナーラジカルの積層様式を明らかにした。また、結晶の電気伝導度測定の際に、抵抗の電流依存性を見出したことを契機として、高電圧による電荷注入法をこの試料に適応し、低抵抗状態(金属状態)を実現することに成功した。さらに、磁場印加の実験を通じ、負の磁気抵抗の可能性についても踏み込んだ考察を加え、不対電子を有するドナーラジカルのイオンラジカル塩における導電性と磁性の共存に関し、有用な知見を得た。

図1 縮環TTF型スピン分極ドナー

図2 ETBNイオンラジカル塩の結晶構造

図3 ETBNイオンラジカル塩の抵抗値の電流依存性

図4 ETBNイオンラジカル塩のI-V曲線

図5 電流誘起による低抵抗状態への変調

審査要旨 要旨を表示する

 近年、分子性物質の科学は目覚ましく発展し、優れた機能性を有する有機材料が誕生した。また、最近は特に分子性物質を用いた複合機能を有する系に関心が集まっている。その中にあって、申請者は導電性・磁性の共存に着目し、有機物質としては世界的に前例のない、伝導電子を介したスピン整列系の構築を目指している。申請者の属する研究室では、このような物性を有する有機分子集合体の構成分子として、すでに、高い導電経路形成能を有するテトラチアフルバレン(TTF)骨格を組み込んだ、TTF系スピン分極ドナーを開発している。ドナー部とラジカル部とが「交差共役系」で連結されたこれらのドナーラジカルは、一電子酸化により正の交換相互作用を有するカチオンジラジカルを与えるという、特異な電子構造を有する。申請者は、本論文の第一章において、従来のTTF系スピン分極ドナーの問題点として化学的安定性と結晶性が不十分であることを指摘し、ラジカル部を担うπ電子系がTTF骨格に縮環するような縮環TTF系ドナーを設計し、それを利用することの有効性を論述している。

 第一章を受け、第二章でにおいて申請者は、チオフェン、ピロール、ベンゼン縮環型のスピン分極ドナー(ETTN, EPPN, ETBN)を設計し、その合成法を考案している。

 注目すべきは、申請者が上記の三つの新しいドナーラジカル合成において、重要な中間生成物となるホルミル基を有する縮環型化合物を、新規な経路により、それぞれ効率よく得ているところである。また、各合成段階の最適条件を精査し、10段階以上に渡る合成経路により標的化合物の合成に成功した点は高く評価されよう。また、さらに高い安定性を有し、金属的な導電性が期待される、テトラチアペンタレン(TTP)骨格を含んだπ系拡張型ベンゼン縮環ドナーTTP-BNの合成にも成功している。申請者により開発された第三世代目ともいえる縮環型ドナーラジカルETTN, EPPN, ETBNは、期待通り、良好な化学的安定性と結晶性を有しており、それらの結晶構造も明らかとなった。

 これらの縮環型ドナーラジカルの電子状態は、サイクリックボルタモグラム,ESR(電子スピン共鳴)などの機器分析法を用いて評価され、「スピン分極ドナー」としての電子的要請を満たすことが証明されている。

 第三章において申請者は、スピン分極ドナーとしては初の結晶性のイオンラジカル塩であり、構造上の知見が得られていない[(ETBN)2(ClO4)(1,1,1-TCE)0.5; TCE=トリクロロエタン]に注目している。結晶構造を明らかにすべく電解結晶化の条件を綿密に検討し、テトラヒドロフランを添加溶媒とすることにより、良質なイオンラジカル塩の調製に成功した。この結晶は薄片状で、構造解析を行う上で困難なものであったが、イメージングプレート検出器の組み合わせを用いた4軸X線回折を用いて-150℃で測定を行い、まだ、完全な結晶構造解析には至っていないものの、導電性を議論する上で重要となるドナー配列様式を明らかにしている。この点は結晶構造と物性の相関を詳細に議論する上での大きな進展といえよう。

 三章後半部において申請者は、このイオンラジカル塩の電気伝導度の測定を行い、電流値により抵抗率が変化するという非線形伝導を見出している。この発見が、以下に続く物性研究の新規性に富むアプローチを可能にした契機となっており、特筆に値する。ところで、最近、「非線形的導電性を示す有機導電性物質が、電流誘起電荷注入により、抵抗値のスイッチングを示す」ことが報告されている。申請者は、この報告に着目し、このラジカルイオン塩について、電流誘起による抵抗値のスイッチングの可能性について検討することを思い立ち、産総研の十倉・熊井らの作成した装置を参考に、電位をパルス状に印加しうる測定装置を立ち上げている。この高電圧印加装置により測定したETBNイオンラジカル塩のI-V特性は、高電圧印加に伴い、通電電流が増加することを発見した。(45Kの測定では、試料に163Vを印加すると、約二桁の増加がある。)この過程を様々な温度で測定し、測定結果を電流密度と電場の強さに換算したところ、結晶内に通電される電流密度がJ=1.0×10-3Acm-2となったとき、抵抗のスイッチングが起こることから、電流誘起型のスイッチングが起こっていることを証明している。そのメカニズムについては、今後、分光法などを用いた裏付けが必要となろうが、スピン分極ドナーを構成分子としたイオンラジカル塩で初めて、電流誘起による電気伝導体の抵抗値のスイッチングを見出したことの意義は大きい。

 第四章において申請者は、導電性・磁性を併せ持つETBNのイオンラジカル塩の伝導電子と局在スピンとの交換相互作用に関する知見を得るべく、高電圧印加の装置を用いた手法により、抵抗値のスイッチングに関する外磁場の効果について検討している。まず、既に熊井、十倉により電流誘起のスイッチングが報告されている分離積層型電荷移動錯体ET-TCNQで、ローレンツ力が原因となる正の磁気抵抗が観測されることを、作製した装置で確認した上で、厚みのあるETBNのイオンラジカル塩を用いて磁場印加の実験を行い、スイッチング後の低抵抗領域での導電挙動が、磁場の印加により負の磁気抵抗を示すという興味深い結果を得ている。この結果は、有機物に導電性・磁性を担わせた系で互いの相互作用を確認した初めてのものであり、非常に新規性が高い。しかしながら、この測定は試料を劣化させるため、試料による依存性が大きく、確定的な結論を得るには、より詳細な実験結果を待たねばならないだろうと考察している。まだ、論文中で指摘されているような問題点はあるものの、局在スピンと伝導電子間の磁気的相互作用を明確にする上で重要な系を提供したといえる。

 以上、本研究において、申請者は、まず、スピン分極ドナーという新しい電子構造を持つドナーラジカルを、導電性・磁性共存系の実現に適するように改良を加え、縮環TTF型ドナーラジカル(ETBN等)を設計・合成した。ついで、縮環型ドナーラジカル(ETBN)を用い、イオンラジカル塩を調製し、X線構造解析により、結晶内でのドナーラジカルの積層様式を明らかにした。また、結晶の電気伝導度測定の際に、抵抗の電流依存性を見出したことを契機として、高電圧による電荷注入法をこの試料に応用し、低抵抗状態を実現することに成功した。さらに、磁場印加の実験を通じ、負の磁気抵抗の可能性についても踏み込んだ考察を加え、スピン分極ドナーを用いた有機磁性金属構築の可能性を示した。以上の成果は、申請者の優れた合成能力と、粘り強い努力、慎重な推論に基ずく検証実験の積み重ねによりもたらされたものであり、スピン分極ドナーを用いた導電性・磁性の共存系の構築に関し、これまでの研究を大きく進展をさせたと判断できる。

 以上のことから、審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位授与の対象として十分なものであると判定した。

ETBNイオンラジカル塩のI-V曲線

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