学位論文要旨



No 116821
著者(漢字) 犬井,洋
著者(英字)
著者(カナ) イヌイ,ヒロシ
標題(和) 2H−アジリンの新しい光化学反応 : 溶液中および極低温マトリックス中における機構的研究
標題(洋) Novel Photochemistry of 2H-Azirines : Mechanistic Studies in Solutions and in Low-Temperature Matrixes
報告番号 116821
報告番号 甲16821
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第379号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 瀬川,浩司
内容要旨 要旨を表示する

 光反応は励起状態から始まるが、多くの場合これから最終生成物にいたる過程においてマイクロ秒程度の寿命を持つ反応中間体と呼ばれる化学種が存在する。光反応を制御し、実用的な光反応を開発する道を拓いていく為には、この反応中間体に関する詳細な理解が必須である。近年著しく発展した物理化学的な手法を適用することにより、反応の道筋をより的確にたどることが可能となってきた。なかでも1950年代初めにNormanとPorterおよびPimentelらによって独立に開発された極低温マトリックス分離分光法は、1970年代になってChapmanらにより有機化学の分野に導入されて以来、多くの重要な化学種(ベンザインやカルベンなど)を直接観測し、この分野のみならず半導体を扱う産業界にいたる多くの分野の発展に貢献してきた。この手法は常温では不安定な化学種を極低温かつ不活性な媒体中に封じ込めることにより長寿命化を図り、分光学的にその構造や反応性を直接観測できるきわめて優れた手法である。しかしこの手法を有機反応に積極的に適用している研究者は少なく、将来的に大きく発展する可能性が十分にある。本論文では、この手法を用いた研究の一環として、アジリン化合物の光化学反応を調べた。この化合物を扱うに至る経緯は偶然的なものであったが、結果として2H-アジリンの新しい分解過程を見出すことができた。

3-メチル-2-(4-ニトロフェニル)-2H-アジリン(1)の光化学反応

 一般に2H-アジリン化合物を溶液中で光照射すると、C-C結合開裂により反応中間体としてニトリルイリドが生成し、これは電子欠損オレフィンと容易に1,3-双極性付加環化反応をして複素五員環ピロリンを与える。しかし、新たに合成された1の光分解反応を、溶液中での生成物解析および極低温マトリックス単離法による反応中間体の直接観測の結果に基づいて議論したところ、1は一般的なアジリンとは異なる反応性を示すことが判明した。1とアクリロニトリルの溶液をアルゴン又は酸素通気した後光照射(>300 nm)すると、いずれの場合もニトリルイリドを捕捉したような生成物は得られず、酸素通気したものについては4-ニトロベンズアルデヒド(2)とイソオキサゾリン(4)が、ほぼ1:1の割合で生成した。4は系内で発生したアセトニトリルオキシド(5)がアクリロニトリルによって捕捉されて生成したものと推定され、実際アクリロニトリル存在下で5を化学的に発生させると4が得られた。一方、1をアルゴンマトリックス中に単離し10Kで光照射(>300 nm)すると、1の減少に伴い、2046,1539,1111 cm-1に吸収を持つ化学種が生成した。この化学種はクムレン結合に帰属される伸縮振動を示すが、イリド(8)ではなくケテンイミン(9)において、DFT(B3LYP/6-31G(d))計算による振動解析と実測のスペクトルがよく一致することがわかり、C-N結合が開裂していることを示唆する結果が得られた。更に、20%の酸素を含むアルゴンマトリックス中の光反応では、1の減少に伴い、2と2334,1323 cm-1に吸収を持つ化学種が観測された。後者は、酸素同位体実験やDFT計算に基づいた検討の結果、アセトニトリルオキシド(5)であることが判明した。これらの観測から1の光分解機構についてまとめるとスキーム1のようになり、理論計算の結果からこの過程には励起三重項状態から生成する三重項ビラジカル(7)が関与していると結論した。また、この反応は有機合成化学において重要な中間体であるニトリルオキシドを溶液中で光化学的に発生させる唯一の方法であり、その観点からも注目することができる。

照射波長による1-ナフチルアジリン類の光化学反応性反応の制御

 3-メチル-2-(1-ナフチル)-2H-アジリン(20)をアルゴンマトリックス中に単離し10Kで光照射したところ、>300 nm光照射では20の減少に伴いニトリルイリド21(1942,1026 cm-1,λmax=377 nm)が生成し、366 nm光照射ではケテンイミン(22,2041 cm-1,λsh=320 nm)が生成した(図1、スキーム2)。このような波長依存的な光反応は溶液中でも観測され、>300 nm光照射ではピロリン20pが生成し、366 nm光照射ではアルデヒド20aと4が生成した。すなわち、20のアジリン環の結合開裂様式を励起波長によりほぼ完全に制御できることが判明した(表1)。増感照射実験の結果および理論計算から得られた20の電子構造に基づきこの波長効果について考察したところ、ナフチル部位とイミン部位にほぼ局在した励起状態S1(ππ*)とS3(nπ*)が、それぞれC-NとC-C結合開裂に関与していることが示された。

 この波長依存的光反応に対する置換基効果を調べる為にニトロ置換体25およびブロモ置換体26を合成し、それらの溶液中での光反応性を比較した。

 その結果を表1に示した。表1よりナフチルアジリン類はそれぞれ同様の生成物分布を示すが、結合開裂様式を制御する波長域には違いがあることがわかった。特に25には大きな違いが見られるが、これはニトロ基の置換により1nπ*の不安定化と1ππ*の低下を招くためであることが理論計算の結果から推測された。また365 nm光照射におけるアジリンの分解速度の違いが何に起因するものなのかを調べる為に、同一の光照射条件下で相対的な分解速度を調べた。得られた結果を吸収因子と結合開裂の量子収量の二つの因子の積として解析したところ、分解効率の違いは吸収因子に大きく依存した結果であり、導入された置換基による量子収量への寄与はほとんどないことがわかった。

ケテンイミンの生成機構

 極低温マトリックス中でアジリンに光照射するとケテンイミンの生成が観測されるが、これはC-N結合開裂に伴って生じるビラジカル(23この章ではt-BR)においてメチル基が転移して生成するものと考えられる。しかしアジリンからケテンイミンを生成するという反応例は少なく、詳細にその生成機構を検討した研究は報告されていない。

 まず溶液中での光反応を行いケテンイミンの単離および捕捉を試みたが、ケテンイミンが生成している証拠は全く得られず、酸素不在下ではアジリンは定量的に再生することがわかった。またナフチルアジリン20において三重項ビラジカル(t-BR)から一重項ビラジカル(s-BR)が熱励起により生成しそこからメチル基が転移したとすると非常に大きな活性化エネルギー(TS-1)が必要であることが理論計算による反応解析により確かめられた。そこで、この大きな活性化障壁を極低温下でのみ乗り越える反応の機構を調べる為に、ナフチルアジリン20を用いて各種の実験を行った。まず、極低温マトリックス中で発生させたケテンイミン22のIRバンドの生長速度に対するベンゾフェノンの添加効果および光量依存性を調べた。その結果、ケテンイミンは励起三重項経由、一光子で生成していることがわかった。次にマトリックスガスの効果を調べたところ、窒素を用いたときにケテンイミンの生成速度が約0.36倍に抑制されることがわかった。さらにナフチル部位ヘメチル基を導入した場合にも同様の効果が観測された。これらの結果はケテンイミンの生成過程においてホット分子(高振動状態にある分子)の関与を仮定したときに矛盾なく説明できるものであり、おそらく励起三重項状態から過剰なエネルギーをもって生成するt-BRがホット分子として反応に関与しているものと推測された(図2)。

 また、アジリン環は熱的にC-N結合を開裂する事が知られていることから、ナフチルアジリン20の熱分解反応についても行い光反応との違いを調べた。その結果、確かに20の熱分解ではC-N結合開裂に由来する生成物が得られたが、生成物分布は光反応の場合と全く異なっていた。これはC-N結合開裂によって生じるビラジカルのスピン多重度の違いに起因する結果であり、熱反応では一重項に由来する反応が支配的であり、平衡にあると考えられる三重項ビラジカルからの寄与は生成物分布に反映されないことが示された。

まとめ

 本論文において、2H-アジリン化合物の光反応について主に以下の知見を得た。1)光化学的にC-N結合が開裂する、2)照射波長により結合開裂様式を制御できる、3)酸素存在下でC-N結合が開裂するとニトリルオキシドが発生する、4)ケテンイミンは極低温マトリックス中で特異な生成物でありその生成過程にはホット分子が関与している、5)ケテンイミンはもちろんのことアルデヒドやニトリルオキシドは熱的なC-N結合開裂では得られない生成物である。

 これらの結果は、2H-アジリンの長い研究の歴史の中でこれまでには見出されなかった新規な知見であり、その機構を極低温マトリックス単離法を適用することにより詳細に調べることができた。

スキーム1.1の光分解機構

スキーム2.20の極低温マトリックス中の光反応

図1.a)366 nm光照射前後の差スペクトル、b)ケテンイミン22の振動解析、c)>300 nm光照射前後の差スペクトル、d)ニトリルイリド21の振動解析(計算スペクトル:B3LYP/6-31G(d))

表1.ナフチルアジリンの光反応における照射波長依存性

図2.20から22への反応過程に対して計算されたエネルギーダイアグラム(波線:マトリックス中の経路、実線:溶液中の経路)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなり、第1章では本論文における研究の背景の説明、第2章では2H-アジリンの新規な光化学的結合開裂反応の発見とその反応機構的な説明がなされており、第3章では照射波長の違いにより2H-アジリン環の結合開裂様式をほぼ完全に制御できることを示した結果とその考察が述べられている。さらに、第4章では極低温マトリックス中で観測された2H-アジリンの特異な光化学的転位反応の機構を解明した結果が述べられており、第5章では本論文で得られた結果が要約され、2H-アジリンの化学に対する本研究の重要性と有機反応化学の研究における極低温マトリックス単離法の有用性が述べられている。

 多くの光化学反応では、電子的に励起された反応基質から最終生成物に至る過程に、反応中間体と呼ばれる極めて寿命の短い化学種が存在する。光化学反応の機構的な研究においては、反応に介在する反応中間体に関する詳細な理解が必須になる。極低温マトリックス分離法は、反応中間体を極低温、不活性媒体中に封じ込めることによって長寿命化し、通常の分光学的方法で直接的に観測することを可能にした手法であり、有機化学的に重要な反応中間体の研究に大きな成功を収めてきた。本論文は2H-アジリンの新規な光化学反応の発見とその反応機構の解明について述べたものであり、その研究において極低温マトリックス分離法が有効に使用されている。2H-アジリンは2個の炭素と1個の窒素からなる三員環に炭素−窒素二重結合を含む極めて特異な構造を持つ有機分子であり、その化学的性質は古くから研究されている。第1章では、本論文で用いた反応基質である2H-アジリン、および研究の主要な測定法となった極低温マトリックス分離法に関する従来の研究が要約されており、本論文の研究が十分な調査に裏付けられたものであることが理解できる。

 2H-アジリンを光照射すると炭素−炭素結合が開裂して、反応中間体としてニトリルイリドが生成することが1970代から知られていた。この反応は、一般性も高く、有機合成化学的にも有用であるので、多くの有機化学者によって2H-アジリンの光化学が研究され、その機構も確立していた。ところが、本論文で新たに合成したアジリン環の2位に4-ニトロフェニル基を持つ2H-アジリンの光化学反応を、極低温マトリックス中、さらに室温溶液中で詳細に検討したところ、このアジリンに光照射すると炭素−窒素単結合が開裂し、反応中間体としてビラジカルを経由して反応が進行することが発見された。これは長い2H-アジリンの光化学の研究においても初めての例である。さらに、このアジリンの炭素−窒素結合が開裂して得られるビラジカルが酸素によって捕捉されると、有機合成化学的にも重要な反応中間体であるニトリルオキシドが発生することが判明した。第2章には、この2H-アジリンの新規な光化学反応を裏付ける実験事実が詳細に述べられており、さらにそのアジリンが特異な光化学反応性を示した理由について分子軌道計算に基づいた考察が加えられている。この章の結果は、すでに学術雑誌に速報として発表されて高い評価を受けており、このことからも、本論文の研究結果が学術的な新規性、重要性を持つことが理解できる。

 第3章においては、前章の結果と考察に基づいて、すでに炭素−炭素結合が開裂することが報告されている1-ナフチル誘導体の光化学的反応性について、改めて極低温マトリックス中、および室温溶液中において検討を加えた。この結果、このアジリンにおいても炭素−窒素結合が開裂することが判明し、しかもその開裂様式は照射に用いる波長によりほぼ完全に制御できることが判明した。光化学反応がこのような顕著な波長依存性を示すことは極めて稀なことであり、この結果もすでに、学術雑誌に速報として発表されている。さらに、この光反応を有機合成化学的にも有用なものとするために置換基の導入による光反応効率の向上を図り、また分子軌道理論に基づいた計算によりこの波長依存性がそれぞれの波長の光によって生成する励起状態の電子構造の差に由来することを明らかにした。これらの内容は、本論文が特定の有機化合物の新規な反応の発見を記述したものにとどまらず、一般的な有機反応化学の分野、さらには有機合成化学、理論化学等、他の研究分野にも波及するものとして高い評価が与えられた。

 前章の結果から、極低温マトリックス中で2H-アジリンに光照射すると炭素−窒素結合の開裂とメチル基の転位を経て、これも重要な反応中間体であるケテンイミンを与えることが判明した。この転位反応には大きな活性化エネルギーが必要であると推測されるにも関わらず、興味深いことに、この反応は室温溶液中では全く観測されない。第4章では、この極低温マトリックス中における2H-アジリンの特異な光転位反応の機構について、様々な実験的検討を加えた。その結果、この転位反応は一光子過程であり、「振動的に励起された反応性中間体」を経由して進行することを強く示唆する結果を得た。振動的励起分子は、現在、気相の光物理化学の分野で興味の対象となっている化学種であり、本章の結果はその分野の研究者にとっても重要な知見を与えるものと推察される。

 第5章に総括されているように、本論文に示された研究結果は、長い歴史のある2H-アジリンの光化学反応の研究において特筆すべき結果であり、さらに特定分野の学術的興味にとどまらず、他の研究分野へ広く波及するものである。この意味で、本論文は、全体として極めて完成度の高い研究であると評価される。

結び

 なお、既に学術雑誌に発表されている論文が、本論文の提出者と指導教官の二名の連名であることから容易に理解されるように、本論文中に記載された実験、計算、結果の解析は全て論文提出者が行なったものである。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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