学位論文要旨



No 116823
著者(漢字) 高木,拓明
著者(英字)
著者(カナ) タカギ,ヒロアキ
標題(和) 分化、進化、記号化 : 多成分反応拡散系による構成
標題(洋)
報告番号 116823
報告番号 甲16823
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第381号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 助教授 佐々,真一
 東京大学 助教授 池上,高志
 東京大学 教授 佐野,雅己
 北海道大学 助教授 中垣,俊之
内容要旨 要旨を表示する

 生物システムにおける普遍的な現象論を探る為、本論文は以下の様な3点に関して構成的な研究を行なった。

(1):断続平衡的分化過程と多様性維持メカニズム

(2):多成分反応拡散系における自己複製スポットの分化

(3):細胞状態の自発的分化を通した遺伝暗号系の進化

ここでは各部の概要について説明しておく。

(1)においては、多細胞生物の発生過程に一般的に見られる、次の二点、即ち

 ・ライフサイクルや変態といったボトルネック過程

 ・外部操作による発生過程の制御

を可能にする様な論理とは何か、と言う問題を扱った。ここでボトルネック過程とは、その前後で細胞数、細胞タイプの大幅な減少と増加を伴う過程を指すとする。そこでは細胞を、沢山の安定状態を始めに持つようなシステム、そして発生過程を、細胞が増殖していく中で、相互作用による状態の選択、生成を通じて実現する安定状態が階層的に固定化されていく過程、と見做し、上記の二点を以下の様な問題設定に読み換えて細胞増殖過程を調べた。

 ・準安定な関係性が成立した後に自発的に不安定化して別の準安定状態へ遷移する、といった状況が実現可能か。もし可能なら、細胞増殖過程においてその様な段階を伴わなければならない論理とは何か。

 ・外部操作によって複数の異なる安定状態を実現する事は可能か。もし可能なら、特定の状態を安定に実現し得る操作の論理とは何か。

その結果、細胞内ダイナミクスが相対的に長い過渡状態を持つ場合に、細胞数が増加するに伴い細胞が自発的に分化して準安定多種共存状態を形成し、その後自発的に状態が不安定化して別の準安定状態に遷移する過程がほぼネットワークの性質に依らず見出された。そしてそれは、細胞タイプの可塑性と多様性の減少を伴う、以下の様なフィードバックメカニズムである事が示された。

「細胞分化が進行し、準安定状態が実現する中で、次第に可塑性の低い、"固い"少数の状態が蓄積して来る。それに伴い、リソースを巡る競合が激化し、やがて部分的なタイプの絶滅が起こって、系の多様性が激減する。その結果、リソースを巡る相互作用の状態が激変し、残っている細胞タイプの細胞内状態が可塑性の高い、"柔らかい"過渡状態に変化する。それによって、新たに多様性の高い分化状態が再形成されていき、やがて別の異なった準安定状態が実現する。」

そして、この様な動的な変化を遂げる系に操作を加える事で、どのような状態が実現されるかについて、最も単純な操作を用いる事で調べ、状態の動的な固定化やその不安定化が可能である事を見た。

 (2)においては、反応拡散系において、自己複製しつつ分化も行なうコンパートメント構造の自発形成は可能か、と言う問題を扱った。それに答える為、ここではコンパートメントとしてスポット構造を考え、自己複製スポットを形成し得るGray-Scottモデルを多成分の反応ネットワークを含む形に拡張したモデルを採用して研究を行なった。そして様々な反応ネットワークに対して数値的に調べた結果、モデルの振舞いは大きく以下の三種類に分類され、分化するスポットが存在する事が分かった。

 ・ホモジニアスな固定点スポットの自己複製パターン

 ・多成分が振動するスポットの自己複製パターン

 ・'多能性'スポットから分化するパターン

この'多能性'スポットにおいては、自己複製するか、他の固定点スポットに分化するかのどちらかの現象が起こり、結果として、分化したスポットパターンが見出された。このスポットの分化過程を、化学成分の多様性とKSエントロピーの減少という観点から分析し、更に分化スポットパターンのマクロな摂動に対する安定性を調べた。生物の発達過程への関連性、そして、生物の原始進化における、空間パターンの重要性についても最後に触れている。

 (3)においては、遺伝暗号系の進化を、細胞の生理状態に依拠した形で捉える事は可能か、と言う問題を扱った。ミトコンドリアでの変則暗号の発見以来、遺伝暗号系が、その機能的重要性にも関わらず進化し得るメカニズムついて注目が集まっているが、遺伝子側からの一元的な規定状況として遺伝暗号系を捉えた場合には、その変化は生物にとって致死的なものとなり、進化不能であるからである。そこでここでは、細胞の生理状態に依拠した形で遺伝暗号系を捉える事を考え、遺伝情報からアミノ酸を合成するのに使用される酵素の選択の問題として、その進化を扱う立場をとった。そして以下の様な遺伝暗号系進化のシナリオを提案し、そのモデルシュミレーションを行なう事で、そのシナリオを確証した。

遺伝暗号系進化のシナリオ:

「細胞の生理状態の分化が、使用されるアミノアシルtRNA合成酵素(ARS)の選択の分化を許容し、その差異が進化を通じて遺伝型にも固定化されていく。」

具体的には、代謝成分、代謝酵素、ARS、tRNA−アミノ酸複合体と言う、四つの構成要素を持つ細胞モデルを構築し、数値実験を行なった。その結果、細胞間相互作用によって細胞の生理状態が分化し、異なる細胞タイプが異なるARSを使用するようになる状況が生まれ、その後、突然変異と淘汰を含む進化過程を通じて、この暗号系の差異が増幅され、安定化される過程が見出された。以上の暗号系進化のシナリオから予想される、ミトコンドリアの変則暗号の起源と細胞内共生の関係について触れた後、今後の課題として、情報化成分の出現と進化可能性の問題についても最後に触れている。

審査要旨 要旨を表示する

 発生過程における分化、形態形成、さらには種の分化、遺伝情報への記号化を、相互作用力学系の示す一般的性質としてとらえようという試みが複雑系生命科学として研究され始めている。高木氏の論文は、力学系として反応拡散系を基にしてそれを拡張することで上記のような生命系の性質への現象論を追求したものである。

 論文は4部17章170ページからなる。まず第一部では生命の普遍的構造を構成的手法で追及するという当論文の立場が導入され、それに基づき、以下

第2部−−断続平衡的分化過程と多様性維持メカニズム

第3部−−多成分反応拡散系における自己複製スポットの分化

第4部−−細胞状態の自発的分化を通した遺伝暗号系の進化

が議論される。

 第2部の主題は発生や進化において、各要素(細胞)の状態の可塑性とその集団の安定性が時間と共にどう変化するかである。例えば、細胞分化においては高い可塑性を持つ細胞からそれを失った細胞があらわれ、共存している。さらには生活環や変態でみられるように細胞集団の性質が大きく変化しそれとともに細胞の状態も変化する。

 この問題を調べるために、まず細胞個々の化学成分のダイナミクスとして、"成分空間"上の反応拡散系という、新しいモデル設定を考案し、その定性的な性質がまず議論される。この系は多くのアトラクター(吸引される安定状態)を持ち、その数が成分数と共にべき乗(べきは1以上)で増えることが示される。

 ついで、それぞれがこのダイナミクスを有する細胞をとって、この細胞が増殖し相互作用するモデルが調べられる。その結果、細胞間相互作用がある程度以上強い場合、細胞数の増加に伴って細胞が自発的に分化して、数種の細胞タイプからなる準安定多種共存状態が形成され、さらには、その後この集団の状態が不安定化し、以前とは異なった種類の細胞タイプからなる準安定状態に遷移する現象が見出される。この遷移は時間と共に繰り返される。ついで、この解析のために、まず細胞状態の可塑性、つまり変化のしやすさが、細胞単独でのアトラクターからのずれとしてほぼ表現されることが示される。このアトラクターからの歪みの時間変化を調べることで、上の遷移過程が以下のようなフィードバックメカニズムによると推論される。

「細胞分化が進行し、準安定状態が実現する中で、次第に可塑性の低い、"固い"少数の状態が蓄積して来る。それに伴い、資源を巡る競合が激化し、やがて部分的なタイプの絶滅が起こって、系の多様性が激減する。その結果、資源を巡る相互作用の状態が激変し、残っている細胞タイプの細胞内状態が可塑性の高い、"柔らかい"過渡状態に変化する。それによって、新たに多様性の高い分化状態が再形成されていき、やがて別の異なった準安定状態が実現する。」

 第2部の後半では、この系に簡単な操作を加える事で、可塑的状態の固定化や不安定化が可能であることが示される。さらに、この細胞集団系にパラメータの変化として突然変異を導入して、表現型の分化が遺伝型へ固定化されることを確認し、この進化過程が、状態の可塑性の減少として特徴づけられることを見出している。これらの結果と多細胞生物の発生過程やその制御可能性などとの関連を議論して第2部は終えられる。

 第3部では、自己複製しつつ分化も行なうコンパートメント構造の自発形成の問題が、Grey-Scottによる反応拡散モデルを多成分反応ネットワークに拡張することで扱われる。様々な反応ネットワークに対して数値的に調べた結果、モデルの振舞いは

(i)一様な固定点スポットの自己複製パタン

(ii)多成分が振動するスポットの自己複製パタン

(iii)'多能性'スポットから分化するパタン

に分類される。特に最後の分化スポットパタンでは'多能性'スポットが自己複製するか、他の固定点スポットに分化するかのどちらかの現象が起こる。これは反応拡散系では始めて見出されたものであり、その分化過程は、化学成分の多様性とカオスの度合の減少という観点から解析されている。

 第4部においては、遺伝暗号系の進化が細胞の生理状態に依拠した形で調べられている。純粋に記号としての遺伝子を考えると、致死にならずに暗号系を変えるよう進化させるのは困難に思えるが、一方でミトコンドリアのように普遍暗号と異なる暗号を持つものも見出されている。そこで、ここでは遺伝情報からアミノ酸を合成するのに使用される酵素の選択の問題を力学系の立場でモデル化して調べている。その結果

「細胞の生理状態の分化が、使用されるアミノアシルtRNA合成酵素の選択(つまり遺伝暗号系)の分化を許容し、その差異が進化を通じて遺伝型にも固定化され、遺伝暗号系の多義性が消失していく。」

というシナリオが見出される。このシナリオはミトコンドリアの変則暗号の起源と細胞内共生の関連を示唆する新しい考え方である。

 このように、高木氏はその論文において、力学系の立場から生命システムの持つ可塑性の変化に関して、いくつかの新しい結果と考え方を与えている。特に第2部での、可塑性変化と集団の大規模変化は発生や進化を考える上で示唆的である。細胞分化においては古澤、金子らによる力学系モデルがあるが、これがカオス系をベースとしたものであるのに対し、高木氏のモデルは多重安定状態を持つ系をベースにしている。それゆえに多種共存を可能にし、また長時間での集団の遷移という新しい現象の発見が行われている。特に、与えられた可塑性と多様性の変化のシナリオは興味深いものである。ただし、このシナリオの証明、そして見出された現象の理論解析を与えるには、今後調べるべき点も山積している。とはいえ、上のような例をはじめて明示したのは理論生物学への大きな寄与と考えられる。

 なお、本論文の第3部については1篇の論文が出版され他1篇が印刷中、第4部に関しては1篇の論文と1篇のプロシーディング論文(査読つき)が出版されている。この4篇の他に、主要部をなす第2部については順次3篇の論文として投稿準備中である。

 以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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