学位論文要旨



No 116834
著者(漢字) 北條,泰嗣
著者(英字)
著者(カナ) ホウジョウ,ヤスシ
標題(和) 海馬における新しいニューロステロイド合成機構の研究
標題(洋)
報告番号 116834
報告番号 甲16834
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4097号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 教授 豊島,近
 東京大学 教授 桑島,邦博
 東京大学 教授 佐野,雅己
内容要旨 要旨を表示する

 ステロイドホルモン(steroid hormone)は、一般に、末梢のステロイド合成器官(副腎皮質・生殖器官)において合成され、血流を通じて標的器官に作用する。全てのステロイドはコレステロールが代謝されることにより合成される。ステロイドの標的器官の一つとして重要なものに脳神経系が考えられており、その情報処理機構にさまざまな影響を与えることが研究・報告されている。たとえば、ステロイドの一つである硫酸プレグネノロン(pregnenolone sulfate, PREGS)、あるいは硫酸デヒドロエピアンドロステロン(dehydroepiandrosterone, DHEAS)をマウスの海馬領域に注入することにより逃避学習(footshock active avoidance training)の効率が上昇することが知られている。また、ウズラなどのある種の鳥類の雄においては、脳において性ホルモンが作用することで雄特有の神経回路が発生し、これにより雄特有の鳴き声を学習できるようになるとの報告もある。細胞生物学的研究として、PREGSはNMDA受容体の開口確率を上昇させ、細胞内へのCa2+流入量を増やすことで長期増強(long-term potentiation, LTP)を増強することが知られている。このように、ステロイドホルモンは、脳神経系の情報処理に影響を与える重要な分子であることが示唆されている。記憶・学習以外にステロイドが神経系に与える作用として神経細胞死の抑制効果がある。たとえば、培養海馬神経細胞にデヒドロエピアンドロステロン(dehydroepiandrosterone, DHEA)およびDHEASを投与すると、興奮性のグルタミン酸による神経細胞死を防ぐ効果があることが報告されている。女性ホルモン17β−エストラジオール(estradiol)にも、マウスの海馬神経細胞の細胞死を防ぐ効果があることが報告されている。以上のような効果は通常、末梢のステロイド合成器官で合成されたステロイドが血流を通じて脳神経系に作用すると考えられてきた。

 一方、1981年にBaulieuらによって、ステロイドの一つであるDHEAが、成熟ラットの脳内に血中よりも高い濃度で存在し、かつ、副腎皮質や生殖器官といった、末梢のステロイド合成器官を摘出(adrenolectomy, gonadolectomy)した後も、脳内においてはその濃度が減少しないことが見出された。これに続き、PREGやプロゲステロン(progesterone, PROG)といったステロイドも脳内に血中よりも高い濃度で存在することが報告された。この十年間の研究によって、末梢の神経系のグリア細胞(シュワン細胞)がPREGやPROGを合成して、これらがミエリン鞘を形成する過程を誘導することが示されるなど、脳や末梢の神経系において血中よりも高い濃度で存在するステロイドをニューロステロイド(neurosteroid)と呼ぶようになった。

 しかしながら、脳においては、ステロイド合成酵素の細胞における局在、および、ステロイド合成活性を持つ脳の細胞種を特定することについて、先行研究ではいずれも成功していないなど、脳内でのニューロステロイドの合成機構は、不明の点が多い。

 川戸研究室では、記憶・学習の中枢である海馬において、ステロイド合成反応の最初の段階である、コレステロールをミトコンドリアに輸送するStAR(Steroidogenic Acute Regulatory Protein)と、コレステロールからPREGを合成するcytochrome P450sccとが、ラットの海馬に存在することを発見した。このことから、海馬においても末梢のステロイド合成器官と同じく、ステロイド合成酵素が存在し、そこでステロイドが合成されている可能性が高いことが明らかにされつつある。しかしながら、PREGSやDHEAは、海馬で合成されていることはまだ示されていない。また、今までの研究で存在が報告されているニューロステロイドはコレステロールから1、あるいは2段階の代謝を経たステロイドに限られている。女性ホルモンestradiolを初めとする性ホルモンは、上で述べたように、神経系に対して重要な作用を及ぼすことが報告されているにもかかわらず、それが脳や海馬において合成されるニューロステロイドであるとは考えられていないのが現状である。

 本研究では、記憶・学習中枢のラット海馬を用い、Western blottingを行ない、ラットの海馬にPREGに硫酸基を付加してPREGSを産生する水酸化ステロイド硫酸基転移酵素(sulfotransferase)、DHEA合成酵素であるcytochrome P45017α(P45017α)、及び、女性ホルモン合成酵素cytochrome P450 aromatase (P450arom)が存在することを証明した。検出されたタンパク質のバンドの光量を比較すると海馬でのP45017αとP450aromのタンパク質量は、生殖器官の約1/200であることもわかった。

 さらに、海馬の凍結切片を用いて、sulfotransferase、P45017α、P450aromに対する免疫組織染色を行い、これらの酵素が局在する細胞種を特定した。その結果、sulfotransferase、P45017α、P450aromは、錐体神経細胞層および顆粒神経細胞層に局在しており、グリア細胞にはほとんど存在しなかった。これまでに神経系でステロイドを合成するのは、グリア細胞と考えられており、かつ、脳ではなく末梢のグリア細胞(シュワン細胞)についての研究が多かった。本研究の結果は、海馬においてはステロイド合成を行うのは、神経細胞であることを示した初めての報告である。このことから、脳においてはステロイド合成を行うのは主として神経細胞であることが示唆される。

 また、PREGを放射性標識して、これを基質として海馬組織に代謝させてDHEAが合成されることを高速液体クロマトグラフィー(High Performance Liquid Chromatography, HPLC)を用いて証明した。Western blotting、免疫組織染色の結果とこの結果から、DHEAが脳内で合成されていることを証明することができた。次に、放射性標識したDHEAを基質としてDHEAの下流のステロイドである性ホルモンの合成を解析した。その結果、アンドロステンジオン(androstenedione, AND)、男性ホルモンであるテストステロン(testosterone, TEST)、女性ホルモンであるエストロン(estrone)およびエストラジオール(17β-estradiol, estradiol)もラット海馬において合成されることを証明した。このことから、海馬においては、コレステロールから性ホルモンにいたるステロイド合成経路が完全に存在していることがわかった。

 最後にこれらステロイドのうち、PREGS、DHEA、estradiolについてラジオイムノアッセイ法(Radio Immunoassay, RIA)を用いて、海馬におけるステロイド量を定量した。その結果、各ステロイドの海馬における濃度は、PREGSが28.2nM、DHEAが1.67nM、estradiolが0.64nMであった。estradiolについては、先行研究で報告されている生理的な活性を持つのに十分な量だけ存在することがわかった。海馬においては、ステロイド合成を行うのは神経細胞であることと、ステロイド合成酵素で染色された部分の面積は海馬全体の1/10以下と判定できることから、これらのステロイドの局所濃度は10倍程度高いと考えられる。局所濃度を考慮すると、PREGSについても、生理的な作用を持つのに十分な量だけ存在していることがわかった。また、NMDA刺激によって、PREGS、estradiolのネットの(正味の)合成が行われていることを示した。

 このことと、上に述べたNMDA受容体に対するステロイドの作用を合わせると、海馬において合成されたステロイドは、合成された神経細胞近傍の局所的な神経回路に作用して、脳の情報処理を制御することが示唆される。血流を通じて輸送されたステロイドが作用する内分泌作用に比べて、このようなステロイドの局所的な合成と作用機構は、これまでにステロイド合成器官において研究されてきた、内分泌によるステロイドの作用機構とは全く異なる新しい作用機構を示唆するものである。

 以上より、PREGS、DHEA、estradiolというステロイドが海馬神経細胞において局所的に合成されるブレインステロイド(本研究では、脳で合成されたステロイドをブレインステロイドと呼ぶ。)であることを発見した点が、本研究の意義といえる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究の目的は、海馬におけるステロイドの合成機構を研究することである。本論文は、4章からなり、内容は、1章が序論として、先行研究の紹介と本研究の目的、2章が本研究で用いた実験手法、3章が実験結果、4章が本研究の意義と実験結果の考察である。

 本研究で解析したステロイド、硫酸プレグネノロン(PREGS)、デヒドロエピアンドロステロン(DHEA)、女性ホルモンエストラジオール(estradiol)は、記憶・学習能の向上・神経細胞の保護などの脳神経系への作用が報告され、注目されている。ステロイドは、末梢のステロイド合成器官で合成されるが、近年、一部のステロイドが脳に存在することが知られ、脳自身がステロイドを合成するのではないかと考えられている。しかし、脳がステロイドを合成すること、特にDHEAの合成については、20年以上にわたって証明されてこなかった(本論文1章)。論文提出者は、記憶・学習の中枢である海馬を用いて、海馬にDHEAを合成する能力があることをはじめて証明し、さらにPREGSやestradiolも海馬で合成されることを発見した。また、これらのステロイド合成が行なわれるのは神経細胞であることも証明した(本論文3章)。

 まず、論文提出者は、PREGS、DHEA、estradiolの合成酵素sulfotransferase、P45017α、P450aromが海馬に存在することをWesternblottingにより証明した。海馬に存在するこれらの合成酵素は、ステロイド合成器官に存在するものと同じ酵素であることが示唆された(本論文3章 3-1)。

 次に、sulfotransferase、P45017α、P450aromの局在を調べるために、海馬凍結切片を用いて、これらの酵素に対する免疫組織染色を行なった。その結果、これらの酵素はいずれも海馬神経細胞に局在しており、グリア細胞にはほとんど存在しなかった。本研究により、ステロイド合成を行なうのは神経細胞であることが発見された(本論文3章 3-2)。

 さらに、海馬に基質ステロイドを代謝させ、代謝産物を高速液体クロマトグラフィー(HPLC)により分離・同定した。その結果、海馬においてはDHEAおよびその下流の性ホルモンである、estradiolやテストステロン(男性ホルモン)といったステロイドも合成されることがわかった(本論文3章 3-3)。脳においてDHEAの合成活性を示したのは本研究が初めてである。また、20年以上にわたって、脳におけるDHEAの合成活性が証明されてこなかったために、その下流のステロイドについても、脳においては合成されないというのがこれまでの定説であったが、本研究によりDHEA下流のステロイドについても脳において合成されることが示された。

 最後に、海馬におけるステロイドを、ラジオイムノアッセイ法(RIA)を用いて定量した。その結果、海馬におけるPREGS、DHEA、estradiolの濃度は、いずれも、血中よりも高かった。また、興奮性の神経伝達に関与する、NMDAを海馬組織に投与した結果、PREGS、estradiolの濃度が海馬全体で2倍以上に増強された。この増強は30分以内という短時間でおこる。この結果、海馬におけるステロイド合成は、NMDAで駆動されることがわかった。このときのPREGS、estradiolの神経細胞における局所濃度は、記憶・学習能の向上などを起こすとして報告された濃度に達していることがわかった(本論文3章 3-4)。このことから、脳においては、脳自身が合成したステロイドが、近傍の神経細胞に作用することが強く示唆された(本論文4章)。

 本研究の意義を要約すると以下のようになる。20年以上にわたり証明されてこなかった、脳におけるDHEA合成とその下流の性ホルモンの合成を証明した。この結果、脳で合成されるのは、一部のステロイドに限られるというこれまでの理解が覆され、性ホルモンに至る全てのステロイドが脳で合成されるという理解に一変したという点において、画期的な意義がある。また、ステロイド合成が行なわれるのはグリア細胞ではなく、神経細胞であることを発見したこともこれまでの理解を覆す結果であり、意義がある。これにより、論文提出者は、神経生物物理学上、重要な貢献をしたものと認められる。なお、本論文3章 3-2は、木本哲也、3-3は、榎並太平・鈴木久美子、3-4は、木本哲也・太田陽一郎・釣木沢朋和との共同研究(以上、共同研究者は全て本学川戸佳研究室に所属)であるが、論文提出者が主体となって実験・解析を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。よって審査員一同、博士(理学)の学位を授与するのにふさわしい研究であると判断した。

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