学位論文要旨



No 116836
著者(漢字) 山下,太郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,タロウ
標題(和) HERAでの電子陽子深非弾性回折散乱における、3ジェット生成の研究
標題(洋) Study of Three-jet Production in ep Diffractive Deep Inelastic Scattering at HERA
報告番号 116836
報告番号 甲16836
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4099号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉本,章二郎
 東京大学 教授 小林,富雄
 東京大学 助教授 永江,知丈
 東京大学 教授 中川,貴雄
 東京大学 助教授 川本,辰男
内容要旨 要旨を表示する

 ハドロン同士の衝突における全断面積が、重心系エネルギーの関数として、高いエネルギーでは緩やかに大きくなることを説明するために、レッジェ理論では真空の量子数を持ったポメロンという仮想粒子が導入される。ポメロンはハドロン衝突において、弾性散乱あるいはハドロンのうち一方が複数のハドロン粒子に変化するような回折反応において研究されており、ポメロンがパートンからなるハドロンの様な粒子であると考える(レゾルブドポメロンモデル)ことが可能であることが示唆されてきた。一方HERAにおける電子陽子衝突実験において、通常の深非弾性散乱とは違って、陽子の前方方向と検出器内で観測された主要なエネルギーとの間に、エネルギーが観測されない事象が、深非弾性散乱において観測されており、深非弾性散乱事象の内、約5%を占める。これらの事象は仮想光子と陽子の間にカラー1重項の状態が交換されている過程と考えられ、特に高エネルギーではポメロンが交換されていると思われる。この事象は深非弾性回折散乱と呼ばれている。深非弾性回折散乱はポメロンのクオーク成分を仮想光子で見ている、と考えることができるので、ポメロンの構造を探るうえで、強力な機会となった。深非弾性回折事象の包括的断面積がZEUS、H1グループによって測定された。その結果、さまざまな光子の4元運動量移行やハドロン終状態質量において、断面積が、交換されるカラー1重項状態の陽子運動量に対する部分運動量に対して、同じ依存性を示すことがわかった。これは、断面積が、陽子のなかのポメロンの流れと、ポメロンと光子との衝突の部分とに分けて書けることを意味し、カラー1重項の状態がその意味で粒子のように扱えることが示された。後者の部分は、ポメロンの構造を示す部分と考えられる。そこでこの部分に対して、量子色力学の発展方程式を用いて、ポメロンの中のパートン分布が調べられた。グルーオンがポメロンの全運動量の80%以上を担う(グルーオン優勢なポメロン)という結果が得られている。

 一方、深非弾性回折散乱のモデルとして、ダイポールモデルと呼ばれる別のモデルが提唱されている。このモデルでは、反応は、光子が陽子と衝突する前にクオーク、反クオーク(qq)状態(qqダイポール)、あるいはクオーク、反クオーク、クルーオン(qqg)状態(qqgダイポール)になり、それが陽子と衝突する、という形で記述される。ダイポールと陽子との衝突の断面積は陽子のなかのグルーオン分布を用いて表せる。陽子のなかのグルーオン分布として、回折反応でない反応も含めた包括的深非弾性散乱の断面積から求まるものを用いて調べると、回折反応の断面積が良く記述出来ることが分かっている。

 これらのモデルは回折反応の断面積を良く記述するが、さらに調べるためには反応の終状態を調べる必要がある。前者のモデルでは、グルーオンが多いため、断面積への主な寄与はグルーオンが光子と反応し、クオークと反クオークが生まれる過程である。このとき、グルーオンがポメロンから取り去られたあとに、ポメロンの残り(ポメロンレムナント)がポメロンの方向に放出される。ポメロンレムナントも、グルーオンであると考えられる。したがって、終状態は3つのパートン(qqg)からなり、終状態パートンの重心系において、グルーオンがポメロンの方向に沿って出ることが予想される。ダイポールモデルでは、終状態のパートンは、光子のどのような状態が陽子と反応するかによって、qqあるいは、qqgであるが、高い終状態質量では、同様に、qqgが優勢で、かつグルーオンは終状態パートンの重心系においてポメロンの方向に沿って出ることが予想されている。

 e+e−実験において、終状態ハドロンの質量が20GeV以上の領域では、e+e−→qqgにおけるqqgからの3つのジェットが観測されている。そこで、終状態ハドロンの質量が十分高ければ、深非弾性回折散乱におけるqqgが直接ジェットとして観測できる可能性が期待される。3ジェットを調べることで、パートンの反応のダイナミクスを直接調べることができる。そこでこの解析では、深非弾性回折散乱における3ジェット事象を、qqgパートンを調べる目的で研究した。

 具体的には、例えば、3ジェット事象でのジェット生成の微分断面積をジェットの光子−ポメロン軸からの角度の関数として、求めた。また、一般に同じエネルギーのジェットを比べると、グルーオンからのジェットはクオークからのジェットに比べて、ジェットシェイプが太いことが分かっている。両方のモデルはqqg終状態のグルーオンがポメロン前方方向に放出されることを予想していることに着目し、ジェットの親パートンがクオークであることが多いかグルーオンであることが多いかを調べる目的で、ジェットシェイプをポメロン前方のジェットと光子前方のジェットに対して別々に測定した。

 ジェットはハドロン終状態の重心系においてkT構成法を用いて構成した。解析にはZEUS実験において1998年から2000年に取得された42.3pb-1のデータを用いた。3パートンをジェットとして観測するために、高いハドロン終状態質量(Mx)の領域(23GeV<Mx<40GeV)を選び、仮想光子の4元運動量の2乗(Q2)は深非弾性領域の領域5<Q2<100 GeV2、かつ終状態が実験室系においてあまりブーストされていない運動学領域を選んで測定を行った。回折事象の条件として、検出器の陽子前方方向にエネルギーが観測されないことを要求した。さらに、回折事象の条件の測定に対するバイアスをなくすため、全てのジェットが、実験室系で検出器の中に十分に入っていることを要求した。これらの事象選択の結果、940個の3ジェット事象が観測された。

 主な結果を述べる。ジェットの擬ラピディティー〓を、終状態の質量重心系でポメロン方向から測ったジェットの角度〓を用いて、〓と定義する(〓>0がポメロン方向の半球を表している。)。1イベントについての3つのジェット全てを含んでいる。図1は3ジェット事象における、〓に関する、ジェット生成の微分断面積である。1イベントについての3つのジェット全てを含んでいる。測定されたジェット断面積はグルーオン優勢なレゾルブドポメロンモデル、ダイポールの予測と比べると約15%多かった。分布の形はだいたいこれらのモデルで予測される形と一致していた。また、測定値はクオーク優勢なレゾルブドポメロンモデルと比べると3倍ほど多くこのモデルでは説明できなかった。これはレゾルブドポメロンモデルの枠組みのなかで、グルーオン優勢なポメロンを支持する結果である。

 図2はジェットシェイプをジェット軸からの角度を関数として最もポメロンの方向のジェットと最も光子の方向のジェットについて別々に測定した結果である。最もポメロンの方向のジェットと最も光子の方向のジェットは同じようなエネルギー分布であったので、直接シェイプを比べられる。最もポメロンの方向のジェットは最も光子の方向のジェットに比べて太い、という結果が得られた。また、測定結果はqqg終状態のグルーオンがポメロン前方方向に放出され、クオークのうち一つが光子前方方向に放出される、これらのモデルによってよく記述できた。この結果は、高い終状態ハドロン質量の電子陽子深非弾性回折散乱における3体終状態において、終状態パートンqqgのグルーオンがポメロン前方方向に放出される、という描像を支持するものである。

 先に述べた断面積の測定と合わせて、本研究は深非弾性回折散乱における3ジェットの研究をはじめて定量的に行い、グルーオン優勢なレゾルブドポメロンモデル、ダイポールモデルによってある程度定量的に記述できることを明らかにするとともに、ポメロン前方方向のグルーオンを可視的に捉えることができた。

図1:ジェットの擬ラピディティーに対する微分断面積。

実線がグルーオン優勢レゾルブドポメロンモデル、点線がクオーク優勢レゾルブドポメロンモデル、ドット線がダイポールモデルの予測値。

図2:ジェット軸からの角度の関数として測定したジェットシェイプ、黒点は最も光子方向のジェット、白抜きは最もポメロン方向のジェット。

RAPGAP、SATRAPの線はそれぞれ、レゾルブドポメロンモデル、ダイポールモデルの予測値。

審査要旨 要旨を表示する

 本論分は9章からなり,第1章はこれまで行われてきた関連する研究の歴史と,本研究の目的について述べられている。第2章では,レッジェ理論,回折散乱過程とポメロンについての解説,深部非弾性回折散乱での運動学や回折構造関数等の説明,理論模型としてリゾルブド・ポメロン模型とダイポール模型について詳細な議論,この反応でのジェットの特徴や検出法等の議論が行われている。第3章では実験の方法が述べられており,HERA加速器,ZEUS測定装置特に本研究に密接に関連する軌跡測定器,カロリメータ,トリガーシステムが取上げられている。第4章には,モンテカルロ法によるシミュレーションについて概説が行われ,第5章では,収集データをいかにして事象再構成し,求める事象を選別するかについて詳細な議論が行われている。第6章では,再構成された事象のジェットの分布について記述され,第7章では断面積を得るための詳細な検討が行われている。第8章では解析結果と,3つのジェットを伴う深部非弾性回折散乱に関する,新たに得られた知見について述べられている。第9章は本研究で得られた物理結果の要旨がまとめられている。

 本研究で取扱う深部非弾性回折散乱については,仮想光子と陽子の間のカラー1重項の状態(ポメロン)の交換を考えることにより,実験結果をうまく説明することができる。したがって,この反応はポメロンの中のパートン成分を仮想光子で観測していると見做すことができるので,深部非弾性回折散乱はポメロンの構造を調べるのに適している。このモデルはリゾルブド・ポメロン模型と呼ばれており,これまでにポメロンの中のパートン分布などが調べられてきた。一方,ダイポール模型と呼ばれる理論もあり,仮想光子が陽子にぶつかる前にクオークと反クオークになり,これらがグルーオンを介して陽子と衝突する描像と見做せるので,ダイポール模型では前述のポメロンを,2つのグルーオンと陽子との反応として認識しようとするものである。これらの研究をさらに進めるためには,深部非弾性回折散乱でのqqg(クオーク・反クオーク・グルーオン)パートン生成を調べる必要があり,論文提出者達は終状態に3ジェットを持つ事象の測定研究を行った。

 実験は,ドイツ・DESY研究所の電子(17.5GeV)・陽子(920GeV)衝突型加速器HERAに設置されたZEUS測定器を用いて行われ,1998年から2000年にかけてデータが収集された。このデーターは42.3pb-1の積算ルミノシティーで収集されたものである。論文提出者達は5<Q2<100GeV, 200<W<250GeV, 23<Mx<40GeVの測定領域で行われた実験データを解析した結果,940個の3ジェット事象を検出することに成功した。この測定結果からポメロンと仮想光子の系での3ジェットの微分断面積を決定するとともに、ジェット・シェイプについても測定結果を得たことは高く評価される。

本論文で取り上げられた研究の成果をまとめると

1) 深部非弾性回折散乱での3ジェット終状態断面積を13.4±0.4(stat)+1.3−1.6(sys)pb, 3ジェット生成の割合を33.6%±0.9%(+2.3−3.1%)(sys)と初めて決定することに成功した。

2) ジェットシェイプの測定結果も合わせて考えると,深部非弾性回折散乱での3ジェット事象は,グルーオンがポメロンの方向に放出されやすいことが判明した。

3) クオーク優勢なレゾルブド・ポメロン模型の予言値は,実験結果の微分断面積の3分の1程度の値しか与えず,この理論模型は排除されることが判明した。

4) 一方,グルーオン優勢なレゾルブド・ポメロン模型や,ダイポール模型の予言値は,実験結果より20%から15%程度低いものの,本研究で得られた実験結果をよく説明できることが判明した。

本論文では,深部非弾性回折散乱での3ジェット生成の測定という困難な実験研究に対して,緻密な解析によって系統的誤差を小さくし,信頼性のある微分断面積を決定したことが高く評価される。また,ポメロンの物理描像をさらに明確化することができた点も評価される。

 なお,本論文の内容はZEUS共同研究として行われたものであるが,論文提出者が主体となってデータ収集を行い,特に物理解析に関しては,論文提出者がほとんど一人で行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める。

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