学位論文要旨



No 116847
著者(漢字) 関口,仁子
著者(英字)
著者(カナ) セキグチ,キミコ
標題(和) 重陽子−陽子弾性散乱による三体力効果の探索
標題(洋) Search for Three Nucleon Force Effect via d-p Elastic Scattering
報告番号 116847
報告番号 甲16847
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4110号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下浦,享
 東京大学 教授 谷畑,勇夫
 東京大学 教授 初田,哲男
 東京大学 教授 後藤,彰
 法政大学 教授 小池,康郎
内容要旨 要旨を表示する

1 序

 原子核における三体力の存在については原子核の研究のごく初期から議論されてきた。中間子論によれば三体力の存在そのものについては疑いの余地はない。しかし、二核子間力に比べ三体力はその効果が非常に小さい事から実測する事は難しく、現在に至るまでその性質は良く知られていない。原子核内で最も大きく寄与すると考えられている三体力は藤田−宮沢型と呼ばれるものである。これは、三核子間を二つのパイ中間子が交換する間に、一つの核子がΔ励起を引き起こす形をしている。

 三体力の存在を議論するには、三核子系を厳密に取り扱うファデェーフ理論計算と精度良く得られた実験値を比較する事が必須である。ファデェーフ理論計算は二核子間力を入力して解が得られるので、もし実験値とファデェーフ理論計算とに差があれば、三体力の存在を示唆する事が出来る。

 今までに知られている三体力の存在を明確に示す結果としては、トリトン(3H)やヘリウム3(3He)の束縛エネルギーが三体力を導入する事で説明された事が挙げられるが、束縛状態に限られている事から三体力の大きさを議論するだけに留まっていた。三体力のダイナミカルな性質を調べるには三体系の散乱実験が有効である。しかしながら過去低エネルギー領域(核子エネルギーあたりが60MeV以下)において数多くなされた三体系の散乱実験の結果とファデェーフ理論計算との比較では、殆んどの観測量がファデェーフ計算でほぼ説明され、三体力の効果が顕著に現れる現象は見つからなかった。

 近年の計算技術の発展により、中間エネルギー領域(核子エネルギーあたりが60MeV以上)において、陽子−重陽子弾性散乱の微分断面積の値が最小となる角度付近で、三体力の効果が明確に現れる事が理論的に予測された。しかし、今までこのエネルギー領域においてファデェーフ理論計算との比較に耐えうる精度良い実験値は存在しなかった。

 我々は、理化学研究所で行っている偏極重陽子ビームの開発の一環として重陽子−陽子弾性散乱の測定を行っていたが、このファデェーフ計算の存在を知り、更に三体力の詳細を系統的に調べる事にした。

2 実験

 実験は理研加速器施設にて行なった。サイクロトロンによって加速された偏極重陽子ビームを水素標的(ポリエチレン或は液体水素)に照射し、重陽子−陽子弾性散乱を測定した。測定には、高分解能磁気分析器SMART及びビームライン偏極度計を用いた。測定量は

(a)重陽子エネルギー140,270MeVの微分断面積,

(b)140,200,270MeVの重陽子の偏極分解能〓,Ayy,Axx,Axz,

(c)270MeVの重陽子から陽子へのスピン偏極移行量〓,〓−〓,〓

である。測定量(a),(b)は、重心系でθc.m.=10°−180°と広範囲の角度に渡って測定を行った。(c)は特に三体力の寄与が大きいと理論的に予測されている角度θc.m.=90°−180°の測定を行なった。重陽子−陽子弾性散乱のスピン観測量はと記述される。ここでσ0はビームが偏極していない時の微分断面積、σはビームが偏極している時の微分断面積である。{pij}は重陽子の偏極度を、py'は散乱陽子の偏極度を指す。式(1),(2)から明らかなように、スピン観測量(b),(c)を測定するために重陽子ビームの偏極軸の制御を行なう必要がある。例えば、〓,〓の測定ではpy,pyyビームをAxxの測定ではpxxビームを、Axzの測定ではpxzビームを用意し、各物理量を測定した。更に偏極移行量(Ky'ij)の測定の場合、散乱陽子の偏極度py'を測定する必要がある。この測定にはSMART第二焦点面偏極度計DPOLを用いた。また、式(2)より偏極移行量の測定では偏極能py'が誘起される事がわかる。実験では、この物理量も同時に測定された。

 得られた結果の一部を図1に示す。図中、微分断面積及び偏極分解能AdyについてはSMARTを用いて測定した値とビームライン偏極度計を用いて測定した値を各々白丸(○)と白い四角(□)で示した。また、今回の測定で得られた偏極移行量及び偏極能については白い四角(□)で示している。微分断面積については、統計誤差1.3%であった。また微分断面積の絶対値については、その系統誤差を微分断面積が良く知られている陽子−陽子弾性散乱を測定する事で見積もった。測定方法は以下の通りである。まず270(140)MeVの重陽子−陽子弾性散乱の測定直後に重陽子ビームから陽子ビームに切り替えた。実験パラメータをなるべく変えないために、270(140)MeV H+2ビームを陽子ビームの代用として用いた。同ビームを重陽子−陽子弾性散乱で用いた水素標的に照射し、1H(p,p)1H散乱の微分断面積の測定を行なった。得られた実験値とSAIDプログラム(豊富な核子−核子散乱のデータを部分波解析して作られた計算コード)を用いて得られた計算値との比較を行なったところ、系統誤差は2%以下という値を得た。偏極分解能については統計誤差が0.03以下であった。図1が示すように全く独立の測定器を用いて得た実験値がほぼ同じ値である事から、測定器系による系統誤差は少なく、我々のデータは非常に信頼度の高いものであると言える。

 偏極移行量については統計誤差が0.03以下、系統誤差が±3%である。偏極能Py'は統計誤差が0.01以下であった。偏極能Py'は、時間反転対称性により陽子−重陽子弾性散乱の陽子の偏極分解能ApyとPy'=-Apyの関係が成り立つ。重陽子エネルギー270MeV(核子当りのエネルギーが135MeV/u)における陽子の偏極分解能はオランダのKVI研究所で測定されており(図1中の黒い四角(■))、今回得られた実験値と比較したところ良く一致する事がわかった。

3 理論計算との比較と考察

 得られた実験結果を近年計算可能となった三体力を考慮したFaddeev理論計算との比較を行なった。以下にあげる計算は全てボホム・クラクフグループによって行なわれたものである。

 [計算1]:二核子間相互作用のみを考慮したファデェーフ理論計算。現在最も信頼されている5つの現実的な二核子間相互作用を用いている。図1中、薄い線束で示されている。

 [計算2]:[計算1]にテゥーソン・メルボルン型(TM)の三体力を考慮した計算。図中、濃い線束で示されている。

 [計算3]:ウルバナ(UR)型の三体力を考慮した計算。図中では、実線で示されている。

 [計算4]:TM'型の三体力を考慮した計算。

 カイラル摂動理論によればTM型の三体力内のc項については、その存在が否定されている。TM'型の三体力はTM型の三体力をカイラル摂動理論に準拠するように変更したモデルである。図中点線で示されている。

 [計算5]:[計算3]に現象論的に作られたスピン軌道型の三体力を考慮した計算.図中破線で示されている。

TM、TM'、URの三体力は全て藤田・宮沢型の三体力を主要成分とする三体力である。

 実験値と計算値との比較の結果、測定量は3種類のタイプに分ける事が出来る。

 タイプI:微分断面積,重陽子のベクトル偏極分解能〓,偏極移行量〓−〓

 タイプII:偏極能Py'(=−〓)

 タイプIII:テンソル偏極分解能Axx,Ayy,Axz,偏極移行量〓,〓

 図1に各々のタイプを代表する観測量(微分断面積、ベクトル偏極分解能〓、偏極能Py'、偏極移行量〓)の結果を示した。

 殆んどの測定量に関して、実験値と二核子間の相互作用のみを考慮したファデーフ理論計算との差は、重陽子の入射エネルギーが高くなるほど大きくなり、特に微分断面積が最小値をとる角度範囲においてその差が顕著に見られる。この差については、タイプIの物理量は三体力を考慮する事で説明される。従ってタイプIは明らかに三体力の効果が現れた物理量と言える。タイプIIの物理量は、TM'型、UR型の三体力では説明されるが、TM型の三体力は実験値を再現しない。この現象は、TM型の三体力がカイラル対称性を満たさない事に起因していると考えられる。タイプIIIの物理量に関しては、どの計算も実験値を説明出来ない。よって、タイプIIIの測定量により現在の三体力モデルでは必ずしも全てのスピン観測量を説明出来ない事が明らかになった。

4 まとめ

 我々は三体力に関する情報を得る目的で、中間エネルギー領域で初めての重陽子−陽子弾性散乱の高精度測定を行った。得られた結果を近年計算可能になった三体力モデルを考慮したFaddeev理論計算と比較したところ、現在の三体力モデルで説明される物理量がある一方で、一部のスピン観測量に関しては現在の三体力モデルでは説明されない事もわかってきた。

図1:重陽子エネルギー270MeVにおける重陽子−陽子弾性散乱の測定結果とボホム・クラクフグループによる計算値。

実験値及び理論曲線の説明については文中に記載。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中間エネルギー領域(入射粒子の加速エネルギーが核子あたり60MeV以上)における重陽子−陽子弾性散乱による三体力効果の探索について論じたものである。原子核における三体力(三核子力)の存在については原子核の研究のごく初期から議論されており、トリトン(3H)やヘリウム3(3He)など束縛状態の三核子系においては、その存在を示す結果が得られている。三体力のダイナミカルな性質(運動量依存性やスピン依存性)を調べるには核子−重陽子散乱などの散乱系が有効なプローブと考えられるが、現在に至るまで三体力の効果を明確に示す結果はなかった。近年三体系を正確に扱うFaddeev理論計算から中間エネルギー領域における核子−重陽子弾性散乱の微分断面積に三体力の効果が現れる事が予測された。この理論的予測を受け、論文提出者等は高精度実験を行なう事で三体力の詳細を系統的に調べた。

 実験は中間エネルギーの偏極重陽子ビームが得られる理化学研究所において行なわれた。サイクロトロンによって加速された偏極重陽子ビームを水素標的に照射し、高分解能磁気分析器SMART及びビームライン偏極度計を用いて重陽子−陽子弾性散乱が測定された。微分断面積の他に、スピン観測量として、重陽子の全ての偏極分解能、陽子の偏極能、及び重陽子から陽子への偏極移行量が測定された。ここで偏極移行量の測定では、散乱陽子の偏極度を測定する必要があるが、それはSMART第二焦点面偏極度計DPOLを用いて行なわれた。

 三体力の効果を明確に示すためには、精度および信頼度の高いデータであることが必要となる。本論文では、統計誤差1.3%、系統誤差は2%以下で微分断面積が求められた。また、偏極分解能、偏極移行量の統計誤差は0.03以下、陽子の偏極能の統計誤差は0.01で求められた。独立の測定器を用いた実験値の整合性、他研究所の同等のデータとの整合性から、系統誤差が統計誤差より小さいことも確かめられた。

 得られた実験結果を近年計算可能となった様々な三体力モデルを考慮したFaddeev理論計算との比較を行なったところ、殆んどの測定量に関して、実験値と二核子間の相互作用のみを考慮したファデーフ理論計算との差は、重陽子の入射エネルギーが高くなるほど大きくなり、特に微分断面積が最小値をとる角度範囲においてその差が顕著に見られる事が明らかになった。理論計算との差に着目し、観測量は3つの種類(タイプI,II,III)に分類された。微分断面積を含むタイプIの物理量は三体力のモデルに寄らず実験値が再現される。従ってタイプIは明らかに三体力の効果が現れた物理量と言える。タイプIIの物理量では、三体力モデルの依存性が明確に現れた。実験値はカイラル対称性を満たす三体力モデルによって再現さる事が示された。タイプIIIの物理量に関しては、どの計算も実験値を説明出来ない。従って、タイプIIIの測定量により現在の三体力モデルでは必ずしも全てのスピン観測量を説明出来ない事が明らかになった。

 本研究は、中間エネルギー領域で重陽子−陽子弾性散乱の微分断面積およびスピン観測量を、始めて高精度で測定したものであり、論文提出者の実験研究能力の高さを示したもである。また、近年計算可能になった三体力モデルを考慮したFaddeev理論計算と詳細に比較した本論文における研究により、散乱状態における三体力の効果が明瞭に実証され、さらに、複数の三体力モデルの優劣を明らかにするとともに理論的課題が与えられた。これらの点において本論文は新規性を有し、少数系の今後の研究に大きく貢献するものである。

 なお、本論文は共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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