学位論文要旨



No 116854
著者(漢字) 中西,祥介
著者(英字)
著者(カナ) ナカニシ,ショウスケ
標題(和) 分子架橋の電子透過 : 量子ループ電流の予測
標題(洋) Electron Transmission through Molecular Bridges : Prediction of Quantum Loop Current
報告番号 116854
報告番号 甲16854
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4117号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 教授 安藤,恒也
 東京大学 教授 樽茶,清悟
 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 助教授 小森,文夫
内容要旨 要旨を表示する

1982年の走査トンネル顕微鏡の発明以来、原子レベルでの物性の解明が進められるとともに、顕微鏡探針を用いた原子操作が行われるようになった。近年、有機合成技術の進展と相まって、ナノメートルサイズの構造から電子素子などの機能を引き出そうとするナノテクノロジーが非常に大きな注目を集めている。なかでも分子素子はその構造の多様性から期待を集めているものであり、金属電極間に分子を挟んで作られる分子架橋の電子透過を研究することは重要である。これまで、ソース−ドレイン電極間の電流に関して多くの研究報告があるが、内部電流分布に関する報告はされてこなかった。本学位論文では、分子架橋の内部電流に着目し、ソース−ドレイン電流Isdによって分子内部に誘起される量子ループ電流を予測した。この量子ループ電流は、Isdよりも遙かに大きな値をとることがあり、その発生条件および性質を複数のモデル系を用いて研究した。

分子架橋の模型にタイトバインディング模型を用い、問題に応じて伝達行列法とGreen関数法を併用して数値的・解析的な計算を行った。計算の対象とした分子は、1)結合したベンゼン環を持つ平面分子(3種類)、2)フラーレンC60、3)立方体分子、4)「フラットバンド系」として知られる田崎模型から切り出した分子である。なお、電極に単純立方格子または一次元鎖を用いた。また、すべての計算においてゼロバイアスを仮定した。

本要旨では、フラーレンC60と一次元電極からなる分子架橋(図1(a))を例にとって、主要な結果を述べる。分子および電極での共鳴積分をt、分子−電極間の共鳴積分をt/2と取り、分子架橋の透過確率を計算した。この量は、Landauer公式を通じてコンダクタンスと関係づけられる。図2(a)に示すように得られた透過確率は入射電子のエネルギーEが分子準位に一致する所でピークを持つ。これは通常よく見られる共鳴透過であるが、分子−電極間を複数の比較的強い結合でむすぶと、透過確率のピーク同士が融合し、幅広いエネルギー領域にわたって高い透過確率を示すようになる。

次に内部電流に着目する。3重縮重準位である非占有最低分子軌道(LUMO)よりわずかに低いエネルギーの電子をソース電極から注入したときの電流分布が図1(b)である。このとき、最大でソース−ドレイン電流の24倍に達するループ状の電流が分子全体にわたってみられ、以下これを「量子ループ電流」と呼ぶ。一般的に、これは分子の縮重準位近傍のエネルギーを持つ電子が注入されたときに現れる。この量子ループ電流の持つ性質を見るために、分子内の電流の作る磁気モーメントMを計算した(図2(b))。電子のエネルギーが準位の近傍にあるときにループ電流を反映した大きなMが現れる。また、注入する電子のエネルギーを準位の直下から直上へと変化させると、準位に一致したところで、ループ電流と共に磁気モーメントの向きが急激に反転する。

まず、量子ループ電流の発生条件について考察する。サイトjからiへの電流Iijは、以下の式で与えられる:

ここで、aνは分子部分での波動関数ψを実数に選んだ分子軌道{ψν}で展開したときの展開係数で、その偏角がθνである。またHμνijは、分子軌道とサイトを基底にとって表示したHamiltonianである。係数の絶対値|aν|は、νが共鳴準位であるときにのみ大きな値を持つ。式中で零でない寄与を与える項はν≠μを満たすので、もし共鳴する分子準位に縮退がないと、軌道ν,μの少なくとも一方が非共鳴準位になって小さな電流しか得られない。しかし、共鳴準位が縮退していればν,μを共に共鳴準位に選ぶことができるので大きな電流が流れうる。電極との接合部がボトルネックとして働くため、この大電流は分子内部でのみ存在し、必然的に分子内で閉じた電流になる。

量子ループ電流の反転は、縮重準位μ,νに対応する展開係数aμ,aν間の位相差δθ=θμ−θνを解析することで説明できる。展開係数aνは、準位ν近傍でエネルギー依存性を持つ。一次元電極と結合している場合、位相差δθは、自己エネルギーUν(分子軌道νから電極に入り再び同じ分子軌道に戻る素過程に対応する)に、準位と電子のエネルギー差E-Eνを足しあわせた複素平面上のベクトル間の位相差で表される。各分子軌道と電極との実効的な結合強度の違いに応じて、Uνはその大きさが異なるため、縮重準位をまたいで電子のエネルギーを変化させると、位相差δθの符号が変化し、それに伴って量子ループ電流の向きが反転する。

3重に縮退した分子準位がある場合、量子ループ電流は興味深い性質を示す。すなわち、ソース電極を取り付けるサイトを固定し、ドレインサイトを任意に取った場合、図3に示すように磁気モーメントはある平面上に固定される。この現象もまた、波動関数を分子軌道で展開したときの展開係数aνの振る舞いを調べることで理解される。磁気モーメントMは、量子ループ電流の各チャンネル(3つの分子軌道から2つを選び出す組み合わせ)に対応した3つの基底ベクトルmの線形結合で書ける。本論文では、該当分子軌道間を適当に取り直すことで、3つある基底ベクトルmの1つの係数をゼロに取ることが常に可能であることを示した。これは、「3つの量子ループ電流チャンネルのうち1つは、ソースサイトから流入する電流に寄与できない」ことに対応しており、3重縮退がある分子では一般的な現象である。実際、他の具体例として立方体分子でも見ることができる。

本論文では数種類の分子に対して数値計算を行うとともに解析的な計算を行い、一般に縮重分子軌道が作る「量子ループ電流」が存在することを予言した。さらに、量子ループ電流の示すさまざま性質を数値計算によって見いだし、解析計算によってその振る舞いを説明した。このような量子現象を分子素子へ応用するためには、さらなる研究が必要であり、特に理論面で有限バイアス、電子間相互作用を取り扱う計算を行う必要がある。

図1:(a)C60分子架橋のモデルと(b)LUMO近傍のエネルギー(E=0.134|t|)における架橋の電流分布。

このときのソース−ドレイン電流はIsd=0.0663。

図2:C60分子架橋の(a)透過確率と(b)電流分布によって生じる磁気モーメントM(任意単位)。

図3:C60分子架橋の磁気モーメント。各々の十字は、ソースサイトをAまたはBに固定し、ドレインサイトをその他任意に取った時のそれぞれに対応する。入射電子のエネルギーは、3重縮退したLUMO近傍のE=0.134|t|。磁気モーメントはその大きさを規格化して表示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章および補遺から構成される。

 1章は過去の実験のレビューと本論文の目的を述べた序論である。2章は計算に用いたモデルの概要および計算手法の説明である。3章ではさまざまな分子架橋モデルに対するコンダクタンスおよび分子内電流の計算結果とその解釈を述べ、「量子ループ電流」とそれに伴う磁気モーメントの発現を予測する。4章は結語である。また補遺では、本論文中で用いたいくつかの式の導出、ならびに簡単な1次元モデルを用いて量子ループ電流を議論している。

 1982年のG. Binning博士,H. Rohrer博士らによる走査トンネル顕微鏡の発明以来、いわゆる走査プローブ顕微鏡は急激な発展を遂げ、今や原子スケールでの表面局所構造解析、表面局所スペクトロスコピー、さらには表面の原子操作が現実のものとなった。それに伴い最近では、有機分子の多様性や自己組織化を生かした分子素子の開発が、基礎研究だけでなく応用研究のテーマとして取り上げられるようになっている。そのような背景の元、本研究は、たとえばπ電子共役鎖がループをつくる分子(ベンゼン環のような分子)を電極間にはさんで架橋構造を作ることにより、新しい特性が発現する可能性を、理論的に予測したものである。

 分子架橋のモデルとしては、π軌道のみを扱うタイトバインディング模型を用い、ゼロバイアスでのコンダクタンスと分子内の原子(軌道)間を流れる内部電流を計算した。計算には伝送行列法(+固有チャンネル分解)とグリーン関数法を併用し、問題に応じて数値的・解析的に計算を行った。

 計算対象とした分子は、(1)結合したベンゼン環を持つ平面分子(3種)、(2)フラレンC60、(3)立方体分子、(4)フラットバンド系として知られる田崎模型から切り出した分子である。また電極は単純立方格子または1次元鎖を用いている。軌道間の共鳴積分は、分子内と電極内ではすべて共通の値tとし、電極と分子のコンタクト部分ではt'として、結果のt'依存性まで調べた。

 計算および理論解析の結果、縮重準位を持った分子にソース・ドレイン電極を非対称に接続し、縮重準位付近のエネルギーをもった電子を注入した場合、上記モデル(1)〜(4)いずれの場合もソースードレイン間を流れる電流にくらべて桁違いに大きな分子内ループ電流が生じることが見いだされた。著者らはこれを「量子ループ電流」と命名した。また量子ループ電流の向きは縮重準位エネルギーの直下と直上で逆転することが見いだされた。その大きさは、分子のエネルギー準位の共鳴幅を決めるt'にも依存し、t'〜t/2付近で最大になる。田崎模型から切り出した分子では、その高い縮重度から期待されるように、とくに大きな量子ループ電流がみつかった。

 この量子ループ電流に伴い、大きな磁気モーメントが現れると考えられ、これは局所磁場に敏感な測定方法(たとえばNMR)によって観測できる可能性がある。フラレンC60の例では、この磁気モーメントの向きに関して興味深い性質が見いだされた。すなわち、ソース(ドレイン)電極の位置を固定し、ドレイン(ソース)電極の位置を任意に選んだ場合、磁気モーメントはある平面上に固定される。これは3重縮重準位をもつ分子では一般的な現象であることが示された。

 以上のように、本論文では数種類の分子架橋モデルに対して数値計算と解析的計算を行い、一般に縮重分子軌道がつくる「量子ループ電流」が存在して磁気モーメントを生ずることを予言した。電子間相互作用や有限バイアスの効果を無視していることから、本論文の結果は現実の系の定量的な予言ではない。また量子ループ電流が作る磁気モーメントが小さいことから、実験による観測にも何らかの工夫が必要と思われるものの、分子素子の新たな可能性を示す研究として高く評価されるものである。

 なお本論文は塚田捷教授、田村了博士、小林伸彦博士、Mads Brandbyge博士との共同研究であるが、論文提出者が主体となって理論を構築したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断された。したがって審査員全員により、博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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