学位論文要旨



No 116858
著者(漢字) 林,慶
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ケイ
標題(和) 3d遷移金属(鉄)薄膜の構造と磁性の研究
標題(洋)
報告番号 116858
報告番号 甲16858
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4121号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 黒田,寛人
 東京大学 助教授 木下,豊彦
 東京大学 助教授 溝川,貴司
 東京大学 教授 藤井,保彦
 東京大学 教授 後藤,恒昭
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では、角度分解光電子分光(ARPES)、スピン・角度分解光電子分光(SARPES)、X線光電子回折(XPD)、軟X線吸収磁気円二色性(XMCD)、磁気線二色性(MLDAD)を用いて、Fe薄膜の構造と磁性を微視的な観点から総合的に解明した。実験は高エネルギー加速器研究機構のフォトンファクトリーにある各ビームラインで行った。その結果、成長初期の構造は格子ミスフィットで説明できること、面内に歪みの存在する系は垂直方向の格子が逆に伸縮することがわかった。また、構造と磁性には密接な関係があり、層間距離がそれらを支配していることが明らかになった。さらにtetragonal構造のバンド計算は、c/aやバンド分散の実験結果を非常によく説明することがわかった。

 3d遷移金属薄膜の磁性の研究は古くから行われており、現在の物性物理学の重要な研究テーマの1つである。真空技術やMBEなどの製膜技術の最近の発展にともない、原子層レベルで制御された金属多層膜や人工格子の作成とその物性評価が行われるようになった。特に人工原子層に磁性金属を適用した磁性薄膜や磁性多層膜では、磁気記録メディアの開発をはじめとする磁気工学の応用面で重視されている。これらの系では格子定数を人工的に伸縮することで薄膜特有の構造と磁性が実現でき、低次元磁性や界面磁性が現れる点で物理的にも非常に興味深い。

 Bulk Feは常温・常圧ではbcc構造であるが、Cu(001)表面上のFe薄膜はfcc構造になって成長する。これはBulk fcc FeとCuの格子定数がほぼ等しく格子ミスフィットが小さいためで、Bulk bcc Feとの格子ミスフィットが小さいAu(001)やAg(001)表面上ではbcc構造になる。このような基板に依存した構造に対して磁性を調べる研究が実験と計算の両面で数多くなされ、構造と磁性の関係が調べられてきた。

 本研究では、格子ミスフィットが大きい系の構造と磁性の関係を解明することを目的とし、Rh(001)とPd(001)表面上に室温で蒸着して成長させたFe薄膜について実験と計算を行った。格子ミスフィットはRhではBulk fcc Feの方が、PdではBulk bcc Feの方が小さくなる。これらの系でFe薄膜の構造を調べた研究はいくつかあるが、統一した見解は存在せず、磁性との関係を解明したものはない。低次元磁性と界面磁性にも注目して研究を行い、Fe薄膜は単原子層でも強磁性を示すのか、また基板に磁化が誘起されるのか明らかにした。

(1)Fe/Rh(001)の構造と磁性

 Fe薄膜の構造と電子状態をARPES、SARPES、XPDによって調べた。その結果、Fe薄膜は面内では格子が広がっているが、表面垂直方向では縮んでいることがわかった。垂直方向と面内の格子定数の比c/aは4ML Fe薄膜で0.84である。また、Fe薄膜の表面構造が6MLでfct(001)構造からdistorted bcc(110)構造に変化することが明らかになった。層間距離が膜厚の増加にともなって徐々に大きくなり、6原子層(ML)以上で一定になることから、層間距離の変化が構造変化の原因であると考えられる。さらにXMCDの実験を行い磁気状態の膜厚依存性を調べたところ、Fe薄膜は2ML以下では強磁性を示さないことがわかった。Rhには磁化が見られず、界面近傍でFeは磁化していないと結論した。また、SARPESからTcを見積もったところ、Tcは膜厚が薄くなるにしたがって低くなり、2MLでOKになることを明らかにした。薄い膜厚で強磁性にならないのは、Fe薄膜の層間距離が界面に近いほど短くなっていて、界面近傍ではFe 1原子当たりの体積が小さくなっているためである。

(2)Fe/Pd(001)の構造と磁性

 Fe薄膜の構造と電子状態をARPESとXPDによって調べた。その結果、Fe薄膜は面内では格子が縮んでいるが、垂直方向では伸びていることがわかった。c/aは6ML Fe薄膜で1.15である。しかしFe/Rh(001)と異なり層間距離に顕著な膜厚依存性は観測されず、表面構造は常にbct(001)構造であることが明らかになった。さらに磁性をMLDADによって調べたところ、膜厚が1MLでもFe薄膜は強磁性を示すことがわかった。これはFe薄膜の層間距離がほぼ一定で、Fe 1原子当たりの体積が常に強磁性を示す時の体積を越えているためである。また、MLDADの結果は界面での軌道の混成によりPdに磁化が誘起されていることを示しているが、無偏光を用いた磁気二色性の実験を行って確認する必要がある。

(3)energeticsによる考察

 Fe薄膜の構造と磁性の安定性を調べるためにFLAPW法によって全エネルギーの計算を行った。Rh(001)とPd(001)表面上のFe薄膜の構造はtetragonal構造なので、Bulk fct Feあるいはbct Feのバンド計算を行う必要がある。成長過程を考慮して面内の格子定数はそれぞれRhとPdと同じ値にし、表面垂直方向の格子定数をパラメータとして計算した。その結果、どちらの構造でも垂直方向の格子定数によらず強磁性状態が安定であるという結果を得た。全エネルギーが最小になる時のc/aはfct構造で0.83、bct構造で1.12であり、実験と非常によく一致することがわかった。また、実験で得られたバンド分散はtetragonal構造のバンド計算で非常によく説明できることがわかった。一方、この計算結果は強磁性が常に安定であることを示しているので、Rh(001)表面上で1、2ML Fe薄膜が強磁性を示さないことの説明ができない。これは薄膜極限ではBulkのバンド計算が適用できないためで、1ML、2ML Fe/Rh(001)の計算を行って比較する必要がある。

 RhとPd表面上のFe薄膜は構造が異なるとともに磁性にも違いが現れた。2ML以下ではRh表面上で磁化しないことが明らかになった。このように膜厚が薄いときに強磁性を示さない系としてFe/Ru(0001)とFe/V(001)がある。これらの系は構造の研究がほとんどなされておらず、磁化しない原因も明らかになっていない。これらを系統的に調べることで、強磁性にならない原因が明らかになり、薄膜における強磁性の発現機構を解明できると考えられる。

 本研究では室温成長下のFe薄膜について実験を行ったが、Fe/Pd(001)は低温成長下で磁気異方性を示す興味深い系である。界面での軌道の混成が磁気異方性の原因として挙げられているものの、電子状態を調べてそのことを明らかにした研究はない。室温で成長させたときにPdに磁化が誘起されたことは、この系で混成の効果が大きいことを示しており、基板温度を低温にしたときの界面電子状態を調べて原因を解明することも今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 3d遷移金属薄膜の磁性の研究は古くから行われており、現在の物性物理学の重要な研究テーマの1つである。真空技術やMBEなどの製膜技術の最近の発展にともない、原子層レベルで制御された金属多層膜や人工格子の作成とその物性評価が行われるようになった。これらの系では格子定数を人工的に伸縮することで薄膜特有の構造と磁性が実現でき、低次元磁性や界面磁性が現れる点で物理的にも非常に興味深い。これまでに基板に依存した構造に対して磁性を調べる研究が実験と計算の両面で数多くなされ、構造と磁性の関係が調べられてきた。

 本研究は、格子ミスフィットが大きい系の構造と磁性の関係を解明することを目的とし、Rh(001)とPd(001)表面上に室温で蒸着して成長させたFe薄膜について実験と計算を行ったものである。

 本研究では、角度分解光電子分光(ARPES)、スピン・角度分解光電子分光(SARPES)、X線光電子回折(XPD)、軟X線吸収磁気円二色性(XMCD)、光電子スペクトルの磁気線二色性(MLDAD)を用いて、Fe薄膜の構造と磁性を微視的な観点から総合的に解明しようとしたものである。実験は高エネルギー加速器研究機構のフォトンファクトリーにある各ビームラインで行った。

 格子ミスフィットはRhではBulk fcc Feの方が、PdではBulk bcc Feの方が小さくなる。これらの系でFe薄膜の構造を調べた研究はいくつかあるが、統一した見解は存在せず、磁性との関係を解明したものはない。

 Fe/Rh(001)の構造と磁性に関してFe薄膜の構造と電子状態をARPES、SARPES、XPDによって調べた。その結果、Fe薄膜は面内では格子が広がっているが、表面垂直方向では縮んでいることがわかった。また、Fe薄膜の表面構造が6MLでfct(001)構造からdistorted bcc(110)構造に変化することが明らかになった。層間距離が膜厚の増加にともなって徐々に大きくなり、6原子層(ML)以上で一定になることから、層間距離の変化が構造変化の原因であると結論づけている。さらにXMCDの実験を行い磁気状態の膜厚依存性を調べたところ、Fe薄膜は2ML以下では強磁性を示さないことを見いだし、Rhには磁化が見られず、界面近傍でFeは磁化していないと結論した。また、SARPESからTcを見積もったところ、Tcは膜厚が薄くなるにしたがって低くなり、2MLでOKになることを明らかにした。

 Fe/Pd(001)の構造と磁性に関しては、Fe薄膜の構造と電子状態をARPESとXPDによって調べた。その結果、Fe薄膜は面内では格子が縮んでいるが、垂直方向では伸びていることがわかった。しかしFe/Rh(001)と異なり層間距離に顕著な膜厚依存性は観測されず、表面構造は常にbct(001)構造であることが明らかになった。さらに磁性をMLDADによって調べたところ、膜厚が1MLでもFe薄膜は強磁性を示すことを見出した。これはFe薄膜の層間距離がほぼ一定で、Fe1原子当たりの体積が常に強磁性を示す時の体積を越えているためと結論している。また、Pd 4p光電子のMLDADの結果は界面での軌道の混成によりPdに磁化が誘起されている可能性を示したが、ここには、Fe 3p光電子の信号も重なっているため、他の内殻準位を用いた磁気二色性の実験などを行って確認する必要がある。

 本研究では、理論的な背景としてenergeticsによる考察も行っている。すなわち、Fe薄膜の構造と磁性の安定性を調べるためにFLAPW法によって全エネルギーの計算を行った。その結果、実験で得られたバンド分散はtetragonal構造のバンド計算で非常によく説明できることがわかった。一方、この計算結果は強磁性が常に安定であることを示しているので、Rh(001)表面上で1〜2MLのFeの極薄膜が強磁性を示さないことの説明ができない。これは薄膜極限ではBulkのバンド計算が適用できないためで、今後の問題として残されている。

 以上述べたように本研究はFe薄膜の構造と磁性との関係やその起因の物理に関し、分光学的手法とバンド計算の両者により解明を目指したもので、一定の範囲ではあるが、薄膜磁性の新しい物理の一面を明らかにしたといえる。

 本研究は全体として共同研究者との共同の研究であるが、サンプルの製造や、主実験や考察の面で、論文提出者が主体となって研究を進めたもので、論文提出者の寄与が十分であると判断された。

 従って、博士(理学)の学位を授与できるものと認められる。

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