学位論文要旨



No 116860
著者(漢字) 樋口,岳雄
著者(英字)
著者(カナ) ヒグチ,タケオ
標題(和) 中性B中間子のJ/ψKS終状態への崩壊におけるCP非対称性の発見
標題(洋) Observation of CP Violation with B0 Meson Decaying to the J/ψKS State
報告番号 116860
報告番号 甲16860
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4123号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 駒宮,幸男
 東京大学 助教授 佐々木,真人
 東京大学 教授 鈴木,洋一郎
 東京大学 教授 福島,正己
 東京大学 教授 酒井,英行
内容要旨 要旨を表示する

自然法則における対称性への期待は、20世紀後半からつぎつぎと破られてきた歴史を持つ。1957年、Wuらのグループは、60Coのβ崩壊を観測することにより自然界にはνRとνLとのみが存在し、νLとνRとのいずれもが存在しないことを実験的に証明した。これにより荷電共役の対称性(C)とパリティ対称性(P)とのいずれもが破れていることが明らかとなった一方で、依然として両者の合成変換であるCP変換は保存するとする理論が展開されていた。しかし、続く1964年、ChristensonらのグループはKL中間子が2つのπ中間子に崩壊することを発見し、CP対称性もが破れていることが明らかとなった。1973年、小林と益川は、標準模型の枠組みでCP対称性の破れを説明するためには、当時3つしか知られていなかったクォークが、6種類以上存在していなければならないことを示した。彼らの理論は、6つ以上のクォークが存在する場合にそれらの混合にクォークの位相の再定義で除去できない複素位相が発生し、それがCP対称性を破るというものである。続く数年間の間に4番目のcクォークと5番目のbクォークが、1995年には6番目のtクォークが発見され、彼らの理論は標準模型でCP対称性を記述する本質的な機構であると信じられるところとなった。この混合定数からなる行列はCKM-行列として知られる。しかしながら、CKM-行列の要素はいまだ精密に測られておらず、その測定は小林・益川理論の検証、ひいては標準模型の正当性を議論する上で極めて重要である。

1980年、Carter、Bigi、および三田らは中性B中間子系で大きなCP対称性の破れを観測できる可能性を示した。この対称性の破れの観測を通して我々はCKM-行列の要素間の位相差を調べることができる。本論文ではB0→J/ψKSの崩壊モードを使用してCP対称性の破れを観測する。この崩壊モードはCP対称性の破れの測定における理論的な不確定性が極めて小さく、また他の崩壊と比較して分岐比が大きいという利点がある上に、バックグラウンドが非常に少ないと予想されている。このためB0→J/ψKSの崩壊モードによるCP対称性の破れの観測は、もっとも成果が期待されている。2つのB中間子の一方(BCP)がJ/ψKSモードに崩壊する時刻を、他方のB中間子(Btag)の崩壊時刻からの時間差としてΔtと測定するとき、そのΔtはCP対称性の破れを仮定すると理論的には図1(左)のように分布する。ここで実線はBtagの崩壊時にBtag=B0であった場合で点線はそれとCP共役な系、すなわちBtagの崩壊時にBtag=B0であった場合である。このCP対称性の破れは小林・益川理論に従うと行列要素間の位相差φ1によってsin2φ1と表される。sin2φ1=0の場合にはCP対称性は保存していることになり、Δtの分布には非対称性が見えなくなる。図1はsin2φ1=0.60の場合を示す。

相対的には大きいが、B0→J/ψKSの崩壊は分岐比が〓(10-4)であるため、なお大量のB0-B0中間子対を生成させる能力を持った加速器が必要である。我々は茨城県つくば市の高エネルギー加速器研究機構に建設された、年間最大で1億個のBB中間子対を作る能力を持った加速器(KEKB)を利用する。我々は、Δtを2つのB中間子の崩壊点間の距離(Δz)として測定し、2つのB中間子の運動をともにβγと近似することにより〓

によって得る。Δzを測定可能な程度の距離に設定するため、KEKB加速器は8.0GeVの電子と3.5GeVの陽電子の衝突によりβγ〓0.425としてB中間子を生成する。これによりB中間子は崩壊までに平均200μm程度飛行する。sin2φ1の測定に当たっては、BCPの崩壊が確実にB0→J/ψKSであったことを決定する作業に加えΔzの精密な測定とBtagのフレーバーの同定が必要であり、我々はB0-B0中間子対の崩壊点の周りにBelle検出器を建設した。荷電粒子は中央飛跡検出器により検出される。またJ/ψ→l+l−の崩壊におけるレプトンを同定するため、Belle検出器には、電磁カロリメータやμ粒子検出器が備えられている。Δzはシリコン崩壊点検出器によって精密に測定される。Btagのフレーバーは、その崩壊生成粒子を吟味することで決定される。セミレプトニック崩壊はフレーバー決定の強い指標を与えるため、J/ψの再構成に使用された検出器がここでも活用される。一方、K中間子もフレーバーの決定に欠かせない役割を担うため、K中間子とπ中間子の分離のためにdE/dx、Cherenkov光、および粒子の飛行時間の測定能力をそれぞれに備えた各検出器が設置されている。

我々はKEKB加速器により生成された31.3×106個のBBのデータを解析した。BCPをJ/ψ→l+l−(l=e, μ)とKS→π+π−の崩壊から再構成しそれらのイベントに対してΔzの測定とBtagのフレーバーの決定を行った。最終的に、我々は387個のB0→J/ψKS崩壊の候補を得た。

崩壊点の測定精度やフレーバーの決定を誤る確率をイベントごとに評価するために、unbinned-maximum-likelihood法によりsin2φ1の決定を決定した。図1(右)にΔzの測定精度を100μm、としたときに実験的に得られるΔtの非対称性の分布を示す。まず、図に示すようなΔtの分布を表現する確率密度関数P(Δt;sin2φ1)を構築し、387イベントのΔtiの情報を使って〓を最大化するsin2φ1を求めた。図1に示すように、Δtの測定精度はsin2φ1の決定に大きな影響を与える。Δtの測定精度に対する寄与は検出器によるΔzの測定誤差が主要な要因を占める。Δzの測定誤差は、トラックの多重散乱、エネルギー損失など、複数の、またイベントごとに異なる要因からなる誤差の重ね合わせであると考えられる。我々はΔzの誤差を評価するために必要なBCPおよびBtagの崩壊点の測定誤差に対する較正した上で、Δzの誤差を評価する手法を定式化した。またBtagの崩壊がチャーム中間子を伴う場合に、その有限の寿命が崩壊点の再構成に与えるずれも考慮した。このようにして、我々は図2に示すようなΔtの測定誤差を示す関数Rを得た。ここで、図の横軸は、再構成されたΔtの真のΔtとの違い(δ(Δz))を示し、重ね合わせられた曲線は構築されたRを示す。Rはδ(Δt)の分布をその裾の部分も含めてよく再現している。我々はバックグラウンドがΔtの分布に与える影響も定式化し、P(Δt;sin2φ1)を確立した。

このようにして構築されたΔtの確率密度関数を最尤関数法により実際のデータにフィットし、sin2φ1=0.81±0.20の結果を得た。ここで誤差は統計誤差のみである。ΔtをBtagのフレーバーに応じて分類した分布にその確率密度関数を重ねたものを図3に示す。ここで実線はBtagがB0の場合を、点線はB0の場合を示している。我々はこの結果に対して、境界条件に対する系統的な誤差を考察した。これに関してはBtagのフレーバーを誤る確率の見積りに関する不確定性が支配的でありRの決定における裾の取り扱いによる不確定性がそれに次ぐ系統誤差を与えた。全体の系統誤差は±0.04となった。この誤差の大きさは統計誤差と比較して十分小さいため、系統誤差はsin2φ1の測定結果が持つ有意性には大きな影響を与えない。以上から、我々はsin2φ1を

と決定した。真のsin2φ1が0の場合において、この結果よりも大きなsin2φ1を実験的に得る可能性は、0.003%である。B0→J/ψKSの崩壊モードに加え、さらに我々は、ψ(2S)KS、XclKS、ηcKS、J/ψKL、およびJ/ψK*0の崩壊モードも加えsin2φ1を測定し、

と決定した。真のsin2φ1が0である場合にこの結果よりも大きなsin2φ1を得る可能性は10-9以下である。

標準模型の枠組みにおける理論的予想(sin2φ1=0.70±0.04)と、sin2φ1=0.81±0.20±0.04の測定結果との関係を図4に示す。図はφ1の領域を示しており、点線はsin2φ1の中心値を、薄い扇型は68%信頼区間を、濃い扇型は95%信頼区間を示している。理論と測定の結果は一致を見せているが、実験結果の統計誤差はいまだ大きく、理論と現実の一致もしくは乖離を決定するまでには至っておらず、より大量のデータが望まれる。

以上のとおり我々はCP対称性の破れをB中間子系で初めて証明した。この結果は、標準模型をCP対称性の観点から研究する意義を与えるものとして極めて重要である。

図1:非対称なΔtの分布。

sin2φ1=0.60の場合の理論的な分布(左)と検出器の性能を含めた場合に実験的に得られると予想される分布(右)。

図2:モンテカルロシミュレーションによるΔtの測定誤差とその関数の表現。

図3:Btagのフレーバーに応じたΔtの分布とそれにフィットされた確率密度関数。

図4:Btagのフレーバーに応じたΔtの分布とそれにフィットされた確率密度関数。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなり、第1章はCP Violation in the B Meson System、第2章はExperimental Appratus、第3章はEvent Reconstruction、第4章はDetermination of sin2φ1、第5章はDiscussions、について述べられており、第6章には結論が述べられている。

 自然界における対称性の考察・検証は、素粒子物理学の発展の原動力の大きな要素である。前世紀中盤においるパリティー(P)と荷電対称性(C)の対称性がが弱い相互作用において最大限に破れていることの発見は大きな驚きであった。それでも、パリティー(P)と荷電対称性(C)を同時に逆転させるCP変換に対して自然は不変であると考えられていた。1964年にCPが弱い相互作用において1/1000程度破れていることが中性K中間子の崩壊の解析から発見された。これも大きな驚きであった。1973年このCPの破れを理論的に説明するためには最低6種類のクォークが必要であることが小林と益川によって示された。当時はまだ3種類しかクォークは発見されておらず、この指摘は画期的であった。小林と益川が提案した6種類のクォークが存在すると、5番目のクォークの入った中性B中間子でもCP対称性の破れを発見できる筈である。

 中性B中間子は反中性B中間子に時間が経ると変わり、更に時間がたつと中性B中間子に戻り、両者の間で振動する。この現象をB0-B0振動と呼ぶ。初めにB0として生じた中性B中間子がCP固有状態に崩壊する振輻とB0が一度B0に変わってから同じCP固有状態に崩壊する振輻は干渉する。初めにB0が生成されたときにも同じような干渉が生ずるが、初めにB0として生成された場合と干渉の時間変化のパターンが異ることが測定されればCP非保存が証明される。1990年台後半からLEPやTEVATRONにおいて中性B中間子におけるCP対称性の破れを発見する試みが続けられたが、発生された中性B中間子の数が少なくCP対称性の破れを発見するには至らなかった。高エネルギー加速器研究機構のKEKBとSLACのPEP-IIという2つのB-factory(電子・陽電子相互衝突形加速器)の稼働によってこれが可能になった。ここでは、中性B中間子とその反粒子のみが生成される閾値のすぐに上のγ(4S)レゾナンスに衝突エネルギーを設定する。CP非保存を見るためには、2つの中性B中間子のうち片方がCPの固有状態に崩壊したとき、もう一方の中性B中間子のフレーバーを同定し、更に崩壊の時間差を測定する必要がある。崩壊の時間差を測定するには電子と陽電子のビームエネルギーを非対称に設定し(電子8.0GeV、陽電子3.5GeV)、二つの中性B中間子を電子のビーム方向に飛ばして二つの崩壊点を崩壊で生成された荷電粒子から再構成し、崩壊点の距離から崩壊の時間差を求める。中性B中間子のフレーバーを同定するには、崩壊で生ずる荷電K中間子、電子、μ粒子などの粒子を識別し、かつ電荷を決定する必要がある。このフレーバーの同定を間違える確率の正確な把握が必要である。

 論文提出者はKEKBにおけるBelle実験に参加してB中間子におけるCP非保存の発見において最重要であるB0→J/ψKSCP固有状態崩壊モードの解析を行なった。このモードはバックグラウンドが低く、統計精度が良く、CP非保存を起こす過程が理論的に明確であるGolden Modeである。J/ψ中間子はe+e−またはμ+μ−のペアに崩壊するモードを捕らえ、KS中間子はπ+π−に崩壊するモードを再構成することによって捕らえた。J/ψ中間子とKS中間子を組んだ不変質量はB中間子の質量となりこの質量ピーク近くのバックグラウンドは低い。B中間子の質量ピークを見ることはある程度経験を積んだ大学院生ならば可能であるが、ここからの解析には系統的な解析能力と解析を遂行する腕力を必要とする。論文提出者はCP非保存の物理量sin2φ1を未知パラメータとして緻密な最尤法を用いて解析を行なった。尤度関数に入っている崩壊時間差の測定誤差を表す応答関数の関数形はB0→J/ψKS事象のモンテカルロ・シミュレーションによって決定した。ここで論文提出者が苦労したのは、崩壊時間差の測定誤差が各事象によって異る点である。即ち応答関数の誤差パラメータを事象ごとに変える必要が生じた。そこで、崩壊点を決める荷電粒子飛跡のパラメータの誤差と崩壊点の再構成の誤差から崩壊時間差の測定誤差を事象ごとに計算して崩壊時間差とともにその誤差を最尤法の入力物理量に用いた。これによって尤度関数の信頼性が高まった。又、論文提出者はこの尤度関数と本質的に同じものを用いてB中間子の寿命の測定を行ない、系統誤差を予め深く理解した。

 フレーバー同定を誤る確率はデータを用いて算出された。B0-B0振動の振動時間がBelle実験で正確に測定されているため、生成された2つの中性B中間子がそれぞれ異るフレーバーに同定される場合と、同じフレーバーに同定される場合の時間変遷は正確に予言される。これを用いてフレーバー同定を誤る確率をモンテカルロ・シミュレーションに頼らずに実験的に測定した。

 論文提出者は、これらの測定から、CP非保存の物理量sin2φ1を0.81±0.20±0.04(初めは統計誤差、2番目は系統誤差)と決定した。CP保存に対応するsin2φ1=0は4σで棄却された。CP非保存をbクォークのセクターで初めて発見した画期的な測定である。

 論文提出者は、データ解析だけではなく、ビームと残留ガスの衝突で生ずるバックグラウンド事象をオンラインで除去するためのトリガーの製作、シリコン崩壊点測定器のデータ読みだしなどにも貢献したことを付記しておく。

 なお、本論文の第3章は、Belle実験グループの協同研究であるが、論文提出者が主体となって解析を行なった。第4章は、論文提出者が独力で解析および検証を行なったもので、論文全体として論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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