学位論文要旨



No 116862
著者(漢字) 福武,直樹
著者(英字)
著者(カナ) フクタケ,ナオキ
標題(和) 近接場分光によるJ会合体間の励起移動の研究
標題(洋) Energy transfer between J-aggregates studied by near-field spectroscopy
報告番号 116862
報告番号 甲16862
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4125号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 教授 末元,徹
 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 長谷川,修司
内容要旨 要旨を表示する

 π電子共役分子を孤立した状態からある条件下で自発的に集合させた場合、光吸収により生じた電子励起状態が1個の構成分子に留まらず、集合体を形成している多くの分子間に広がる場合がある。分子J会合体もその一種で、会合分子間の遷移双極子−遷移双極子相互作用により励起エネルギーが分子間を共鳴的に移動し励起子を形成することができる。このJ会合体の吸収スペクトルには孤立分子のスペクトルに比べ、はるかに鋭いピークが低エネルギー側に現れることがある。このピークを最初の発見者の名前(E.E.Jelly)をとりJバンドと呼ぶ。本論文で対象としているシアニン色素J会合体も、1次元的に配列した分子会合体でフレンケル励起子モデルでよく記述できるとされており、励起子のコヒーレント長が大きく、発光のストークスシフトがほとんどないことで知られている。

 このような特徴をもつ分子会合体の間の励起エネルギー移動についての研究を行った。分子間の励起エネルギー移動については古くからフェルスター機構が知られており、それに基づきこれまで研究が行われてきた。特に近年光合成物質において、エネルギー移動が重要な役割を担っていることが分かってきて、盛んに研究が行われるようになってきた。例えば、光合成バクテリアは光の獲得・輸送に特化した光捕集系というタンパク複合体をもち、その機能により光合成反応を効率的に進める。光捕集系で獲得した光エネルギーを反応中心に励起エネルギー移動により輸送する。その過程で分子間のエネルギー移動もあるが、ドナー・アクセプターのうち少なくとも一方が会合体の場合も重要な役割を演じている。この場合、ドナーとアクセプターの距離が会合体の物理的サイズよりも近いときは、フェルスター理論をそのまま適用したのでは正しい励起移動速度は計算されない。それは会合体の遷移モーメントをポイントダイポールに近似したことによる。そのような近似を行わず、もっと正確な扱いをすると会合体の光学禁制状態へもエネルギーが移りうることが結論される。このことは多くの光合成研究者の間でも十分に認識、理解されておらず、これまでは会合体の場合にもフェルスター理論をそのまま適用して議論されてきた。その扱いの結果、たいていの場合、実際の励起移動速度より小さな励起移動速度が結論され、実験結果を説明できない。そのような背景をふまえ、本論文では上述のシアニン色素J会合体を用い、会合体の光学禁制状態への励起移動を実験・理論の両面から定量的に明らかにした。

 本論文は5つの章から構成されている。第1章は分子会合体の導入を行っており、J会合体の基本的な性質を説明した。第2章では低温下で顕微分光を行うために製作した走査型近接場顕微鏡(SNOM)の説明をしている。第3章では、2次元相関分光をJ会合体の近接場分光に応用し、異なる2つのスペクトル成分を分離した。第4章では近接場吸収分光から微小領域の吸収スペクトルの違いにより、会合体のコヒーレントサイズ分布を見積もった。第5章ではカーゲート法とSNOMによる測定から、2種類の会合体間の励起移動について議論した。

 光の回折限界を超えた空間分解能で、J会合体の低温下での近接場顕微分光を行うために、走査型近接場顕微鏡を開発製作した。従来の近接場顕微鏡は主に発光分光を行うためのものであるが、我々の装置では吸収分光も行うことができ、試料を高速に2次元走査しながら全測定点のスペクトルを取得し、2次元像を得ることができる。数千点の吸収・発光スペクトルを5分程度で得ることができ、このような近接場分光システムは他に類がない。図1に顕微吸収分光により得られたポリマー分散膜中のシアニン色素J会合体の2次元吸収像(7μm×7μm)の例を示す。白い領域ほどJバンドの吸光度が高いことを表している。試料の膜厚は約30nmで開口径50nmの光ファイバーを励起に用いており装置の空間分解能は約100nmと見積もられる。この装置は照明モード・集光モード・照明集光モードのいずれの測定方法でも行え、特に集光モードではファイバーによるパルス幅の広がりがないため簡単にポンプ・プローブのような時間分解近接場顕微分光を行うことができる。

 このJ会合体は吸収スペクトルの偏光依存性を強く示すことが知られており、吸収スペクトルの配向方向に対する平行成分と垂直成分を2次元相関の解析から分離した(図2の実線)。また、この色素のポリマー分散膜を急冷しヘリウム温度まで下げると、室温のときに比べて、低エネルギー側にもう一つ鋭い発光ピークが現われる。これは会合形態の異なる準安定な会合体が形成されたと考えられる。2つの発光ピークには大きな重なりがあり、励起移動により低エネルギー側にピークをもつ会合体にエネルギー移動している。2次元相関分光を近接場発光分光に応用し、各測定点の発光スペクトルの違いから、2種類の会合体のスペクトルを分離した。

 低濃度試料の近接場吸収分光により、全測定点の吸収スペクトルのピーク位置や半値全幅の違いから会合体のコヒーレントサイズ分布を見積り、またサイズと不均一幅の関係を議論した。サイズ分布を求める際に、会合体の振動子強度が会合数に比例することと、吸光度の大きい領域ほど分子の数が多いことを考慮した。この色素会合体の配向膜は強く吸収スペクトルの偏光依存性を示すことが知られており、1次元的に分子の双極子モーメントがジグザグに配列したモデル(単位胞に2つの双極子モーメント)で吸収スペクトルを良く再現できる。図2に配向膜の2次元相関から求めた吸収スペクトルの会合方向に対する平行成分・垂直成分(実線)と、計算により求めた吸収スペクトル(点線)を示す。会合数(これに分子長軸のファンデルワールス長を掛けたものがコヒーレント長である)が上述の分布に従っているとして、それぞれの会合数の場合の吸収スペクトルをその分布の重みをつけて足し合わせた。

 このシアニン色素は低温エチレングリコール水ガラス中で2つの鋭い吸収ピーク(Jバンド)を示すことが知られており、会合形態の異なる2種類の会合体が形成されていると考えられている。この試料を薄膜にし近接場顕微鏡で吸収発光分光を行った。図3に試料上の異なる3測定点の吸収スペクトル(細線)と発光スペクトル(太線)を示す。ストークスシフトがほとんどない2つのJバンドが各測定点において確認される。吸収スペクトルは全測定点であまり大きな差違がないのに対し、発光スペクトルは特に低エネルギー側のピークに大きな違いが確認された。点Aは測定前のレーザー照射により光産物が生成されており、発光ピーク強度の減少は、その光産物へのエネルギー移動による励起子失活過程のチャンネルができたためと考えられる。この試料は励起スペクトルから2種類の会合体間の励起エネルギー移動が示唆されており、高エネルギー側にJバンドをもつ会合体から低エネルギー側にJバンドをもつ会合体へエネルギー移動が高効率で起こっていることにより、上の現象は説明される。励起移動がないときの会合体の励起状態の寿命は後述の時間分解分光のフィッティング結果から、どちらも数10psと見積もられるので、励起移動の時定数はおおよそ5psと見積もられる。

 しかしながら、発光スペクトルの高エネルギー側のJバンドと吸収スペクトルの低エネルギー側のJバンドの重なりは極めて小さく、従来のフェルスター機構ではこのような高効率の励起移動は説明できない。ところが、2つの会合体間の距離が励起子のコヒーレンスサイズに比べて小さければ、励起子バンド中の高い励起子状態(光学禁制)への励起移動が起こる。これまでは光学禁制状態へは励起移動しないと考えられてきたが、会合体は光学禁制状態でも各サイトごとに遷移双極子モーメントがある重みつきで保持されており、全体としてはキャンセルし遷移双極子は消滅するために光学禁制であるが、ドナーとなる会合体(ドナーメゾ会合体)中の各サイトの遷移双極子モーメントとアクセプターとなる会合体(アクセプターメゾ会合体)中の各サイトの遷移双極子モーメントの間の相互作用により励起移動し得る。ドナーメゾ会合体からアクセプターメゾ会合体への励起移動レートついて定式化を行った。測定はヘリウム温度で行っているため、ドナーの始状態としては励起子バンドの底の状態(光学許容)のみを考えると、アクセプター会合体のk番目の励起子状態への励起移動レートは次のように表される。

 ここで、Ukはドナーメゾ会合体の一番低い励起子状態の遷移電荷密度とアクセプターメゾ会合体のk番目の励起子状態の遷移電荷密度との間のクーロン相互作用を意味している。D(E)はドナーの規格化した発光スペクトル、Ak(E)はアクセプターのk番目の励起子状態の規格化した状態密度を表す。アクセプターの励起子バンドの中で、ドナーの発光スペクトルとの重なりが大きい励起子状態への励起移動がより高い効率で起きる。

 上の式を用い、ドナーメゾ会合体とアクセプターメゾ会合体が平行に配置されている場合の励起移動レートを計算する。図4にドナーを原点に固定し、アクセプターを平行に保ったまま会合体の中心座標を2次元的に掃引したときの励起移動レートの位置依存性を示す。会合数はどちらも20とした。この場合、ドナーの発光スペクトルはアクセプターの励起子状態のうち下から4番目の状態の状態密度と最も重なりが大きく、この状態へ一番よく励起移動するため、T4を励起移動レートとした。本論文で研究対象としているシアニン色素J会合体の構造として、メゾ会合体が平行に積層されている煉瓦構造が提案されている。ドナーメゾ会合体の周囲にアクセプターメゾ会合体がその長軸方向を平行にしかしその中心位置は一様無秩序分布しているとして、T4(Rn)をドナーDから位置RnにあるアクセプターAnへの励起移動レートとし、アクセプターの分布に対して平均を取ると、励起移動によるドナーの減衰過程は時定数4ps程度の非指数関数で表される。すなわち励起移動レートが定数ではなく時間とともに変化する。つまり、ドナー励起後初期のうちにドナーのより近くにあるアクセプターへまずエネルギーが移るため、tが小さいときほど励起移動確率は大きい。

 この会合体間の励起移動をより明確に示すために、光カーゲート法により時間分解発光分光を行った。図5にドナー会合体(実線)とアクセプター会合体(点線)からの発光強度のゲート時間依存性を示す。装置の時間分解能は1psでドナーの発光強度の立ち上がりは装置関数できまるものであるのに対し、アクセプターはさらにそれより遅れて立ち上がっている。最初の励起パルスでアクセプターも励起されるが、その後さらにドナーからの励起移動によりエネルギーを受け取っていると考えられる。

 励起移動がないときのドナー会合体とアクセプター会合体の寿命はそれぞれおよそ50ps・15ps程度であるので、ドナーの減衰曲線はほとんど励起移動による効果で決まっている。この試料はドナーとアクセプターの割合が約4:1程度でアクセプターのほうが少ないが、時間積分した全発光強度はアクセプターのほうが大きい。高効率の励起移動ということができる。この2つの減衰曲線は励起移動を考慮したレート方程式を数値的に解くことで良く再現できることが示された。

 2種類のJ会合体間の励起移動について実験・理論の両面から定量的に調べ、アクセプター会合体の励起子バンド中の光学禁制状態へ効率よく励起移動していることを確認した。会合体全体の遷移モーメントがポイントダイポールに近似できない程度まで会合体間距離が近い場合は、フェルスター理論をそのまま適用することは許されず、全サイトの遷移ダイポールモーメントの寄与を考慮した計算をしなければならないことを明らかにした。その場合、光学禁制状態への励起移動だけでなく、光学禁制状態からの励起移動も起こることが判明する。

 今後このような会合体間の励起エネルギー移動をさらに詳しく調べるために、複数の色素を用いてドナー会合体とアクセプター会合体の配置を制御した試料を作り、会合体の距離や角度を可変パラメータとして、各々の試料の励起移動速度を測定し、計算と比較することで励起エネルギー移動に対するさらなる理解が期待される。これは先にも述べたように、光合成系内分子間のエネルギー移動の理解に欠くことのできない研究となるであろう。また光学禁制状態への励起エネルギー移動に関連して、近接場吸収分光システムの空間分解能を会合体の大きさ程度まで上げると、会合体の光学禁制状態への遷移が起こり、吸収スペクトルにJバンド以外の新しいピークが複数現れると期待される。アクセプター会合体の励起子バンドの状態密度がこれにより確認されると、ドナー会合体と共鳴する状態を知ることができ、これにより近接場顕微鏡によるJ会合体の光学的特性を制御することができる可能性がある。

図1 2次元吸収像(7μm×7μm)

図2 吸収スペクトルの偏光依存性

図3 吸収発光スペクトル

図4 ドナーとアクセプターが互い平行に配置されている場合の励起移動レートの位置依存性

図5 光カーゲートによるドナー会合体(実線)とアクセプター会合体(点線)からの発光強度のゲート時間依存性

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「近接場分光によるJ会合体間の励起移動の研究(Energy transfer between J-aggregates studied by near-field spectroscopy)」を、6章からなる英文でまとめたものである。第1章では、導入としてJ会合体の基本的な性質が述べられている。第2章では、低温下で顕微分光をおこなうために製作された走査型近接場顕微鏡(NSOM)の説明がなされている。第3章では、2次元相関データ処理法の理論とその具体的な応用例が示されている。すなわち、2次元相関データ処理法を用いて近接場顕微分光や偏光選択分光のデータを処理し、ひとつの分光スペクトルに重なって入っている2つの独立なスペクトル成分の抽出がなされた。第4章では、近接場吸収分光による微小領域の吸収スペクトルのピークシフトの測定結果からJ会合体のコヒーレントサイズ分布を評価した実験について述べられている。第5章では、近接場吸収発光分光の実験とカーゲート時間分解発光分光の実験に基づく2種類のJ会合体間の励起移動の実験的検証について述べ、さらに理論的な解釈を与えている。第6章では、まとめと将来展望が述べられている。

 本研究で用いられた走査型近接場顕微鏡の装置は、吸収測定が可能で、高速2次元走査が行えるように、本人が独自に開発したものである。本装置では数千点の吸収・発光スペクトルを5分程度で得ることができるが、これは従来の他の装置では達成されていなかった性能である。装置の空間分解能は約100nmで、試料を急冷し低温下で顕微計測が可能である。汎用の倒立顕微鏡と組みあわせた形になっており、目視による同時観察が可能で、さらに時間分解計測など他の測定への展開が可能な形に設計されている。2次元相関データ処理法を走査型近接場顕微分光のデータ処理に用いたのも本研究が初めてである。カーゲート法時間分解発光測定も自作の装置によるものであり、ここで達成されている1ピコ秒の時間分解能の発光測定は市販の装置では行うことができないものである。これらの点で、測定手法に関わる本人の高度な技術とその物理的裏付けをうかがい知ることができる。

 試料は、ポリマー膜やエチレングリコール水ガラス膜に分散されたシアニン色素のJ会合体で、スピンコート法および垂直スピンコート法により作製されたものである。作製手法自体は本人の開発によるものではないが、良質の均一な薄膜を得るために多大な努力が払われている。

 行われた実験うち、まず、近接場吸収分光による吸収スペクトルのピークシフトの測定は、J会合体のコヒーレントサイズの分布を評価するために行われた。結果は、測定の空間分解能程度の微小領域の平均的なサイズの分布を評価するにとどまっているが、全く過去に評価がなされていなかったサイズ分布について一定の知見を得ており、また将来の目標として掲げられた単一J会合体を分離する実験に向けて意欲的な取り組みと評価できる。また、この結果は、J会合体の吸収スペクトルの偏光依存性のフィッティング解析など、他の実験結果を解析する場合にも重要である。

 次に、エチレングリコール水ガラス膜に分散されたシアニン色素のJ会合体で近接場吸収発光分光の実験において、試料に含まれる2種類の異なるJ会合体のスペクトル間に重なりがないこと、しかしながら高エネルギー側のピークに対応するJ会合体から低エネルギー側のピークに対応するJ会合体へ励起移動が起きていることが示された。さらに、カーゲート時間分解発光分光の実験により、高効率の励起移動が起きていることが発光の時間変化からも直接確かめられた。スペクトルに重なりがないような2種類の双極子間では、従来のフェルスター理論によれば、双極子−双極子相互作用による励起移動は起こり得ないとされている。そこで本研究では、J会合体を、ポイント状の双極子ではなく、コヒーレントサイズに相当する有限の大きさをもつ1次元フレンケル励起子としてモデル化し、励起移動の理論を構築した。その結果、2種類のJ会合体間の距離が励起子のコヒーレントサイズと同程度以内であれば、励起移動が有効に起こることが示され、実験結果を解釈することができた。これらの成果は、J会合体間の励起移動について新しい機構を実験・理論の両面から提示するものであり、高く評価できる。

 なお、本研究は指導教官らとの共同研究の形で行われているが、測定装置の開発、実験の遂行、結果の解析、など本人の寄与が本質的であることが認められた。

 よって、論文審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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