学位論文要旨



No 116869
著者(漢字) 山下,靖文
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,ヤスフミ
標題(和) スピネル化合物におけるフラストレーションと揺らぎの理論
標題(洋) Theory of Frustration and Fluctuations in Spinel Compounds
報告番号 116869
報告番号 甲16869
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4132号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小形,正男
 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 教授 榊原,俊郎
 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 教授 永長,直人
内容要旨 要旨を表示する

 近年,極低温における磁気無秩序状態やスピングラス的な振舞いなどの興味深い現象を示す量子スピン系が注目を集めている.それらの物質に於いては,「フラストレーションにより増強された揺らぎの影響が大きい」ということが実験的にも示唆されている.しかし,強くフラストレートした格子構造と,単位胞が多くの原子を含むことなどにより,量子的な揺らぎの効果を含めた理論的な研究は困難なものとる.その結果,対応する古典スピン系以外の研究は,これまで殆んど行なわれて来なかった.そこで本研究に於いては,フラストレートした量子スピン系に関する理論的研究の第一歩として,スピン1のスピネル型絶縁体化合物ZnV2O4を対象にした理論研究を行なった.磁性を担うV3+イオン(S=1)は,頂点を共有した正四面体のネットワーク(パイロクロア格子:図1参照)を構成しており,相互作用は反強磁性的なので,ZnV2O4は典型的なフラストレート量子スピン系である.この物質についての研究は,ZnをLiに置換することにより得られる,d電子系で初めての重い電子的振舞いを示すLiV2O4の物性の理解にも役立つものと期待される.

 ZnV2O4の100K以下の低温での帯磁率(X)は,キュリー・ワイス則からはずれた弱い温度依存性を示し,3つの特異な振舞いを示す.まず,Tclus=95KからFiled cooling(FC)とZero field cooling(ZFC)の帯磁率が異なる振舞いを示し,ある種の短距離秩序の形成が指摘されている.ZFCの帯磁率は降温と共に緩やかに増加し,Tst=50Kにおける立方対称から正方対称への構造相転移(c/a<1)に伴い,Xにも不連続な飛びが生じる.最後にTN=40KでXが折れ曲がり[110], [110]方向の反強磁性鎖がc軸方向へ交互に積み重なった秩序状態へと磁気転移する.対称性の低下を伴った構造相転移としてはヤーン・テラー歪みが有名であるが,このZnV2O4の場合はVO6八面体が三方対称に歪んでおり,t2g軌道から分裂したeg*軌道(D3d群)を2個の電子が占有するので,軌道縮退はないと考えられる.従って,Tstでの相転移を別の機構で説明する必要がある.我々はZnV2O4のモデルとして,パイロクロア格子上のスピン1反強磁性ハイゼンベルグモデルを研究し,スピン自由度の縮退の解消に由来する新しい型のヤーン・テラー効果を導いた.ZnV2O4に於いて観測されている,構造相転移を含めた低温での振舞いは,この機構によって定性的に説明出来る可能性がある.

 スピン1の1次元反強磁性鎖を研究する際に導入されたVBS波動関数と類似した変分波動関数をパイロクロア格子上のスピンモデルに対して定義する.その為に,正四面体の頂点に位置するスピン1を二つのスピン1/2に分割して考え,1次元の時のダイマーの代りに,正四面体を基本単位と考える.正四面体を構成する4つの大きさ1/2のスピンの和がゼロというスピン一重項は正四面体群のE表現に属し,カイラリティーに由来する二重縮退を持つ.この正四面体一重項の直積の波動関数を作り,すべての頂点に於いて,分割された2つの1/2スピンを対称化する(図2参照).対称化後の波動関数は「正四面体を構成するスピンに関する全スピン3への射影演算子の和の演算子」の厳密な基底状態となっている.射影演算子は反強磁性ハイゼンベルグモデルに高次のスピン間相互作用が付け加わったもので表される.1次元反強磁性鎖とAKLTモデルが同じユニバーサリティーに属することから類推すると,今導入した波動関数が「パイロクロア格子上のスピン1ハイゼンベルグ模型」を記述する良い変分関数になっていると期待される.1次元の場合と大きく異なるのは,カイラリティーの縮退による波動関数のマクロ(2の正四面体の個数乗)な縮退で,この縮退をどう解くかという問題がこのモデルの本質であると言える.私達は縮退を解く機構として具体的に以下の2つの場合を考えた.(1)スピンと格子の相互作用に起因する対称性の低下について考察する.(2)スピン間の2次,3次近接相互作用によって縮退が解消される可能性について議論する.

 (1)については先ず,スピン・格子間の相互作用を導くことから始めた.結合定数以外のハミルトニアンの形は対称性にのみ依存しており,群論的な解析により求めることができる.格子の歪みによる弾性エネルギーの増加も加味した上で,最低次オーダーの結合を摂動的に取り込むと,正四面体のTd点群の基準座標のうち,E表現に属するモードが安定化されることが分かった.さらに,弾性エネルギー及びスピン・格子結合の高次の相互作用も考慮するとE表現内での縮退が解け,ある一つの結晶軸方向(3つの軸は等価)に伸長,又は圧縮された格子構造が安定化される.この変形が全正四面体で協力的に起きれば,c-軸方向に一様に縮むという実験的に観測されているZnV2O4の構造相転移を再現することが出来る.

 つぎに(2)については,対称化を強磁性相互作用として2次,3次近接相互作用と共に摂動として扱うことにより,、隣接正四面体間の有効相互作用を導いた.その結果,正四面体一重項をカイラリティー基底で表示し大きさ1/2の擬スピンを導入することにより,有効ハミルトニアンはZnS-バイパルタイト格子上のXYモデルで記述されることが分かった.このことはカイラリティーの長距離秩序が今回考えたモデルでは起きないことを示している.XY面内での擬スピンの方向は高次の相互作用により決まる.具体的には,自由エネルギーを秩序変数で展開しその3次の異方性を調べることにより,対称性のみからスピンの秩序状態が決定された.その結果,(A)系は降温と共に正四面体スピン一重項の無秩序状態から秩序状態へと1次転移し,(B)基底状態は各正四面体に対してc軸に垂直なボンドのパリティー対称性の破れによって特徴付けられることが分かった.このスピン秩序は(1)の場合のスピン秩序と全く同じものなので,ZnV2O4において,2次,3次近接スピン間相互作用の方が本質的に重要である場合についても,スピン秩序が弱いスピン・格子相互作用を通じて有限の格子変形を誘起するものと考えられる.

 以上,(1)または(2)の機構によってZnV2O4に於いて観測されている構造相転移を理解することが出来る.このシナリオによると,低温での帯磁率や電子エントロピーの振舞いは以下の様に理解される.先ず,高温側の帯磁率のCurie-Weissフィットにより交換相互作用はJ=52.5Kと見積もられている.この値は構造相転移温度(Tst=50K)とほぼ同じである.したがって,構造相転移はスピン一重項が起源であるとしても,T〜J程度の低温領域では,熱的に励起されたスピン三重項も帯磁率や電子エントロピーに寄与しているはずである.Tst<T<100K付近での,降温と共に緩やかに増加する帯磁率はこのスピン三重項によるもと考えられる.TstでのXの不連続な飛びは,「二重に縮退したスピン一重項の分裂による分配関数の増加」がもたらすXのスピン部分の減少によって説明される.私達のシナリオによると,構造相転移に伴い解放されるエントロピーは,「Rln2=5.76J/mol・K+格子歪みの寄与」となる.この値に加えて,スピン三重項からの寄与も考慮すると,最近の近藤らの実験によるTst付近での電子エントロピーの見積り約7J/mol・Kと矛盾しないと考えられる.一方,縮退した軌道自由度による電子系のヤーン・テラー効果を仮定すると,「2Rln2=11.52J/mol・K+スピン自由度+格子歪みの寄与」がTst付近での電子エントロピーとなり,この値は実験と比べて明らかに大き過ぎる.

図1:パイロクロア格子の単位格子及び,その[111]方向への投影図

図2:1次元VBS状態及び,正四面体一重項の直積波動関数の模式図.

図中の矢印(左図),正四面体(右図)はそれぞれ,ダイマー一重項及び,正四面体一重項を表す.

審査要旨 要旨を表示する

 量子スピン系において、スピン間相互作用により長距離秩序が生じることが多くあるが、結晶構造や相互作用の符号や大きさによっては、すべてのエネルギー利得を満足させるようなスピン配置が決まらない場合がある。これをフラストレーションと呼んでいる。実際、いくつかの物質においてフラストレーションが生じていると考えられており、その結果として興味深い量子現象が現れると思われている。

 このようなフラストレートしたスピン系に対する理論としては、古典的なスピンに対する研究が行われてきているが、量子スピン系の場合には理論的な取り扱いが数値計算を含めて難しい。最近、長距離秩序を持たない量子スピン系の基底状態の1つの可能性として、valence bond solid(VBS)という状態が提唱されており、非常に興味が持たれている。この状態は、すべてのスピンが隣接のスピンと対をつくり、その2つのスピンが一重項を形成した状態である。この場合、明らかに長距離秩序は存在せず、励起スペクトルにギャップがあると予想される。

 本研究では、このようなVBS状態が3次元的にフラストレーションを持つパイロクロア格子上のスピン1の量子スピン系において実現するのではないかということを議論した。さらにこの考え方によって、ZnV2O4という物質の相転移が理解できるのではないかということを指摘した。

 本論文の第一章は序、第二章ではZnV2O4に関する実験結果をまとめている。ZnV2O4は実際にはスピネル型の結晶構造を持つが、磁性を担うV3+イオンは頂点を共有した正四面体のネットワーク、つまりパイロクロア格子を形成している。またV3+イオンはスピン1を持ち、相互作用は反強磁性的であるのでフラストレーションを生じている。

 次の第三章からが本研究で調べた理論の結果である。まず、1次元スピン系の場合に導入されたVBS状態をパイロクロア格子上のスピンモデルに対して拡張し、1次元との類推からVBS状態が基底状態となるような新たなハミルトニアンを導いた。その結果、基底状態に巨視的な量の縮退が存在するような場合があることを示した。次に第四、五章においては、上記の縮退を解くというメカニズムを(1)格子変形を伴うものと、(2)長距離スピン間の相互作用によるもの、の2つの場合についてそれぞれ調べた。(1)ではまずスピン・格子間の相互作用を群論的な解析によって絞り込み、どのような格子変形が安定化するかを調べた。その結果は、ZnV2O4で見出されている格子変形を伴う相転移と矛盾しないことがわかった。また(2)については、まず長距離スピン間相互作用を摂動として扱い、隣接正四面体間の有効相互作用を導いた。その結果を用いると、自由エネルギーを秩序変数で展開した場合に3次の異方性が生じて、(1)のスピン秩序と同じ形での相転移が起こることが示された。

 この結果に基づき第六章ではZnV2O4の実験結果との比較を行ない、上記のメカニズムによって相転移が説明できる可能性を議論した。第七章はまとめと将来の課題に当てられている。

 以上のように本研究では、パイロクロア格子というフラストレーションのある3次元量子スピン系において、VBS状態という新たな量子状態が実現する可能性を見出した。これをもとに、実験を説明できる可能性があるということを示した。ただし、実験的には(1)帯磁率が低温に行くに従い上昇する、(2)上記の相転移よりも低温で、反強磁性への相転移が起こることが分かっており、これらについて完全に理論的な説明ができたわけではない。そのため、別のメカニズムによる相転移である可能性を否定できない。このように、本研究で見出された新しいメカニズムが真のものであるかについては今後の研究を待たなければならないが、1つの新しい可能性を示したという点が評価できる。また理論的興味として、フラストレーションによるVBS状態の出現とくに基底状態の巨視的な量の縮退という観点は、大変興味深いと思われる。

 本論文の内容の一部は、英文雑誌に掲載済である。また本研究は上田和夫教授・Man-fred Sigrist教授との共同研究であるが、論文提出者は本質的な寄与をしていると認められる。以上をもって審査員一同は、本論文が博士(理学)の学位を授与するにふさわしいものであると認定した。

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