学位論文要旨



No 116870
著者(漢字) 横山,将志
著者(英字)
著者(カナ) ヨコヤマ,マサシ
標題(和) 中性B中間子のJ/ψKL崩壊を用いた大きなCP非対称性の発見
標題(洋) Observation of Large CP Violation in the Neutral B Meson System Using B0→J/ψKL Decay
報告番号 116870
報告番号 甲16870
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4133号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,富雄
 東京大学 教授 藤川,和男
 東京大学 助教授 真下,哲郎
 東京大学 助教授 徳宿,克夫
 東京大学 助教授 川本,辰男
内容要旨 要旨を表示する

 我々の住む宇宙がビッグバンによって始まったのならば、原初の宇宙では物質と反物質は厳密に同じ量だけ作られたはずである。ところが、現在の宇宙には物質のみが存在している。では反物質はどこへ消えてしまったのか?この問題を解決する鍵は、CP対称性の破れにあると考えられている。CP対称性とは、電荷などの量子数の符号を変える荷電共役変換(C)と空間の座標系を反転させる空間反転(P)を合わせた対称性のことで、この対称性が成り立っていれば粒子と反粒子の間に性質の違いはないことになる。素粒子物理学の初期には、素粒子間の反応ではCP対称性は完全に成り立っていると信じられていた。ところが、弱い相互作用ではCP対称性が破れていることが1964年に中性K中間子を使った実験によって発見された。中性K中間子系でのCP非対称性は0.1%程度という小さなものであるが、以来40年近くにわたる実験的努力にも関わらず、他の粒子系ではCP対称性の破れは観測されていない。このような背景から、CP対称性の破れの研究は現在の素粒子物理における最も重要な問題の一つとなっている。

 CP非対称性の起源について、現在最も有力と考えられているモデルは1973年に小林誠と益川敏英が提唱した理論である。このモデルは、もしクォークの種類が6種類あれば、電磁相互作用と弱い相互作用を統一した素粒子物理の「標準理論」の枠内で自然にCP対称性の破れを導入できるというものであった。小林・益川がこの理論を提唱した当時は3種類のクォーク(u,d,s)しか知られていなかったことを考えると、このアイデアは革命的といってもよいものであったが、その後のc(1974)、b(1977)、tクォーク(1995)の発見により、現在では小林・益川理論は標準理論の一部として扱われるようになっている。

 また、現在知られているK中間子やB中間子系における実験結果は、すべて小林・益川理論と矛盾しない。このことは、小林・益川理論の正しさを示唆するものであるが、一方で実験による直接的検証は十分になされているわけではない。1980年、三田一郎らは、小林・益川理論が正しいとすればbクォークを含むB中間子系では大きなCP非対称性が予想されることを示した。ここで提案されたCP非保存現象の観測方法は、B中間子の混合と呼ばれる現象を利用したものである。中性B中間子と反B中間子は、弱い相互作用によって互いに移り変わることができる。この現象を混合と呼ぶ。三田らは、B中間子が直接CPの固有状態に崩壊する確率振幅と混合して反B中間子になった後に崩壊する確率振幅の干渉の効果として、大きなCP非対称性が観測されることを予言した。

 しかしこのCP非対称性は、10-4程度の分岐比を持つある特定の崩壊事象でしか観測できないため、その測定にはまず大量のB中間子を作り出す必要がある。また、三田の予言したCP非対称性は、B中間子と反B中間子の、CP固有状態への崩壊確率の時間分布の差として現れる。そのような非対称性を観測するためには、Bの寿命(約1.5ps)よりもよい精度で測定を行う必要があり、さらに、崩壊したB中間子がある時刻にBであったか反Bであったかを識別することが不可欠となる。

 このような実験を可能にするために設計・建設されたのがKEKBと呼ばれる加速器と、Belleと呼ばれる測定器からなるKEK B-Factoryである。KEKBは周長約3kmの円形加速器で、8GeVの電子ビームと3.5GeVの陽電子ビームを蓄える2本のリングからなっている。KEKBは大量のB中間子を作り出せるよう、世界最高の輝度(ルミノシティー)を持つ加速器であり、1999年の運転開始から、2001年夏までに3000万ペアを超えるB中間子対を生成した。

 この大量のB中間子の崩壊を測定し、記録するための装置がBelleと呼ばれる測定器である。Belleは様々な働きをする検出器を組み合わせて作られているが、中でも重要な働きをするのが最も内側に置かれたSilicon Vertex Detector(SVD)と呼ばれる検出器である。前述したように、B中間子系でCP非対称性を観測するためには非常に短い時間での崩壊確率の時間分布を測定する必要があるが、KEK B-Factoryでは異なったビームエネルギーの電子と陽電子を衝突させることにより、生成されたB中間子対(重心系ではほぼ静止している)を、実験室系において飛行させ、崩壊時間を飛行距離に変換して測定している。KEKBのビームエネルギーでは、B中間子、反B中間子は崩壊するまでに平均で約200μm飛行する。この崩壊距離を測定するための検出器がSVDであり、その性能はCP非対称性の測定精度を大きく左右する。特に、崩壊距離の測定精度を高めるためには測定器の位置の厳密な較正が不可欠であるが、我々の開発した較正用プログラムは10μmの精度で検出器の位置を較正することが可能であり、物理解析に十分な測定精度を達成していることが確認された。

 中性B中間子の崩壊過程の中で、最も確実な形でCP非対称性を観測できると予言されているのが、B0(B0)→J/ψK0という崩壊過程である。K0にはCPの固有値が異なるKSとKLの二種類があり、J/ψK0の50%はCP=+1状態のJ/ψKLとして、残りの50%はCP=−1状態のJ/ψKSとして観測される。CPの固有値の符号によって、崩壊確率の時間分布に現れる非対称性の符号は異なる。一方、測定によるバイアスがもし存在するとすれば、CPの固有値によらず時間分布に同じ非対称性を与えるはずである。従って、CP=+1状態とCP=−1状態を両方使うことにより、測定のバイアスに対して様々なチェックを行うことが可能になる。このうち、本研究ではB0→J/ψKL崩壊を用いてCP非対称性の測定を行った。KLは寿命が長い(cr〓15m)ため、測定器内で崩壊することはまれであり、電磁カロリーメータおよびKL/μ検出器でのハドロンシャワーとして検出される。Belle検出器ではハドロンシャワーのエネルギーは測定されず、その方向のみを測定する設計になっている。このため、KLの運動量の大きさを測定することはできないが、B0→J/ψKL崩壊ではJ/ψの運動量をJ/ψ→l+l-(l=e,μ)崩壊を通じて測定することができるため、このJ/ψと(方向のみがわかっている)KLがB中間子の2体崩壊によって作られたと仮定すると、エネルギー・運動量保存則からKLの運動量の大きさが計算できる。

 KLの運動量を直接測ることができないため、B0→J/ψKL崩壊以外のJ/ψを含む崩壊過程において、KLの候補(実際にKLによるものと、他の粒子の相互作用をKLと見誤る場合を含む)が存在した場合には信号事象と間違えやすい。特に、CPの固有状態が背景事象に含まれる場合、CP非対称性の測定に直接偏りを生じさせることになるので、この測定において背景事象の正しい見積もりは最も重要である。背景事象は2体崩壊を仮定した場合のB中間子の運動量分布の違いによって信号事象と区別できる。B0→J/ψKL崩壊による事象ではB中間子の運動量は一定値(約330MeV/c)のまわりにピークを作るのに対し、背景事象はよりなだらかな分布を示す。本研究ではモンテカルロシミュレーションを使って求めた信号事象・背景事象それぞれの運動量分布を実データにフィットすることにより、背景事象の割合を正しく見積もる方法を開発した。

 図1は、2001年7月までにKEKBで生成された約3,100万個のB中間子・反B中間子ペアから選び出されたB0→J/ψKL崩壊の候補事象における、B中間子の重心系での運動量分布を示す。モンテカルロシミュレーションを用いて見積もった信号事象と背景事象の内訳を重ねてある。背景事象のほとんどはB→J/ψXという事象によるものであり、信号事象との運動量分布の違いにより識別されているのがわかる。信号領域中には569事象が存在し、そのうち信号事象は約346事象と見積もられた。

 この中で、さらに崩壊距離の差が正しく測定され、J/ψKLに崩壊したB中間子がある時間にBであったか反Bであったかの識別に成功した523事象について、Υ(4S)から生成された2つのB中間子の崩壊時間の差(Δt)をプロットしたのが図2である。白丸(黒丸)はある時間にB(反B)であった中間子がJ/ψKLに崩壊した場合の分布を示している。両者の分布の違いが、B中間子においてCP対称性が破れていることを示す。小林・益川理論では、この非対称性はsin2φ1というパラメータで表され、sin2φ1=0ならばCP非対称性はない。このとき、図2に示した崩壊時間分布は

という形で表される。ここで、TB0は中性B中間子の平均寿命、ΔmdはB中間子の混合のパラメータであり、+符号(−符号)はB中間子(反B中間子)が崩壊した場合に相当する。本研究では、背景事象の分布や実験の測定誤差による効果を取り入れたCP非対称性の測定方法を開発し、上記の523事象を用いてsin2φ1の値を

〓と求めた。ただし、最初の誤差は統計誤差、2つ目の誤差は系統誤差を示す。

 さらに、B0→J/ψK*0(K*0→KSπ0)という崩壊過程を使ったCP非対称性の研究も行った。この崩壊モードでは、終状態がCP=+1とCP=−1の混合状態となるため、CP非対称性の測定のためには崩壊によって生成された粒子の角度情報を用いてCP=+1成分とCP=−1成分の割合を求める必要がある。本研究では、36事象を用いて

〓という結果を得た。

 ここで得られた結果は、5σ以上の統計的有意性でsin2φ1が有限な値を持つことを意味し、B中間子系においてCP非対称性が大きく破れていることを示している。この結果は、K中間子系以外で初めてCP非保存現象を発見したものであり、小林・益川理論の正しさを強く支持するものである。また、本研究はB中間子系において標準理論の精密検証が可能であることを実証するものであり、今後のさらなる研究に向けての第一歩となる重要な研究である。

図1:B0→J/ψKL崩壊の候補事象におけるB中間子の重心系での運動量分布。

黒丸が実際のデータを表し、ヒストグラムはモンテカルロシミュレーションを用いて見積もった信号事象と背景事象の内訳を示す。点線は信号領域を示す。

図2:B中間子と反B中間子のJ/ψKLへの崩壊時間分布。

黒丸と白丸の分布の差がCP非対称性を表す。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は8章からなり、第1章はCP非保存現象の研究の重要性と本論文の概要について述べられている。

 第2章では、CP非保存という現象の素粒子物理学における意義について歴史的経緯をふまえながら解説がなされ、B中間子系でのCP非保存現象の測定について理論的・実験的考察がなされている。

 第3章では、本研究に使用された実験設備であるKEKBと呼ばれる加速器と、Belle検出器について説明がされている。特に、本研究に重要なB中間子の崩壊点を精度良く求めるためのシリコンバーテックス検出器については、そのデザインと性能について詳しく述べられている。

 第4章では、B0→J/ψKLの崩壊事象を選び出すための手続きが説明されている。KLは中性粒子であり、寿命が比較的長いため、その同定にはカロリメータ中のハドロン反応を利用するが、Belle検出器ではKLの方向のみが測られるため、信号事象を効率よく選択するとともにバックグラウンドを減らす工夫が必要となる。本論文ではモンテカルロシミュレーションを用いた詳細な研究の結果、運動学的変数を用いてバックグラウンドを排除する方法を開発し、Belle検出器で記録された31.3fb-1のデータ(約3100万個のB-反Bペアに相当)の中から、569個の候補事象を観測した。このうちモンテカルロシミュレーションによって見積もられた信号事象は346±29事象である。また、B0→J/ψK*0という崩壊事象の選別も行い、41個の候補事象を観測した。

 第5章では、B中間子系でCP非保存現象の測定を行うために必要なB中間子のフレーバーの同定と、崩壊点の測定の手順が述べられている。フレーバーの同定と崩壊点の測定に成功した事象の数は、J/ψKL崩壊で523事象、J/ψK*0崩壊で36事象であった。

 第6章では、前章までに得られた情報を元に、CP対称性の破れの大きさを表すパラメータ(標準理論の枠内でCP非対称性の起源を説明する「小林-益川理論」ではsin(2φ1)と呼ばれる)の大きさを求める手順が詳説され、結果が示されている。検出器の測定精度やバックグラウンドを考慮した上でCP非対称性に対する測定感度を上げるため行った、事象ごとの情報を取り入れた最尤法(maximum likelihood method)を用いた解析についてその詳細が示されている。特に、B0→J/ψKL崩壊ではバックグラウンド事象中にCP非対称性をもつものが含まれるため、それを考慮した形で解析を行う手法を新たに開発している。また、J/ψK*0崩壊ではCPの固有値が異なる状態を分離するため、崩壊生成物の角分布を用いた解析方法を開発している。

 第7章では上記の測定に伴う系統誤差の見積もりが行われている。また、測定の誤りによるバイアスの可能性について論じられており、様々なチェックを行った結果、解析によるバイアスはみられないことが証明されている。この結果、J/ψKL崩壊およびJ/ψK*0崩壊を用いてそれぞれsin(2φ1)=1.31,{+0.19}_{−0.23}(統計誤差)±0.12(系統誤差)、およびsin(2φ1)=0.97,{+1.38}_{−1.40}(統計誤差)±0.19(系統誤差)を得た。

 第8章は得られた結果について物理的な意義を他の実験結果と比較しながら議論し、結論づけている。J/ψKL崩壊の結果は5σ以上の統計的有意度でB中間子系でのCP非保存の存在を示すものであり、K中間子系以外で初めてCP非保存現象の存在を確立したものである。また、B中間子系で小林-益川理論の予言通り大きなCP対称性の破れが発見されたことは、小林-益川理論の正当性を強く支持するものである。これはCP対称性の破れの起源を探るという素粒子物理学の基本的な問題に関わる結果であり、この分野の進展に与える影響は極めて大きいと考えられる。

 なお、本論文ではBelleグループが国際共同実験として得たデータを用いているが、論文提出者は本研究に不可欠なシリコンバーテックス検出器の製作・運転に積極的に貢献し、特に崩壊点の測定精度を高めるための測定器の位置較正法を確立するなど、本研究に必要なデータを取得するために重要な寄与をした。また、本論文の研究については、事象選定方法の確立、CP非対称性のパラメータを求める方法の開発、系統誤差の評価等のデータ解析は論文提出者自身が行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク