学位論文要旨



No 116872
著者(漢字) リナ ハフェス マシュトウブ
著者(英字) Lina Hafes Machtoub
著者(カナ) リナ ハフェス マシュトウブ
標題(和) 高温超伝導体の共鳴および時間分解ラマン散乱による研究
標題(洋) Resonant and time-resolved Raman study of high Tc superconductors
報告番号 116872
報告番号 甲16872
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4135号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 教授 小谷,章雄
 東京大学 助教授 勝本,信吾
内容要旨 要旨を表示する

 酸化銅系高温超伝導体はここ10数年固体物理の重要な課題として、実験、理論の両面から精力的に研究されてきたが、研究が進展するにつれて、その物質群は組成やドーピングに依存したきわめて多様な相や短距離秩序を持つことが明らかになり、新たに多くの未解決な問題が発生している。ラマン散乱は、振動励起のみならず、電子的あるいは磁気的励起を研究するためのプローブとして高温超伝導体の研究においてもきわめて強力な手法である。酸化銅系高温超伝導体の中でも特にアンダードープ領域は、非常に重要であるにもかかわらず理解が遅れているが、ラマン散乱の手法は、この領域でも反強磁性短距離秩序に由来するマグノン励起や擬ギャップの検出で威力を発揮している。本論文では共鳴ラマン散乱と時間分解ラマン散乱を用いて、超伝導ギャップ付近の電子励起、フォノン励起、2マグノン励起およびその緩和過程を調べ、新しく重要な知見を得た。

 本論文の前半では、アンダードープBi2Sr2CaCu2O8-δ(Bi2212)において超伝導ギャップ付近の75meV(600cm-1)に現れる特異構造の研究を行った。光電子やラマンスペクトルに現れるこの特異ピークは、奇妙な振舞いを見せることから、その起源とともに、それが超伝導現象、擬ギャップと関連があるかどうかという点が、議論の焦点になってきた。このピークの起源と特性に関する理論と実験の両面からの膨大な研究にもかかわらず、その特性は依然として謎に包まれており、更なる研究が望まれている。この成分はTcより遥かに上の温度でも存在し続け、Tcの下では2Δギャップ的な構造へと連続的に変化して行くことが示されている。多くの解釈が提案されているが、この起源が電子的なものであるか振動的なものであるかさえ、はっきりとした証拠は出ていない。前者(電子的起源)の解釈では、Tcの上で存在するCooperペアの前駆体のコヒーレントな束縛状態に帰属される。そして、アンダードープの試料では擬ギャップと局所的反強磁性秩序に関連していると推測されている。一方、後者の解釈(振動的起源)は、ドーピングイオン依存性やアイソトープ依存性などを根拠に議論されている。

 本研究では特異ピークと電子的連続帯の詳細な共鳴ラマンの実験を、わずかにアンダードープのBi2212について行なった。Fig.1に示すように、B1g対称性のラマンスペクトルは、そのスペクトルの形状が励起波長によって大きく変化していることがわかる。A1gおよびB1gの対称性について観測された振動および電子的連続帯のラマン強度を、励起波長の関数としてプロットした共鳴曲線(Fig.2)を比較することによって、600cm-1の構造が、630cm-1に現れるA1g対称性の乱れに誘発されたモードと同様の共鳴曲線を示すことを見出し、特異構造の起源を欠陥に起因するものと特定した。一方ラマン散乱の温度依存性において、この構造の強度が超伝導状態で増大することを見出した。このことは、この構造が電子的な起源を持ち、2Δギャップ的な構造へと変化していくことを示している。この構造は超伝導状態、常伝導状態ともにB1g対称性において観測された。これらの事実より、600cm-1の特異構造が振動的なモードとペア崩壊ピークが偶然に重畳したものであると結論した。

 本論文の後半では、非常にアンダードープな(Tc=62-67K)ものから少しオーバードープ(Tc=86K)な試料までを対象として、ダイナミクスの研究を行なった。高温超伝導体における準粒子のダイナミクスは超伝導現象の理解のためのみならず、応用の観点からも強い関心が持たれている。超高速ラマン分光によって、キャリアーの基本的な特性について直接的な情報を得ることができる。マグノンと電荷移動(CT)励起は強い結合を持つので、CT励起に始まる動的な緩和現象を追跡することにより、フォノンなどの素励起とともにスピン励起のダイナミクスを研究することができると期待できる。連続励起によってストークス側と反ストークス側のラマンスペクトルを低温(5K)で測定した。温度が非常に低いので、この条件で反ストークス側にラマン信号は全く観測されなかった。これに対し、パルス励起を用いると、反ストークス側に非平衡フォノンによる非常に明瞭なフォノン構造が現れた。ストークス側については、非常にアンダードープな試料においてラマンシフトの大きな領域について調べた。その結果、z(x'y')z偏光(B1g対称性)で2000cm-1から3000cm-1にかけて幅の広い構造を観測した。これは反強磁性短距離秩序から生じる2マグノン散乱であると同定された。

 キャリアーと素励起の相互作用について新たな知見を得るために、我々は繰り返しパルス励起下でのラマンスペクトルのパワー依存性と超高速ラマン分光の測定を行った。時間分解ラマンスペクトルを1.5psと100fsのパルスを用いて測定した。。ピコ秒パルス励起において、フォノンピークはFig.3に示すようにストークス側では線型な変化(曲線(b))を見せるのに対して、反ストークス側では線型より急な依存性(曲線(a))を示すことを観測した。2000-3000cm-1の磁気的な励起についてもパワー依存性を調べた結果、z(x'y')z配置では(d)に示すような線型より急な変化を見出した。ところがA1gの見えるz(x'x')z配置では、(c)に示すようにz(x'y')z配置の結果と対照的に、線型より緩慢なパワー依存性をもつことを見出した。x'x'偏光でのスペクトル構造はx'y'と同様の位置にあるものの、その強度はB1gの2マグノンピークに比べてかなり小さくなっている。z(x'x')z配置でも多少の磁気励起の寄与があるという推測がなされて来たが、z(x'x')zスペクトルがB1gの2マグノンとはっきり違うパワー依存性を示すことは、その起源が別であることを示唆している。z(x'x')z配置において磁気的な寄与よりも強いインコヒーレントな電子的散乱の寄与が期待されるので、A1g対称性に現れる成分は電子的散乱と帰属する方がより合理的と考えられる。この非線型なパワー依存性の原因を探るためにポンプ&プローブの時間分解ラマン散乱の測定を行なった。パルス励起で得られたラマンスペクトルはx'y'偏光で0psから70psの間で時間と共に減少するという明かな遅延時間依存性を持っていた。これに対してx'x'偏光では応答はまったく異なり、ラマン強度は負の応答を示し、遅延時間の増加と共に回復した。このことからもx'x'での幅広い構造の起源はx'y'偏光で観測される2マグノンピークと起源が異なることが明かに示された。

 マグノンピークの時間的応答を説明するために、いくつかのメカニズムを考えた。Bi2212における典型的なフォノンの振動数に比較してマグノンは数倍の振動数を持っているので、マグノン放出を伴う遷移はCT励起が無輻射的に基底状態に戻る最も重要なチャンネルであると考えられる。伝導帯、価電子帯それぞれの中でフォノンを放出しながら冷却したキャリアーは更にマグノンを伴ったバンド間遷移によって基底状態に戻る。このとき余分に生成されたマグノンの分布によりラマン強度が増強される。Fig.4に示した応答は、この無輻射過程において生成された非平衡マグノンの分布を反映したものと理解され、非平衡マグノンの分布の減衰時間が0.41psであることを示している。レート方程式を用いた解析により、マグノンの寿命とCT励起の寿命はいずれも0.41psを越えないという結論を導いた。共鳴ラマン散乱と時間分解の実験は、超伝導の基本的な性質と超伝導体における素励起のダイナミクスの理解に新たな知見を付け加えると期待される。

Fig.1. Raman spectra in B1g symmetry with different excitation energies

Fig.2. Resonance Raman profiles

Fig.3 Power dependence for modes on the anti-Stokes side (a), on the Stokes side (b), a broad feature in the x'x' configuration (c) and the two-magnon peak in the x'y' configuration (d).

Fig.4 Time response for the two magnon peak in the B1g symmetry Raman spectra.

審査要旨 要旨を表示する

 銅酸化物高温超伝導体の物性研究は、ここ10数年にわたって固体物理の最重要課題の一つとして、様々な実験的手段、理論的手法を用いて行なわれてきた。なかでもラマン散乱は、格子振動の研究から、超伝導ギャップの観測、常伝導状態における電子励起の観測、反強磁性短距離秩序に由来するマグノン励起等の電子物性研究まで、多くの重要な情報を提供してきた。しかし、高温超伝導体のラマン散乱スペクトル、とくにBi系超伝導体のスペクトルには、現在でもその起源について一致した解釈が与えられていない構造がいくつかあり、それらの起源を明かにすることがラマン散乱を用いた高温超伝導体の研究を進める上で必要である。また、高温超伝導体におけるキャリアのダイナミックスを調べることも、高温超伝導機構の解明ばかりでなく将来の高温超伝導体の応用にも重要で、このようなダイナミックスの研究には時間分解ラマン散乱が有効な手法である。本論文では、アンダードープ領域を中心とするBi系高温超伝導体Bi2Sr2CaCu2O8+δについて共鳴ラマン散乱と時間分解ラマン散乱を行ない、超伝導ギャップ付近の構造の同定と電子励起の緩和ダイナミックスの研究を行なった。

 本論文は5つの章からなる。第1章の導入に続いて、第2章でラマン散乱の一般論と、ラマン散乱を用いた高温超伝導体の研究例について述べる。とくに、本論文の前半の主題である600cm-1ピークの起源についての論争点と、本論文の後半の主題である2マグノン・ピークに関するこれまでの研究例をまとめて紹介し、高温超伝導体におけるキャリア・ダイナミックスの研究の意義を述べている。

 第3章では、共鳴ラマン散乱と時間分解ラマン散乱の実験装置、実験方法、測定条件、および測定に用いた高温超伝導体試料の作製方法とキャラクタリゼーションについて述べられている。表面の汚染に起因する低温での測定の困難さと、それを克服する工夫についても記述されている。

 続く第4章で、実験結果とその解釈が述べられ議論されている。まず、アンダードープのBi系超伝導体のスペクトルに見られる600cm-1のピークについて共鳴ラマン散乱を行ない、他のフォノンや電子励起による散乱強度と入射光エネルギー依存性を比較している。その結果、600cm-1のピークが630cm-1に現われる乱れに誘発されたモードと似たエネルギー依存性を示すこと、超伝導ギャップに由来する幅広いピークが同じく600cm-1を中心に重畳し電子励起に特有のエネルギー依存性を示すことを見出している。これらの結果に基づいて、600cm-1のピークの起源は、乱れにより誘起されたフォノンと超伝導ギャップによる構造が偶然に重なったものという説明を与え、長年の論争を収束させる合理的な説明を与えている。

 続いて、高い入射光パワーやパルス状の入射光に対して、フォノンによるラマン散乱強度が非線型的に増加すること、2マグノン散乱の強度が非線型的に増加することを見出し、これらについて時間分解ラマン分光の測定を行なっている。フォノン散乱については非平衡フォノンの生成で説明し、2マグノン散乱については電荷移動による励起状態が複数のマグノンを生成して緩和するという機構を提案している。さらに、2マグノンピークと同じ位置に見られ同じ起源とも考えられていた、2マグノンとは異なる対称性成分に現われる構造が、マグノン成分とは全く異なった入射光パワー依存性、時間依存性を示すことを見出し、その起源が2マグノンとは異なることを示している。そして、最後の第5章で全体のまとめが述べられている。

 以上のように本論文は、高温超伝導体のラマン散乱において従来からその起源について合意が得られていなかったいくつかのスペクトル構造について、共鳴ラマン散乱と時間分解ラマン散乱を用いて起源の同定に必要な情報を得ることに成功したことで高く評価された。また、時間分解ラマン散乱によるキャリアのダイナミックスの研究に関しても、新しい知見を与えたことでも高く評価された。本論文は、末元徹教授、岸尾光二教授、下山淳一助教授との共同研究であり、共著の形で一部すでに公表されているが、論文提出者が主体となって研究計画の立案および測定の遂行、実験結果の解析・考察を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。従って、論文審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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