学位論文要旨



No 116906
著者(漢字) 閔,栄根
著者(英字)
著者(カナ) ミン,ヨンクン
標題(和) ネマチック液晶における分子会合構造の分光学的研究
標題(洋) Spectroscopic Study of Molecular Association in a Nematic Liquid Crystal
報告番号 116906
報告番号 甲16906
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4169号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 小林,昭子
内容要旨 要旨を表示する

 液晶は応用研究及び実用化が極めて進んでおり,非常に身近な化学物質として知られつつあるが、化合物としての本質に関しては未解明のまま残された部分が多い。とくに、液晶物質の分子会合構造は、液晶の発生機構を究明するのに極めて重要であるにもかかわらず、未だ解明されていない。4-n-pentyl-4'-cyanobiphenyl(C18H19N,以下5CBと称する)は室温で液晶相を示す典型的なサーモトロピック液晶のなかでネマチック液晶に該当する物質であり、最も単純な液晶分子として広く研究されている。しかし、これまでの研究の内容は、主に応用面を意識した、試料が接する表面の配向処理のような制御された環境での配向特性に関するものが多く、アルキル鎖のコンホーメーションを含む分子構造や様々な状態での会合構造などに関する研究は十分ではないのが現状である。計算による理論研究においても、構成原子の数が多いため、簡略化されたモデル構造を用いた計算の報告は幾つかあるものの、分子そのものを対象にして計算を行うのは容易ではない。本研究では様々な分光学的実験手法を駆使し、5CBの溶液、等方相及びネマチック相での分子構造及び会合構造を究明することを目的とした。

 実験を行う前に、まず5CBの温度や濃度の変化による会合構造変化に対する概念を立てた。5CBはサーモトロピック液晶であり、右に示したような化学構造及び相転移温度を持つ。純物質の場合、温度の変化により結晶相、ネマチック相及び等方相に変わる(図1)。その中で結晶中の分子構造はX線回折の実験から明らかになっている。しかし、ネマチック相においては大きなドメインとして存在するため粘稠な白濁した状態になるが、その正確な化学構造やドメインの大きさなどに関しては分っていない。ネマチック相を示す温度区間の間でも、温度が高いほどドメインの大きさは小さくなる。ネマチック−等方相相転移温度を越えるとドメインが急に小さくなり、透明な液体になる。さらに温度を上昇させるとモノマーの状態まで至ると予想される。溶液においては、高い濃度ではドメインが存在し、徐々に薄めて行くことにつれてドメインが小さくなり、結局低い濃度ではモノマーのみの状態が得られると予想できる。このような会合構造に関する概念にもとづいて、溶液、ネマチック相及び等方相での実験を行うことにした。

 モノマーの確認から他の会合構造を究明する方針のもとに、希薄溶液に対する検討をはじめた。溶液中で5CBがモノマーとして存在するかどうかについてこれまで、赤外スペクトルのCN伸縮バンドの濃度依存性による研究が行われており、四塩化炭素溶液の場合、10-2moldm-3の濃度で5CBはすべてモノマーになると言われていた。しかし、非極性溶媒としてn−ヘプタンを用い行ったラマン実験では、10-2moldm-3以下の濃度でもCNバンドのシフトが続けて起こるような結果が得られた。そこで、CN伸縮以外のバンドでの濃度変化を調べた。5CBがモノマーになるとアルキル鎖のコンホーメーションにも変化が起こることを期待し、CH伸縮振動領域に対して詳細な実験を行った。ラマン実験では検出限度の問題があり、10-4moldm-3より低濃度の測定は困難であった。透過型回折格子を採用した高感度分光器と高感度CCDを用い、新しいラマン装置を組み立て実験に用いたものの、測定時間は短縮したがもっと低い濃度の結果は得られなかった。低濃度の溶液に対して赤外スペクトルを測定するため、50mmの長光路長セルを用意し赤外吸収スペクトルを測定した。赤外分光用の四塩化炭素溶媒を用い、1.1×10-1から5.4×10-6moldm-3までの溶液を測定した。図2に示した測定結果からわかるように、ネマチックと溶液の比較ではCH伸縮バンド形状の大きい変化が見られるが、溶液の間には変化が観測されなかった。これは5CBが図2の濃度範囲で既にモノマーとして存在するか、強い相互作用による非常に安定したダイマーとして存在することを示唆する。これらの実験結果と、極低濃度(10-6〜10-8)での蛍光スペクトル測定の結果から、5CB分子は、これまで考えられていたより高い濃度ですでにモノマーや安定したダイマーとして存在すると予想される。そこで、この濃度領域に対して我々研究室で開発された電場変調赤外分光法を用いて実験を行った。

 大きい双極子モーメントを持つモノマーと双極子−双極子相互作用により形成されたダイマーは、外部電場に対する違う応答が期待される。電場変調赤外分光法を用いることによって、モノマーとダイマーの区別が付くこととモノマーの永久双極子モーメントを求めるのが可能になる。溶液、等方相及びネマチック相に対して測定を行った。5CBのCN伸縮振動の遷移双極子モーメントは永久双極子モーメントと平行であり、赤外吸光度変化率は次の式で与えられる。

ΔA/A=−γ2/(γ2+6) (1)

ここで、γは双極子相互作用パラメーターγ=μE/kTである。μは5CBの双極子モーメント,Eは印加電場(V/m),kはボルツマン定数、Tは温度である。この式を利用して、0.5moldm-3四塩化炭素溶液での5CBの双極子モーメントを求めた結果、4.9Dが得られた。これはモノマーとして知られている値、4.85Dと非常に近い。この結果から5CBは0.5moldm-3四塩化炭素溶液ではモノマーとして存在することが分かった。1.0moldm-3四塩化炭素溶液の場合も、5.0Dが得られた。この時、CN伸縮振動バンドの赤外吸光度変化ΔAと電場の2乗の間には、式(1)から予測される直線的な相関関係が得られた(図3)。図4には純5CBの異なる温度領域での同じ相関関係を示した。等方相では溶液と同じく直線関係を示すものの、双極子モーメントは5.8Dとモノマーよりは大きい結果が得られた。ネマチック相では直線関係から大きく逸脱する結果が得られた。これは、ネマチック相で5CB分子がドメインを形成し、モノマーとしての双極子的応答から、分極率異方性によるドメイン的応答が支配的になったためであると考えられる。図5は20Vの印加電場下で赤外吸光度変化率のin-phaseとout-of-phase信号の温度依存性を示す。In-phase信号はsin波の印加電場と同じ位相の成分であり、out-of-phase信号は90°遅れ成分である。観測される信号の位相が印加電場の位相と一致するときはin-phase信号のみ、応答に遅延が生じた場合にはout-of-phase信号も検出される。5CBの場合、in-phase信号は相転移温度(TNI)の前後で連続的に変化するのに対し、out-of-phase信号は相転移温度で急に減少した。この結果は電場応答のドメインサイズ依存性を考えることにより説明できる。つまり、温度の上昇によってドメインが小さくなり電場応答の遅れがなくなるため、out-of-phase信号は小さくなる。相転移温度より高い温度ではドメインの大きさが十分小さいので応答には遅延が生じない。しかし、これらの小さいドメインはin-phase信号には影響を与え、モノマーとして期待されるより大きな信号を与える。さらに温度を上げるとドメインがもっと小さくなり、図4の等方相(●)のようにモノマーの応答が顕著に現れる。

 電場変調赤外分光法を用いることによって、5CBのモノマーを検出し、モノマーとドメインとの電場に対する応答の違いを明らかにした。また、ネマチック相で温度によって変わるドメインサイズを赤外吸光度変化ΔAと電場の2乗の間の相関及び位相遅れから見積もることが出来る可能性を示した。

 5CBのアルキル鎖のコンホーメーションを解明するために、幾つかを試みた。アルキル鎖の変化を追跡するため、根元の水素だけが重水素化された試料を合成した(反応1)。精製には分取液体クロマト法を用い、純粋な試料を得た。また、結晶状態ではアルキル鎖のコンホーメーションが知られているため、結晶のスペクトルを測定するのはコンホーメーションの解明に非常に役に立つ。赤外スペクトルを測定するため試料を窓板に直接挟んで結晶化すると、配向された状態から結晶が得られ、変わったコンホーメーションのスペクトルが測定される。そこで、溶液のなかから生成される微結晶のスペクトルを測定するため、cryostatに装着可能な液体セルを製作した(図6)。壁面による配向の影響がない微結晶のスペクトル測定に成功した。理論計算と合わせたバンド解析から有益な情報が得られる可能性が一層高くなった。

図1

図2 Wavenumber/cm-1

図3

図4 等方相(●:48-51℃),液晶相(△:28-32℃,▲:22-25℃)

図5 Temperature (deg. C)

反応1

図6

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、液晶物質5CBの溶液、等方相及びネマチック相での分子構造及び会合構造の究明を主題として、6章から構成されている。第1章では序論として、液晶研究の現状及び本研究の目的が述べられている。第2章では導入として、ネマチック液晶の説明、試料として用いられた5CBの性質及び今まで行われた研究の紹介、5CBの会合構造変化に関する基礎概念とそれに基づいた研究戦略がまとめられている。第3章には5CB溶液の10-1〜10-8moldm-3までの低濃度領域で、ラマン散乱、赤外、紫外吸収、蛍光分光などから得られた実験結果が詳しく述べられている。一連の結果からモノマーを検出することが出来ず、会合構造の変化が、比較的高い濃度で既に生じたことが示唆された。このことから、5CB溶液の高濃度領域でのモノマーとダイマーとの区別の必要性が指摘されている。第4章には、電場変調赤外分光法を用い、高い濃度の5CB四塩化炭素溶液、ネマチック相及び等方相に対する実験結果が詳細に述べられている。電場変調赤外分光法により、0.5moldm-3四塩化炭素溶液での双極子モーメントが4.9Dと求まり、文献値4.85Dと良く一致した。この濃度でモノマーとして存在することが確認された。ネマチック相では、溶液及び等方相では検出されなかった印加電場に対する応答信号の位相遅れが検出された。このことから、モノマーとドメイン構造の電場応答の違いが証明された。さらに本章では、一定の電場下での温度依存性の実験結果から、ドメインのサイズと応答信号の位相遅れ角及び振幅を関連づける可能性が指摘されている。第5章では、本研究を行う過程で開発された、高感度ラマンシステム、低濃度で赤外測定が可能な液体セル、またアルキル鎖のコンホーメーション研究のために行った5CBの部分重水素化が述べられている。第6章には研究のまとめ及び今後の展望が述べられている。

 本論文において提出者は、今まで明らかではなかった液晶分子の会合構造の最小単位であるモノマーの溶液中での存在を明らかにした。このことから、段階的にダイマー、ドメインなど大きい会合構造の解析に関連づける道が拓かれた。また電場変調赤外分光法から電場応答とドメインサイズを関連づける重要な知見を得た。これらの業績は液晶相の発生機構を究明するうえで極めて重要な基礎となり、高く評価される。

 本論文第4章は、Chemistry Letters誌に公表済み(平松弘嗣、浜口宏夫との共著)であり、論文提出者が主体となって実験および解析を行っており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者閔栄根に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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