学位論文要旨



No 116907
著者(漢字) 長谷川,宗良
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,ヒロカズ
標題(和) コインシデンス画像法によるCS2の強光子場におけるダイナミクス
標題(洋) Coincidence imaging of molecular dynamics of CS2 in intense laser fields
報告番号 116907
報告番号 甲16907
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4170号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 高塚,和夫
内容要旨 要旨を表示する

I.序

 近年,フェムト秒レーザー光によって強光子場(>1012W/cm2)を発生させることができるようになり,摂動領域を越えた,強い光と分子の相互作用に興味が持たれるようになった。近年の研究から,強光子場にさらされた分子は,分子軸の配向,多重イオン化,分子構造変形そして,クーロン爆発を起こすことが明らかにされている。2原子分子の場合,強光子場中で核間距離が増加し,臨界距離rc〜2re(reは平衡核間距離)でイオン化確率が増大した結果,その構造からクーロン爆発することが知られている。一方,3原子分子の場合,強光子場において核間距離の変化だけでなく,結合角についても大きな構造変化が起こることが明らかとなった。これらの分子構造変形については,クーロン爆発により生成したフラグメントの角度分布を測定することによって調べられてきた。しかしながら,3原子分子では,クーロン爆発の経路が多数存在するため,それらの1つ1つを分離して観測することは不可能であった。

 一方,コインシデンス法によれば,原子・分子の光イオン化や光解離によって,電子や原子・分子イオンなど2つ以上の粒子が同時に発生するとき,この「粒子の同時生成」という単一のイベントを観測することができる。この方法を2次元位置敏感型検出器(Position sensitive detector:PSD)による荷電粒子検出に適用すれば,単一イベントで発生した複数の粒子のそれぞれが持つ運動量ベクトルを決定することが可能となる。

 本研究では,2次元PSDを用いたコインシデンス画像法を,強光子場における多原子分子のクーロン爆発過程の検出に初めて適用し,単一親分子からの信号を測定できるこの方法が,分子のクーロン爆発過程の特徴を明らかにするための有効な手段であることを示し,強光子場中での分子のクーロン爆発過程を明らかにすることを試みた。

II.コインシデンス画像法

 強光子場中の分子に対するコインシデンス測定はいくつかの困難がともなう。第1に,通常のコインシデンス法では,レーザー強度を弱くすることによってレーザー1パルス当たりのイベント数を1以下に押さえて真のコインシデンス信号を測定することが出来るが,強光子場を用いる場合はレーザー強度を弱く出来ない。また,真空チャンバー内のH2Oや炭化水素などの残留ガスに由来する信号によって真のコインシデンス信号が減少してしまう。これらの問題は,真空チャンバー内の圧力を低くすることで解決することが出来る。そのために,超高真空チャンバーを作成した。このチャンバーはサンプル領域,相互作用領域の2つに分かれており,差動排気されている。チャンバーを80℃程度で2日間焼き出すことにより,相互作用領域での圧力は〜7.8×10-11torrまで下げることができた。第2に,測定されたデータから真のコインシデンスイベントをどのように選び出すかという問題がある。これに対しては,PSDを用いたコインシデンス画像法ではフラグメントイオンの運動量ベクトルを測定することが出来るので,単一の親分子に由来するフラグメントイオンの運動量の和は保存されるという条件を用いることで解決できる。すなわち,親分子の初期運動量がゼロであるとすると,その親分子から生成した全フラグメントイオンの運動量の和もまたゼロであるようなイベントのみを選び出すことで単一親分子に由来する事象を測定できる。

 実験は以下のように行われた。モードロックTi:Sapphireフェムト秒レーザーの出力を,再生増幅器(1kHz)により増幅し,パルス幅60fs,パルスエネルギー0.18mJ/pulseのレーザーパルスを得た。焦点距離200mmのレンズを用い超高真空チャンバー中に集光することによって,光子場強度0.36PW/cm2を得た。

 CS2ガスを背圧6.5×10-2Torrで導入し強光子場と相互作用させた。この時のチャンバー内の圧力は,4.0×10-10Torrと十分に低く,レーザー1パルス当たりのPSDによる検出イベント数を0.7に押さえた。単一の親分子からクーロン爆発により生成したフラグメントイオンは,画像の歪みをおさえるために速度マッピング型飛行時間(Time of flight:TOF)質量分析器を用いてPSDに導かれ,コインシデンス画像法によって,PSD上の検出位置およびTOFを測定し,フラグメントイオンの3次元運動量ベクトルを決定した。測定された運動量ベクトルの組に対して,運動量保則の条件を課すことによって単一親分子からの測定を確実のものとした。観測されたTOFスペクトル中にはCS2の解離によって生成したCS+,S+,S2+,C+のピークがあり,これらは,2体型解離(m,n),および3体型解離(p,q,r),

によって生成したものである。

 図1に解離経路(1,1),(1,1,1),(1,1,2)から生成したS+の画像を示す。従来のフラグメントイオンを積算する方法では,これらの信号は重なりあって分離できないが,コインシデンス画像法を用いることによって解離経路を分離した画像を観測することが可能となった。

III.強光子場中におけるCS2分子の2体解離

 測定された単一親分子イオンから生成したフラグメントイオンの運動量ベクトルの組{pi}から,クーロン爆発に伴う運動エネルギー〓を求めることができる。(1,1)経路,(1,2)経路についてのエネルギー分布を図2に示す。それぞれの解離経路のEkinの平均値は,<Ekin>=4.5,9eVであった。クーロン爆発による解離がクーロンポテンシャルUCoul∝mn/rcc上で起こるとして電荷の中心間距離rccを求めると(1,1)経路,(1,2)経路のそれぞれについて,rcc=3.2(6),3.2(7)Aと求められた。このことは,親イオンCS22+,CS23+のrccが,ほぼ同じであることを示している。エネルギー分布の幅はそれぞれ,(1,1)経路では,0.9eVであったが,(1,2)経路では約2倍の2eVであった。これは(1,1)経路,(1,2)経路におけるクーロンポテンシャルの反発部分の傾斜の違いが反映されたものと考えられる。

IV.強光子場中におけるCS2分子の3体解離

 3体解離(1,1,1),(1,1,2)において,同一親分子から生成したフラグメントイオンの運動量ベクトルp1(S+),p(C+),p2(Sr+),(r=1,2)は平面内の運動に制限される。この平面上での運動量ベクトル分布を図3に示す。横軸は,p1(S+)とp2(Sr+)の成す角,θp(S,S)の2等分線と一致させた。(1,1,1)経路では,横軸に対して上下が対称的であり,(1,1,2)経路では非対称であるが,これは電荷分布の非対称性を反映したものである。CS2電子基底状態の構造を初期構造として,CS核間距離r(C-S)=1.555A,結合角γ=∠SCS=180°とし,平均振幅を考慮してクーロン爆発過程の古典計算を行った。ただし,フラグメントイオン間に働く力はクーロンカであると仮定した。計算で得られた運動量ベクトルp(S+),p(C+),p(Sr+)およびθp(S,S)を図3(黒丸)および表1に示す。この基底状態における構造から計算したSr+イオンの運動量およびθp(S,S)は,観測された値と比べて小さくなっている。これは,r(C-S)が基底状態に比べ伸びていることと,分子構造が直線ではなく屈曲構造になっていることを意味する。このことは,計算によるC+イオンの運動量が,実測値と比べて小さくなっていることにも反映されている。

 強光子場中における分子構造の定量的評価のため,初期構造パラメータr(C-S),γを変化させ,運動量ベクトルの古典力学計算を行った。その結果,強光子場中において,3体解離を起こす親イオンCS23+,CS24+は基底状態の構造と比べて,(i)r(C-S)が1.7〜1.9倍増加し,結合角がγ〜147°となっていること,(ii)CS23+,CS24+の構造がほぼ同じであることが明らかとなった。CS23+,CS24+の幾何学的構造の類似性は強光子場中における分子構造

 変形過程がCS23+にイオン化する前のCS2,CS2+,CS22+のいずれかの段階で決定づけられていることを示すものである。

 図3の(1,1,1)経路のp(C+)分布を見ると,縦軸方向にも分布が広がっており,CS23+の2つのCS核間距離が非対称な位置から解離が起こること示している。このような非対称性から来る分布を再現するように2つのCS核間距離の差Δrを求めた。その結果,Δr=0〜2.0Aとなり,電子基底状態の振動基底状態におけるゼロ点振動でのΔr=0〜0.2Aに比べて強光子場中においては,逆対称伸縮振動Δrについて幅広い分布を持っていることが明らかとなった。この広いΔrの分布は,強光子場中により形成されたドレストポテンシャルの形状を反映していると考えらる。さらに,Δr>2.0Aであるような領域も存在するが,このような大きな非対称性は物理的に考えにくく,強光子場中における分子構造の静的描像の破綻を示しているものであると考えることができる。

 (1,1,1)経路についてさらに詳細なダイナミクスを明らかにするため,p(S+)とθp(S,S)の相関について調べた(図4)。クーロン爆発直前の構造r(C-S),γとp(S+),θp(S,S)の間の対応を知るために,古典力学計算を行い,その結果を図中に示した。点線は,構造パラメータγ(=90°〜170°)を一定としr(C-S)を変化させた時,対応するp(S+)とθp(S,S)を示しており,一方破線はr(C-S),(=1.5〜4.2A)を固定しγについて変化させた場合を示している。太い破線は実測値をフィットした結果であるが,これはθp(S,S)の増加とともに,p(S+)が増加すること,すなわちr(C-S)が減少することを示している。すなわち,強光子場中における分子の構造変形において,結合角が狭まる運動と同時に,核間距離が増大するという相関の存在が明らかとなった。

 本研究では,はじめて強光子場中の分子に対してコインシデンス画像を用いて測定がおこなわれ,多数のクーロン爆発経路を分離して観測することに成功した。それによって,強光子場中CS2のダイナミクスの詳細が明らかにされた。また,強光子場中での分子ダイナミクスを調べる上でコインシデンス画像法が有効な手法であることを示した。

図1 解離経路を分離したS+のコインシデンス画像

矢印は電場ベクトルのPSD面への射影成分を示す

図2 クーロン爆発による放出運動エネルギー分布

図3 三体解離の運動量ベクトル分布

●は,基底状態の構造から解裂したときの運動量を示している。

表1 三体解離経路(1,1,1),(1,1,2)から生成した運動量(103amu m/s)と角度θp(S,S)およびその計算値a)

a)計算値は基底状態(r(c-s)=1.555A,<γ>=174.0°)から求めた値<γ>は分子軸を極軸とした方位角について平均した値で,変角分布関数をP(γ)として〓で定義される。

図4 p(S+)-θp(S,S)相関図

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章からなり、第1章は強光子場における原子・分子の挙動および従来の研究の問題点、第2章は強光子場における分子の挙動を詳細に調べるために本研究にて作成されたコインシデンス画像装置に関する説明、第3章はコインシデンス画像法を用いて観測された強光子場におけるCS2分子の構造およびダイナミクス、第4章は本論文の結論について述べられている。

 本論文は、強光子場中の分子において従来の研究結果からは明らかとされていなかった分子内運動の相関の観測、様々なクーロン爆発解離経路を分離して測定し強光子場における分子の構造およびダイナミクスの詳細を調べることを目的としたものである。

 このため、過去の研究において用いられていたイオン検出器を用いず、2次元位置敏感型検出器を用いる事によって、強光子場下の一つ一つの分子の事象をとらえ、生成したフラグメントイオンの運動量ベクトルを3次元的に測定できるコインシデンス画像装置を開発している。コインシデンス画像法を用いた強光子場における多原子分子を研究する例は今までにはなく、この手法を用いて強光子場中の分子ダイナミクスを調べる点で、本論文は独創的なものであると言える。

 さらに、このコインシデンス画像法を用いての具体例として、0.36PW/cm2の強光子場におけるCS2分子のダイナミクスを調べている。2体解離経路(m,n):CS2z+→CSm++Sn+(z=m+n)および3体解離経路(p,q,r):CS2z+→Sp++Cq++Sr+(z=p+q+r)のうち、(1,1),(1,2),(1,1,1),(1,1,2)を分離して観測した。これは、従来は分離して観測することが不可能であった強光子場中の3原子分子からのクーロン爆発解離過程を初めて分離したものである。そして、解離経路を分離して得られた運動量ベクトル分布をもとに、CS23+イオンのクーロン爆発直前の分子構造およびダイナミクスを解析し、強光子場においてCS2分子は結合距離が伸びながら変角運動が誘起するという相関運動の存在を明らかとした。また、電子基底状態のCS2の分子構造分布からは異なった結合距離に関する非対称性の存在が初めて発見された。さらに、観測された運動量ベクトルを再現するように強光子場中のCS2分子の構造を仮定し、フィッティングにより分子構造パラメーターの決定を行っている。その結果、強光子場においてCS2分子は、電子基底状態の構造(結合距離r=1.555A、結合角γ=174.0°)に比べ結合距離が伸び(r=2.6A)、屈曲した構造(γ=167°)をとっていることが明らかとされた。

 このような解離経路を分離した強光子場中分子の分子構造パラメーターの決定や、単一親分子内における結合距離と結合角間の相関運動の発見は、本研究において開発されたコインシデンス画像法を用いる事で初めて明らかにされたもので、強光子場における分子ダイナミクスの研究において本論文の意義は非常に大きいものである。

 なお、本論文第2章、第3章は、菱川明栄・山内薫との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析・考察を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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