学位論文要旨



No 116908
著者(漢字) 石川,広典
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,ヒロノリ
標題(和) 2−アミノピリジン/酢酸系における二重プロトン移動反応機構の分光学的研究
標題(洋) Spectroscopic Study of Double Proton Transfer Reaction Mechanism in the 2-Aminopyridine/Acetic Acid System
報告番号 116908
報告番号 甲16908
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4171号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 高塚,和夫
内容要旨 要旨を表示する

1. 序

 化学反応を理解するうえで、プロトン移動反応は、最も単純かつ基本的な反応の一つである。また、プロトン移動反応は生体系においてもプロトン輸送という重要な役割を演じている。一般に、生体系におけるプロトン輸送は、2つ以上の水素結合のネットワークを通じた多重プロトン移動により行われる。この、多重プロトン移動反応の最も単純な系として考えられるのが、二重プロトン移動反応である。二重プロトン移動反応機構の解明は,水素結合ネットワーク上での多重プロトン移動反応の理解への手がかりとなると考えられる。この反応は光化学の視点からも、励起状態プロトン移動反応として興味がもたれている。また、光励起により反応を開始し観測が出来る点からもからも興味深い。

 本論文では,このピコ秒時間分解蛍光分光を用いた溶液中の二重プロトン移動の研究結果について報告する。本研究では、対象とする分子系は、2−アミノピリジン(2AP)/酢酸系の二重プロトン移動を伴うアミノ−イミノ互変異性化反応で、二重プロトン移動反応機構の解明に挑んだ。本論文の目的は、特に2つのプロトンが同時に協奏的移動するのか段階的に移動するのかを明らかにすることを目指した。さらに、その反応における詳細な情報を得る為に、温度変化および溶媒変化についてもおこなた。

2.定常吸収と蛍光

 定常紫外可視吸収、蛍光スペクトルの測定及び蛍光寿命測定を詳細に行なった。これらのデータは、以下に述べるピコ秒時間分解蛍光スペクトルの測定結果を議論する為に必要であるので述べる。

 2AP(1×10-3 mol dm-3、以下一定)のみでは、吸収極大が289nmに観測された。酢酸の濃度を、順次増加させると吸収極大は、299nmにレッドシフトした。等吸収点は230nmおよび291nmに観測された。2−ジメチルアミノピリジン(2DAP)は2APのアミノ基水素原子をメチル基に置換し、アミノ−イミノ互変異性化を阻止したアミノ形モデル合成物の吸収スペクトルである。2DAPは、酢酸を添加してもその吸収スペクトルには変化を示さない。このことから、2AP/酢酸系の吸収バンドのレッドシフトは、アミノ基を含む水素結合によることがわかる。1-methyl-2(1H)-pyridinimine(1MPI)はイミノ構造を2APの環窒素のメチル化により安定させたモデル合成物である。この吸収スペクトルを示す領域では吸収は無い。これらから、本実験条件では、2APのイミノ互変異性体が基底状態で形成しないと結論した。

 次に、定常蛍光スペクトルにより励起状態の2AP/酢酸系を調べた。酢酸の添加量は、吸収スペクトルと同様である。最大波長325nm(F1)の蛍光は、酢酸の有無に関係無く観測された。このバンドは、酢酸の存在なしでも観測される。これは、酢酸と水素結合を形成しない2APモノマーからの発光である。一方、酢酸を順次添加すると325nmのF1バンドに加えて、大きくストークシフト変更し振動構造をしめすバンドが420nm(F2)に観測された。また、等発光点を387nmに観測した。蛍光励起の実験から、F2の蛍光は基底状態で形成された2AP−酢酸水素結合体が励起されて発光したものとわかった。さらに、2APのアミノ形モデル化合物である2DAP/酢酸系、及びイミノモデル化合物である1MPIの蛍光測定から、F2は励起状態で形成されたイミノ互変異性体からの発光と帰属できる。

3.ピコ秒時間分解蛍光分光

 励起状態二重プロトン反応のダイナミクスにたいして、より詳細な情報を得るためにピコ秒時間分解蛍光分光により得た事に対して述べる。

 図1にピコ秒時間分解蛍強度の時間変化を示す。図1(a)は2AP/酢酸系、図1(b)は2APのみ、図1(c)は同時に観測した励起光パルスである。実験値は、白抜き丸で示す。図1(a)及び(b)における実線は、装置応答関数の立ち上がりを示たものである。図1(a)−1より325nmでは、2AP分子からの発光が観測される。この波長の蛍光は、装置関数での立ちあがりを示した。これは、図1(b)に示す2APだけでの測定結果と同様である。図1(a)−2に示す360nmの時間変化は、装置応答関数で立ちあがった後、早い減衰成分を観測した。この信号には、バックグラウンドとして2APからの発光が乗っている。一方、図1(a)−3に示す480nmの発光は、励起状態で形成したイミノ互変異性体からの蛍光である。これは、装置応答関数より遅れた立ち上がりを観測した。

 図2に360nmでの早い減衰と480nmにおける立ちあがりに関して詳細に解析したデータを示す。360nmでの蛍光強度時間変化は、反応に寄与しない2APモノマー分子からの発光バックグラウンドを引いたものである。フィッティング解析の結果からτ=5±1psの減衰定数を得た。一方、480nmでは、τ=5±1psの立ちあがりが観測された。このことは、360nm付近に示す発光種の消滅とともに、480nmの発光種であるイミノ互変異性体が生成する事を示す。また重水素置換により、これらの時定数はτ=5±1psからτ=7±1psと変化した。このことは、5±1psの時定数がプロトン移動反応にするダイナミクスを反映していることを強く示唆する。

 360nmにおける早い減衰を示す発光種を同定するために、0psの時間分解蛍光スペクトルの解析を行った(図3)。図4(a)−1は、0psの2AP/酢酸系の蛍光スペクトル、図3(a)−2は、0psの2APのみの蛍光スペクトル、図3(a)−3は、0psのイミノ互変異性体の発光を仮定した蛍光スペクトルである。これらから、1−(2+3)の差スペクトルを得た。その結果を、図3(b)に示す。この差スペクトルは、370nmで極大を示し、図3(c)に示すプロトンが1つ移動したモデルである1N−硫酸水溶液中の2APカチオンの蛍光スペクトルと非常に良い一致を示した。以上の実験から、360nmで観測した早い減衰の発光種は、2AP環窒素に酢酸OHからプロトンが1つ移動した反応中間体によるものであるとが分かった。以上により、反応中間体をスペクトルによって同定し、中間体を経由して段階的に進行することが明らかとなった。これは、段階的二重プロトン移動反応機構の確証を得た初めての研究である。結果をまとめた、2AP/酢酸系の励起状態二重プロトン移動反応のスキームは、図4に示した。

4.温度変化と溶媒変化

 ここでは、2つ目のプロトンの移動に対する反応障壁、および炭化水素溶媒の粘度を変化させ、反応におよぼす影響からプロトン移動反応のメカニズムについて述べる。

 室温で観測される反応中間体は、非常に弱い発光で5psの減衰を示す。一方、光励起により生成したイミノ互変異性体は、5psの立ち上がりを示した。これらの時定数は、低温下で大きくなり、反応中間体からの発光強度は、急激に増大することを示した。図5は、イミノ互変異性体生成の立ちあがりの温度依存性を、アレニウスプロットしたものである。反応速度の温度依存性は、1/Tを3.3×10-3(303K)〜4.4×10-3(228K)の範囲で、直線を引き、その傾きから活性化エネルギーを3.2±0.6Kcal/molと見積った。重水素置換の実験からは、重水素効果を示した。そのアレニウスプロットは、同様な傾きを示し、ほぼ同様な値を得た。これは、二個目のプロトン移動反応がトンネル効果で進行するのではなく、熱的に進行していることを示す。一方、炭化水素溶媒を変えた実験からは、プロトンの反応速度に遅れが観測された。n−ヘキサン溶媒中では、イミノ互変異性体は、5psの立ち上がりを示したが、n−ヘキサデカン中では、7psに変化した。また、溶媒を変化させ、基底状態における2−アミノピリジンと酢酸の水素結合会合体のIRスペクトルを測定した。水素結合に起因する振動バンドは、n−ヘキサンからn−ヘキサデカンに変える事で、その吸収位置と幅において変化が観測された。この変化と得られた反応速度には、相関がある事がわかった。これは、溶媒分子が作る場の揺動とプロトン移動反応に関わる溶質分子に与える影響がある事が示唆された。

図1 ピコ秒蛍光強度時間変化

図2 通常化合物(H)と重水素化合物(D)の蛍光強度時間変化

図3 0ps時間分解蛍光スペクトルの解析

図4 スキーム

図5 アレニウスプロット

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、生体中におけるプロトンリレーのメカニズムを解く手がかりととなる励起状態2重プロトン移動反応のダイナミクスの解明を主題として、6章から構成されている。第1章では導入として、プロトン移動反応の一般論が述べられている。さらに、励起状態プロトン移動反応研究の歴史と現状が概説され、本論文の位置づけが述べられている。第2章には、実験装置、解析方法および用いた試料について詳しく述べられている。第3章では、4章での実験結果を正確に議論するために、定常分光および蛍光寿命など、2−アミノピリジン/酢酸系の基礎的な分光情報が述べられている。第4章では、2−アミノピリジン/酢酸系の二重プロトン移動反応のピコ秒ダイナミクスを詳細に調べている。2−アミノピリジン−酢酸水素結体は、光励起されると、本実験の装置時間分解能よりはるかに短い時間でプロトン付加された2−アミノピリジンカチオンと酢酸アニオン対の反応中間体をすることがわかった。形成された反応中間体は5psの寿命で減衰し、それと同時に形成されるイミノ互変異性体からの蛍光は、5psの立ちあがりを示すことがわかった。以上の結果から、2−アミノピリジン/酢酸系の2重プロトン移動反応が、段階的に進行することが明らかとなった。本研究は、段階的光誘起二重プロトン移動反応機構の確証を得た初めての研究である。第5章では、二段階目のプロトン移動反応のダイナミクスに対する温度および溶媒の影響を検討し、プロトン移動反応メカニズムに関して考察した結果が述べられている。観測されたプロトン移動反応ダイナミクスの温度および溶媒依存性が、既存の2つのモデル、バリアレスなポテンシャル面での反応とプロトントンネリング、で説明することが困難であることを示し、プロトン移動反応過程が溶媒/溶質相互作用によって支配される可能性を示唆している。第6章では、本論文全体のまとめが述べられている。

 本論文において提出者は、2−アミノピリジン/酢酸系で光誘起二重プロトン移動反応が段階的に進行することを明らかにし、プロトン移動による光互変異性化反応の機構に関する極めて重要な知見を得た。この業績は独創性に富み、光物理化学の進歩に少なからず貢献しており、極めて高く評価される。

 本論文第3章および4章は、Journal of Physical Chemistry紙に公表済み(岩田耕一、濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行っており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者石川広典に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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