学位論文要旨



No 116909
著者(漢字) 柿澤,多惠子
著者(英字)
著者(カナ) カキザワ,タエコ
標題(和) 5族および7族遷移金属錯体とボラン−ルイス塩基付加物の反応
標題(洋)
報告番号 116909
報告番号 甲16909
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4172号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 塩谷,光彦
内容要旨 要旨を表示する

 アルカン、シランおよび水素分子のE-Hσ結合(E=CR3, SiR3, H)が金属に3中心2電子結合で配位した錯体はσ錯体と呼ばれている。一般にσ錯体は、配位子中のE-Hσ結合から金属の空のd軌道へのσ供与と、満たされている金属d軌道から配位子のE-Hσ*軌道へのπ逆供与によって安定化されている。そして、金属からE-H結合へのπ逆供与が更に強くなると完全な酸化的付加が進行する。従って、σ錯体は、アルカンのC-H活性化などの酸化的付加を伴って進行する様々な触媒反応の中間体として注目を集めている。

 本研究では、[CpMn(CO)3]とボラン−ルイス塩基付加物BH3・L(L=NMe3, PMe3)との光反応により、ボランのB-Hσ結合が金属に配位したボランσ錯体[CpMn(CO)2(η1-BH3・L)](1a=NMe3, 1b=PMe3)の合成に成功した(式1)。

得られた1aおよび1bの構造をFigure 1に示す。1a, 1bのMn-H-B結合角は、それぞれ142(3)'、129(3)'であり、架橋B-H結合の配位様式はend-on型に近いことがわかった。

 一般に、E-Hσ結合が金属中心に対してアプローチする際、E-Hσ結合はend-on型からside-on型の配位様式となった後、完全な酸化的付加が進行する。

これまでに知られているシランσ錯体[CpMn(CO)2(SiHR3)]のE-H結合の配位様式はside-on型であり、酸化的付加がかなり進行した状態のσ錯体に分類される。それに対し、1はend-on型の配位様式を持ち、酸化的付加の初期状態に相当する非常に特徴的なσ錯体であることが分かった。

 また、1の架橋B-H結合の配向から、金属からB-Hσ*軌道へのπ逆供与の寄与が極めて少ない配位であることが推定された。本研究では、1aのモデル化合物[CpMn(CO)2(η1-BH3・NH3)]をもとにFenske-Hall分子軌道計算を行ない、1の結合の性質を明らかにした。得られた結合ダイアグラムをFigure 2に示す。計算の結果、ボラン−金属間の結合はB-Hσ軌道から[CpMn(CO)2]フラグメントのLUMO(a1)へのσ供与によって成されていることが分かった。

また、錯体のHOMOは[CpMn(CO)2]フラグメントのHOMOであり、錯形成に際して全く安定化していないことが分かった。すなわち、金属のd軌道からB-Hσ*軌道へのπ逆供与は見られなかった。B-Hσ*軌道へのπ逆供与が起こりにくい理由としては、B-Hσ*軌道のエネルギーレベルが非常に高いことがあげられる。これは、金属からSi-Hσ*軌道へのπ逆供与によって安定化するシランσ錯体[CpMn(CO)2(SiHR3)]とは逆の傾向を示している。

 IRスペクトルでは、1のv CO(1a:1927、1820; 1b:1918、1839cm-1)は、[CpMn(CO)3]に比べ100cm-1近く低波数側にシフトしていた。これらの値は、シラン錯体[CpMn(CO)2(HSiR3)]のCO吸収のシフト(20-60cm-1)に比べて非常に大きく、マンガン上の電子密度がシラン錯体に比べてボラン錯体の方が高いことを示している。この結果もボラン配位子がマンガンに対してσ供与で結合し、π逆供与を殆ど受けていないことを支持している。

 1のNMRを測定した結果、1は溶液中で金属−ホウ素間を架橋したB-H結合とホウ素上の末端B-H結合が高速で交換するフラクショナルな性質を持つことが分かった。また、配位したボランのフラクショナルな性質は低温でフリーズすることが本研究により明らかになった。温度可変1H-NMRの融合温度から求めた1の活性化自由エネルギー△G〓は40kJ mol-1(1a, 253K)および30kJmol-1(1b, 193K)であった。△G〓の値は、より電子供与性の高いルイス塩基を導入した1aの方が高いことが分かった。

 マンガンと同族であるレニウムを中心金属として持つ[CpRe(CO)3]を用いたボランσ錯体の合成を試みた。[CpRe(CO)3]およびBH3・L(L=NMe3, PMe3)を含むベンゼン-d6に光照射した結果、ボランσ錯体[CpRe(CO)2(η1-BH3・L)]の生成がNMRで確認された。また、この系ではベンゼン-d6中のC-D結合およびボランのB-H結合の活性化を伴ったボラン類のH-D交換反応が進行し、BH3-xDx・L(L=NMe3, PMe3;x=1〜2)の生成も確認した。

 [CpMn(CO)3]および第二級アミンボランBH3・NHR2をベンゼン-d6中で反応させた結果、脱水素を伴ったボランのカップリング反応が進行し、アミノボラン2量体[BH2NR2]2および3量体[BH2NR2]3が生成した(式2)。

 我々のグループでは、[M(CO)6](M=Cr, W)を用いた同様のアミンボランの脱水素カップリング反応を既に報告している。しかし、本研究により[CpMn(CO)3]も触媒活性を持つことが分かった。また、第一級アミンボランBH3・NH2Meのカップリング反応では、[M(CO)6]触媒を用いた場合イミノボラン3量体(N, N', N"-トリメチルボラジン)[BHNMe]3が生成するのに対し、[CpMn(CO)3]を用いた場合はアミノボラン3量体[BH2NHMe]3が生成した。従って、本研究により目的の生成物に合わせた触媒の選択が可能であることが示された。

 また、[CpV(CO)4]とBH3・NMe3とのベンゼン-d6中での光反応によるボランσ錯体[CpV(CO)3(η1-BH3・NMe3)]の合成を試みたが、[CpV(CO)4]の2量化が進行し、ボランσ錯体の生成は見られなかった。しかし、[CpV(CO)4]は第二級アミンボランBH3・NHR2の脱水素カップリング反応に対しては高い活性を持つことが分かった。[M(CO)6]および[CpMn(CO)3]を触媒として用いる場合には中圧水銀灯による強い光照射が必要であったのに対し、[CpV(CO)4]は室内蛍光灯程度の弱い光照射でも触媒として機能することが分かった。また、第一級アミンボランBH3・NH2Meのカップリング反応では、[CpMn(CO)3]を用いた場合と同様に、アミノボラン3量体[BH2NHMe]3が生成した。今後の課題として、ボランの脱水素反応の反応機構の解明および、より高分子量の無機化合物の合成への展開が望まれる。

 無機化合物の脱水素カップリング反応は、均一系遷移金属触媒が有機高分子化学だけでなく無機高分子化学を大きく発展させる可能性からも興味深い研究分野である。また、ボランσ錯体の合成・単離、その結合様式の詳細な検討および錯形成に関わる軌道の相互作用の解明は、今後のボラン化学の発展だけでなく、酸化的付加を伴って進行する様々な触媒反応の解明および触媒設計を行なうための重要な指針になることが予想される。

Figure 1.1a(a)と1b(b)のORTEP図。

代表的な結合距離(A)および結合角(deg).1a: Mn…B 2.682(3), Mn-H(brid) 1.65(4), B-H(brid) 1.19(4), B-N 1.611(4);Mn-H(brid)-B 142(3). 1b: Mn…B 2.573(2), Mn-H(brid) 1.81(4), B-H(brid) 1.01(4), B-P 1.952(2); Mn-H(brid)-B 129(3).

Figure 2.Fenske-Hall分子軌道計算から得られる[CpMn(CO)2(η1-BH3・NH3)]の結合ダイアグラム

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は7章からなる。第1章は緒言であり、ボラン化学における本論文の位置づけが示されている。第2章はボラン−ルイス塩基付加物と[CpMn(CO)3]との光反応による新規σ錯体の合成と、その構造、さらに金属−ボランの結合について考察がなされている。第3章はシクロペンタジエニル基に種々の置換基を導入した[CpMn(CO)3]誘導体を用いてボラン錯体の合成について議論している。第4章では[(C5R5)Re(CO)3]とボラン−ルイス塩基付加物との光反応による新規σ錯体の合成を示し、その際に起こるボランのH-D交換反応を示した。第5章、および第6章では[CpMn(CO)3]または[CpV(CO)4]を用いて第二級および第一級アミンボランの脱水素カップリング反応について述べられており、第7章で本論文の成果をまとめている。

 ボラン−ルイス塩基付加物はアルカンと等電子・等構造であり、その配位、および活性化はアルカンの活性化のモデルと見なすことができる。特にアルカン錯体は不安定であり、一般に低温でのみ存在するため、その構造、結合性などの解明は困難であるのに対して、最近の研究により、単離可能なボラン錯体がそのよいモデル化合物となりうることが示されている。これまで単離された化合物は6族金属カルボニル誘導体に限られており、その結合性の解明には異なるタイプの錯体の合成が必須の条件である。

 柿澤氏はシクロペンタジエニル基を含む、マンガンカルボニル錯体を用いて初めて7族金属錯体のボラン−ルイス塩基付加物を合成、単離に成功した。その構造を解明して、金属部位とボランの結合の立体配座を明らかにすることにより、金属のπ性HOMO軌道とボランとの重なりが不可能であり、ボランの配位結合にπ逆供与の寄与がほとんどないことを明確に示した。また、その理由がボランのσ*結合が非常にエネルギー的に高いためであることを分子軌道計算によって明らかにした(第2章)。

 さらにそのことを検証するため、シクロペンタジエニル基に置換基を導入し、金属中心の電子密度を変化させて、生成するボラン錯体の安定性をNMRを用いて検討し、第2章での考察を裏付ける結果を得た(第3章)。

 さらにMnと同族のReにも範囲を広げ、Mn錯体と類似の錯体の生成をNMRにより確認した。同時にRe錯体の場合には溶媒として用いベンゼン-d6の重水素がボランのBHと交換することを見出た。このことは[CpRe(CO)3]の光反応生成物がベンゼンを活性化していることを示している。したがって、この反応は単にボラン錯体の合成という意味だけでなく、通常の条件では確認できない炭化水素の活性化を、ボランをプローブとして調べることができることを示したものであり、有機金属化合物の反応性に対して新しい手法を提案するものとなっている(第4章)。

 [CpMn(CO)3]の光反応生成物が第二級および第一級アミンボランの脱水素カップリング反応により、アミノボラン二量体および三量体を生成することが示された。この反応は光生成物が触媒として働き、低温でも進行するため、有利な反応である。同様の反応は6族金属カルボニルの光反応生成物で既に示されていたが、第一級アミンボランの場合にはイミノボラン三量体すなわちボラジン誘導体になってしまうのが、Mn錯体では脱水素がアミノボランの段階で止まっており、用いる金属錯体によって反応を制御することが示されたという点で重要である。またジシクロヘキシルアミンボランでは脱水素反応が起こらず、ボランσ錯体を単離することができた。これは、第二級アミンボランを配位子として持つ初めての例であり、かつシクロペンタジエニル基の導入により、嵩高い置換基をもつアミンボランの脱水素が妨げられることを示したものとして注目される(第5章)。

 [CpV(CO)4]による第二級および第一級アミンボランの脱水素カップリング反応はMn錯体のように水銀灯による光照射を必要とせず、蛍光灯の光で十分に進行する程、錯体の活性化が容易であることが示された(第6章)。

 以上、柿澤多惠子氏の論文は6族金属のボラン錯体の範囲を単に5族、7族に広げただけでなく、ボラン配位結合性の解明を大きく進め、ボラン化学に新しい知見をもたらし、その発展に大きな寄与をもたらすものと評価された。

 なお、本論文第2章は、下井 守・河野 泰朗との共同研究であるが、論文提出者が主体となって合成および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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